第16話 お金ってこわい・前

「起きてていいのかよ」

「気になってさ。寝てるのに飽きてきたからちょうどいい」


 そう言いつつも、レフィは絵をエルチェに渡して布団に潜り込んだ。

 オレンジとレモンと水色の花が描かれた静物画だ。キャンパスの裏にも特に変わったところはない。


「やっぱ、あいつ捕まえときゃよかったんじゃねえの?」

「来たのが男だったらそうしたんだけどな」


 小柄な女性だった。

 素っ気なく言って、レフィは天井を見つめる。


「……ちょっと、早いなぁ」

「……何が?」

「うーん。エルチェ、今夜ここに居てくれる? あ、ベッドは貸さないよ。向こうのソファでよろしく」

「寮長に言づけてくれるならいいぞ」

「アランに頼んどいてよ」

「……なんかあんのか?」


 声を落としたエルチェに、レフィはアイスブルーを細めた。


「今夜はないよ。兄さんもベルナールもアリの子一匹通さないでいてくれる。アランも気を張ってるだろうし」


 じゃあなんで、と眉をひそめたエルチェに、レフィは笑って、唇だけを動かした。


『さくせんかいぎ』



 *



 レフィの夕食と共に軽食と夜食を届けてもらって、エルチェはひとりソファに陣取っていた。ソファもテーブルも、そもそも部屋だって広すぎて落ち着かない。実家にいる時も城に来てからも、落ち着いた食事とは無縁だった。

 結局パンを片手にレフィのベッドの横で「作戦会議」に応じることにした。

 夜は長いよと笑われたけれど、エルチェの知ったことではない。


「レフィだって早く寝た方がいいだろ。また熱上がってきてそうだ」

「大丈夫……とは、言えないね。明日は少しでも体調良くしておきたいし」


 それで? と、エルチェがパンに齧りつきながら促せば、レフィはよく煮込まれた鳥のスープをスプーンでかき混ぜた。


「先生に手紙を書こうと思うんだ」

「ふ、うん?」


 話がどこに向かうのか判らなくて、エルチェは首を傾げながら相槌を打った。


「エルチェにはそれを届けて欲しいんだけど……預けた矢筒を持って、ね。明日の午後は父さんたち狩りに出るはずなんだ。エルチェなら、矢筒を持って紛れていれば門の外に出るのに見咎められないと思うんだよね。その髪はちょっと目立つから、帽子かフードか被った方がいいと思うけど」

「目立つ?」

「赤みが強いから、見分けるのにはいいんだよね」

「……まさか、顔見えてないのか?」

「この距離なら見えてるよ? 見えない方がいいこともあるからさ。まあ、そんなことはいいだろ。つまり、そうすれば一人でも門の外に出られるんじゃないかなって」

「出るのはいいけど、帰りはどうごまかすんだよ」

「他に出てる奴らと合流するか……アランに門まで迎えに行ってもらうか……狩りの帰りの時間に合わせてもいいかな。臨機応変にやってよ」

「それ、丸投げって言うんだぞ」


 短く笑って、レフィはスープを口に運んだ。

 トレーの上の食事は半分ほどをなくして、エルチェに預けられる。その量を見ても、本調子には遠いことが分かった。ドアの外にいるアランにトレーを渡して戻った時には、レフィは紙とペンとホットワインを手元に用意していた。サラサラと、ほんの短い手紙が書きあげられる。差出人の名はレフィではなかった。


――あなたの天使Que ton angeより


「ラブレターみたいだな」

「似たようなものさ」


 小さなカードも一枚一緒に入れて、封はされずにエルチェに手渡される。


「読んでもいいか?」

「いいよ。もし、あの教室に子供たちや先生の絵が一つでも残ってて、先生がエルチェを歓迎したら、何も渡さないで帰ってきていい。でも、そうじゃなかったら、手紙と矢筒を置いてきて」


 前回先生のところに行ってから一週間も経っていない。そんなに変わっているだろうかと、エルチェはよくよく思い出してみる。アルコールの匂いがした。子供たちの絵は……減っていたかも。先生の絵はいつもガラクタに紛れているし、大きな作品は別の場所で描かれているので、よくわからない。レフィに支払われる銀貨は無かった。

 煤けた煙がエルチェの胸の奥で立ち上り始めた。



 *



 ハンティング帽をアランに借りて(さんざん渋りつつも、結局貸し出された)マントを着込めば、エルチェは若い猟師に見えた。これは矢筒ではなく猟銃を持たせるべきだとレフィが笑う。予想以上の出来の良さに、エルチェは呆れるほどすんなりと城を出て、路地裏に身を滑り込ませることができた。

 その後は帽子をとり、矢筒をマントに隠して路地裏を進む。こちらでもエルチェに絡んでくるような輩はいなくて、上手くいっているのにエルチェは舌打ちをした。


 以前は子供たちの姿をよく見かけた先生の教室。今日は静まり返っている。ドアにカギはかかっていなくて、床には無遠慮な大人の靴跡がいくつもついていた。

 その跡にそっと自分の足を重ねてみて、エルチェはできるだけ穏やかに呼びかけた。


「先生。こんにちは」


 返事はない。静まり返った部屋の中は、何もかもが息を潜めているようだった。

 開けっぱなしの教室の引き戸をゆっくりとくぐる。すでにカーテンは引かれ、時おり風で揺れていた。椅子も机もイーゼルも秩序なく倒れ、壁に貼られていた子供たちの絵は一枚もなく、床に破れた紙が散らばっていた。


「先生」


 教室の隅にうずくまっていた塊がびくりと蠢き、頭を庇うように弱々しく腕が上がる。

 エルチェは絵具やクレヨンや、その他何かわからないもので汚れた床に手をついて、慎重にその塊に這い寄った。


「先生。エルチェです。十四歳でレフィの友達です」


 腕の陰から、そろそろと怯えた目が覗く。


「れ、ふぃ、くん」

「手紙を預かってきたんです。レフィ、熱を出してて」


 手の届かない距離で手紙を床に置き、画家の方へと滑らせた。少し足りなかった距離に、画家は動かなかった。エルチェはゆっくりと数歩下がって座り込む。そこからまだ時間をかけて、画家はレフィの手紙に手を伸ばした。エルチェはモデルをしている時のように微動だにしないで待っていた。

 手紙を開いても警戒していた画家の目が、手紙に落とされた瞬間、光を取り戻した。溢れ出した涙にも気づかないように、瞬きも忘れて手紙とエルチェを見比べる。


「でも駄目だ。もう何もない。何も。金が無くなれば、絵を持ち出された。無ければ描けばいいだなんて、わかっちゃいない。描くには光が必要だ。眩しくとも昏くとも……それを、取り上げておいて……ひどい……ひどい……」


 画家はよろりとよろめきながら、一歩ごとにひどいと呟いてエルチェに近づいてくる。その手がエルチェの服を鷲掴みにしてから、エルチェは持ってきた矢筒を床に立てて音を響かせた。びくりとした画家の目が横を向く。


「だから、レフィはこれも俺に預けたんだな。先生、何があったか、俺にも話してくれ」


 蓋を開け、中を画家に向ければ、画家はようやくパチパチと瞬いた。

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