第22話 下っ端なんてものは
それから時々、エルチェはオランジュリーを訪れるようになった。
時間の空きが多い雨の日が多かった(レフィを寝込ませたのが尾を引いていた)けれど、そのうち食べ物を持ち込んで、昼食をそこで済ませるようになった。
ローズには会う日もあったし、会わない日もあった。彼女もそこの作業だけが仕事ではない。彼女がいない時は手持ち無沙汰になるので、エルチェにできそうな作業をメモして、目立たない場所に結んでおいてもらうようにもした。
それでも特にすることもないこともある。
室内をぐるりと点検して、目立たない奥の方で昼寝することも多かった。先生の教室に行かなくなったので、城内にあるこの人目の届きにくい場所は、エルチェにとって、とても都合がよかったのだ。
「見つけたぞ。この、サボり魔」
胸ぐらを掴み上げられて、意識が覚醒する。エルチェが目を開ければ、冷たいアイスブルーが目の前にあった。
「……お?」
「主人に探させるとは、いいご身分だよな? いちゃついてたら殴り倒そうと思ったけど……出掛けるぞ」
いちゃつく? と頭をひとつ振って眠気を振り払うと、エルチェは立ち上がった。曇りがちで薄暗かったからか、いつもより深く寝入ってしまったらしい。
レフィの影に心配そうな顔をしたローズを見つけて、エルチェはぐるりと温室内を見渡した。そういえば、ここには時計はない。給湯室には置いてあるのだが、昼寝場所からは見えなかった。
「悪い。リラックスしすぎた……のか?」
探したと言っても、エルチェの行動など少し聞き込めばすぐに分かる。それほど寝過ごしてはいないはずだった。
「三十分押しだぞ。彼女を見つけるのに手間取った」
肩をすくませてローズが恐縮する姿にエルチェは首を傾げる。
「彼女に聞かなくとも――」
「押してるんだよ。つべこべ言わずに動け! ローズ、助かった。戻っていいぞ」
踵を返してレフィがローズに片手を上げると、彼女は黙って頭を下げた。その顔がほんのり赤く染まっていて、エルチェは彼女にとっては嬉しいハプニングだっただろうかと口を閉じた。
レフィを追いかけながら確認する。
「テオに探させなかったのか? どこに行くんだ? 巡回なら、もう少し時間あるよな?」
「テオは厩舎で準備してる」
「馬? そんな遠くに行くのか?」
「北の国境付近だ。兄さんと行動を共にするようになれば、しょっちゅう行くらしい。今から慣らしておけと」
「俺も?」
レフィがイラついたように振り返る。
「お前は、俺の従者だろう?」
「そうだけど。秋からのことは保留になってるだろ? 今までだって、公の場には俺はついて行ってない」
「残っていたいってことか?」
「そうじゃなくて。上に言われるのと、お前に言われるのじゃ意味合いが変わってくるだろ。俺だってバカなりに考えるんだよ」
スッと冷えたアイスブルーが、少しの間だけ横に逸らされた。
「バカはあんまり考えるな……いや、やっぱりもう少し頭を使え。使えるってもう少しだけ思わせろよ」
「なんだよ。使えないってのか?」
「僕にじゃない」
「あー……難しいんだよ。あんまりやる気を見せると、別の方に勧誘される」
「じゃあ、夏祭りの前夜祭で騎馬試合があるだろ? そこでちょっと目立ってくれよ」
「俺は騎士じゃないから参加できな――あっ、その前の余興か?」
ふっといつもの嫌味な笑みを浮かべてレフィが頷く。
「もうひと月くらいしかないじゃないか」
「馬に慣れるには充分だろ? わかったら、サボりはほどほどにしてくれ」
「そんなにサボってねえだろ。居場所だってわかってんだろ? 先生のとこに行ってた時よりは健全じゃねーか」
レフィは何か言いたそうに口を開けたけれど、結局呆れたようなため息をついただけで、また歩き出した。
*
領の北側の国境地帯は、大まかに東側の山岳地帯と西側の森林地帯に分かれている。この森林地帯には森を分断するように大きな道も走っているのだが、山側に近いところから不法入国して来る輩や、そういう怪しい一団を狙って山賊や盗賊も現れるという。祭りなどの浮かれた催しの前後は大通りの警備も厳しくなるので、抜け道も大賑わいらしい。
ここを越えても城のある都市までには大きな川があるので、結局道はいくつかに絞られるのだが。反対に、人目を避け、川を遡って中央の方へ出ようと思うのなら、うってつけなのかもしれなかった。
「森は方向を見失いやすい。何度か通って慣れた場所と思っても、できれば磁石や時計を携帯して確認できるようにしておいた方がいい」
目印となりそうな木や岩、転がっている石の性質の違いなどをテオは端的に説明していく。以前に襲撃のあった現場や、盗賊が身を隠していた場所なども回ったが、誰もいない森の中は鳥や虫の声がするだけで、何とも
ピクニック気分で、地形を利用した追い込み方や追跡の仕方などのレクチャーを受ける。その他、動物の巣穴や現地調達できる毒草、薬草はエルチェの方が詳しかった。
後日。オランジュリーの給湯室で、サンドイッチを咥えながら兵法の教本を開いていたエルチェの前に影が差した。顔を上げればローズだった。
「よぉ。最近メモないけど、やることねぇの?」
「……もう来ないかと」
「なんで?」
「レフィ様に叱られていたから……」
「ああ。別に、あのくらい普通。レフィが本気で怒ったらあんなもんじゃないし、ここに居るのは知ってたはずなんだよな。他人まで巻き込んで迷惑をかけることになるぞって、わざとらしい説教だよ。悪かったな。巻き込んで」
ゆるりとローズの首は振られる。
どことなく元気のない様子に、エルチェは首を傾げた。
「……レフィになんか言われたか? ここはローズが番をしてるわけじゃないんだから、理不尽なことなら反論しとくぞ」
「う、ううん。大丈夫。その、エルチェをあんまりサボらせるな、みたいなことを」
「はぁ? 余計なお世話。というか、ローズがそうさせてるわけじゃねーし」
パタンと本を閉じて眉を寄せたエルチェに、ローズは慌てて両手を振った。
「あ、そのまま、言われた訳じゃないんだけど」
「何様のつもりだよ。ちょっと、話つけてくる。ちゃんと、謝らせてやるから」
「あっ! エルチェ、待って! 大丈夫! 大丈夫だから!!」
すがるようなローズの手を振り切って、エルチェはずんずんとレフィの部屋に向かった。
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