Esquire

第32話 ひとつ人より

 目が覚めて、エルチェは一瞬どこだか判らなかった。

 寝返りを打って、ラルスが起き出すのが見えて、ようやくベルナールの屋敷だと思い出す。エルチェもベッドから抜け出して、ラルスに倣って身だしなみを整えていく。

 騎士団員の従騎士には騎士団の制服と似たような制服が与えられる。違うのは襟の形で、騎士は立折襟、それ以外は折り返しのない立襟となっていた。もちろん、剣は佩けない。


「うしろ、跳ねてるよ」


 ラルスに指摘されて、手をやってみる。確かに跳ね上がっていた。面倒くさいな、と思ったものの、指摘されるということは許容範囲ではないのだろう。エルチェは水をつけてなんとなく撫でつけておいた。


「また跳ねそう」

「訓練終わる頃には直るよ」


 ラルスはちょっと呆れた顔をしたけれど、それ以上はうるさく言わなかった。

 手早く朝食を済ませて、ベルナールの元へ。今日の予定とか注意事項を聞きながら着替えを手伝う。普通は従者一人で行うことなので、エルチェはベルナールの部屋の物の配置やタンスの中身を大体把握することに費やした。


「レフィ様のとことそんなに変わらないだろう?」

「レフィは割となんでも自分でやるから、服を選べと言われると困るかな。制服はわかるけど」


 ベルナールが少し笑い、ラルスはちょっとギョッとした。


「なるほど。公的行事にはノータッチだったな。その辺は追々だな」

「そういえば、舞踏会があるとか。ベルナールも出るの……」

「様」


 ラルスに鋭く口を挟まれて、エルチェは声を引っ込める。


「ベルナール様、だ。一時的とはいえ、今、貴方の主はベルナール様だろう? レフィ様のところにいた時は許されても、ここでは駄目だ。わきまえろ」


 二、三度瞬いて、ああ、なるほど、とようやく頭が起きてくる。


「わかった。――ベルナール様も参加なされるのですか?」

「急にかしこまられるのも、調子狂うな。イアサント様の気持ちが少し解ったぞ。かといってそこを緩めては示しがつかんからな……舞踏会、か? 年明けのやつなら出るな。イアサント様が参加するものには基本的に出る。招待状が手に入らないようなものでも警備につくから、会場には行くぞ」

「そういうのに俺もついていかなくちゃいけないことがあるなら、早めに教えていただけると助かるのですが。必要なもの、揃えなくちゃいけないので」

「ああ、そうか。そうだな。連れて行く必要があるな……あとでラルスに聞くといい」

「はい」


 登城してイアサントに挨拶し、護衛騎士が揃ったところで、ドナシアンから本日の予定を聞いて一日が始まる。

 イアサントの予定はだいたいが訓練から始まって、一休みして会議や書類仕事。来客がある時は午後の早い時間で、その後は基本自由。狩りや観劇したり、友人を訪ねたり。自由と言いつつ、社交に割かれる時間も多いようだ。

 エルチェは頭の中でだいたいの行動範囲を計算しながら、あの夜以降行っていないオランジュリーが頭を掠める。

 昼食も、ベルナールが終わった後にラルスと交代で食べることになるので、決まった時間に抜け出してローズに会うことはできないだろう。おかしな態度をとってしまったことを詫びる機会も、ずるずると伸びっぱなしだった。


 訓練用の剣を手に、従騎士の制服を着込んだレフィと向かい合う。服装が違うだけで、なんだか少し大人になったように感じるものだ。

 剣を構えようとして、ふと、レフィがエルチェのずっと後ろを見ているのに気が付いた。なんだと振り返ろうとして、小さな溜息に動作を止める。

 レフィは剣を構えずに、ふいと踵を返した。


「え……なんだよ。レフィ?」

「僕は巻き込まれたくない」

「は?」


 ひらひらと手を振るレフィはアランへと向かっていく。

 追いかけようと一歩踏み出したところで、背中からのしかかる重さを感じた。


「よぅ。坊主。楽しい楽しい訓練の時間だぞぉ」


 上機嫌なその声はブノワのものだった。


「弟君には逃げられたなぁ。騎馬試合ジョストの時の感じだと、細いわりにやりそうだったが……まあ、いいや。さあさあ、こんな狭っ苦しいところじゃなくて、広いところに行こうなぁ♪」


 エルチェがうんともすんとも言わないうちに、引きずられるようにして連れ去られる。呆気に取られながら周囲を見渡せば、みんな目を逸らしてそっと距離を置いた。少し向こうのベルナールに、視線で若干の助けを求めてみたが、気まずそうに目を逸らされただけだった。その奥でイアサントがにこにこと手を振ってたりするのだが、その意味をエルチェはまったく理解できずにいた。ただ、嫌な予感だけはする。

 そういう予感は当たるもので、何故か皆が場所を空けた一角でブノワと対峙したエルチェの剣は、構えて数秒後に高く空へと舞い上がったのだった。




「……なんスか……あれ……」


 城内に戻る途中、ぐったりと疲れてボロボロになりながら、小声でベルナールに抗議すれば、ベルナールも声を潜めて苦笑した。


「まだ動けるだけさすがだぞ。アレの従騎士にとうるさいのを、武術指導は任せる条件でなんとか阻止したんだ。感謝してくれ」

「朝から全力すぎませんか。俺、腕上がらないんですけど。彼、今まで訓練の時に見かけた記憶もないんですが」

「相手がいなくてつまらんと、ほとんどサボってたからなぁ……初日だし、手加減はしてたようだぞ? 慣れるまでは午前中の業務は立ってるだけにしてやるから」

「……手加減、とは? ……慣れるんですかね」

「慣れてくれ」


 神妙な顔で両肩に手を乗せられて、エルチェは唸りながら天を仰いだ。

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