第15話 知らないってこわい
アランが探しに来た時、二人はすでに泥まみれだった。
レフィが浴室に連れ込まれるときに、エルチェも捕まえて引きずったので、二人は湯に浸かりながら説教を受けるという珍妙な体験をした。声がぐわんと反響するのが緊張感を削いで、エルチェは笑いをこらえるために下を向いて神妙な顔を作るのに必死だった。
レフィも同じ気持ちだったのか、二人だから緊張感もなかったのか、その辺りは微妙なところだ。
次の日からレフィは熱を出して寝込んでしまった。
朝の訓練でアランがエルチェに「お前は大丈夫か」と額に手を伸ばした。レフィはどう見ても赤い顔をしてるのに、大丈夫だと起き上がろうとしたらしい。
そういえば、先生のところでも水をかけられていたから、昨日の朝の段階で体調はあまりよくなかったのかもしれないと、そっとエルチェは反省した。機嫌が悪そうだったのもそのせいかも、と。
授業があったので、どこでやることになるのかと、とりあえず部屋に行ったついでに寝室を覗けば、ベッドの中から少し潤んだアイスブルーがエルチェを向いた。
「さすが、バカは風邪ひかないね」
「うるせぇな。おとなしく寝てろよ」
いつものように憎まれ口を返して、エルチェは何となくホッとする。
授業はいつものようにレフィの部屋で行われた。本人は隣の寝室にいるのだけど、声だけでも聴いていたいと願い出たらしい。エルチェは弟妹達が熱を出すと、とたんに人恋しがってやたらと呼びつけられたのを思い出した。
さすがに真面目に授業を受けて、早めに退室しようと思ったのに、先生が教本をぱたんと閉じた瞬間に寝室からエルチェを呼ぶ声がした。
「なんだよ」
部屋を覗き込めば、レフィが手招きする。
ちらと振り返って、アランが先生を送り出しているのを確認してから、エルチェは寝室に踏み込んだ。さらに手招きされるので、ベッドサイドまでいってレフィを覗き込んだ、とたん。胸ぐらを掴まれて顔を寄せられた。
「矢筒、預かって。いつもは来ない輩が顔を出して、落ち着かない」
引き寄せられたのと同じだけ乱暴に今度は突き放される。よろけた体はサイドテーブルにぶつかって水差しを倒しそうになった。エルチェは慌ててそれを支える。
「ついでに、水」
頬を撫でたレフィの息は熱かった。瞳もうつろで、朦朧としかかっているのかもしれない。
エルチェは黙ってコップに水を注いだ。
「新しいの、汲んでこい。バカ」
さすがにイラっとして、口を開きかけたエルチェに、ぼそりと続けたレフィの声が届く。
「俺は死ぬつもりないんだよ」
すでに瞳は閉じていて、意識が落ちたのかどうかはわからない。ただ、背筋が冷やりとして、エルチェは水差しとコップを持ったまま、様子を見に寝室に向かってきたアランに早足で近づいた。コップを渡して声を潜める。
「毒とか、調べられるか?」
「レフィ様が?」
アランの顔にも緊張が走る。
エルチェがよくわからないと首を振れば、アランは少し緊張を解いてエルチェの腕を軽く叩いた。
「エーリク様のことがありましたから、体調を崩しているときは神経質になると聞いてます。一応調べておきますが、大丈夫でしょう。新しいのを汲んできてあげてください」
「エーリク様の、死因って……」
「呼吸不全らしいです。少なくとも、毒の痕跡は無かったはずですよ」
少しは安心できたけれど、昨日のベルナールの話と合わせて、エルチェはようやくレフィの置かれている状況を正しく認識し始めた。
エルチェは水差しも新しいものに取り換えて、戻ってレフィに水を飲ませる。レフィは黙ってクローゼットを指差し、そのまままた横になると目をつぶった。
クローゼットの中にあるいくつかの矢筒の中から、軽いものを選び出していると、アランが訝し気に首を傾げた。
「何を?」
「確認頼まれた。狩りにでも行くんじゃないか?」
「そういえば、二日後だか三日後にそんな予定があった、ような。でも、この状態だと、熱が下がっても父君も兄君も連れていかないだろう」
「さあな。俺は頼まれたことをするだけだ」
それもそうだな、と苦笑するアランにエルチェは少しだけ胸が痛む。レフィが先生のことをアランに正しく伝えていないのは、それが傍から見ていかがわしい内容だからではない。まして、アランを信用していないからでもない。
彼がいつでもレフィから引き離せる組織の一員だからだ。知っても、彼はレフィの味方をしてくれるに違いない。けれど、知っていることで彼の将来がなくなるかもしれない。まだ子供のレフィにはどうすることもできないのだと、彼はよく解っているのだ。
自分の部屋に戻り、同室の相手がいないのを確認してから、エルチェは筒の中を覗き込んだ。レフィが先生から巻き上げたデッサンが入っている。全部で十枚くらいはあるだろうか。底の方には、おそらく毎回もらっていた銀貨も。元のようにきっちり蓋をして、ベッドの足元の布団で隠れる位置に置く。もうひとつ、普通に矢の入った筒を手にして、エルチェは一本一本確認し始めた。
矢羽の乱れたのをいくつか避けておいて、同室の少年が戻ってくると一緒に食堂に出向いた。夕飯のついでにお湯を沸かしてもらって、羽を蒸気に当てさせてもらう。それで、エルチェが矢筒を持っていても誰も気にしなくなった。
*
レフィの部屋に不審な人物が訪ねてきたのは、それから二日後だった。
まだ熱が引かなくて寝込んでいたレフィのところに、お見舞いだと先生から使いが来たのだ。彼女は先生の小さな絵と花をアランに手渡して、「以前レフィ様に贈った絵を直したいから探してくれ」と頼んだそうだ。
午前中の出来事で、エルチェは訓練に出ていた。アランは免除されてずっとレフィの警護についていたのが良かったのか悪かったのか。一緒に少しの間あちこち探したのだけれど、そのうち目覚めたレフィに一喝されて、二人とも部屋から追い出されたらしい。
落ち込むアランの肩を叩いて、エルチェは彼を励ました。
絵は先生の手の物だったし、女は部屋の物に触らなかった。寝室に入り込むのはアランが固辞したので、そう悪い対応ではなかったはずだ。
問題は、先生からレフィ個人に贈られた絵はないということだった。女は恐縮して行き違いだったと頭を下げ、先生に確認してまた来ますと帰っていった。
アランも一旦は女を追いかけようとしたのだけど、レフィに「いい」と逆に止められたそうだ。
エルチェが部屋に顔を出した時には、レフィはベッドの中で、女の持ってきた小さな絵を睨みつけるようにして考え込んでいた。
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