第20話 憧れなんてものは
女性はエルチェのしかめっ面にビクビクしながら、彼の数歩後についていく。同じようについて歩くレフィからも少し距離を取るように、時々チラチラと確認していた。
「どこに運ぶんだ?」
「はいぃ! おっ、オランジュリーまで……」
不意に話しかけられて、女性は肩を跳ね上げた。
「おらんじゅりー?」
「東側の奥にある温室だよ」
「アレか。と、なるとコレはオレンジ?」
「レモン、です。オレンジはもういっぱいあって」
「あそこ、実がなるものがあったのか……てっきり、花ばかりだと」
東の庭は綺麗な庭園になっていて、運動できるようなスペースは無い。奥に大きな温室があるのは知っていたけれど、エルチェには無縁の場所だと思っていた。
「今、絶対オレンジ泥棒の顔してるだろ」
「どんな顔だよ」
エルチェとレフィがやり取りするたびに、女性は驚いたような、居心地の悪そうな表情をする。レフィは口の端を上げて、少しだけ彼女に顔を寄せた。
「あいつ、バカだろう?」
反射的にぴょん、と飛び退いて、女性は顔を赤くして答えに詰まった。
領主の息子に同意しておくべきなのか、それとも、気の利いた返しをしなければならないのか。そもそも、どうして彼らが手伝ってくれているのか……全てに困惑していた。
ふふん、と鼻で笑って、レフィはエルチェに並ぶ。
「くすねすぎるとさすがにクビになるぞ」
「レフィより適量をわかってるけどな。文句言われないように、お前、木を一本買って置いとけよ」
「自分で買えよ」
「高ぇだろ」
冗談とも本気ともつかないやり取りに、女性はハラハラしどうしだった。
そうこうしているうちにオランジュリーの前まで着いてしまう。
「た、助かりました! ありがとうございました!」
女性がバタバタと前に出て頭を下げる。エルチェは少し眉をひそめて(女性には不機嫌に見えた)鉢をひとつ抱え上げた。
「ここに置いて終わりじゃねーだろ。転んで鉢割られちゃもったいないからな。どこに置けばいい?」
「いえ、でも、あの……」
ちらりとレフィを窺って、女性は口ごもる。
「何か、用事、が……」
レフィがわざと小さなため息をつけば、女性は慌ててエルチェから鉢を奪い取ろうとした。
「暇つぶしに行くところだったんだよ。別に、何でもいい。温室も入ったことないから、見るのも悪くない」
「オレンジをくすねるための下見がしたいって言えよ」
「うるせーな。温室内の構造も把握しといた方がいいだろ?」
「近寄ったこともないクセに」
「レフィが来なけりゃ必要ねぇからな。お前こそ、知ってて黙ってたな?」
「そりゃ、世話人を困らせるわけにいかないからな」
真面目に言われて、エルチェは鉢に手をかけている女性を見下ろした。レフィよりも小さくて、亜麻色の髪は後ろで三つ編みに編まれている。化粧気のない顔の
「……世話を手伝えば、ひとつふたつくらい……摘果もするだろうし……」
エルチェの未練たらしい声に、女性が少し首をかしげる。
「乗りかかった船だから、その分は好きにしなよ。僕は一休みする。エルチェ、先にお茶淹れて」
「茶ぁ?」
手押し車を指差して、ひらりと手を振ってからオランジュリーに入っていくレフィの背中に、エルチェは疑問の声を投げつけた。
「そういうスペースが設けられているんです。ちょっとしたパーティーもできますよ」
「そうなのか」
あくまでも鉢を手放さないエルチェに、その鉢は諦めて、別の鉢を抱えた女性が先を行く。中でドアを押さえて待っているレフィに、彼女は申し訳なさそうに頭を下げ、ドアの横の窓の下に鉢を置いて、エルチェにはその横を示した。
「俺は手が離せねぇよ。待てないなら、彼女に淹れてもらえ」
肩をすくめたレフィを、彼女がぎょっとして振り返る。
「じゃあ、そうして」
「あの……」
「本人が言ってるんだから、いいんだよ。残りはやっとくから、そいつのお守り頼むわ」
不安げに瞳を揺らしながらも、彼女はエルチェにそれぞれの置き場所を告げた。
指示された場所に鉢を置き、土と肥料は隣の小屋に運び入れて、手押し車も片付けてしまってから、エルチェはようやくオランジュリーの中へと足を踏み入れた。
オランジュリーの中に並んだオレンジとレモンの鉢は花盛りで、甘すぎない爽やかな香りが辺りを満たしている。
軽く見渡せば、薔薇や南国の花も植えられていて、華やかだった。少し暑いくらいの日差しが降り注ぐ場に、大きなテーブルや椅子が並べられている。その一角にレフィは座っていた。目を伏せ気味にしていると、まだ少年らしさが残っていて、先生の描く絵画を思い出させた。
その絵に邪魔にならないような位置でずっと立っていたのか、女性はエルチェの姿を見つけると小さく駆け寄ってきて頭を下げる。
「お時間を取らせてしまい……」
「勝手にやったんだよ。気にすんな。レフィの相手させて悪かったな」
「そんな……!」
パッと頬を赤らめた女性を見て、エルチェはニッと笑った。
「見てる分には、目の保養になるだろ」
「人を花や絵画みたいに言わないでくれ。貴女も、オレンジ泥棒に丸め込まれないように」
「まだ何もしてねぇだろ」
「釘を刺してるんだ」
言いながらレフィは立ち上がり、視線でエルチェを促した。
「じゃあな。実がなる頃、よろしく」
「エルチェ、お前が言うと脅しにしか聞こえない」
スパーン、とその後頭部にレフィの平手が飛ぶのを、女性は何も言えずにただオロオロと見送るしかなかったのだった。
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