第37話 むっつ夢中で
エルチェは迷っていた。
制服でいいと言われたけれど、礼服にするくらいの分別はあった。でも、本来の場に相応しい格好の方が悪目立ちはしないかもしれない。
同時に、ローズが「よそいきのワンピース程度」というのがどの程度なのか予測がつかない。会場の様子を見て着替えることは可能だろうか……
そんな風にそわそわと考えながら支度をする。
実家に帰るための荷物も同時に纏めて、どうしてもの時はオランジュリーで着替えようと、制服も詰め込んだ。
重たい上着を着込めば背筋が伸びるようで、ガラスに映る自分を何度も他の人間と見間違えた。
ベルナール一家を騒がせないように、そっとホールまで出て行けば、お見通しだったように盛装したベルナールが待っていた。
「帰ってきていいと言ってるのに」
苦笑したベルナールが目配せすると、控えていた下男が一礼して手を伸ばしてきた。
なんだと思う頃には両のこめかみの辺りにすっと指が通っていく。何度か後ろに流すように撫でつけられて、もう一礼して下男は下がっていった。
「うん。紳士になった。服装ばかりじゃないぞ。気を抜くな」
「……はい。ありがとうございます」
ベルナールは楽しそうにエルチェを見送って、また家族の元へと戻って行った。
エルチェは待ち合わせ時刻より少し早くオランジュリーに着いて、荷物を物陰に押し込んだ。ここまでくる廊下ですれ違う人々も、着飾り、どこか浮足立っていて、誰も他人を気にしてないようだった。雪の積もった庭園の立ち木や刈り込みに、小さなランプや飾り付けが施されている。オランジュリーの入口には、ヤドリギのリースも飾られていた。城内がこんな風に
あちこち眺めているうちに、時間は過ぎていたらしい。
冷たい風が吹き込んで、エルチェの周りの柑橘類の匂いがかき混ぜられた。
急いでいたのか、入ってきた女性は肩で息をしていた。コートの下の長いスカートの裾をまとめて少し持ち上げるようにして、エルチェと目が合うとホッとしたように眉を下げた。
「ごめんなさい。着替えに、手間取っちゃって……」
「大丈夫。そんなに待ってない。っていうか、飾りとか見てたから時間見てなかった」
「小ホールはすぐそこだから」
「うん」
ローズの髪にエルチェの贈った髪飾りを見つけて、少し気恥しくなりながらローズに腕を差し出す。ローズも、はにかむようにして、その腕に手を添えた。
「びっくりした。エルチェ、まだいないかと」
「え?」
「髪の色見てもそうだよねって不安になっちゃった」
「ああ。髪? ベルナールに紳士っぽくされた……ローズも、今日は髪、凝ってる」
「朝から頑張ったの。自分でやったから、崩れないか不安だけど」
「器用なんだな」
「人にやってもらう境遇にないだけ……」
少し自嘲気味に呟かれる答えに、エルチェは首を傾げた。それが意味するところを、エルチェはあまり想像できない。
小ホールの手前のクロークでコートを預ける。アルファベットの書かれた札を受け取って、振り返り、二人は同じように驚いた。
「それ、ワンピースって言うの?」
「エルチェこそ、衣装ないって……」
何人かに咳払いされて、慌てて二人で会場に入る。不意に可笑しくなって、エルチェは笑った。
「ベルナールが急がせてくれたんだって。変じゃない?」
「よく似合ってる。狩猟舞踏会で使用人が着るようなやつね。重たいって聞くわ。大丈夫?」
「緊張しててよくわかんねぇ。ローズは? 綺麗なワンピース、だね?」
オレンジシャーベットのようなふんわりした色のオフショルダーデザインに、スカートの部分は朱色の生地が混じっていた。フリルがたっぷりという訳ではないけれど、合間に覗くレースはいいもののような気がする。もっと豪華なドレスを着ている人もいるので、それほど目立つわけではないけれど、ワンピースというには少し凝った作りだった。
「これは……」
ローズが少し言い淀んだところで、音楽が流れ始めた。開会の宣言がされて、主催のペアが踊り始める。
ローズはエルチェの腕にそっと手を寄せると、ぎこちなく微笑んだ。
「後でもいい? 楽しみたいの」
「……いいよ」
音楽が終わるのを待って、長手袋に包まれたローズの手を引いてフロアに入る。緊張していたのは音楽が鳴り始めるまでだった。
頭の中でカウントをとっていたのも、しばらくして必要なくなった。上手かったかはわからないけれど、多分ステップは間違えなかったとエルチェは思う。音楽が終わるまで踊り切って、エルチェは大きく息をついた。
「どう?」
「……完璧! すごい。あ、ねぇ、もう一曲!」
休む間もなく、手を引かれる。少し陰っていた微笑みが、頬を上気させた笑顔になったので、エルチェも微笑んだ。
くるくるとステップを踏んで、ちょっとした間違いなら顔を見合わせて笑った。弾んだ曲調の、エルチェの知らないステップも、ローズが両手をとって教えてくれた。輪になって踊るもの、またワルツ、と笑いの絶えない時間が過ぎていく。
さすがに一休みと、フロアを抜け出し空いた長椅子にローズを座らせ、エルチェはシャンパンを取ってきて彼女に差し出した。
笑顔で受け取ったローズに、飲める歳なんだなと今更ながらに思う。
「エルチェも座ったら?」
「座るなっていう衣装らしいよ」
身体を捻って、後ろの並んだボタンを見せる。
「そうなの……大丈夫?」
「鍛えてるから」
エルチェがおどけてみせれば、ローズは笑った。曲調がまた変わり、しっとりとした曲が流れる。フロアのペアは静かに寄り添って身体を揺らしていた。さすがにこれはローズを誘う勇気がでない。エルチェが気まずく視線を逸らしていると、ローズは空になったグラスを持ったまま立ち上がった。
「もう、結構いい時間ね。オランジュリーに移動しない? あそこなら、上着を脱いでエルチェも座れるもの」
エルチェのグラスも持って片付けに行ったローズは、すぐに戻ってきてエルチェの手を引いた。
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