第17話 お金ってこわい・後
恐る恐るというように、重なって丸まった紙を取り出し、震える指が何度も開き損ねながら、ようやく描かれた一部が見えると、画家はそれだけで潰さないように紙の束を抱きしめた。
「……こわい。こわい子だね。絶対に手に入らない僕の天使……ああ、でも、君たちの手は痛くなかった。
紙の束と一緒に、エルチェをしがみつくように抱き締めて、画家は行きつ戻りつ、うわごとのように顛末を語った。時々子供のように怯えて固くなる身体を、エルチェはその度さすってほぐしてやる。
何とかエルチェに見えたのは、身勝手な大人の世界だった。
画家とレフィの出会いは、噴水のある広場だか、河原だか、そういうところだったようだ。水と戯れる子供たちをデッサンしていたらしい。街の子供たちに交じって遊ぶレフィは、今よりずっと自由だったのだろう。
ある時、興味本位でそれを覗き込んだレフィは、絵を教えてと無邪気に微笑み、天気の良い日は青空教室が開かれるようになった。
誰の助言か、少し裕福なところからはお金を、そうでもないところからは果物やお酒を分けてもらって教えるようになる。
やがてレフィは教わるのではなく、モデルをするようになった。彼のイメージを元に描いたものは、それまでよりも高く売れた。城にも何枚か(モデルは誰か伏せられていた)収めた。やがて、最初からいたのか、途中からつくようになったのか、大人の男がモデル料を払えと言い出した。手元に金がない時は殴られてレフィに会えない。それに気付いたレフィが付き人を変え、彼らは外で待つようになり、お金はレフィ自身が持っていくようになった。外で待つ彼らにちゃんと渡しているのを画家は見ている。手持ちがなかった時も、ちゃんと。
(エルチェは、レフィが毎回ごまかして渡していて、プールしていた分をそういう時に回していたのではないかと推測する。コインマジックを処世術と言うのも納得だ)
しかしそれも長くは続かなかった。エーリク様が亡くなって、レフィは気軽に街に出てこられなくなった。年に数回、細々と続いて、そしてある時大人だけが来た。大金を置いて、二度と会うなと。酷い言葉を浴びせられ、接触がわかれば絵画教室も潰してやる、と。せめて最後に一目会いたいと言えば殴られた。
だから、レフィがエルチェを連れて現れた時は、とてもとてもとても驚いたのだと。時間制限があっても、芸術を解しない赤毛の大人子供が傍にいても、文句など言えなかった。
幸せが戻ったと思ったのに。しばらくして、金を返せという輩が現れた。
払っても払っても、まだ足りないと請求される。絵を売りつくすと、子供にいかがわしいことをしているとの噂がどこからともなく流れ出した。
当然、レフィも来させられない、彼に会いたければ、赤毛の少年をどうにかしろと言われた。彼はレフィを駄目にする。もしかしたら彼にも乱暴をはたらくかも。乱暴者はきっとお前にも手を上げているだろう? 手段は問わない。殺すでも、辱めるでも、好きにすればいいと。できれば金もやろう。その代わり、できるまで全ての絵画を没収すると言われ、レフィが持っていったデッサンがあることを思い出させられた。勝手に勘違いした先方に、絵はなかったとなじられ、何人かの男に囲まれて、憂さ晴らしのように暴力を加えられたのが昨夜だった。
エルチェは啜り上げる画家の背中をさすりながら、深く息を吐いた。レフィはどこまで知っていたのだろうと呆れもする。
筒の奥底にまだ入っていた何かを取り出して、画家の手に乗せてやれば、彼はぱちくりと瞬いた。
「それだけあれば、列車に乗れるだろ。いつかの日のために、自棄にならずに真面目にやれよ」
画家が小袋を握ろうとすれば、ジャリ、と金属のこすれる音がした。
「元は、あんたのお金だろ」
握り潰した手紙にもう一度目を落として、画家は泣いた。
全てを放り出して、エルチェの頭を掴むと、そのまま両の頬に何度もキスをする。
「ぅ……わ。おい! やめろ! 俺じゃねえよ! レフィに……」
エルチェの抗議は深い口づけで塞がれた。
一瞬頭が真っ白になって、次いでこぶしを握り締めて、結局、エルチェには画家を殴れなかった。
勝手な思い出をさんざん堪能した画家は「レフィ君に伝えておいて」と、涙を拭った。エルチェは口を拭いながら不機嫌に頷く。そのまま伝えるのも嫌だが、嫌がらせに同じことをしても自分が殴られるだけのような気がする。ここにレフィがいて、彼がキスをされたのだとしたら、彼は躊躇なく画家を殴っただろう。
それが少し悔しかった。
――さようなら。次は花の都で会いましょう。
レフィの手紙はそれだけで、小さなカードには、この国の首都にある画商の連絡先が書いてあった。
少年のレフィにはもう会えない。それは、画家も解っていると思う。
それでも天使を胸に抱いて、画家は彼を待つに違いない。
出て行く画家の後ろ姿を見送って、エルチェは床に大の字にひっくり返った。
ああ、全く、ろくでもない。
しばらくそうしていて、どうやって戻ろうかと考え始める。教室の時計を見ても、まだ狩りが終わったくらいの時間だった。もう少しここにいて、と、思ったところで外階段を登ってくる足音が聞こえた。
エルチェは飛び起きて入口傍に身を潜める。遠慮がちに軋んだドアの向こうから潜めた声がした。
「……エルチェ……?」
エルチェは思わず顔を出す。全く、思いがけない人物だった。
「アラン?! なんで! レフィは!?」
「迎えに行けって。交代してくれるって人が来てくれて」
「誰だよ」
「僕は知らないけど、レフィ様が知ってるみたいだった。交代するつもりはなかったんだけどね、エルチェに会いたかったとか言ってて……いないのがバレても困るから、迎えに行ってくれって、こっそり……」
そんなに都合のいい話があるだろうか。
画家の話を聞いたからか、胸騒ぎがしていた。画家の話に出てきたやつらは、レフィに危害を加えようとしていたわけじゃなかったようだが、エルチェを邪魔に思っていたのは確実だ。
「アラン、先に行く!」
「え!? なんだよ!? エルチェ!?」
アランの声を置き去りに、エルチェは階段を飛び降りて、路地裏へと足を向けたのだった。
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