第3話 わたしはいない
「お母さんが運動部に入れって言ったせいよ!
運動神経悪いわたしのことをどうしてわかってくれなかったのよ!」
言ってはいけない言葉だと思ってた。だから、ずっと吐き出さずに生きようとしていた。運動神経悪いのも上手に部員と仲を繕えなかったのも自分のせいだと思っていた。すべて自分に普遍的な能力さえ足りないないと。お母さんとお父さんはこんな子供を授かって不幸なんだと。
でも、障害者雇用で就職した会社の社員さんたちの和やかな日常に、自分だって同じでなくても"あったかもしれない幸せ”だと歯がゆくなって、心を押し殺せなかった。
「ただ軽く言っただけよ!友達と一緒に部活に入ったんでしょ。」
母は慰めの言葉もフォローもない。不登校になって大学も卒業できなくて就職にも躓いたわたしにかけた言葉は
「あなたは高校の時から変だったのよ。」
だった。わたしは高校を休学して復学もうまくできずに自殺未遂までしたのに、母は冷酷なことを、さも正しそうに言い放った、公然と。それは精神障害者にまでなったわたしに追い打ちをかける言葉だった。
「わたしは、お母さんの言うことを一生懸命聞こうと思ったの!
本当は(自分にもできそうな)合唱部に入りたかったのよ!
お母さんは『デブになるから運動部に入りなさい。』
ってわたしに指示したでしょ!」
事実を思い出してしゃべればしゃべるほど自分が汚れていくような気がした。わたしが運動神経もなくて、わたしが人間関係も作れない性悪で、わたしが駄目な人間だって、言えば言うほどその考えに埋め尽くされるから。
『フリースクールと親がどちらが悪いかですか?そうですね、
親の方が悪いです。』
方向性が見つけられない派遣で働いていた日に、日雇い契約書にサインをしていた受付窓口でそっとわたしの脳裏に囁いた。根本はどちらが悪いか、よりもどのように自分を救うかなんだと思った。親が、保護者が、わたしを受け入れさえすれば、他人の厄介にならなかったし、親と切れない縁について、そして親を愛さなければいけない心の罠に回答をだせなければ、他人にはもっと敵わないのだと。
ひとつの答えとして、くだらない、恥ずかしい、不名誉だと隠してきた自分の人生を思い返してみることにした。
中学に入学したわたしはバレーボール部に入った。合唱部の見学もして運動部に入るべきなのか悩んだけど、母の
「運動部にしなさい。」
の勧めを固く守った。お母さんがすべてだった、そんな10代のわたしだった。
「一緒に練習したくない。」
いつもグループを組んでバレーの練習をしていた3人の部員に言われた。
一人の子とは塾も同じで一緒にいる時間が多く、部活でも何となく一緒にいた。バレーボール部に入ってからというものの、うまくトスやレシーブができなくてパスが続かない、ボールを転がして何度も拾いにいく、そんな下手さだった。わたしは一緒に練習する相手としてかなり不足で迷惑だった。
サーブの練習をすればネットにあたり成功せず、わたしを教える担当の先輩はそんなわたしの様子をみてため息をつき失望の眼差しを向けていた。こんなにできなくて…でも辞めるという発想もなくて、続けていたがついに中2の夏に一緒に練習していたグループに嫌だと言われてしまった。わたしはショックだった。
「仲間外れにされるから部活を辞めて美術部に入りたいです。」
わたしは女性の顧問に訴えた。
「美術部だったらいいって言うの?!」
顧問は怒鳴るように言った。わたしは閉口してしまいそれ以上自分を繕う発言ができなかった。
今思えば
「運動神経が悪くてみんなに迷惑かけているし、自分も辛いので辞めたい。」
と言えば良かった。“仲間外れ”なんて言ったら、部員(と自分の立場さえ)を守りたい顧問は怒るだろう。
「仲間に入れてあげるように。」
と男の顧問がみんなを諭しわたしは辞めることはできなかった。クラス担任からも
「内申点が落ちるから辞めないように。」
と言われてしまう始末だった。
その後、部活では別の部員がわたしを気にかけてくれて一緒に練習してくれた。下手くそで周り、親切なその人たちさえ迷惑をかけ嫌な思いをさせているわたしは、みんなからきっと白目で見られていた。潜在的な寒気で覆い尽くされ、部活動をする時のわたしの目は、遠くをぼやかして周りが見えないようにして見ていた。逃げたかった。
「先輩の中体連のプレゼント、私と
彼女たちもまたわたしと一緒にいるのを嫌がっていた。
「うん。お願いね。」
“傷ついてない、平気だ”、そんな雰囲気で返事をした。
わたしはそれでも仲間に入れてほしくて、新商品の香りペンを買ってきて一緒に練習してくれる部員たちあげたりした。だけど、わたしは、部活動なんかに居場所なんてなかった。
わたしは中学1年生の時、テストの成績で学年順位3番を2回とった。塾もテスト勉強も徹夜で頑張ったし部活もやっていた。成績が良かったせいか、
「学級委員になってほしい。」
とクラス担任に言われた。わたしはこれほどにない名誉だと思い引き受けた。
だけれども、真面目な気になってクラスの乱れを注意しては無視された。わたしは人の心を理解できていなかったし掴む方法も分かっていなかった。
そして、塾と部活と学校生活で疲れ、徹夜でないと宿題が終えられなく、朝起きれなくなり、学級委員でありながら遅刻するようになっていった。そして中学3年生だった兄も統合失調症を発病した。
家庭でも学校でも絶望する中で、部活動の問題が起こり、そして身体も心も辛くなり、部活に行きたくないと授業終了後、トイレの前で泣いていた。バレー部の女の顧問が担任しているクラスの前のトイレで、顧問に見つかり事情を聞かれた。
「お兄ちゃんが統合失調症なんです。」
一瞬、絶句した顧問だったが、
「お兄ちゃんの方が偉いわよ、学校ちゃんと行ってたじゃない。」
と言われ私に冷たくされた。
わたしはコントロールできない世界で椅子に縛られ身動き取れない自分が脳裏に何度も浮かび、このままでは駄目になると思った。心の逃げ場所を探して兄も通っている精神科へ行きたいと母へねだった。
学校を休んだ平日、当日予約ですぐに診察してくれ、うつ病と診断され服薬治療が始まった。
「勉強を頑張りたいんです。鬱にならないように薬をたくさん増やしてください。」
精神病と薬について知識のないわたしはとにかく薬が増えれば心が軽くなると思っていた。部活動や家庭の問題についても主治医に聞いてもらったし、きっといい薬を選んでくれるだろうと信じていた。
しかし、薬が増えたら、脈拍数が増え常に心臓がバクバクしてきた。少し運動しただけで身体が真っ赤になり、とても部活や体育の授業さえできる状態にはならなかった。もちろん鬱も消えなかった。
「勉強ができる状態にならないんです。鬱がとれないんです!」
主治医に訴えた。しかし、
「勉強をちゃんとしなさい!!」
主治医はわたしを睨みつけて怒鳴った。わたしは理解してくれない主治医に悔しくて涙が溢れ、家に帰るまでわんわん泣いた。
それから、不幸は重なり、兄は亡くなった。
最初はその事実を
すべての気力を逸したわたしは、沈むように身体と心は崩れ、そうして不登校になった。中3の三学期だった。友達ができない同級生に好かれないそんな駄目なわたしは、兄が唯一自分の価値を認めてくれる存在であったことに気が付いた。普遍的な生き方をこれ以上継続することはできない、兄はわたしの人生のことわりそのものだった。
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