第4話 言葉にならない
視野がきゅっと狭くなった。目の前は薄暗色のグレー。
今日の天候のせいとか、そんな決まりきった偶然さえ気づくことも出来ずに、周囲を見渡せないおぼろげな目で膝までの浅い川の中を下へ下へと下っていった。
「どうして、そんなことをしたんですか?」
高校を復学できなかった16歳のわたしはODをし、急遽入院した病院で看護師に聞かれた。まるで冷たい刺し言葉。なのは、慣れていた。
(自分を表現しなければ、痛みを形にしなければ、わたしは気に留めてはもらえないの。)
春の冷たい川の水と絡め合う足はとにかく先へ行くことを決めていた。
「そんなに暗くならなくていいよ。」
どこからか声が聞こえた気がした。今、30半ばのわたしは声の先を探した。お兄ちゃんだと思ったけど、
…考えてみたら兄と会話らしい会話をしたことがあったのか、よく覚えてない。だって昔、家に居たお兄ちゃんは、わたしと会話するというよりは独り言、もしくは風と話すようにしゃべっていたのだから。
「昔のことを思い出していたの。フリースクールの朝の務めをサボって川の中を海を目指してずぶ濡れになりながら歩いて行ったなんて、なんて大胆で浅はかなことをしたんだろうって。」
わたしが先ほど聞いた声は幽霊ではないかもしれない。
そうだとしてもお兄ちゃんではないかもしれない。それでも勝手に会話を繋ぐのは自分という命が惜しいからだった。
「例え本当にお前が、配慮ある場所であってもそこから外れてしまう異常な性質だったとして、それでもそこ(フリースクール)にいれなかったのも、家にいれなかったのも事実だったんだよ。」
わたしはとっさにくちびるを触った。わたしのこの口がこの頭が、そう言ってくれたらと願った。
フリースクール在中にアルバイトを内緒で始めたこともあった。寮から出て家からフリースクールに通い、日曜日にバイトをすることに決めた。そのバイトは同級生の紹介だったので即決した。なのに2週間に1度のバイトじゃ仕事は覚えられないし、できなくって、結局辞めた。オーナーは、なんでそんな仕事もできないのっていう雰囲気できちんと仕事を教えてくれなかったし、水分補給もしたいと言いづらい雰囲気だった。わたしは、働けないんだと思い知らされた。だから逃げ道を失ったかのように、フリースクールでの活動に専念することにした、そんな成人前のわたしだった。
フリースクールを辞める時、
(もう、大学は卒業できないよ、わかっているね?)
と問うたのは自分だと思った。
(わたしは働きたいんです。)
そういえば、それを言葉にもしていなかった。
正社員事務の仕事の面接を数社受けるも、内定がまったく決まらなかった。通信制大学在学中で明らかに不登校生を扱う通信制高校の出身だからだというのはわたしの中で明白な理由だった。なので、募集が多そうな飲食関係のアルバイトを探し、和菓子屋で働き始めた。
面接の時、店長さんが明るい挨拶出迎えてくれ、不思議な気持ちになった。案の定、仕事もわかりやすく教えてくれ、なんとなくレジもできるようになった。
結局、クビになった。早番の開店準備ができないからだけど、ただ単にいつも自動ドアのスイッチを押し忘れてしまうことだけだったと思った。それについて、仕事の出来を問う店長にもっと伺えばよかった。ただ
「準備が出来ませんでした。」
というだけでは相手は分かるわけがない。教えることもできない。
どう開店準備ができてないのか、相手に分かれば猶予やもしくは改善方法を考案してもらえた可能性があったのだから。しかし、わたしには口がついてなかった。さらに言えば、同じアルバイトのスタッフさんがいつも店長の悪口を言うのが嫌で言葉がどんどん無くなっていっていた。それから、フリースクールの事件のショックの上に親の弁明も聞いてくれない冷たさに、それを表面化できなくても苦しいほど思い悩み、紛らわそうとしても紛らわしきれず平静さを失ってきていた。もう目の前にいるのは自分を保護してくれる親ではなく、世界は目の前や言葉に現わされている通りだと信じられなくなった。
それに追い打ちをかけるように仕事が終わった夜、家で、独りでいる時、
「宇宙人が攻めてくるの。」
と地球外生命体が地球を自分を攻撃してくるような衝動に似た妄想に狂わされていた。
和菓子屋さんを退職した春の月末、いやその一週間くらい前にはすでに街の様子が変わっていた。不穏な空気をどこからか感じ、ほの暗い、もしくはどす黒い見えない何かが世界を蝕んでいるように見えた。通勤する街の雑踏の中で顔さえも知らぬ…見知らぬ人たちがクビになったわたしのそれを知るかのような視線を感じた。お客さんの会計するレジでも、はてどこかで知り合いだったのか分からないが何か不思議な感覚を消し去れずに、お釣りを渡す手は少しぎゅっとお客さんの手にふれてしまった。更に、わたしを見つめ声を立てずにけらけらと笑うお客をお店の戸の隙間から見た。目が合った。同級生に似ていたが知らぬ人だった。
そしてまた、ちょうどバレンタインを過ぎた頃で、小学校の担任の先生用のバレンタインチョコをお兄ちゃんに食べられてしまった昔の笑い話を笑いきれなくて、
「わたしは有名なサッカー選手に似た人と(義理の)兄弟で、不器用な手でココットに生チョコレートを仕込んであげたの。」
と今までにない逸話を取り込んで、バイト先のスタッフに自慢げに話してしまっていた。
フリースクールに居た頃、小太りだったわたしの身体はズボンに隙間を作るほどに瘦せ始めていて、はしゃいだ心は通勤時に流れる人ごみの中のイケメンをとらえるよりももっと理想を求めた。社員通用口では、フリースクールの先生にそっくりな人まで立っていて目も合い1秒見つめ合ったが、今まで見たことなかった煙草を片手にしていたので無視できた。誰かにさらわれる、もしくはわたしは発狂して常軌を逸してしまう不安と恐怖はいくらかあったが、相変わらず街は動き続け平日と休日を作り上げていた。
退職の日、不穏さはますます深まっているような気がした。通勤時やたらと男の子と目が合ったし、どこか暗い顔をしている人を見かけたような気がした。変だなと思い、たとえそれが自分の脳の異常だとしても確かめたくて、そしてまた1人を選んで…そうしていると誰かに付け入られそうで、駅で適当な人に声をかけてみた。
「〇〇行のホームで間違いないですか?」
ホームで何かを睨むようにつり目の男の子は黙ったまま視線を外した。わたしは何かを了解した。
そして電車の中で椅子にもたれ屈んだ。いつものポーズだった。いつも寄り添うものがないと不安で、足が疲れてなくても背もたれを欲しがった。電車は流れるように乗客を運び、ガタンガタンとやさしく揺れた。
(もしもこの先の最終駅が夢の場所だったら。)
なんて妄想もしきれずに今日の寝支度の手順をおさらいするわたしの耳に不可思議なしゃべり声が入り込んだ。
アジア人風の顔の人と、中東風の顔の人が外国語でベラベラしゃべっている。
「中東はあらゆる人種の集まる場所で…。」
わたしの脳裏にそんな独り言をつぶやいたが、本当に変な言葉が飛んできた。
「〇〇(わたしの名前)ちゃん、かわいいよ。」
目線をあげても目は合わない、いや時々ちらちらわたしを見ている。
「ほんとうはおしえてあげたいんだよ。」
もしかして外国人が日本語でわたしの名前を呼び、そして誘惑しようとしている、とわたしの耳や脳は判断するんだろうか。わたしは下を向くことに集中した。もし話しかけるならせめてでも、
「こんばんは。」
がいいし、
「はじめまして、わたしは〇〇というものです。」
と自己紹介がなければ嫌だろう。
(クビになって精神不安からくる幻聴なのかしら。)
コツコツと、靴をならしてふらつき相手の注意をひこうとしたいつかの大学のスクーリングの日を思い出した。それも電車の中だった。カッコいい、もしくは礼儀正しそう、もしくは面白そうな人だったらちょっとぐらいのアクシデントをしてまでこれから先の未来への道筋とこなしていく方法を少しでも教えて欲しいと求めたんだろう。
自宅に無事に着いて夕飯を食べ終えいた。疲れをとってからでなければ明日を考えられないわたしは、いつものようにこたつで
「お前が悪いんだよ!」
突如フリースクールの
「そうなんだよ、お前のせいだ!お父さんも簪先生も全部お前のせいだと思っている。」
思考を遮断するかのような脳内に反響する怒鳴り声、それは、父と簪先生の声…
わたしは、約束を叶えることができなかったお兄ちゃんの姿を思った。
わたしは身を起こし、仏壇に向かい合う、遺影の兄は平静な顔をしていた。わたしは聞き取れない怒鳴り声に怯えながら何度も仏壇と向かい合い膝を畳んで土下座した。
「辞めなさい!辞めなさい!」
脳内の叫びは、フリースクールの粟のような瞳と髪艶の女の先生の声と一致した。
いつものフリースクールの校舎の先生用のあの階段を降りていくそんな姿と、故にガランとして誰もいないことが摂理であるとして校舎が脳裏に映し出されていた。
わたしは、お母さんに
「幻聴が聞こえる。」
と言った。
「幻聴が聞こえるの?じゃぁ、一緒に写経しようか。」
わたしは無言で断った。わたしが必要としているのは···。仏壇に向かい直し、掃除の仕方を思い出しながら仏壇の花瓶や蝋燭、線香、お供え砂糖を動かし埃を丁寧に払おうとつとめた。
(お兄ちゃんが、お兄ちゃんを助けることができなかったのが悪い。)
「お兄ちゃんが喜ぶわ。」
母はそう言ったけど、わたしの耳鳴りはやまない。
「その唇が気持ち悪い。」
と簪先生の非道な怒鳴り声を何度も浴びせられた。
わたしは口角があがってなかったとは言わない。
「唇を切れ!」
幻聴は続く。わたしは発狂したようにハサミを取り出し洗面台へ走った。
唇の気持ち悪さを確認し、唇を片端ずつ切ろうか、と覚悟した。
「やめて、やめて、」
母も洗面台に来た。わたしを止めた。
(もういいだろう)
そう思ったわたしは、またリビングに戻りこたつで横になった。
「今からお前を迎えに行く。精神病院に連れていく。」
(?)
「その前に、…お前を殺す前に…セックスをしてもいいか?」
(??)
幻聴はまだまだ激しいし、困惑はまだ収まらない。数日前は、家に訪問してきた客のインターホンに怯えて、慌てて買ったばかりの安くてお洒落な花柄とレースのワンピースたちを大学のスクーリング用に使ってたトランクにありったけ詰め込んで逃げなきゃと焦って怯えたっけっかな。
(もう無理だ。)
そう嘆いて夜21時は過ぎていた時間に家を飛び出した。車はわたしを祖母の家に運んだ。祖母の家に行くといとこがいて泊ってもいいか聞いたら
「いいんじゃない?」
と言い、わたしはそのままこたつで眠り始めた。
だが、祖母はイライラしたように何度も台所を出入りし始めた。わたしは祖母からわたしに対する強い殺意を感じた。台所の戸を開けている祖母の動作が、包丁を探す仕草にしか見えなくて、わたしは恐怖と失望の中で声なき声で絶叫し、全身の力が抜けた。
「車を寄せるから来い、白いワゴン車だ。」
その不可思議で非常識な声にわたしはなんて答えるというのだろうか。
20を過ぎた年頃のわたしが望むのは、シンデレラのように自立した淑女になれることではないだろうか。
その恐怖に身体の動きを制止させ、じっとしているわたしの傍で縁側のガラス窓、カーテンに外からのライトを感知する。
「日本政府だ。」
その幻聴に対するわたしの答えは
多くを望まない、わたしはわたしの人生を全うするまでだ、という意思だった。
問題事はひと休止したように眠りについた。そして、朝起きてきたおばさんに挨拶もせずに車に戻りそして家に帰ることにした。
「ママだよ。」
携帯の着信ボイスが不自然にそう言っているように聞こえてわたしは母と父に与えられし人生の返し方を想像した。
「お遍路さん参りしようか。」
帰宅したわたしに母は言った。父母は目を見開いて驚いているように見えた。
(きっとここからの旅費に1人当たり10万円はかかる。)
「行きたくない。」
(自分を守ることができない無駄銭が欲しいんじゃない、わたしは自力で生活費を稼いで自立したい。)
「じゃあ、精神科に行く?地元のエコビレッジに行く?」
「エコビレッジに行く。」
それは、互いのひとつのさよならの言葉だった。
「私はあなたと同じ色の上着を持っているの。」
と紫の上着を翻す母さんは、幼い少女のような表情と仕草で、あと
(…aren't you?)
海底に沈むような狂気を見せなかったら、それこそ薬を一瓶飲み干すようなパフォーマンスを見せなかったら、わたしの心の痛みに許しをもらえることはなかった。
それは、そんな日と決別する新しい人生の始まりだった。
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