第12話

 ちぎっては投げを繰り返した夕暉のお陰で、平地を抜ける頃には大群でいたはずの蛇はどこにも見当たらない。頂上まであと少し。地図が正しければ、恐らく九割ほどは攻略している筈だ。

「よし、ひと安心だね」

 最後の一匹を放って、夕暉がふっと息を吐く。その視界の隅を、黒い影が横切った。

「おぎゃーっ!!」

 絶叫と共に目に見えぬほどの素早さで、夕暉は陽に飛びついた。

「うごっ、痛えなっ。なんだよ」

 勢いに負けて倒れかけたが、踏ん張る。夕暉が耳元で叫んだ。

「よよよ陽くん、ねねねじゅみー!!」

 なんだか分からんが、噛んだ。「ねねねじゅみ」ってなんだ。自分より大きい男にコアラのように巻き付かれても困る。しぶしぶ夕暉の指さす方を見れば、十センチほどの小さなネズミがキョトンとこちらを見上げていた。呆れた顔で、陽は自分にしがみつく夕暉を見た。

「お前なあ。さっきは自分の腕より太え蛇、素手でわしづかんでぶん投げてたろうが。なのに、こんなちっちぇネズミのどこが怖いんだよ。蛇の餌だろうが。意味わかんねえな」

「あっ、あっ、やめて、降ろさないで!」

「重い。離れろ」

 引きはがそうとするが、夕暉は長い四肢を存分に生かして、必死に足を地につけまいと、陽に巻き付いている。

「お願い止めて! 俺が齧られても良いの!?」

「いや、齧らねえから」

「齧るよっ」

 夕暉の悲痛な声が裏返る。涙声で必死に訴えている内容を聞けば、どうやら幼少期に寝ていた耳を齧られたことがあるらしい。陽は引きはがすのを諦めて渋々言った。

「分かった分かった。追い払ってやるから、取り敢えず離れろ」

「いやーっ、俺、俺っ、陽くんの一部になるーっ」

 巻き付いて離れない夕暉の背中をポンと叩いて、陽は言った。

「お前はお前、俺は俺。別に生きよう」

「逆アシタカ!? 冷たい、共に生きて」

 騒いでいる間にネズミは何処かへ消えていた。充分に足元の安全を確認して、夕暉はそろそろと足を地に下ろし、陽から離れてくれた。

「お前にも怖いもんがあったんだな」

「無理……ほんと無理。マウっちょだけは、半径五メートル以内にいるだけで怖い。なにあの尻尾。ほんとキモイ」

「マウっちょ?」

「ネズ……ほにゃららっていう単語だけでも口にするの嫌」

「なるほど」

 ネズミを英語にしてマウス。更にマウスを渾名っぽくしてマウっちょか。実にくだらな過ぎる。

「行くぞ」

 まだ警戒して足元を見まわしている夕暉に背を向けて、陽は先を急いだ。有害な動物、自然の罠と障害、様々なものを切り抜けて上へ上へと歩を進める。

 深い木々の生い茂る平地に差し掛かった時、頭上からキキッと甲高い鳴き声が聞こえ、ふたりは同時に立ち止まった。辺りを伺う。木々の間からこちらを覗く数多の瞳と目が合った。正体に目を凝らす。

「猿? が、なんか持って……っ!?」

 首を傾げた夕暉が言い終わるよりも早く、大粒の石が飛んできた。右足を引いて半身で躱す。

「今度は猿の石礫かよっ」

 陽の叫びを引き金に、次々と礫が襲い掛かった。

「速さもあるし、大きいから当たると危ない。陽くん、気を付けて……っ」

 右へ左へと転がって礫を躱しながら夕暉が叫んだ。陽も同じく地面をゴロゴロ転がりながら雨嵐と降り注ぐ石を避ける。

「……っ!!」

 ひときわ大きな塊が肩に直撃し、陽は声にならない悲鳴を上げた。夕暉が振り返る。

「大丈夫!?」

「おれに構うな!! 前見ろ!!」

 なかなか上手く当たらない投石にじれたのか、数匹の猿が木から滑り降りてくる。地面を這うような投擲を察知して、陽は跳ね起きた。素早い動きで後退りした足が空を切る。避けた先には、地面がなかった。

「う、うわあああああぁ!」

「陽くっ……っあ」

 支えようと手を伸ばし踏ん張った夕暉の足元も、あえなく崩れる。土砂と折れた草木を巻き込んだ激しい砂ぼこりを上げながら、ふたりの身体は斜面を転がり落ちた。陽は必死に身体を丸めて衝撃に耐えた。夕暉のことを気にする余裕などない。上下の感覚すらなくなって、ひたすらに転がってゆく。

 随分経って、何かにぶつかったことでようやく身体の回転が止まった。強かに全身を打ち付けて息が止まる。身体を丸めたまま数秒、パラパラと名残りのような砂塵が降り注ぐ。

 恐る恐る、顔と頭を覆っていた腕を解く。さっきまで歩いていた場所が、小指の爪くらいの大きさになっていた。

「嘘だろ……」

 陽は呆然と呟いた。三日かけて上った山の頂が、一瞬にして遠ざかってしまった。少し離れた場所から夕暉の声がした。

「結局、下まで落ちちゃった……。もうちょっとで頂上だったのに。王様になるのに、なんでこんなサバイバルな試練が必要なの」

 蛙のように引っくり返り驚駭を顔中に浮かべて、夕暉は空を仰いでいる。

「おれも、疑問だ」

 全く同じ格好で虚空を見つめながら、陽は答えた。

「じいちゃんの時の話を、ちょっとだけ聞いたことがある」

「おじいちゃんって、先代だっけ」

「おう。はっきりとは教えてくれなかったけどな。でもじいちゃんときは、一週間、四六時中竜の傍にいて世話をして、ようやく継承の竜に会えたって言ってた」

「何それ、寧ろご褒美じゃん。ズルい」

「じいちゃんは、竜が怖いんだよ」

 失神しそうなほど怯えた顔の祖父を思い出して、少し笑いが込みあげる。

「父さんの時も、多分、こんな試練じゃなかった筈だ。教臣の顔を見りゃわかる。お前が扉を開けた瞬間に落ちかけて、青ざめてたろ」

「うん。慈光さんと教臣さんは、何したんだろう」

「分からん。でもこんな罠だらけの試練じゃないことは確かだ」

 ふたりは脱力感から、しばらく転がったままでいた。空が青い。転がり落ちている間に草木や石で切り刻まれた手足が、じくじくと鈍い痛みを訴えている。

「ここ、どこかな」

「分からん」

 出発した場所とは明らかに方角が違う。現在地が分からない以上、地図が無意味な物になってしまった。もう一度、山頂だけを目指してただ登るしかない。

「このままちょっと昼寝したいや」

 言葉とは裏腹に、夕暉は弾みをつけて起き上がった。陽も身を起こす。左肩を押さえた手を見て眉を寄せる。冷たいと思っていたら出血していた。

 その時、近くで聞こえた唸り声に、ふたりは同時に振り返った。警戒に耳を欹てる。すぐにもう一度、低く獣の唸る声がした。近い。頷き合うと、叢をかき分けて鳴き声の聞こえた方へそっと忍び寄る。

 息を殺して近づくとそれはいた。一メートルほどの円状に少し開けた場所で、大きな蛇と対峙している灰色の生き物が見えた。子供の狼だ。

 夕暉は無言で草陰から飛び出した。鎌首を擡げて狼と対峙していた蛇が、闖入者に振り返る。蛇の視界に最後に映ったのは何だったのだろうか。木の棒で頭部を正確に打ち据えて、夕暉は大蛇を昏倒させた。間髪入れずに遠くへ投げる。

 子供の狼は、蛇に代わって新たに現れた人間に向かって歯を剥き、低い唸り声を上げ続けている。見れば左の前足から血を流しているのが分かった。

「蛇に噛まれたんだ」

 夕暉は狼を素早く抱き上げた。噛まれないように、右手は威嚇してくる狼の口を押えている。蛇の時も思ったが、野生の狼に勝る速さってどういうことだ。夕暉に全く敵意がないから、反応が遅れてしまうのだろうか。

 一拍遅れて狼の喉が剣呑な唸り声を立てる。狼の抵抗をものともせず抑え込み、狼の傷を覗き込みながら夕暉が言った。

「どこかで傷口を洗いたいな」

「おれたちもそうした方が良い。水を探そう」

 肩を圧迫しながら陽は言った。太い血管が傷ついたようで、左の肩から流れる血が止まらない。指先まで滴る血が地面に大きな血だまりを作り続けている。

「陽くん、その腕……」

 傷口を押さえていた陽の右手を退けさせて、夕暉が息を呑む。思った以上に傷が深い。脱臼もしているらしく、全く腕が上がらなかった。

 夕暉は唸る狼の口に素早く手拭いを巻き付けた。その陽に狼を渡すと、見事な手際で陽の脱臼を治し、湧き出るように血を噴き出している傷口に布をあててきつく縛る。陽は顔を顰めた。

「痛え」

「そりゃそうでしょ」

 陽の肩を強く圧迫して止血する、夕暉の顔は険しい。不自然に脂汗の浮く額を不審に思い、陽は何気なく視線を落とした。そして倍ほどに腫れた足首に仰天する。

「お、お前も足っ」

「大丈夫。もげてないなら、折れてても歩くよ」

 夕暉はそう言うと、印籠から取り出した痛み止めを無造作に口に入れ、乱暴に噛み砕いた。陽の腕のなかで暴れる狼を丁寧な手つきで引き取ると、怪我を全く感じさせない足取りで踵を返す。

「行こう」

 近くで自然に湧き出す泉を見つけて傷を洗う頃には、子供の狼は大人しく夕暉の腕に抱かれていた。もう威嚇する元気もないようで、ぐったりと尾を垂らしている。

「腫れてないから、毒は入ってないと思うけど」

 手際よく傷口を洗って消毒し、夕暉は陽と狼の腕に包帯を巻いた。ウトウトしている狼の口に抗生剤を押し込む。

「狼だったら、群れでいると思うんだけど、はぐれちゃったのかな」

 あたりに他に生き物の気配はない。夕暉は腕の中で丸くなった灰色の塊を見下ろした。体力を消費したせいか、狼はスピスピと寝息を立てている。最初の抵抗が嘘のようだ。可愛らしい寝顔に夕暉の頬が緩む。

「家族のところに返してあげたいけど、無理だよねえ。でも置いてっちゃうのもなあ」

「取り敢えず連れて行けば良い」

「そうだね。一緒に連れてって、色々終わってから家族を探してあげよう。よし、ちょっと預かってて」

 風呂敷で手際よくスリングを誂える。いわゆる抱っこ紐だ。子連れ狼ならぬ、仔狼連れ。赤子のように狼を抱えて夕暉はご満悦だ。


 同行者を一匹増やし、陽たちは再び頂上を目指した。随分と日が高くなってきた。山に入ってもう三日も経ってしまっている。少しでも先を急ぎたい。見つけた木の実を摘まみながら、ひたすら山を駆け上がる。

 足元の悪い沼地、上からときおり崩れた石や土砂の振ってくる危険な岩場。激流を這うようにして渡り、草木の生い茂る密林を躊躇なく進む。道を選んでいる暇はもう、ふたりに残されていない。

 落ちた地点の半分ほどの高度までたどり着いた頃には、ふたりの顔や足、陽の露出した腕は、小さな無数の傷が出来ていた。あっちに飛び込みこっちに転がり、前だけを見据えて進行を続けていたので、もはやいつ付いたかも分からない。

 懐に入れた灰色の塊は、ずっと眠ったままだった。途中、胸元にまで注意を払う余裕がなくなりあちこちぶつけてしまったはずだが、存外に神経が図太い。

「まだ、五分の二くらいかな」

 木々の間から微かに覗く頂きを睨みつけながら、陽は答えた。

「くそ、さっきまであと一息で登頂ってとこにいたのに」

「ん?」

 夕暉の胸元が不意にもぞもぞと動いた。見下ろすと薄青の瞳と目が合った。

「起きたのか」

 陽が覗き込む。ふたりと目が合うと、狼は勢いよく地面へ飛び降りた。すっかり目を覚ましたようだ。仔狼は全身で人間たちへの警戒を示している。唸り声を上げ、小さな体を目一杯膨らませて威嚇してくる灰色の塊に、夕暉は目を輝かせた。

「ねえねえ。これ、手を噛ませて『ほら、怖くない』ってやったら仲良くなれるやつじゃない」

「指を食いちぎられてえなら、そうしろや」

 子供とはいえ、野生の狼の咬合力を舐めてはいけない。面倒だったので、陽は一人と一匹を置いてさっさと歩き始めた。

「陽くんが冷たいい~」

 夕暉がぼやきながら後をついてくる。

「おれは、お前に対しては、この上なく優しいと思う」

 教臣が居合わせていれば、赤ベコのように首を振って深い同意を示してくれたはずだ。けれどこの場には夕暉と人語を解さぬ狼だけだったので、肯定されることは無かった。

 小さな足で地面に踏ん張って獰猛に歯を剥く狼を肩越しに振り返り、夕暉は呟いた。

「これだけ元気そうなら、置いて行ったほうが良いかなあ」

「おれたちの目的は、一刻も早く継承の竜のいる場所を目指すことだろ」

 名残惜し気に狼を見つめて、夕暉は小さく手を振った。再び先を急ぐ。

 カサ、カサ、カサ。ジャリ、ジャリ、ジャッ。パキ、ジャリ、ガサ。

 草木や砂利を踏みしめる音が響く。口も開かず先を急いでいるせいで、自分たちの立てる音が良く聞こえた。

 カサ、ジャリ、カサ。パキ、カサ、カサ。

 何の変哲もない二人分の足音、その筈である。それなのに何となく違和感がある。少し先を歩いている陽は、特に気に留めていない様子だ。夕暉は小首を傾げて考えた。

 ジャッ、ジャリ、……カサ。バキッ、ガサッ、……カサ。

 やはり妙だ。ふたりの立てた音のすぐあとに、コンマ数秒遅れて小さな音がする。敵意は感じない。

 今日までにあらゆる野生動物や、自然の障害、それから罠にかかって来たせいで、危険を察知する能力はふたりとも格段に高くなった。現に先を歩く陽が、少しも気づいていないのがその証拠だ。前だけを見つめて進む陽の足取りには迷いがない。速度を落とすことなく、一心に上を目指している。夕暉もできるだけ自然に足を進めながら、音の発信源を探った。

 ザッ、ジャッ、カサ。ザッ、ザッ、カサッ。

 耳を欹てる。

 ガサッ、カサッ、カサッ。バキッ、ガサッ、……カサッ。

 草木や砂利を踏む、軽い音。三つ目の音は随分と低い位置から聞こえる。

 バサッ、ガサッ、……カサッ。

 後ろだ。夕暉は僅かに歩調を緩めた。歩みは止めず、そっと肩越しに背後の気配を探る。数秒の間を置いて、ふたりが抜けたばかりの叢が不自然に揺れた。叢の間に灰色の耳が見え隠れしている。五メートルほどの距離がある。その正体に思い当たって、夕暉はふたつ瞬いた。視線だけでそれとなく確認しながら数歩進むと、耳も同じようについてくる。夕暉が止まると止まり、少し戻ると、その分、後退る。

「どうした」

 距離が開いたことを不審に思った陽が、引き返してきた。夕暉は数メートル先の叢を指さした。

「そこ。ついて来てるみたいなんだけど」

 草陰に揺れる灰色の毛を認めて、陽は僅かに瞠目した。

「結構な距離、歩いたぞ。ずっとついて来てんのか」

「うん、多分」

 ふたりが振り向いて狼をじっと見つめても、逃げたり逆に襲い掛かってきたりする様子はない。

「おいで。一緒に行こう」

 しゃがみ込んで小さく手招きする。叢から鼻先だけを覗かせていた仔狼は、途端にさっと身を引っ込めた。

「どうしたいんだろう」

 夕暉は困った顔で陽を見上げた。陽は深い溜息を吐く。

「放って置け、行くぞ」

 その後も仔狼は、なぜか少し離れた場所で一定の距離を保ったまま、夕暉たちのあとについてきた。放っていくと決めたものの、夕暉は落ち着かない様子でそわそわと背後を気にしている。陽は速度を落として夕暉に並び、表情を緩めて彼を見上げた。

「そんなに気になるなら……!?」

 捕まえて来い、と続けるはずだった台詞は途中で途切れた。

何の前触れもなく、それは横から飛び出してきた。その正体を見定めるよりも早く、気配を察知して陽たちは即座に身構える。

「……山犬!?」

 野犬だ。毛はボサボサに絡み合い、草や泥に塗れて艶もない。痩せて肋骨の浮いた身体。目だけがギラギラと異様に輝き、ひどく狂気じみていた。腹を空かせているのか、口端からはだらだらと涎を垂らし、今にも陽たちに飛び掛からんばかりだった。

突然、横から飛び出してきた生き物に、仔狼は鼻面に深い皺を寄せ牙を剥いて敵意を顕わにした。凄まじい唸り声。人間ふたりに向いていた山犬の視線が、ゆるりと仔狼を捕える。

 視線が反れた隙に、陽と夕暉は足元の枝をそっと拾い思い思いに構えた。野犬の上体が深く沈む。陽と夕暉の足は同時に砂を蹴った。

「くっ……!!」

 強い衝撃によろめく。押し負けまいと陽は丹田に力を込めた。間近に鋭い牙が迫る。想像を遥かに超える威力だ。

「陽くん!」

 狼の仔を抱えた夕暉が振り返る。少し離れた場所へ狼をそっと下ろし、陽に襲い掛かる茶色の塊へ木の棒を振りかぶった。野犬はサッと向きを変え、今度は夕暉に飛び掛かる。噛み付かれた衝撃で、木の棒に亀裂が生じた。すかさず陽が横っ腹に蹴りを入れる。夕暉の持つ棒から口を離したものの、陽の蹴りは躱された。伸ばした足に逆に噛み付かれかけ、間一髪で回避する。躱す際に棒切れを手放してしまった。すかさず夕暉が拾い上げ、打ち振るう。

「おい、くそ犬! こっちだ!!」

 夕暉から注意を反らそうと、陽は手を鳴らし大声を張り上げた。野犬が陽に顔を向けたのを見て、夕暉は持っていた得物を手ぶらの陽へ投げ渡した。

「陽くん……うわっ!」

 ところが野犬の牙は、棒を手にした陽ではなく無防備な夕暉に襲い掛かった。噛み付かれる直前で、上下から頭を掴んで牙を防ぐ。夕暉の顔へぼたぼたと臭い唾液が降り注いだ。

「夕暉っ、バカ……!」

 駆け寄ろうとした刹那、陽のすぐ側を灰色の弾丸が掠めて飛んだ。それは一直線に、野犬の首筋へと飛びついた。

 正体は、逃げたとばかり思っていた仔狼だった。首っ玉に齧りつかれた犬は、狂ったように吠えながら大きく頭を振った。振り回されても、歯を食いこませた狼は、野犬の首から離れない。何度も何度も、仔狼は果敢に野犬に噛み付いた。野犬の首筋からは大量の血液が溢れ出る。

「援護しなきゃ!」

 離れた場所から隙間を縫って投石を試みたが、仔狼に当てないように加減しているせいで大した威力にはならない。

「くそっ、全然、効いてねえぞ!」

「陽くんはそのまま、石投げて犬の気を反らしてて」

 下段に構え標的をじっと見据えて、夕暉は深呼吸をした。激しく組み合う二頭と、じわりじわり、間合いを詰める。首筋に齧り付く邪魔者を排除しようと、野犬が大きく身体を捻った。夕暉が動いた。足が地を蹴ったのと、無防備に晒された野犬の胴に一撃が入ったのは、ほとんど同時だった。

「はあアっ!!」

 茶色の身体は衝撃で飛ばされ、太い木の幹に激しく打ち付けられた。渾身の一撃を喰らった山犬は、とうとうキャインと哀れな鳴き声を上げて、這う這うの体で森の奥へ逃げて行った。

 野犬が去っても、中段に構えたまま、夕暉は強い眼差しで野犬の消えた方を睨みつけていた。

 やがて気配が遠ざかり、鳥の鳴き声が戻って来る。夕暉はようやくふっと短い息を吐いた。ゆっくりと枝を握る腕から力を抜く。

「大丈夫か」

 腕から滴る血液を見て、陽は夕暉に問うた。

「ああ、大丈夫。噛まれたんじゃないから。飛び掛かられた時に、木の根っこで切っただけだよ」

「そうか」

 捲りあげられた腕の傷を見てほっとする。確かに単なる切り傷だ。血ももう止まりかけている。念のためにと、陽は不器用に布を巻いてやった。胸を撫でおろした陽をよそに、夕暉は少し離れた木の根元に歩み寄った。

「夕暉?」

 陽には応えず、夕暉は木の根元に静かにしゃがみ込んだ。視線の先には丸い毛玉がある。よくよく見ると、その毛玉には二つの耳と尻尾があった。仔狼だ。ペタンと地に伏せ、ふさふさの尾を足の間に挟んで丸まっている。自分の何倍もの大きさの犬へ、果敢に噛み付いていた勇姿が嘘のようだ。

 夕暉が抱き上げても抵抗はない。大人しく抱き上げられた灰色の塊は小刻みに震えていた。夕暉は狼の首を優しく撫でた。

「助けてくれてありがとう。陽くん、やっぱり一緒に連れて行くね」

 弾んだ声でそう言って、いそいそと袂からスリングを取り出す。再び夕暉の胸元に落ち着いた仔狼は、すぐにまた太平楽な寝息を立て始めた。丸くなった仔狼を優しい瞳で見下ろして、夕暉は唇を撓ませた。

「警戒半分、心細さ半分だったんだろうね」


 小一時間、山道を進んだところで、夕暉が言った。

「ちょっと休もう」

 促されて大きな岩の上に腰を下ろす。袂に入れていた保存食と、採集してきた木の実を思い思いに口にする。腰に吊るしていた瓢箪の水をあおった。途中で見つけた綺麗なせせらぎの水が入っている。先ほどの戦闘で、落ちたり割れたりしなかったのは僥倖だった。

 冷たい水が食道を通って胃に落ちていくのがはっきりと分かった。存外、喉が渇いていたらしい。人心地着いた。食べものの匂いに目が覚めたのか、仔狼が夕暉の胸元から鼻先だけ出して、スンスン鳴らした。鼻先を合わせるようにして、夕暉が狼を覗き込む。

「お腹空いた? 生後そんなに経ってないよね。木の実は食べるかなあ」

 残っていた木の実を口に放り込みしばらく咀嚼していた夕暉は、おもむろに狼へ顔を近づけた。つられるように、狼の口がパカっと開く。細かく砕いた木の実を口移しで与えられ、狼は満足そうに目を細めた。

「食べた。偉い、偉い」

 モグモグと口を動かす狼を褒め、夕暉は残りの木の実も何度かに分けて、同じように狼に与えた。狼の口があまりにも大きく開くので、夕暉が噛まれてしまうのではないかと、陽は内心ひやひやした。

 木の実がなくなると、名残りを惜しんでか、狼は夕暉の口を念入りに舐めまわした。顎に滴るほどに涎まみれになっても、夕暉は嬉しそうだ。

「顔洗ったほうが良いぞ。獣臭え」

 立ち上がりながら、陽は素っ気なく言った。残念ながら洗顔の出来るような水場は見つからず、夕暉は水で湿らせた布で簡単に顔を拭って、先を急ぐ。

 幸運なことに何事も起こらず、ひたすら歩き続ける。警戒も解かず、けれど次第にふたりは雑談に興じ始めた。ふいに会話が途切れ、夕暉がポツリと言う。

「三日も経っちゃったけど、コウちゃんたち大丈夫かなあ」

「教臣がいるんだ、おれたちが戻るまでは、アイツがなんとかギリギリを見極めて、持ち堪えるよ」

 分かりやすく上の空で夕暉は頷いた。焦らないようにしてはいるが、内心、気が気ではないのだろう。恐らく陽がいたから、普段以上に夕暉は平静を装っていた。陽を動揺させないようにと纏っていた薄い膜の隙間から僅かに覗いた夕暉の不安。もっと自分を頼って良い。そう伝えたくて陽は口を開いた。

「ゆう」

「よっしゃ、気合入れてこ!」

 陽が呼びかけるより早く、突然、夕暉が全身を叩き始めたので、陽は呆気に取られて彼を見上げた。

「……蚊?」

「んーん、気合注入!! ……あっ、なんか叩いたとこ痒い、血行が良くなって痒くなってきた」

「大丈夫か、頭」

 あまりにも一瞬のことだったので、励まそうとしたことも忘れて陽はうっかりいつものように悪態を吐いた。

「頭はねえ、天才」

「あほの子の間違いだな」

 精悍な表情を作って見せたまろい頬を、陽は手加減なしに抓ってやった。痛い痛いと涙目になった夕暉を置いて、ずんずん進む。背後からは懸命に陽の非道を訴える声がする。

「なんですぐ手が出るの。駄目だって言ったでしょ!!」

「まあ確かに、今回は手だったな」

「いつもは、どっちかと言えば足が、って……!?」

 ざっと草をかき分ける音がして、ふたりはハッと身を強張らせた。まさか撃退した野犬が、仲間を連れて戻って来たのか。同時に棒切れを構える。

 それは凛呼として姿を現した。狼だ。それも成体ばかりが七匹もいる。彼らは間合いを保った場所で、ひたとこちらを見据えている。夕暉が囁くように警告した。

「静かに。動かないで」

 緊張感が走る。睨み合ったまましばし膠着状態が続いた。

 耳を立て警戒を顕わにした狼たちの後ろから、ひときわ大きな体躯の個体が姿を現した。頭と思しきオスの狼だ。牙を剥く他の狼とは違って歯を剥く事もなく耳を伏せ、じっと夕暉を見つめている。その狼の視線が胸元に注がれていることに気が付いて、夕暉は「あ」の形に口を開いた。

「もしかして、シロちゃんの仲間かな」

「シロちゃん」

 耳慣れぬ呼称に陽は眉根を寄せる。夕暉は構えを解くと胸元の仔狼を覗き込んだ。

「シロちゃーん。起きてシロちゃん。あれ、君のお父さんたちかなあ」

 シロちゃんとは、保護した子供の狼のことだったらしい。知らぬ間に勝手に名前がついていた。それにしても灰色なのに、シロちゃんとは如何に。

 うとうと微睡んでいたシロは、きゅうんと喉を鳴らして身体を丸め、眠たいと訴える。

「シロちゃーん。ちょっと見てよ」

 めげずに近づいてきた夕暉の顔を半目で見上げ、シロはそれがベタベタになるまで舐めまわした。

「違う、俺じゃなくて」

 まだ目をシパシパさせているシロを、地面にそっと下ろす。狼の群れを視界に入れると、シロは負傷した足を庇いながらひょこひょこと群れへ近づいた。歩み出た長が近づいてきたシロの匂いを嗅ぐ。

「良かった。群れと逢えて」

 頬を寄せ、甘噛みをし合って挨拶を交わしている狼たちを見て、夕暉はほっと息を吐いた。その横顔は少し寂し気だ。

「継承の竜に会う時には、そいつは連れていけねえと思ってたから良かった」

「え、なんで?」

「竜は、試練に臨む者と見届け人以外を受け入れない。竜を前にした時にシロがいたら、多分まずいことになる」

 王族と神官が座学で竜について詳しく学ぶのはこのためだったのかと、陽は今更ながら思った。見届け人とやらが必要なのは、知識を補う目的もあるのだろう。失敗例として有名な事件をいくつか挙げると、夕暉は絶句してシロたちに視線を遣った。夕暉の視線を追う。こちらを見つめる九対の瞳と目が合った。

「どうしたんだろ」

 狼たちは夕暉たちをじっと見つめている。夕暉が一歩足を踏み出すと、彼らは視線を夕暉たちに据えたまま森のほうへ歩き始めた。

「ばいばーい」

 夕暉が手を振るとなぜかまた戻ってくる。森に入る、近づいてくる、という不思議な動きを何度も繰り返す狼たちに、夕暉は小首を傾げた。

「もしかして、ついて来いって言ってるのかな」

 すると狼は返事のようにひとつ瞬いて、さっと叢へ飛び込んだ。咄嗟に足を踏み出しかけて、夕暉は陽を振り向いた。

「追っかけてみて良い?」

 人間の足でついて行けるだろうか。陽は首を傾げた。また茂みがガサリと揺れる。狼の頭がぬっと突き出された。夕暉たちが来ないことに痺れを切らし、引き返してきたようだ。立ち止まるふたりに向かって、顎をしゃくる。陽は頷いた。

「それが良さそうだな」

 ふたりは懸命に狼たちを追いかけた。

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