第11話

「え、継承の竜? ぬし様じゃないの?」

 夕暉はぱちくりと瞬いた。

 夕暉の呑気な声に膝から力が抜ける。脱力して、陽はその場にへなへなとしゃがみ込んだ。そのまま床に大の字で引っくり返る。教臣はそれに眉を顰めたが、いま教育は優先順位が低いと判断したらしい。

「はい、王位継承に際して御会いいただくのは、血統の竜とは別の竜です」

 目に見えてしょんぼりし始めた夕暉に、慰める声色で陽は言った。

「確かに、血統の竜がこの王国の竜の頂点なんだけどな。王位継承の時には別の竜んとこ行かなきゃなんねえんだよ」

「……うん」

 隣にしゃがみ込んだ夕暉に倣って、陽も身を起こす。

 並んでちょこんと三角座りをしている二人を見下ろして、木にとまった呑気な小鳥みたいだと教臣は思った。それにしても陽の回復力が凄い。あんなに息絶え絶えだったのに、もう普通に喋っている。

「ガッカリすんなって。仕方ねえだろうが。血統の竜は宝石しか集めねえんだから」

「えー、じゃあ今度は何貰えるんだろ」

「太刀を自分で引っこ抜く」

「なにそれ、アーサー王じゃん。テンション上がるねえ」

「あの。王子様がた、事の重大さをお分かりですか。まるで畑に収穫にでも行くみたいな、軽い口ぶりですけど」

 教臣は呆れた声で言った。大体、宝剣をして「引っこ抜く」とは何事か。宝剣は大根か。想像して思わず遠い目になる。

「こいつが解ってるわけねえだろうが」

 頬を人差し指で乱暴につつかれて、夕暉が眉を下げる。

「陽くん、痛ひゃい」

「夕暉様は分からなくても、貴方は分かるでしょう。命がけですよ。国王任命の儀式に挑むんですからね。失敗すれば、命を落とす可能性があります。歴史の中で、王の適正なしと判じられて命を落とした候補は少なくありません」

「そっか。じゃあ遺書とか書いといたほうが良いのかな。陽くんどう思う?」

「お前はしぶとそうだからな。遺書は大丈夫じゃね?」

「まあわざわざ書いて知らせる相手も内容もないしねえ。俺がもし死んじゃったら命日くらいは弔ってね」

「メンドクセエから、生きといてくれ」

「ハルくんたちには、俺のお墓の前で泣かないでください、って伝えてね」

「はあ? オハカってなんだ。ねえよそんなもん」

「ネタだったのに。出たよ、ボケ殺し。はあ、こういう時だけ、ちょっと地上のことが恋しくなるよ」

「おれに地上ネタ振るなっつってんのに。儀式に失敗して王国から排除されりゃ、地上に落ちて戻れるかも知んねえぞ。良かったな」

「あの。ちょっと、聞いてました? 死ぬかも知れないんですよ」

 思わず教臣は口を挟む。漫談のような会話に、つい脱力してしまう。

「いや、まあ人間いつかは死んじゃうしねえ」

「こういう奴だよ、夕暉は」

 陽は「諦めろ」と慣れた素振りで肩を竦める。夕暉はくるりと踵を返した。出口に向かいながら肩越しに陽を見る。

「じゃあ行こうか、陽くん」

「あ? おれも?」

「うん。俺が駄目だった時のためにね。俺がやられたら陽くんが頑張れ」

「軽いな!? ……まあ、お前、道わかんねえしな。付き添ってやる」

 腹筋だけでひょいと起き上がった陽は、三歩で夕暉に追いついた。

「え、陽くんは道、知ってんの」

「知らねえ。けど地図は持ってる」

 陽は袂から古びた巻物を取り出した。

「おお、陽くん、ナイス」

「行くぞ」

「うん。じゃあ早速、行ってきます~」

 教臣は冷静さをかなぐり捨てて叫んだ。

「今から!?」

 散歩のような気軽さで王宮を出てゆこうとするふたりの腕を、必死に掴む。

「ちょっと、ちょっと、お待ちください!?」

 叫んで、教臣は鬼のように動いた。

 彼の指示で慌ただしく準備が整えられてゆく。鬼気迫る教臣たちとは裏腹に、ふたりは旅立つ前の腹ごしらえをしつつ、楽し気に顔を寄せ合って巻物を覗き込んでいた。

「王子様方、整いましたよ」

 何気なくその手元を覗き込んだ教臣は、目を剥いた。「竜の山の地図」、それが保管されている場所を、教臣は王国で一か所しか知らない。恐る恐る、尋ねた。

「陽様、因みに、その地図はどちらで手に」

「禁書庫」

「でしょうね!?」

 教臣は頭を掻きむしった。

「貴方たちは本当に、何と言いますか……。補色のようなコンビですね」

 夕暉は真顔を作って、陽に首を振る。

「ごめん、陽くん。俺は一匹狼タイプだから」

「あれ、頼んでもないのに、おれが振られたみてえになってっけど。なんで」

「陽様、相変わらず御独りぼっち様です。残念でしたね」

「そして一匹狼は、王国で群れを見つけました。相棒、よろしく!」

「おう」

「やっぱり結託するんですね」

「大丈夫、教臣さんもパーティにカウントされてますから」

「全然、嬉しくないです」

「おれはお前のこと数に入れてねえから。夕暉とコンビだから」

「どうしても不思議なんだけど、なんで陽くんは教臣さんにそんなに塩対応なの。……塩って言うより、唐辛子かも」

「なんでか拒絶反応が出る」

「なんでも良いから、さっさと出発しろ」

 最終的に額に青筋を浮かべた教臣の声で、マイペースな二人は腰を上げた。

 王宮の裏庭に、それはあった。人の何十倍もある鋼鉄製の巨大な扉。その向こうには深い森を従えた高い山がある。不思議なことに、その扉は森と王宮の裏庭の間にぽつねんと立っている。

 無邪気に近づいた夕暉は、扉のまわりを不思議そうに三周回った。首を傾げて、反対まわりにもう三周。

「オブジェ?」

「違います。実用です」

「どこでもド」

「違います。扉の向こうは不変です」

「ふむ」

 真剣な顔で腕組みをして、夕暉は扉を見つめた。何となく場が和む。ゴホンと教臣が大きめの咳払いをした。

「それでは夕暉様、はじめましょう」

「はい」

「陽様には、見届け役として同行して頂きます。通常であれば、次の王として山へ挑む者とは別に見届け役の神官が同行するのですが、その任務を陽様に代行して頂きます」

「おう」

「気軽に仰いますが、見届け役とは何かを理解しておられますか?」

「全く」

「そうだと思いました」

 教臣はガックリと肩を落とした。項垂れた教臣に代わって知史実が進み出る。

「見届け人とは、試練に同行し、全てを文字通り見届け記録する同行人のことです。王国史の『補遺 竜の山編』に永劫、陽様の記した文言が記載されることになるので、こまめに出来事を記録していってくださいね。こちらを良くご確認ください。確認事項、それから執務上の注意事項が書いてあります」

 陽は差し出された巻物を受け取った。教臣が音緒を手招く。

「音緒、箱を」

 音緒に命じて開かせた螺鈿の箱の中から何かを恭しく取り出すと、巻物に目を通す陽を促した。

「陽様。右腕をお出しください」

「ん」

 巻物から顔も上げずに突き出された少年の腕に教臣が巻いたのは、黄金の腕輪だった。複雑な模様は、王冠を中心に向かい合う二頭の竜のように見える。二頭の鱗部分には、ラピスラズリとトルコ石がふんだんに使われていて、古代エジプトの装飾品を連想させられる。

「夕暉様、こちらの金剛石に、四度、息を吹きかけ、復唱してください」

 同じ箱から取り出した四つの金剛石を、今度は夕暉に握らせる。

「『我、王なり得る者、名を夕暉。見届け人、名を陽』」

「我、王なり得る者、名を夕暉。見届け人、名を陽」

「『調弦』」

「調弦」

 教臣の声を復唱する。四度、息を吹きかけると不思議なことに、透明だった金剛石の内ふたつに変化が起こった。

「色が変わった?」

「成功です。失礼いたします」

 頷くと、教臣は夕暉の掌から、青と赤の金剛石を恭しく引き取った。

「陽様、先ほどの腕輪をもう一度こちらへ」

「ん」

 差し出された腕輪は、よく見ると竜の目の部分が空洞になっていた。それぞれの目へ、赤青ふたつの金剛石を嵌め込む。陽の腕輪に石が固定された瞬間、掌の上に残っていた金剛石が浮いた。

「……っ、吃驚したあ」

 両耳を押さえて、夕暉は目を真ん丸にした。よほど驚いたらしく、涙目になっている。そっと手を退かせてみれば、金剛石は夕暉の両耳にくっ付いていた。

「バチンていった、バチンて」

「勝手に耳飾りになってんぞ。キャッチついてる」

 夕暉の耳を無遠慮に裏返して確認した陽が言った。

 驚きだ。掌にあった時はただの石だったのに、飛んできたと思ったら、ピアスとして耳に鎮座している。

「これで第一段階クリアです」

「無茶苦茶、吃驚したんですけど。でもピアスって痛くないんですね」

 耳に刺さるピアスを縦に横にと引っ張ってみて、夕暉が感心した声を出した。

「何ですか、これ」

「夕暉様の耳飾りは通行手形、陽様の腕輪は身分証兼お守りのようなものです」

 教臣の言葉を聞き咎めて、陽の左の眉がくいっと上げる。

「お守り?」

「通常、夕暉様が失敗すると、陽様は自動的にこの扉の前まで帰ってきます」

「こいつが死んでも、おれだけ安全地帯だってのか。とんだ運命共同体があったもんだな」

 陽が吐き捨てる。しかし何かに気が付いたようにハッと教臣を見た。禁書庫で読んだ『王国史』のある記述を思い出したからだ。

「いや、待てよ。お前、父さんの時、見届け人だったな。なら、知ってるはずだ。お守り機能を外す方法を」

 教臣は探るように、陽の瞳をじっと見つめた。返事を返さない教臣に、陽は畳みかける。

「これまでで何度か、失敗した王候補と見届け人が運命を共にした年があったと読んだ。なら何かあるんだ。お前だって、父さんについて行っておきながら、自分だけ安全地帯に居たがるわけがねえ。絶対に命運を共にしたはずだ」

 教臣は深々と溜息を吐いた。

「御察しの通り、安全装置は外せます」

「なら外せ。夕暉だけに押し付けねえ。一蓮托生だ」

 陽は腕輪をした右腕を教臣に突き付けた。難色を示したのは夕暉だ。

「えー、良いじゃんそのままで。共倒れとか困るんだけど。陽くんなら俺が死んじゃっても別に大丈夫でしょ。次の日に頑張って挑んでよ。あとは頼んだ」

「ふざけんな。フツーに心の傷になるわ。トラウマもんだわ。お前、おれのこと何だと思ってんの?」

「猛獣ですね」

「おめーにゃ聞いてねえよ!!」

 教臣の明らかな茶々入れに、陽が切れた。

「とにかく、却下。安全装置を今すぐ外せ」

「本気?」

「当たり前だろ。おれを卑怯者にするな」

 強い意志を持った黒曜石が、夕暉を射抜く。

「夕暉」

「……分かった。じゃあ、蓮の台の半座を分かって貰おうか、相棒」

「当然!」

 陽はにかっと白い歯を覗かせた。拳を打ち付けたふたりの姿に、教臣が目元を和らげる。

「ではおふたりとも右腕をこう腕を折って、はい、腕相撲の要領で組んでください。夕暉様は陽様の腕輪に左手を、陽様は夕暉様のピアスに手を添えて。ええ、結構です。では。御心に浮かんだ言葉を、口にしてください」

「分かりました。じゃあ……」

 がっしりと手を組んだまま、夕暉と陽はしばし互いに見つめ合った。

「戮力同心!」

「リクリョクドウシン」

 叫んだ瞬間、腕輪痕とピアスが共鳴するようにチリンと涼やかな音を立てた。不意に重量を増したので、夕暉は己の耳に手を添えた。

「何か生えた」

 夕暉の耳元を覗き込んだ陽が言う。

「金属の竜がぶら下がっている」

「成功です。これで陽様の安全装置は解除されました」

「失敗したら共倒れ。運命共同体だ」

「頼むぜ、相棒」

 ふたりはもう一度、拳を合わせて笑った。

「夕暉様、首飾りの金剛石をこちらへ」

 促されて首から外した大ぶりの金剛石を、差し出された笏の先に嵌め込む。同時に扉の四方が光り始めた。

「王笏の先を扉の正面の土へ刺し、金剛石に御手を翳して……、右手を下にして重ねてください。こちらの文言をご詠唱ください」

 言われるがまま、笏の先を地面にトンと突く。差し出された巻物に書かれていた言葉を、そっと唇に乗せた。同時に、固く閉ざされていた扉が重々しい動きで開き始める。

「よし、行こう!」

 勇んで踏み出した足元が、消失した。

 声にならない悲鳴を上げて、本能的に身を翻す。

「……っ、あ、アブ、危なっ」

 上半身だけを扉の敷居に引っ掛けて、夕暉は呆然と陽を見上げた。一拍遅れて、全身からドッと汗が噴き出す。全身が心臓になったみたいだ。異様に速い鼓動で身体中が打たれた太鼓のように大きく震えている。

「か、開始二秒で、終了になるとこだった」

「おまっ、大丈夫か!?」

 咄嗟に夕暉の腕を掴んだ陽も、勢いに負けてへたり込んでいる。陽の手を借りて、一度扉の内側に戻った。恐る恐る足元を見下ろして、二人は絶句する。扉の向こうには、十センチほどの足場を残し、崖が広がっていた。

「どうやって、あっちに行くんだ」

「この足場を頑張って伝って、左、かな」

「それしか、ねえか……」

 右は延々、深い崖が続いているが、左方は三メートルほど先に森が広がっている。

「飛ぶにはちょっと距離あるし、足場伝うしかないね」

 夕暉と陽は互いに、長い袂を邪魔にならないよう背中で括りあい、命綱代わりの縄を夕暉の腰に巻き付けた。

「じゃあ、行くよ」

 真剣な顔で頷いて、夕暉が恐る恐る足を踏み出す。無事に森まで渡り切ると、巻いていた縄を解き、手近な太い木に括りつけた。陽は教臣の手を借りながら、王宮の柱に括っていた先端を、今度は自らの身体に固定する。

「よし、良いよ」

 大木にしっかりと縄が固定されているのを確認して、夕暉が陽を呼ぶ。陽は無言で頷いて、慎重な足取りで扉をくぐった。

「お気をつけて」

 血の気の引いた顔で、教臣はふたりの背中に呟いた。

「おー」

「行ってきます」

 一様に蒼白な顔を並べて見送る面々からふたりの姿を遮るように、重厚な扉はゆっくりと閉ざされた。扉が閉ざされると同時に、通って来た十センチほどの足場が完全に崩れて落ちた。もう後戻りはできない。ふたりは前に進むしかない。

「選択肢が一つしかないと、迷わなくて助かるね」

「そうだな」

 夕暉の考えには同意だ。出来ること、行くべき路が一つしかないなら腹が決まる。震えていた身体を深呼吸で収め、装備を確認して、「よし」と夕暉は足の健を伸ばした。

「で、何処に行けば良いの」

 懐から取り出した地図をふたりで覗き込む。

「王冠の印だろ。この地図で行くと、この山の頂上だな」

「頂上か。一日じゃ無理そうだけど、頑張るしかないね」

 目的地をしかと睨んで夕暉は言った。

「急ぎたいところだけど、気を付けて確実に進もう」

 子供だましのような障害を躱しながら進むうちに、空は次第に夜の気配を漂わせはじめる。太陽が落ち始めると、夕暉は背中で結んだ袂を解くよう陽に頼んだ。

「あんまり進んでないけど、今日はもう休もう」

 解いた夕暉の袂から取り出されたものをみて、陽は首を傾げた。

「なにすんだ、それ」

「ツェルトだよ。テントみたいにしようと思って。野宿になるかもと思って持ってきてて良かったー」

 安全な場所を選び、夕暉は手際よくツェルトと呼ばれたナイロンの布を張った。空は見る間に明度を下げている。寝転がって顔だけツェルトから出した夕暉に手招きされて、陽も隣に潜り込む。

「おいで。一人用だからちょっと狭いけど」

「何かワクワクすんな、これ」

「秘密基地みたいだよね」

 そんな場合ではないと思うのに、気分が浮き立つ。日の落ちた山は不思議な空間だった。草木や土の匂い、何かの羽ばたきに、歌うような虫の声。時折、木の葉が風に揺れる音が耳を擽る。夜の山は意外と騒がしい。

「星がない」

空を見上げていた夕暉が、ふいにぽつりと呟いた。

「星?」

「うん。これだけ光がないところだと、満天の星空が見えるはずなのに。実感するよ、ここは地球じゃないんだね」

 王国の空は基幹石が作り出すものだ。そのなかに星はない。静かな声に郷愁が滲んだ気がして、陽は横目で隣を窺った。予想に反して、夕暉の口元には淡い笑みが浮かんでいる。陽は無意識に目を細めた。そっと視線を外す。夕暉と接している左半身が暖かい。

「明日から、また頑張ろう」

 身を寄せ合って目を閉じる。あっと言う間に深い眠りに呑みこまれた。気が付いた時には、瞼の向こうはすっかり朝だった。

「おはよう」

「はよ」

 目を擦る陽を追いだしてツェルトをたたみ、夕暉が笑う。

「ほい、朝食」

 夕暉放って寄越したものを受け取る。王宮から持ってきた焼き菓子だ。

「あとはそれ。あっちでヤマボウシ見つけたんだ。美味しいよ。そっちは食べながら行こう」

 見れば大きな石の上に、三センチほどの赤い実が山盛り置かれている。金平糖のような形状をした丸い果実だ。明るい太陽の下で、果実を頬張りながら先を急ぐ。

「初っ端から落下しかけたし、もっと色々と罠みたいなのがあるかと思ってたんだけど」

「あれ以来、何もないな」

「でも油断したとこで、またボカンと来そうな気がする」

「そうだな。気ィ付けよう」

 頷き合う。

 その日は何事もなく、日が暮れるまでひたすらに山道を歩き続けた。


 三日目は一転、激動の一日となった。

 未明にまず熊に襲われかけた。そのせいでツェルトを放棄して一目散に逃げたことに端を発し、散々な目に遭った。命からがら熊から逃れたと思ったら、陽は落とし穴に転げ落ちて腕から出血し、数十分後には夕暉が足を滑らせて湖に落ちた。

 全身ずぶ濡れで岸へ上がって来た夕暉を見て、陽はニンマリと歯を見せた。

「随分とイイ格好じゃねえか」

 落とし穴へ無様に落下した陽に爆笑した報いだ。ニヤニヤしている弟分に、夕暉はふくれっ面だ。

「穴落ちて泥まみれよりマシだし。すぐ乾くもん」

 日当たりの良い大岩の上で、夕暉は男らしく全裸になった。唇をへの字にしながら、王国服を順に絞っている。王国服に使われている特殊な絹は速乾性なので、夕暉の言う通りすぐに乾いて再出発できるはずだ。

「丁度良いや」

 言うなり何を思ったか、夕暉は湖に勢いよく飛び込んだ。数十秒の潜水ののち、ぷはっと水面に顔を出した夕暉に向かって、陽は胡坐の上で頬杖をついて半目を向ける。

「何やってんだよ、バカ」

「そろそろお風呂入りたかったし、ここの水綺麗だから、水浴び」

 水浴びと言いつつも、やっているのは平泳ぎだ。気持ちよさそうに泳ぐ夕暉の姿に陽もムズムズしてくる。陽の気持ちを見透かしたようなタイミングで、夕暉が陽を呼んだ。

「おーい、そこの穴に落ちて泥だらけの人も水浴びしたら。なんか小汚いし、汗臭いよー」

「うるっせ!」

 叫んで勢いよく服を脱ぐ。履物の編上げ紐を乱暴に解き、地べたに放った。助走をつけ、夕暉の近くにわざと大きな水しぶきを上げて飛び込むと、弾けるような笑い声があがる。

「あははっ、来た! 腕、水につけないように気を付けてね」

 夕暉は、平泳ぎ、クロール、背泳ぎにバタフライまで、華麗に披露してみせた。試練の最中とは思えないくらいのびのびしている。非常に楽しそうだ。

「個人メドレーって言いたいとこだけど、順番知らないや。ついでに犬かき。そして人魚」

 ついには浅瀬で、横向きのドルフィンキックを始めたものだから、陽は堪えきれず噴き出した。

「横じゃ、ただの魚じゃねえか! 人面魚」

「アラヤダ、そんな暴言吐いてたら、溺れても助けて差し上げませんわヨ、王子様」

 品を作って流し目をくれる夕暉に、笑いが止まらない。

「まさかの人魚姫気取り!」

 また一人でメドレーを始めた夕暉を眺めながら、陽は腹がよじれるほど爆笑した。

 湖を五往復ばかりしてようやく夕暉は泳ぐのを止め、陽から少し離れた場所で髪や身体を洗い始めた。鼻歌でも歌いだしそうな呑気な横顔に、陽の悪戯心が疼く。涼し気な顔面を目掛けて、思い切り水を蹴りあげる。狙い通り大量の水が無防備な顔面に直撃した。途端に悲鳴が上がる。

「ちょっとぉおおお、陽くぅうん?」

「おーっと、悪ぃな。人面魚かと思って追い払おうかと」

「痛ったー、鼻に入ったじゃんっ」

 相当痛かったらしく、涙目の夕暉が水を蹴り返す。良く見ると鼻水まで垂れている。半端な威力だった反撃を避け、二発目をお見舞いしてやった。

「ぶっ」

「仕留め損ねたか。オラッ」

 追い打ちでもう一回。三発目が直撃して、夕暉のこめかみに青筋が立った。

「怪我人だと思って手加減してたら、このっ。許さん、沈めてやる!」

「バーカ」

 水しぶきをひらりと躱して、陽は舌を出す。

「ないわ、ほんっとないわー!!」

 じゃれ合うような水の掛け合いは、最終的にムキになり過ぎて取っ組み合いの派手な喧嘩に発展した。

 胸元に派手な引っ搔き傷を作った夕暉と、ぶすくれた陽は、互いにそっぽを向いて乾いた服の袖を通す。衣服を整えると、夕暉は陽を振り向きもせずにさっさと歩きだしてしまう。陽は慌てて彼を追いかけた。

 ひょいひょいと森の中を進んでゆく夕暉に、陽は必死でついてゆく。会話は一切ない。普段、陽も夕暉も、割とお喋りな性質だ。喋り続けているわけでもないが、二人の間で会話が途切れることは少ない。くだらないことで大抵ゲラゲラと笑っている。

 数歩先にいる男の背中をちらりと窺う。いつもなら歩調を合わせてニコニコしているのに、もう一時間は無言のままだ。夕暉は本気で怒ると一切口を開かなくなるのだと、陽は今日初めて知った。

 そもそも喧嘩の経験というものが、陽にはほとんどない。ほとんどというより、ない。夕暉以外とはしたことがない。その夕暉とだって、歳の差かはたまた人生経験の差か、夕暉がいつも早々に折れてくれていた。明らかに陽が悪い時にだって、やんわりと折れてくれていたので、陽はそれに甘えていたのだ。

 頭はもうしっかり冷えている。夕暉が本気で溺れかけるまで顔を水に押さえつけたのは悪かったと思う。一刻を争うのにやり過ぎた。それでも何を言えば良いか分からなくて、陽は己のつま先を睨んだ。その視界がぶれたと思った瞬間、足が宙に浮いた。

「っ、うわっ!!」

 悲鳴に振り向いた夕暉は、目を丸くした。

「何それ、陽くん、その落ち方。ふっ……ふふふっ、ぶふっ」

 二人の冷戦は、謝り時を見失ってウダウダ考え事をしていた陽が、本日二度目の落とし穴にはまったことであっけなく終了した。

 耐え切れず噴き出した夕暉を陽は恨めしそうな目で見上げる。くの字で尻だけずっぽりと浅めの穴に嵌り込んださまは、誰が見ても非常に格好わるかった。

「なんでおれだけ二回も……。教臣の呪いか」

「やめて、笑わせないでっ」

「お前が勝手に笑ってるんだろうが」

「うん。だって……ぶはっ、あはははは」

「笑うな。くそっ、戻ったらアイツ、ただじゃおかねえ」

「ふふ、え、冤罪。教臣さん、とんだとばっちり」

「次に落ちたら絶対呪いだろ」

「あはは、そうかも」

「おい、笑ってないで助けろ」

「引っこ抜いたら、奇声発したりしない?」

「マンドレイクか」

「ぶふ、あははは!!」

 笑い過ぎて目の端に涙をにじませながらも、夕暉は陽を引き上げてくれた。

「悪かった」

 夕暉に掴まれた手の甲を睨みつけて、むっつりと陽は言った。夕暉が虚を突かれた顔になる。

「ありがとう、じゃなくて?」

「さっきの。おれが悪かった。そんな場合じゃねえのに、ふざけ過ぎた」

 合点がいった夕暉が頬を掻く。

「ああ、いや、まあ俺もちょっと怒り過ぎたよ。ごめんね」

「ごめん」

 今度こそ陽は、心からの謝罪を口にした。返事を待つ陽の頭上から、能天気な口調が降って来た。

「よし、じゃあ今から、熊よけに歌おう」

「はあ?」

 唐突すぎて意味が分からない。陽は今、謝ったところだというのも忘れて、盛大に顔を顰めた。

「朝さ、熊に襲われかけたじゃん。だから。鈴がないから、代わりに歌おうかと思って」

「それ効果あんのか」

「知らない」

「なんだそれ」

 また突拍子もないことを。呆れて見上げれば、きりりと効果音がつきそうな顔で言う。

「いやでも、俺の鈴の音のような美声なら、或いは」

「確かにお前、歌は上手いけど、鈴を転がすような声ではないな」

「はい、ではご一緒に。さん、はい」

 勝手に歌い始めたのは、陽も良く知っている歌だ。夕暉に合わせて陽も不承不承口ずさむ。熱唱する夕暉につられてやけくそ気味に歌っているうちに、何やら楽しくなってきた。柔和な夕暉の横顔からは、何の蟠りも見られない。いつもの調子に戻ったことで、陽は内心ほっとしていた。

 肩を組んで大声で歌いながら獣道を進む。五曲目に入ったところで不意に歌声が途切れ、軽快に行進していた夕暉の動きが止まった。組んだ肩に引っ張られて、陽はたたらを踏む。夕暉の長い人差し指が、静かに唇の前に立てられた。

「何が聞こえる」

 敏感な夕暉の聴覚は、自分たちの歌声に交じった雑音をはっきりと拾いあげた。語学の堪能さと歌う音程の確かさとは別の意味でも、夕暉は耳が良い。その彼が言うのならと、陽も夕暉に倣いじっと耳を澄ませた。やがて幽かな摩擦音が耳に届く。いち早く反応した夕暉が陽を身振りで制し、小さな声で告げた。

「いる」

 音の方向をそっと窺って、ふたりは揃って息を呑んだ。辺りは蛇の海だった。

「わーお、さながら蠆盆じゃん」

「見事に蛇だらけだな」

「しかも毒蛇だよ。陽くん、気を付けて」

「迂回するか?」

 問われて夕暉は四方を見、首を振る。

「別の道は難しいよ。どうにかして蛇を追い払って、真っすぐ進もう」

「追い払うったって」

 陽は眉を顰めた。夕暉が深い溜息を吐く。

「ヘビ忌避剤が欲しいところだねえ」

 どうしたものだろうか。こちらに向かってこないか警戒する陽から少し離れた場所で、夕暉が太めの枝で素振りした。「うーん」と首を傾げつつ、バッドに見立てた木の枝で、大きめの石を千本ノックのように打ち込んでいる。

 石を打ち込まれ伸びる蛇、慌てて逃げる蛇、勇ましくも威嚇している蛇と、反応は千差万別だ。協力してやるでもなく、十メートルくらい離れたところから、陽は夕暉の奇行を引きつった顔で眺めた。

 いつの間にか蛇は数えるほどになっていた。足元で鎌首を擡げて威嚇してきた毒蛇の首根っこをサッと掴み上げ、遠くへ投げて、夕暉は陽に頷いた。

「よし、行こう」

 手元がほとんど見えなかった。あまりに手慣れた所作に、陽の顎はあんぐりと落ちる。投げられた蛇も、何が起こったのか分からなかっただろう。

 強い。何がって夕暉の精神面が。

「うじゃうじゃ毒蛇の中を進軍。冒険って感じだね。ちょっとワクワクしてきた!」

 声を弾ませた夕暉は、足元を横切る蛇を大胆にも鷲掴み、括り、ぶん投げながら蛇だらけの道を進む。その背を追う陽の脳内で「良い子はマネしないでください」のテロップが流れた。

「おれはちょっと、お前に引いてる」

 気持ち彼から距離を取って見せるが、夕暉は全く頓着する様子がない。二回ほど括って丸めた蛇を掴んでクルクル回り、遠心力で遠投している。

「砲丸投げならぬ毒蛇投げ~。おーっと、夕暉選手、王国新記録を更新です!」

 非常に楽しそうだ。脱力する。

「人のこと言えねえけど、お前ほんと何つーかゆるゆるだよな」

「うーん、そうかなあ。自分では適度な緊張感を保ちつつも、ちょっと肩の力を抜いてる、くらいの心算なんだけど」

「大いに緩い側に傾いてるように見える」

「何事もね、気張りすぎちゃ駄目なの。いつでも全力投球。但し心の余裕が大事」

 したり顔で言う。全力投球、のところでもう一匹が遠投の犠牲になった。

 夕暉のように素手で毒蛇を掴む気には到底なれず、陽は武器を探すことにした。手近な棒を探して視線を移ろわせる。「陽くんはこれ使って」とすかさず夕暉が何かを投げて寄越した。太い木の枝だった。百二十センチくらいある。いつの間に拵えたのか、先は五センチほどの間隔で二股に割って紐で固定されていた。なるほど、これを振り回して蛇を追い払い、時には頭を拘束して捕まえるらしい。

「どいてくれないと、丸めて投げちゃいますよー」などと言いながら、夕暉はどんどんと道なき道を進んでゆく。僅かとはいえ斜面がある上に木が生い茂り、足元も三十センチほどの草が好き放題に生えていて歩きにくい。よどみない夕暉の足取りにぶつくさ毒づきながら、陽はえっちら彼を追う。

 不意にビリッと嫌な音がして陽はつんのめった。足元の蛇に気を取られていたせいで、袂を引っ掛けたらしい。半ば破れかけた右袖を見下ろす。少し考えて、陽はおもむろに袖を引きちぎった。邪魔だったので丁度良い。長い袂がなくなってスッキリした。音に振り向いた夕暉が叫ぶ。

「あ、ズルい!! 俺も毟りたいのに」

「お前は袂に色々入れてるからだろ」

「そうなんだよね……。でも薬とか食料を置いてけないしなあ。リュックみたいなもの持ってくれば良かった」

 夕暉は口を尖らせた。

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