第34話 みっつ見つめて

「……やだ。どうしたの、それ」


 ローズはぱたぱたとエルチェに近づいて、耳の下あたりから頬にかけて貼ってある膏薬に手を伸ばした。エルチェは、オランジュリーに入った時のようにカッと顔が熱くなるのを感じて、思わず一歩下がる。


「これ、は、訓練の時に……」

「あ。ごめんね。触ったら痛いわよね。一瞬、どこの騎士様かと思ったわ」

「え? あ、制服?」

「うん。似合う」


 にこにこと笑うローズに、エルチェは少しのあいだ意味もなく見惚れて、傾げられた頭にハッと何をしに来たのか思い出す。


「あ。封筒、今日渡されて。えっと、レフィから。俺、ベルナール、様、のとこに移ったし、全然、余裕なくて」

「うん。頑張ってるんだってね。聞いたわ」

「あ、そう。それで、前の、夜、俺ちょっとおかしかったから、その、悪いことしたなとは思ってて」


 しどろもどろに話すエルチェに、ローズはくすくすと笑いながら頷いている。


「……おかしい?」

「うん。エルチェらしいなって。謝りに来てくれたの?」

「そう。もう、次いつ来られるか……」

「そうかぁ。気にするほどのことじゃなかったよ? それに……」


 うつむき加減で一度言葉を切ると、ローズは小さく頭を振って、それからパッと笑った。


「そうだ。エルチェ、私、今年は家に帰らないの。ノエルに使用人舞踏会があるんだけど、もし良かったらパートナーになってくれない? ダンス、やってるのよね? 私、いつも壁の花だから、たまには踊りたくて」

「え? 使用人、舞踏会?」

「あ、無理にとは言わないけど。妹さんたちもエルチェの帰りを待ってるだろうし」

「ああ、いや。それは、いいんだが……それって、俺が行っても大丈夫なやつ?」

「うん。毎年やってる、使用人の慰労会みたいなものよ。クリスマスノエルや年末に帰れない人たちのためのものだから、エルチェもまだ当てはまると思うのだけど。そうじゃなくてもいろんな人がいるから、わからないと思う」


 戸惑って考え込むエルチェに、ローズは少し困った顔をした。


「困らせたかったわけじゃないの。断ってもいいのよ。招待状をもらうような舞踏会より気楽だから、雰囲気だけでも味わえるかなって。エルチェ、そういう場に行ったことないのでしょう? せっかく習っているのだもの。披露してちょうだい?」

「でも俺、衣装とか……」

「ああ、で充分。私もドレスは持ってきてないから、余所行きのワンピース程度なの。だから、壁の花なんだけどね」


 ローズは指でとん、とエルチェの胸を突いた。


「普通の舞踏会なんてしばらく参加してないから、私も緊張しちゃうけど、そうじゃないから。何事も経験、ね」


 どう? と首を傾げられて、まだ断ることはエルチェにはできなかった。

 「わかった」と頷いてしまって、直後に大丈夫なのかと自分に突っ込みを入れる。土いじりを手伝うような気楽な話じゃない。

 ローズは、まがりなりにもお嬢様で、本来エルチェとは縁の無い世界の人間だ。使用人と言っても、そういうのに出てくるのは貴族の者たちなのだ。同じ従騎士となっても、レフィとエルチェに明確な差があるように、周囲の認識が必ずしもエルチェに優しくないことは解っていた。レフィが後ろに立っているから、そして、突っかかってくるものは力で叩き伏せられたから、まだここに居られる。

 どれだけ頑張っていたとしても、エルチェは農民上がりで、身分を持たない人間だった。


 自分がそう言われるのは事実だから気にならない。悪意ある目も口も、見ないふりするのは苦じゃない。

 でも、それにローズを巻き込むのはいい気分ではなかった。

 ふと、早く騎士になればいいんじゃないかと、エルチェの頭の片隅に何かが囁く。


 ――騎士の身分を持っていれば、もっと堂々と……


 エルチェはぐっと奥歯を噛みしめた。

 ブノワに殴られた場所が鈍く痛んで、そっと手を当てる。

 余計なことを考えるエルチェに与えられた制裁。先のことを見越したわけじゃないだろうが、それは確かに必要だったのかもしれない。


「俺、きっとあんまり上手くないし、また変な噂になるかも。それでも、ローズと踊ってみたいから、ノエルまではもう、顔は殴られないように気を付ける」


 少なくとも、今騎士でないからローズと踊る機会が得られた。それでいいじゃないかと、エルチェは思うことにした。


「気を付けるのは顔だけなの? 無理はしないでね?」

「大丈夫。当日はどうすればいい?」

「十八時くらいにここで待ち合わせしましょう。小広間でやるけど、オランジュリーなら中は暖かいし。ありがとう、エルチェ」


 エルチェはゆるく首を振る。


「俺の方こそ。ありがとう。もう、行かなきゃ」

「うん。じゃあ、ノエルに」


 頷いて、エルチェは踵を返した。

 駆け出す背中を、ローズは少し寂しげに見送るのだった。



 *



 イアサントの執務室に戻れば、大人たちが集まって難しい顔をしていた。ベルナールが気づいて、表情を緩める。


「どうだった?」

「本屋は軒並み売切れで、レフィ様が譲ってくれるという方の所へ。お茶をごちそうになるかもということで先に戻ってきました。アランが一緒に行ってます」

「それは、面倒をかけたね。レフィも、そこまでせずとも戻ってきてよかったのに。後できちんと礼をしよう」


 一礼して待機室へ下がろうとしたエルチェの背中に、ブノワの声が待ったをかける。


「坊主が、一人やったんだろ?」

「ブノワ」


 ベルナールの非難のこもった声にも、ブノワはゆっくりと頭を振った。


「大丈夫だって。剣を合わせてる俺が言うんだ。そいつはそんなにヤワじゃねぇ」


 何の話かと半身で動きを止めたエルチェに「な?」とブノワは笑った。


「秋に何人か仕留めた盗賊たち、どうやら鉱山の方でも活動してたみたいなんだよな。坊主たち襲ったヤツらのこと、ちょっともう一回思い出してくれよ」


 困ったように微笑むイアサントと、苦い顔をしたベルナールを見てから、エルチェは彼らにもう一度向き直った。


「以前話したこと以上のことは思い出せないと思いますが。それでよければ」

「ヨロシク」


 ニッと笑ったブノワに向かって、エルチェは話し始めた。

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