第18話 心酔ってこわい

 路地を駆け抜け、物干し台のあるベランダの手すりから物置小屋の屋根へと上る。

 向かいのバルコニーに飛び移って、二階の屋根の上へと移動して行く。そこからさらに高い屋根に移っていって、後は出来るだけ直線で駆けた。

 エルチェが確認した中で、これが先生の教室から城へと帰る最短ルートだった。

 表通りに下りるわけにはいかない。一本裏の路地に下りられる場所を探し、今度はバルコニーから何かのパイプに飛びついてぶら下がる。勢いのまま非常階段に飛び込めば、驚いた猫が逃げ出して行った。二階くらいまで駆け下りて、もどかしいので手すりを乗り越える。

 息を切らして駆け込むエルチェの前に、門衛が冷静に立ち塞がった。


「少し後で一緒に行ったアランが来るから! 通してくれ!」


 渋い顔をした門衛にエルチェは舌打ちをして続ける。


「お願いだ! !!」


 呆れたのか、勢いに押されたのか、彼はひとつ息をついて通してくれた。「レフィ様の田舎者の従者」は意外と顔を知られている。それが功を奏したのかもしれなかった。

 さすがに正面ホールを突っ切っていく度胸はない。少し遠回りになるけれど、兵舎から回っていくことにした。マントも着たまま駆け抜けるエルチェを誰もが振り返る。階段を上った先の曲がり角で布物を抱えた女性とぶつかりそうになって、すんでで避ける。謝りながら振り返れば、ぺたんと座り込んでいるのが見えた。申し訳ないと思いつつも、エルチェは足を緩めなかった。


 レフィの部屋の前には誰もいなかった。

 ノックをすることも、声をかけることもなく、勢いのままエルチェは部屋に飛び込んでいく。ソファで肩にカーディガンをかけて座っているレフィの目が見開いた。その向かいで椅子ではなく、床に跪くようにしていた男が振り返るまでに、レフィは時計を確認して、少しだけ眉間に皺を寄せた。


「どこの無礼者だ」

「俺に会いたい奴がいるって聞いたから」


 肩で息をつきながら、エルチェは汗を拭った。


「主人のお召しなら、急いで当然だろ?」


 振り返り、立ち上がった男は、アランよりもう少し年上の騎士のようだった。襟章が辺境伯直属の身分を表すもので、深い青の瞳は鋭く冷たい。アランが従わざるを得なかったのがよくわかった。


「エルチェ、ノックも忘れるほど急げとは言ってない」

「……失礼しました」


 姿勢を正して角度をつけて頭を下げれば、男は遠慮なく近づいてエルチェの顎に手をかけ、無理やり顔を上げさせた。


「……生意気な」

「目つきのことでしたら、生まれつきです」

「全てだよ」


 ストレートの艶のある金髪を後ろでひとつに纏め、どことなく嫌味な物言いといい、レフィに似ている感じもする。


「馬の骨は気に入りませんか」


 ぴくりと微かに男の手が反応した。


「目の前に並べた高価な玩具より、道端に転がっていた馬の骨や色付きガラスの破片を愛でるレフィ様は、愚かだと思っているのでしょう?」

「貴様っ!!」


 薄く笑ったエルチェの顎を掴んでいた手が胸ぐらを掴み上げ、左手が振り上げられる。


「マラブル卿、僕、まだ本調子じゃないんだ。暴れ馬の手綱は頑張って握るからさ、その辺にしておいてよ。エルチェも、状況を見てから煽ってよ」


 ぴたりと動きを止めたマラブル卿を見ながら、エルチェは少しだけ首を傾げた。

 煽ること自体は止めないのかと。


「レフィ様! お戯れもほどほどになさってください! 父君はお優しいですから、貴方の我儘も聞いてくださるでしょうが、二年もいるのにこの程度では、とても使い物になりませぬ! そろそろ見切りをつけないと、周りにも示しがつかなくなります」


 エルチェを突き放すようにしてレフィに向き直ったマラブル卿の左手に、微かに光り物の影を見る。

 エルチェはベルナールや周囲の大人が『冷血宰相』を必要以上に恐れている気がしていたが、どうやらその血筋は脈々と受け継がれているのかもしれない。マラブル卿がどこの貴族かエルチェは知らないが、推測は間違っていない気がした。


「エルチェは僕の期待より、だいぶ上を行くんだけどな。貴殿がそれを見抜けないとは、どうしてだろうね? 父さんにも兄さんにも余計なことは言わなくていいよ」

「余計なことなど……!」

「そう。じゃあ、これからもよろしく。エルチェが戻ったから、マラブル卿は下がっていいよ。僕は少し横になる」


 しんどそうに息をついて、レフィは立ち上がった。

 椅子を回り込むためにこちらに歩いてきて、よろけるをしたレフィにエルチェが手を差し出せば、その手を払ってマラブル卿がレフィを支える。


「気安く触るな。私がお連れする」

「ああ、そうです……かっ!」


 エルチェが蹴り上げようと狙った左手が、わずかに振られて金属の輝きが現れた。


「そっちこそ、物騒なものを持ってレフィに近づくな!!」


 何だと見定める暇もなく、蹴りを避けた左手はエルチェの胸元に伸びてきた。少し下がろうと軸にしていた足に力を込めたところで、目の前にダークブロンドが滑り込んできた。

 マラブル卿の息を飲む音と同時に伸ばした手の勢いがやや落ちる。それを狙ったわけではないけれど、エルチェはとっさに右腕でレフィを抱え込んで、左手でマラブル卿の伸びてきた手を迎えに行った。

 鋭い痛みはあったものの、エルチェの手のひらを突き抜けるだけの勢いはなかったらしい。三人はしばらくの間、銅像のように静止していた。

 レフィが不服そうに、歯を食いしばっているエルチェを見上げる。


「レフィ様……なぜ……」


 マラブル卿の愕然とした呟きには、冷たくアイスブルーを細めて口の端を上げた。


「僕の従者の無礼を報告などしないでね? 貴殿はよく解っていると思うけど、今、エルチェが庇わなければ、貴殿は僕を傷つけた。つまり、エルチェは結果的に貴殿を庇ったんだ。もう一度言うよ。父さんにも、兄さんにも、もう余計なことは言わないで。それで、この場のことは無しにしよう」


 熱い身体をエルチェに半分預けているくせに、レフィは一人で立っているような振りをする。従者の左手から先の尖った小さなナイフが抜かれても、心配する素振りなど無かった。それが当たり前だと示すように。

 苦い顔をしたマラブル卿がドアの向こうに消えると、レフィは全身をエルチェに預けてきた。


「おぃ! 痛ぇんだよ!」

「舐めときゃ治るだろ」

「無茶言うな!」

「気が抜けたら熱が上がってきたんだよ。くそ。予定が狂った」

「何の予定か知らないけど」


 エルチェは血が落ちてもいいように、落ちていたマントの上に左手をかざしてレフィを遠ざける。


「二度と俺の前に出んな。盾の前に主人が出てきてどうすんだよ!」


 キョトンとしたレフィは、なんだか訝しげな顔のまま肩をすくめた。


「あのままでもマラブル卿は刃物を引っ込めてたよ。怖いくらい好かれてるからさ。もう少し冷静さを失ってほしいところだったけど、まあ、さすがだよね。言いたいことは伝わったと思うから、今は良しとするさ。ところで、『盾』って?」

「お前が言ったんだろ。盾になれって」


 レフィは数秒真顔になって、それからにっこりと笑った。


「そうだっけ。従者になってって言った記憶はある。エルチェも、意外と僕のこと好き?」


 この時ぷつりと切れたのが、理性だったのか、堪忍袋だったのか、実家に戻る最後のチャンスだったのかは、誰も知らない。

 エルチェは血で汚さぬよう左手に気を使いながら、右手でレフィの胸ぐらを掴んで引き寄せた。


「先生からの伝言、伝えるよ」

「え。あ、嘘だろ? エルチェ、まさか……」


 アランがようやくレフィの部屋に戻った時、エルチェの顔に右ストレートを叩きこむレフィの必死の形相が飛び込んできた。

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