第13話 呼び出しってこわい
「これどーすんの?」
まだ何となく湿っているシャツが、冷たくなり始めた風に当たって寒いな、と一度身体を震わせて、エルチェは剣を持ったかのように丸めた紙を振り回した。
「ラフデッサンでも好きな人に売れば結構高くつくんだ。借金の形みたいなもんだよ。でも、中見られるのはヤバいな……」
レフィは少し考えてから、城に戻るルートを少し変えて、タオルを一枚調達した。濡れたまま出てきたから、タオルを持って帰っても不自然じゃない。
先生が濡れたレフィに妙に興奮して、何度か霧吹きで水を追加するようエルチェに指示したから、レフィの髪もまだ少し濡れていた。
水も滴るイイオトコ、とはこのこと……なのか?
先生の感性にはついていけないので、エルチェは頭をひとつ振って考えるのをやめた。
*
次の日は急な雨で一気に気温が下がってしまった。肌寒さを感じてみんな隊服の上着を着込んでいる。
屋根のある訓練場にはスペースに限りがあるので、レフィとエルチェは机に向かう時間を長くとることになっていた。
とたんにエルチェの効率は下がる。
「兵法とか地理とかはそうでもないのに、数式はどうして覚えられないんだ? 投石機の角度とか出すのに必要だろ?」
「あんなの勘でいける。勘で」
「だめだろ」
二人の会話に暇そうに外を眺めていたアランが笑った。
「エルチェは実戦特化だよね。決まった型しか使えない訓練よりも乱戦の方がずっと強い。集中力が違う。……って、隊長が言ってたよ」
「ふうん」
興味が無いというようなエルチェの代わりにレフィが訊いた。
「期待されてる?」
「まあ、多分」
鉛筆を転がして机にエルチェが突っ伏したところで、ノックの音が響いた。家庭教師が眉間に皺を寄せるのを見て、アランが「僕が出る」と動いた。ぼそぼそと二、三、やり取りをしてから振り向く。
「エルチェ」
のそりと顔を向けたエルチェに、アランは苦笑しながら手招きをした。
「ベルナールが呼んでるって。煮立った頭が冷えてちょうどいいんじゃないか?」
なんだろう、と訝しく思ったものの、机を離れられるのは幸いと、エルチェは素早く立ち上がった。家庭教師の小さな溜息が聞こえたけれど、気付かないふりをする。
部屋を出る前、そういえば部屋の主は何も言わないなと一度振り返ってみたけれど、レフィはエルチェと目が合うと、すぐにノートに目を落としてしまった。
見た目、エルチェと同じくらいの――ということは少し年上だろう――青年従者に先導されて城の中を行く。北側の薄暗い塔に辿り着いて、さすがにエルチェは気を引き締めた。上でベルナールが待っているからと、従者は階段を上らずに辞していく。
一、二度深く呼吸してから、エルチェは階段を上っていった。
ベルナールは最上部の物見台で糸のような雨が落ちるのを眺めていた。
「御用事ですか」
エルチェが声をかければ、ベルナールは振り返ってにやりと笑う。
「早かったな。勉強は嫌いか」
「嫌いですね」
即答すれば、彼は快活に笑った。
「礼儀作法は及第点くらいで無難にこなすと聞いてるぞ。もう少し身を入れないか?」
「レフィ様がそれを必要とする場所に出入りするのに、ついて行けるようになれば考えます」
現状はアランがいる。エルチェに関係のある話ではなかった。
手は後ろで軽く組んで、足は開いて背筋は伸ばす。上官の話を聞く満点の姿勢だ。二年の間に、農家の少年は真面目な少年兵へと成長を遂げていた。
ベルナールは少し目を細めて、生意気にも見える三白眼を見つめ返す。
「……これは、内々の話なんだが」
エルチェの口元にキュッと力が入った。
「アランをこちらに異動させようかという話が出ていてね。君たちといると刺激になるのか、彼の成長も著しいものがあるから、もう少し伸ばしてやりたいと。鉱山の方の盗賊退治とか、早いうちに実戦に触れさせてだな」
「用事はなんですか」
強めに張られた声には緊張が滲む。
上官の話を遮るなど、下手な人物なら懲罰ものだ。
ベルナールはポリポリと頭を掻いて、ふっと息を吐き出した。
「勉強に戻りたくないんじゃないのか?」
「無駄話を聞かされるくらいなら、講義を聞きながら居眠りしていた方がマシです」
「無駄話でもないんだがな」
「もっと嫌ですね。俺にどうにもできない話をどうにかできるような顔で語らないでいただきたい」
不意に眉尻を下げ、二日酔いの親戚のおじさんみたいな少し情けない顔をベルナールはした。
「君は流されていくときもちゃんと流れの先を見ているよな」
訝し気に眉を寄せるエルチェに、ベルナールは一つ頭を振って騎士の顔を取り戻す。
「アランと共に、君もイアサント様の元に呼ぼうという話が出た。まだ話だけだが。どうする」
不意を突かれて、エルチェは一瞬口ごもった。
「どう、と言われても。俺に選べるとは……」
「選べるとしたら、お前は誰の騎士になる。そろそろそういうことを考える頃合いだ」
少しだけ考えてから、エルチェはふっと肩の力を抜いた。
「選べませんよ。俺はすでにレフィのものだ」
軽いため息と苦笑を見て、今度はベルナールが虚を突かれた顔をした。
「君との契約はヴォワザン辺境伯の名で交わされている。今はレフィ様の従者だけれど、誰の従騎士になるかまでは決まっていないのだぞ? このままいけばレフィ様はイアサント様の従騎士となる。その後彼自身が騎士となるまでにも少し時間がある。イアサント様の傍で腕を磨いてからレフィ様の元へ戻ってもいいのではないか」
エルチェはゆるゆると首を振る。
「御命令があれば尽くしましょう。それは構わない。だけど、誰のところへ行っても、俺の主人はレフィなんだ」
ややしばらく、雨の音だけが塔の中を満たしていた。やがてベルナールも静かに息をつくと、厳しい顔をしてエルチェに顔を寄せた。
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