第10話
困惑顔の近習たちを残らず追い出すと、広い王の間には沈黙が落ちる。誰もいなくなった王座に身を沈めて、ヘルゲは嘆息した。組んだ足の上で頬杖を突く。頬の産毛の波を陽の光が舐めた。左手の大きな窓と、反対の壁に埋め込まれた大きな鏡のせいだ。
鏡の縁には、落ち着いた色味で凝った装飾が施されていた。美しいが華美すぎず品の良い装飾は、この王国の在り方を体現しているようで、言い様のない苛立ちがまた腹の中で鎌首を擡げた。唸るような音がヘルゲの喉を押しつぶす。
「虫唾が走る。……キモチ悪いんだよ。どいつもこいつも、品行方正!! 人の悪意なんか微塵も疑わねえ! どんな温室育ちだよ! 聖人モドキがっ、気持ち悪いキモチ悪いキモチワリィ!!」
弾かれたように立ち上がり、激情に任せて目の前の鏡を殴りつけた。何度も打ち付けた拳は、装飾に引っ掛かり、怒りの代わりに辺りに血を迸らせる。拳が痛めば硝子のコップで、机の上の瀟洒な照明器具で。部屋の隅にあった椅子も木端微塵になるまでたたきつけた。狂ったように、手あたり次第打ち付ける。息が切れるまで殴り続けた。けれど鏡には傷一つ入っていない。一点の曇りもなく磨き上げられた鏡面には、肩で息をする見慣れた澆薄な美貌が映っていた。
秀でた額、通った鼻筋、力強く曲線を描く眉。父親譲りの青い瞳は、碧というよりも限りなく水色に近い。鋭く吊り上がった目じりに冴え冴えとした青い双眸は、凍てついた湖のようで、薄い唇と相まって見る者に冷たい印象を与える。表情を作ることを止めたヘルゲの顔は、己の目から見ても酷薄な男の顔だった。
『愛想のない子』
『何を考えているのか分からない』
『気持ち悪い子』
不意に、遠い過去に言われた台詞が蘇る。いずれもヘルゲを傷つけるための言葉ではない。だからこそ、その台詞はあの頃、余計にヘルゲの胸の奥を貫いた。
物心がつく頃には、母親は外に作った男を転々と渡り歩いていて、滅多に家にはいなかった。健康的な小麦の肌と翠の目をした、実の子の目から見ても、非常に美しい人だった。明るい太陽の輝く国からやって来た彼女は、元々は陽気な人だったという。結婚した先の極端な白夜と極夜を繰り返す町で、環境の変化に適応できなかったヘルゲの母は、次第に精神を病んでいった。
一方の父は、無骨で真面目で堅物だった。そんなところに惹かれて一緒になった癖に、「つまらない人」そう言って、母は浮気を繰り返すようになっていった。父はそんな妻の態度を一度も責めることなく、ただ黙認した。
男が途切れると、母は時たま家に帰って来た。何が気に食わないのか、昼間から酒を飲んでは、手あたり次第の物やヘルゲにあたりちらす。元々、仕事を生きがいにしていた父だ。家で荒れるようになった母を避けるようにして、仕事場に泊まり込むことも増えた。父が帰らなくなると、当然、攻撃の矛先はヘルゲに集中することになる。黙って耐える以外に術を知らなかったから、幼い頃のヘルゲはいつも痣だらけだった。
身長が母を越したころには、ヘルゲからの反撃を恐れたのか、暴力を振るうことは無くなった。同時に彼女が家に帰ってくることもほとんどなくなった。両親の戻らぬ静かな部屋で、ヘルゲは多くの夜を過ごした。
それはヘルゲが十三歳になった夜だった。荷物を取りに戻っていたらしい母親を見つけ、ヘルゲはその背に弾んだ声で呼びかけた。
「母さん!」
キッチンで水を飲む母親の姿に、心が浮き立つ。この期に及んでもまだ、自分の誕生日を祝いに帰ってくれたのだと信じていた。
「あら、いたの」
しかし振り返った彼女の唇が零したのは、期待した台詞ではなかった。
「母さん、今日は家にいてくれる?」
縋るように見つめたヘルゲを見下ろして、母は言った。
「何よ。睨むのは止して。……ああ、その冷たい目。貴方はあの人にそっくりね。本当に嫌な目」
驚いて呼吸が止まる。睨んだつもりはなかった。それどころかその時ヘルゲは泣き出しそうだったのだ。母から容赦なく浴びせられた嫌悪と嘲るような色をした眼差しが、今でも忘れられない。今までに受けたどんな肉体的な暴力よりも痛かった。
呆然と立ち尽くすヘルゲを置いて、小さな旅行鞄だけを手に彼女は去った。それきり、彼女は二度と戻って来なかった。
妻が居なくなっても、父の態度は全く変わらなかった。一度だけ、そんな彼を責めたことがある。
「父さんは、動物の死体ばっかり相手にしているから、生きてる人間の心が分からないんだ! だからアンタを捨てて、母さんは出て行ったんだ」
泣きながら喚いた息子に、彼は少し困ったような顔をした。本当はそんなことが言いたかったわけじゃない。どんなに詰っても言い返さない父のことが、悔しくて悲しかった。
肉屋をしていた父は、誰よりも真摯に命と向き合っていたのだと思う。仕入れには必ず自らの足で赴き、一頭ずつ吟味して連れ帰る。卸す動物に敬意を持って祈りを捧げ、全ての肉を己の手で捌いていた。神聖なものを触るように、丁寧に解体してゆく手つきは美しかった。跡継ぎとして強制されたことは無いけれど、手解きをしてくれたこともある。ヘルゲ専用だと言って、誂えた捌き包丁を渡されたのは、五歳の誕生日のこと。あの頃はまだ母親も家にいて、家族は上手くいっているように見えていた。
貰った包丁を握り締めて、幼いヘルゲは何度も父の仕事場を訪れた。黙々と、丁寧に動物を向き合う背中に憧れた。矜持を持って肉屋の仕事をしている父を、本当はずっと尊敬していた。けれどあの時のヘルゲは、父の全てが憎かった。
「アンタみたいにはならない、絶対に」
叫んで家を飛び出した。あちこち渡り歩く間につくり笑顔を覚えた。世辞の言葉を学んだ。愛想が板についてくると、世間は随分と風通しが良くなった。母譲りの美貌のお陰で、幸い近寄ってくる女には苦労しなかった。女の家を転々とする暮らしは皮肉にも、ヘルゲが嫌った母親にそっくりだった。
息が整い始めると、ヘルゲは糸の切れた操り人形のように、ぐったりと玉座に沈み込んだ。不意によみがえってしまった過去の記憶が、古傷のようにじくじくと疼く。
収納ケースから捌き包丁を取り出して、光を鈍く反射する刃を見るともなしに眺める。ヘルゲが唯一、地上から持ち込んだものだ。初めて父の手ほどきを受けた時、彼から送られた物。父や母のことをいくら恨めども、どうしてもこの包丁だけは手放すことが出来なかった。父から貰った唯一のものだったから。王国に入ってからも帯に装着できるようにケースを誂えて、肌身離さず持ち歩いていた。
沢山の王国人の命を奪った刃。父が誇りにしていたそれで、正反対のことをした。日の光を反射して輝くそれが、黒く塗りつぶされていく幻覚。王国の日が沈みゆくまで、ヘルゲは静かに刃紋を眺め続けた。
やがて静かになった王の間の様子を伺いにやって来た兵士に頷いて、ヘルゲは立ち上がる。
「欲しいもんは、自分で奪わなきゃ、奪われんだ……」
自室と定めた部屋へ歩きながら、ヘルゲは無意識に爪を噛んだ。随分昔に止めた筈の癖だった。笑顔の仮面を覚えた、あの頃に。
◆
王国を保つために、紅輪たちは昼夜を問わず必死で力を尽くした。国王の欠けた穴を埋めるためだ。四人の働きは寝ずの番と言って良い有様だった。その甲斐があり、王国の異変は目に見えて落ち着いていた。
王が行う呪文の詠唱は通常、日に三度で、王国が安定していれば回数は限定されず、必要のない日さえある。呪文の種類は実に百種類以上あり、王国の状態に合わせて詠唱をする。王にはそのスキルが求められるため、王となる者は物心がつく頃から、王に着いてそのノウハウを学ぶものである。
しかし、第一王子としてそれを学んでいた陽の不在、そしてなんといっても紅輪たちはまだ幼く、負担は非常に大きかった。陽たちの知らぬところで、日に日に四人は疲弊していった。
同じ頃、弟妹達の尽力をまだ知らぬ陽と夕暉は、市中で潜伏しながら簒奪された王座を取り戻す算段を練っていた。
夕暉は陽を王座に据えるつもりで動いていたが、陽は逆だった。自分は王位継承権を持たず、有する力自体も夕暉には及ばない。夕暉は明らかに桁違いの力を持っていた。
陽は必死に考えた。陽も相当頑固だが、夕暉はさらにその上を行く頑固者だ。彼を説得するには、彼が納得のいく完璧な理屈が必要だ。強力な説得理由が欲しい。
陽は毎日考えた。考えて考えて、熱を出すほど考えて悟った。味方が必要だ。それも夕暉を言いくるめられるくらい、王国に精通し、舌も回る者。そう考えた時、思い当たるのは一人しかいなかった。
「アイツん頼んのか」
呟いて陽は文字通り頭を抱える。正直に言えば嫌だった。嫌どころの騒ぎではない。死ぬほど嫌だ。けれど悩んだのは一瞬だった。耐えられないと思ったからだ。自分の死と王国が滅ぶだけならまだしも、夕暉と春日がその運命を共にするのだけは、絶対に避けたい。
機会はすぐに訪れた。一緒に市中に潜伏してはいるが、効率よく情報収集を行うために、別行動をとることも多い。夕暉の不在を狙って神殿に忍び込み、陽は教臣を尋ねることにした。
窓から顔を覗かせた陽を見て、教臣は目を丸くした。
「陽様? そんなところで何をなさって……」
「良いから早く入れろ、見つかる」
教臣は怪訝な顔で陽を迎え入れた。
「貴方が私を訪ねてくるだなんて。いよいよ王国は滅んでしまうのですね」
嫌味を無視し、陽は教臣を見上げた。一秒でも時間が惜しい。単刀直入に問う。
「お前は、どう思う。ヘルゲを廃して、夕暉を次の王に擁立することを」
気味悪そうに陽を眺めていた教臣の瞳に、真剣な光が点る。
「賛成です。夕暉様が適任だと、わたくしも思います」
陽は我が意を得たりと頷いた。言質は取れた。長居は無用だ。じゃあなと再び窓枠に足を掛けた背中を、教臣が呼び止めた。
「陽様。なるべく早く、多少強引にでも説得して王座を奪還してください」
「当然だ」
笊のような見張りの目を掻い潜り、神殿を後にしながら頬が緩む。活路が見えた。王家に従順な教臣が、夕暉を王にしたいと言う。それだけでも充分な後援だが、もっと強力な説得力が欲しい。
人混みに紛れて陽は思考を巡らせる。すんなりと教臣が同意するのは、きっと何か理由があるはずだ。
そういえばいつからだろう、教臣が夕暉を肯定したのは。すぐに答えは出た。王国に入ったその日からだ。教臣は確かに何かを知っている。
職務上、彼が知り得ることは王のそれに匹敵する。慈光に仕えていた彼が知っていて、陽が知らない事。多分それは陽にとって都合が良い事実のはずだ。けれど教臣は恐らく口を割らないだろう。話す心算があるのなら、きっととうに話してくれている筈だ。教臣から聞き出すことが出来ない以上、自ら探るしかない。誰に尋ねれば解明するだろうか。教臣に近い人間と考えて、一人の男の顔を思い出す。
教臣の元を辞したその足で、陽は彼を探した。警邏の兵士たちの目を躱し、町中を走りまわる。目的の人物は偶然にもすぐに見つかった。
彼が小道の脇を通りかかった瞬間、細い路地からニュッと手を伸ばす。アッという間もなく鼻ごと口を塞がれて、男、知史実は目を白黒させた。息が出来ず、暴れようとした耳元でささやかれた声に、知史実は抵抗を止める。
「おれだ、静かにしろ。いま手を離す。騒ぐなよ」
そう言って、陽は知史実の口元からそっと手を離した。振り返り相手を目視して、知史実は思わず叫びかけた。陽が鋭くそれを制す。
「しっ、聞きたいことがある」
「聞きたいこと、ですか」
「ああ、第一秘書のお前なら、知ってるはずだ。夕暉が王国に来たあの日、教臣に何か変わった様子はなかったか。常では考えられない行動、何かしてやがったはずだ」
陽の言葉に知史実は僅かに虹彩を揺らした。けれど彼は、固い声で言った。
「申し訳ありません。わたくしの口からお伝え出来ることはございません。わたくしの職務は教臣様の補佐で、いち文官にしか過ぎません。わたくしがすべきことはお喋りではない。事実を書き記すこと、ただそれだけでございます」
責めようと口を開きかけて、陽は閃いた。
「助かった!」
叫ぶなり踵を返し、飛ぶように王宮へ走って行った陽の後ろ姿を眺めながら、知史実は安堵の溜息を吐いた。
教臣の軟禁されている神殿よりも一層、王宮への侵入は容易かった。ヘルゲは王国の維持に必要なものが神殿に揃っていると分かると、早々に本陣を大神殿に据えた。王宮は価値なしと判断されたようで、ヘルゲの従えた兵士たちは現在、おもに神殿に集中している。そのため王宮は非常に手薄になっていた。
そっと足を踏み入れた王宮、目指すのは教臣の執務室だ。王国の事務仕事を一手に担っているそこは、幸いそう奥まった場所にはない。誰にも見咎められることなくたどり着いた執務室の扉は、鍵がかかっていた。予想通りだ。陽はニヤリと口端を吊り上げると慣れた手つきで鍵を開け、素早く内側に飛び込んだ。閉じた扉に背を預けて一呼吸。
足元を軽く払うと舞い上がった埃が、窓から差し込む光にキラキラと光った。人の気配はないとはいえ、大きく開けられた窓の外をいつ誰が通りかかるとも限らない。注意深く外の気配を探りながら、正面に据えられた教臣の執務机に近づく。
さあ、一仕事。陽は無意識に下唇を舐めた。何処に何があるのかは、大体把握している。伊達に日々、教臣と戦っていない。まず見るべきは業務日誌だ。引き出しの一番上にそれはあった。あの日の記録は、陽たちを迎えに来るまで、地上での出来事、それから王国へ帰ってからのこと、それらが淡々と時系列で記されていた。特に変わった様子はない。しかしその普段通りで、一切の無駄がない冷静な記述がかえって不自然だった。念のために最後まで確認したが、全く不審な点はない。陽は眉根を寄せた。
なら次の可能性は知史実の日誌だ。公式記録とは別に、彼は個人的な記録をつけていた筈だ。彼の机の引き出しもひっくり返す。
「あった、こいつだ」
何の変哲も色気もない竪帳だ。藍色の表紙の中央に、丁寧な字で「日誌」と素っ気なく表題が書かれている。表沙汰にすることのない、彼の私的な記述だ。なぜその存在を知っているかと言えば、見たことがあるからだ。当時の陽は、天敵・教臣の弱点を探ろうと躍起になっていた。彼の第一秘書の机をも探ったのは必然だった。
二度目になるその竪帳を開こうとして、陽はちょっと遠い目になった。あの日、偶然開いたのは、決して見たくなかった秘書官殿の一面だったからだ。彼が恋人を思って書いたであろうと思われる詩の数々。それはそれは美しい手跡だったが、内容の方はというと、あまりにひどい……もとい斬新な出来だった。陽には理解不能な「芸術作品」だったため、そっと閉じて見なかったことにした。もしも夕暉がその場にいたら「王国の土方さんだ」と絶句していただろう。いや、ヒジカタ某にすら失礼だ。だってハエトリグサに例えるなんて、お前の彼女どんな口裂け女なの。機会があったら是非きいてみたい。
「二度と見ねえと決意してたんだけどなあ」
薄目で恐る恐る頁を捲り、該当の日時を探り当てると、果たしてそこには二点、公式記録にはない記述があった。
「未明に来客対応、申請書類処理」
さらりと書かれた文字を追う。それだけでは何のことか全く分からない。ただ公式記録に乗せなかったということは、間違いない。来客と申請書、これがカギだ。
恐らくこの二つは関連していると、陽は直感した。来客を断定するのはきっと難しい。人目を忍んで来たのだろう。一方で申請書類と呼ばれるものはそう多くない。深夜に予定外の来客を受けて急遽申請書を書くとしたら、何のためだろうか。王国史上初ともいえる不測の事態が連続したあの日、教臣が執務に優先して、それも深夜に書いた申請書。陽は考えた。口に出しながら教臣の思考をなぞる。
「深夜に来客があって、何をする。公には出来ない話。でもあの日にしなくてはならなかった話。教臣に聞かせなければなかった話。その話を教臣が知らなかったとしたら、あいつはどうする。……調べようとする」
自分で発した言葉に目を見開いて、陽は正解を導きだした。
「禁書庫、か」
パチンと器用に指を鳴らす。綺麗に整頓された重要書類の棚から、禁書庫に関する申請書の綴りを引っ張り出した。一見しておかしなところは無いが、よくよく見ると左下の通し番号が欠けている。思った通りだ。どうやら教臣はどうしても、一連の行動を公式記録に残したくなかったようだ。
「直前の日付は、三日前。最後の一枚があの翌日か。可能性は高いな」
そうとわかれば、次にすべきことは決まっている。日誌と申請書の綴りを元に戻し、陽はそろりと執務室を後にした。
一つ目の角を曲がろうとしたところで、向こうからやってくる人の気配を感じ、陽はさっと柱の陰に身を隠す。パタパタと軽い足音は一つきりで、警戒した様子もない。足音の主に見当をつけ、小さな声でその名を呼んだ。
「日華」
「……あに、むぐっ」
兄上、と叫びかけていた口を慌てて押さえ、素早く辺りを見渡して物陰にしゃがみ込む。また誰かの気配がした。息を殺してやり過ごす。ヘルゲの手下に成り下がってしまった兵士が連れだって王宮の奥に向かうのを見送って、陽は忌々しそうに顔を顰めた。手薄だと思っていたが、定期的に見回りはしているようだ。気を付けなくてはならない。気配を殺して辺りを窺う陽の横顔に、日華がおずおず声を掛けた。
「あ、あの。こ、こんなところにいらして、大丈夫、なのですか」
陽に倣って小声で尋ねてくる日華に軽く首肯して、陽は彼女に向き合う。
「日華、協力してくれ。お前の助けが必要だ。お前なら王宮で自由に動ける」
肩を掴まれた日華は、ぱちりと稚く瞬いた。
「はい。あの、でも、何をすれば」
「おれが帰って来たあの日の夜、教臣が禁書庫で何を読んだのか、探ってきてくれ」
陽の台詞に、日華は不思議そうな顔をした。
「それなら、教臣さまにお伺いすれば、簡単に……」
「駄目だ、アイツには絶対に聞くな。行ったことは確かだ。なのに公式な日誌には載っていない。それから執務室の申請書もなかった、何処かに隠されているからだ」
「どうして、でしょうか」
「隠したかったんだよ。何でかは分かんねえ。けど、隠してる以上は直接聞いても教えてくれないはずだ。時間がない。急げ」
何かわかればすぐに知らせるように言い含め、陽は忍び足で王宮を後にした。
日華からの小さな言伝を持った鷹は、すぐ次の日にやって来た。三センチほどの小さな紙切れには「明日、正午、青物ミにて」とだけある。陽は首を傾げた。青物ミとは、恐らく御厨町にある「お野菜南風」という食事処のことだ。野菜のなかでも特に法蓮草を使った料理の得意な店で、夕暉がいたく気に入り、日華たちも何度か連れて行ったことがある。経営者の伊代と南風とも顔見知りだ。昼食を共にしながら報告をするということだろうか。陽が首を捻りつつ待ち合わせ場所に向かうと、小鬼が立っていた。
「どういうことですの」
店の脇にある小路で仁王立ちになり、肩を怒らせた紅輪が、詰問口調で詰め寄ってくる。陽は天を仰いだ。
「あーあ、メンドクセエ奴に見つかった」
ぼやくと、紅輪の目つきが一層鋭くなる。
「日華に何をさせるお心算なのかしら」
「こ、コウちゃん……、兄上……」
紅輪の後ろから、日華が泣き出しそうな顔で陽を見上げてくる。紅輪はそれに視線を流すと、ピシャリと双子の妹を切り捨てた。
「日華は黙っていらっしゃい。あなた、この人に使いっぱしりにさせられていたんですのよ。……一体、なにを企んでいらっしゃるの。よりにも寄って、こんな大変な時にっ」
警戒心もあらわに紅輪は陽を睨み上げた。陽は舌を鋭く打って天敵を睨み返す。
「こんな大変な時に? そりゃこっちの台詞だ。時間がねえんだ、邪魔すんじゃねえよ。おい、日華、どうだった。報告を頼む」
「は、はい。あの、やはり……」
「ちょっと!」
頷いて結果を告げようとした日華の声を遮るように、紅輪はいっそう声を張り上げた。昼時で人気が多く目立ちにくいとはいえ、どこにヘルゲの手の者がいるとも限らない。陽は乱暴に頭を掻いた。
「ああ、もう、うるせえな! 見つかるだろうが、お前は黙ってろ。夕暉を王にするためなんだよ!」
「夕暉お兄様を、王に?」
毒気を抜かれたような顔で、紅輪が陽を見上げた。目から険が取れると年相応のあどけなさが顔を出す。
「そうだ、今は詳しくは言えねえ。時間がない。今この瞬間だって惜しいのに。お前、王国をこのまま滅ぼしてえのか!? おい、日華」
「は、はいっ。あの、やはり兄上の仰る通り、禁書庫内の申請書も、当該番号が飛んでおりました」
日華が申し訳なさそうな顔で俯く。
「そうか。じゃあ、何を閲覧したのか分かんねえか。どうすりゃ良いんだ」
紅輪が突然、素っ頓狂な声を上げた。
「わ、分かりましたわっ。わたくしも助太刀いたします」
「えっ」
予想外の台詞に、陽と日華は揃って紅輪を見た。紅輪は、頬を薔薇色に染めてもじもじと両手を組み合わせている。
「教臣が何を閲覧したのかが分かれば良いのでしょう」
「ああ。けど申請書がねえんだぞ」
自信ありげに、ついと顎が上がる。
「問題ありませんわ。わたくしが突き止めて差し上げます。それから、どうせなら旭にも話して、協力させた方が良いと思いますわ」
「出来るか?」
「当然でしてよ」
少女は、胸を反らしながら不敵な笑みを浮かべてみせた。
果たして二日後、春日を除く兄弟たちは、同じ小路で顔を突き合わせていた。少し遅れてやって来た陽を、紅輪は見たことのないような満面の笑みで迎えた。
「突き止めましたわ!」
「でかした!」
陽は思わず、天敵であるはずの妹を思い切り抱きしめた。紅輪も興奮気味に、陽にしがみ付く。目を丸くして一連の流れを見守っていた旭が、感心した口調で呟いた。
「ハブとマングローブが和解した。ユウ兄スゲー」
幸か不幸か、当のハブとマングースには聞こえていないようで、身体は離れたものの、手を取り近距離で見つめ合っている。一見すると類まれなる美少年と美少女なので、絵になる美しい光景のはずである。ただし、普段のふたりを良く知る人が見れば、直ちに震えあがる恐るべき光景だ。すわ天変地異の前触れか。いや、異変はすでに起きているのだけれど。非常に失礼なことを考えている旭を他所に、高揚した口ぶりで紅輪が言う。
「『王国史 巻五』と『王国法』で間違いないですわ」
「お前、天才だな! どうやって突き止めたんだ」
「簡単ですわ、良く観察しただけです。最後に禁書庫の出入りが確認できるのは、夕暉お兄様がいらした翌日で、それ以降、禁書庫は誰も入っていなかったでしょう」
「そもそも『王国史』の編纂の時期以外はほとんど、誰も行かねえ場所だしな」
「そう、ですから、禁書庫は普段から埃だらけの場所なのです。埃が払われている、すなわち誰かが最近触った形跡のあったのは、『王国物語』『入山手続き』『王国史 巻五』それから『王国法』だけでした。そのうち『王国物語』は三日前、『入山手続き』は翌日の申請書に記載がありました」
「よく、そんな発想が出来たな。すげえよ」
陽の素直な賛辞に、紅輪はほんのり頬を染めて俯いた。
「夕暉お兄様にお借りした御本を参考にしたのですわ」
聞けば、夕暉に借りた推理小説に嵌っていて、旭と紅輪の間では推理ごっこが流行っているらしい。陽の知らない間に、弟妹たちは夕暉と親交を深めていたようだ。夕暉の人誑しぶりにはつくづく感心させられる。嫌味ではなく心底褒めている。いや、本当に。
そういえばほとんど手ぶらで王国に筈なのに、部屋の本棚にはいつの間にか地上の書籍が増えていたな、と陽は思った。「人の死なない心温まるミステリだよ」としきりに勧められたが、陽は興味がなかったので、気にも留めていなかった。
「あー、成程な。お前、夕暉に惚れてるもんなあ」
「ほ……っ」
何気なく零した台詞に、紅輪は真っ赤になって硬直した。絶句した紅輪に変わり、大人しいはずの日華が、鬼のような形相でポカスカと陽の胸を拳で打ち付けた。
「痛えっ、なんだよっ、お前が惚れてんのは教臣なんだから関係ねえだろうが」
今度は日華の顔が茹で上がる。旭が軽蔑の眼差しで陽を見上げた。
「あーあ。友達がいないと、デリカシーが学べないんだね。カワイソ」
報告を受けたその足で、陽は即座に王宮へ向かった。ジンジンと熱を持つ左右の頬が痛む。恐らく真っ赤になっているだろう。双子に手ひどく平手打ちされたからだ。なぜそんな目に遭わされたのか全く分からない。本当のことを言っただけなのに。陽はむっすりと下唇を尖らせる。
忍び込んだ禁書庫は、紅輪の言う通り厚い埃が各所に堆積していた。当該の棚を探り、『王国史』と『王国法』を引っ張り出す。少し考えて、『王国法』を脇に避けた。実は『王国史』と聞いて、思い当たることがあったからだ。
『王国史』は、歴代の傍仕えが繋いでいるもので、初代から一日も欠かすことなく続けられてきた。編年で事実のみを記載しているそれは、王国の公式記録だ。淡々と、しかし王国で起きた王族に関わる全てを漏らさず書き記している。そのため閲覧できるのもその存在を知る者も、限られたごく一部だった。生まれてこれまで王座を継ぐ者として教育を受けて来た陽は、当然その存在を知らされている。
『王国史 巻五』の内容は、先代王・紅霞の戴冠から始まっていた。そのためこんにちに辿り着くまで随分と量がある。慈光で十二代目になる国王だが、一代あたりの在位が百年を超えることも多い。王国の平均寿命は二百五十歳程度だ。
当たりを付けて、頁を捲る。
「アイツが確認したかったことは、多分……あった!」
王国歴一五三四年、陽が探していた記述は、その年の暮れにあった。陽が生まれる一年ほど前だ。王国民には伏せられていたある事実。恐らくこの事実を知っていたのは数名だけだろう。国王である慈光、王国史を編纂した者、それから乳母だった小夜。
「あの夜、教臣を訪ねて来たのは、小夜か」
呟いて続きを読む。一頁捲ったところで思い立って日付を遡った。四月五日、その日の記事は、珍しく何点もの絵が添えられている。それが王国でも屈指の慶事だったからだ。それが決定打だった。この絵を見て、教臣も恐らく同じ結論を出したのだ。もう一度、該当の日付までを通読する。
― 慈光様は、この不幸な出来事を、王国民には公表しないことを決断した。
この一文に目を通したのを最後に、陽はそっと『王国史』を閉じた。不思議な気分だった。同時にひどく腑にも落ちている。興奮からか指先が震えた。浮き立つ気持ちを宥めて、『王国法』に手を伸ばす。あとは法的な問題だ。これもきっと教臣は即日に調べ上げ、問題はないと判断しているはず。念のため頁を繰り確証を得た陽は、急いで禁書庫を後にした。
今日の夕暉は、市中で仲間に会って協力をあおいでいるはずだ。確か夕食までには戻ると言っていた。夕暉よりも先に帰り、ずっと家にいた態を装いたい。まだ打ち明ける時期ではない。けれど伝家の宝刀を手に入れた気分だった。
◆
平和だった街は、次第に物々しい雰囲気へ変化していた。訓練された兵士が市中で幅を利かせるようになり、国民の間にもギスギスした雰囲気が漂いつつある。慈光が斃れてから、紅輪たちが懸命に力を尽くしているものの、圧倒的に力が足りない。真の王を失った王国は、確実に滅びへと向かっていた。
四人が死力を尽くしていることを知らない夕暉と陽は、状況を好転させるべく、市中に潜伏しながらあちこち走り回っていた。付き人の要と音緒には、王国で弟妹の傍に仕えるよう指示してある。世話係二人を傍から離したのは、人数が多いと身動きがとりにくいからだ。また平和ボケした王国人の音緒たちが、上手く隠れられるとも思えない。彼らとは鷹を使って日々やり取りをしているので、内部の情報を仕入れられるという利点もある。ヘルゲと神殿内での動きや弟妹達の様子も良く分かり、思った以上に潜伏は容易だった。陽たちを見くびっているのか、今のところヘルゲに陽たちを探す気配は見られない。
ヘルゲが王座を簒奪してから九日が経った。その日の昼下がり、夕暉と陽は根城にしている隠れ家を出てある場所にいた。音緒から緊急連絡を受けたからだ。約束の時刻ピッタリに、何かが天窓を叩いた。静かに錠を開ける。それは身体をねじ込むようにして中に入ってきた。陽の鷹だ。
「おかえり」
差し出された夕暉の腕にとまり、鷹は小鳥のような高い声でピヨピヨと甘えた声を出した。一方で、餌をやろうと差し出した陽の手をこの上なく獰猛な声で威嚇する。夕暉は苦笑して餌を受け取った。
「なんで陽くんに懐かないんだろう」
陽専用の筈なのに、この鷹はなぜか雛の頃から陽とは反りが合わない。
「そいつは気難しいんだよ」
ぼやきながら玄関へ向かう。扉の隙間から小さな紙を押し出すと、焦燥の滲む声が囁いた。声は決められた合言葉を紡ぐ。その文言で、陽は扉を開錠した。錠を落とす音がしたと同時に扉が勢いよく押し開けられて、思わず陽は仰け反る。転がり込んだ音緒は、ふたりの姿を認めた途端にポロリと大粒の涙を零した。
「陽様、お願いです、王宮へ、王宮へお越しください! お願いしますっ、もう、紅輪様たちは限界です」
陽に避けられて足を縺れさせた音緒の身体を、夕暉が抱き留める。
「ネオくん、落ち着いて。いったん座ろう」
掴みかからんばかりの勢いで陽へ訴える音緒を押しとどめ、手近な椅子へ座らせる。鷹は驚いて、天井の梁に避難してしまった。しばらくは呼んでも降りてこないだろう。
「落ち着いて。ネオくん、王宮で何が起こっているの。コウちゃんたちが限界って、どういうこと」
夕暉に優しく促され、少し落ち着きを取り戻した音緒は鼻を啜って口を開いた。
「今朝、紅輪様が、お倒れになったのです。意識は、おありです。取り乱してしまって、申し訳ありません」
「意識はあるんだね、良かった。それで、陽くんに王宮に来いって言うのはなんで」
「ここのところ王国の異変が少し落ち着いているのは、紅輪様たちが日夜、呪文を詠唱しておられるからなのです」
飲み物を手に戻って来た陽が、目を見開く。
「まさか。父さんが、王がすべき日課を、四人で分担してるってのか」
「……はい」
俯いた音緒の声に、また涙が滲む。
「王の、日課って」
首を傾げた夕暉に向き直り、陽は頷いた。
「基幹石っつうデカい石に向かって、日に三回、特別な呪文を詠唱するんだよ。石に向かって呪文の詠唱って言ったら簡単そうに聞こえっけど、実際はそんな簡単なもんじゃねえ。王国自体を維持するんだ。尋常じゃなく体力を消費する。だから王だけじゃ負担が大きすぎるし、代替わりも見据えて、第一王子を筆頭に王族が補佐をすんだけど、それでも消耗が激しくてな」
「その呪文の詠唱っていうのが、王国の心臓を押すポンプなんだね」
「ああ。誰にでも出来ることじゃねえから、王が居るんだ」
「それを今、コウちゃんたちが負担している……」
「王位継承権の順位は、年齢ではありません。保有する力が大きい順なのです。ですから、紅輪様たち四人を合わせたよりも、陽様のお力がずっと強いと、そう伺いました。ですからお願いです、陽様、どうか、王宮に起こしください」
目に涙を浮かべながらも、音緒は必死に訴えた。お願いしますと、何度も何度も頭を垂れる。黙って彼の言葉を聞いていた陽は、大きく溜息を吐いた。
「……そもそも正当な手続きを経た王笏を持たずに呪文を詠唱したって、効果は薄いんだ。紅輪が詠唱してもおれがやっても、笏がない状態じゃほとんど変わらねえよ。でも、アイツらが限界だってのに、おれが行かねえ道理はねえな」
陽の台詞に、勢い良く音緒の顔が上がる。期待に満ちた目が、キラキラと見上げている。陽は僅かに苦笑を零した。
「一応、聞いとくが、お前、おれたちが身を潜めてるのは分かってんな?」
音緒の顔が一瞬にして蒼褪める。
「思いもよらなかった、って? そんだけアイツが心配で焦ってたんだろうけど。お前、夕暉じゃなくて紅輪の傍仕えになった方が良かったんじゃねえの」
「ち、ちが、違いますっ」
今度は真っ赤になった音緒にむかって、陽はニヤニヤしながら言った。
「傍にいたら緊張して、仕事なんかできねえってか。青春だなあ」
「陽様っ」
夕暉は目をパチクリさせている。湯気を出しながら必死に抗弁してくる音緒を無視して、陽は真剣な表情で夕暉を見上げた。
「春日まで駆り出されてるようなら、例え見つかっても、捕まる可能性は薄い」
「行こう」
みなまで言わせず、夕暉は大きく頷いた。陽が音緒の背を押す。
「すぐに行く。お前は先に戻れ」
「はい! ありがとうございますっ」
音緒は深々と頭を垂れた。
音緒の後を追い、警邏の兵士の目を掻い潜りながら走る。
「ここんとこ、異変が少し落ち着いてると思ったら、そういうことかよ」
王宮を目指しながら、無意識に陽は鋭く舌を打った。教臣が囚われることで敢えて中央に残っていたので、彼が何か策を講じているのだと思っていた。
「そんなことだって分かってたら、おれだって隠れたりしなかったのに!」
「多分、敢えて陽くんには知らせなかったんだ。ギリギリまで陽くんには知らせないで、外から王国を守る方法を探させる。それが、教臣さんの意図だったんじゃないかな」
夕暉の言葉に、陽が思案する素振りを見せる。夕暉は重ねて言った。
「王国の中枢にいる人だ。意味もなく知らせなかったとは思えないよ」
陽には言っていなかったが、夕暉は教臣と互いの状況を知らせる文をやり取りしていた。その中で、教臣は一度も紅輪たちのことには触れなかった。恐らく、陽までが神殿に来てしまわないほうが良いと判断したのだろう。ヘルゲや教臣の周辺の動き、それから夕暉たちに市中でして欲しいことが、美しい文字で淡々と伝えられた。街に身を潜めながら治安の維持に努め、同時にヘルゲを王の座から降ろす方法を探すこと。それが、夕暉たちがこれまでやって来たことだ。
「そうだな」
長い沈黙ののちに、陽は小さく頷いた。ついで曲がろうとした通路の先に兵士の姿を認め、脇道に身を隠す。背後を振り向いた夕暉が小さく悲鳴をあげた。こちらにも兵士がいる。
「やばっ」
「こっちだ!」
咄嗟に東へ方向転換を図る。
「この先にある雑貨屋の地下に、神殿に続く地下通路がある」
陽が幼い頃に見つけた秘密の道だ。地下通路を通って入り込んだ守り人の間に、危惧したヘルゲの姿はなかった。見張りもたった一人しかいない。
陽たちが到着した時には、旭が基幹石の前にいた。すぐ後ろには、日華と春日が佇んでいる。倒れたという紅輪の姿は見えない。別室に寝かされているのだろう。
「ヘルゲは、いないね」
夕暉が小声で言う。苦痛に顔を歪めて詠唱を続ける旭の姿を睨みつけて、陽は吐き捨てた。血反吐を吐くような声だった。
「春日たちに丸投げして、あの野郎は玉座に踏ん反り返ってやがんだ。王族を王族たらしめる責務を全部放棄して、何が王だ……っ」
王の息子としてこの世に生を受け、王位を継ぐ者としての英才教育を受けて育った陽には、弟妹たちに増して強い王族として責任意識があった。王と王族が人々に尊ばれ、市井よりも裕福な暮らしを送っているのは、偏に重責ゆえだ。
王族は、王国全ての人々の生命を守護する立場を一手に引き受けている。彼らの平穏を守るために、最も選択の自由がない。ある意味では、全ての人々に隷属しているとも言えた。
陽には王族としての強い矜持がある。王籍を外れた今でもそれは変わらない。形だけの玉座に収まるヘルゲのことが、どうしても許せなかった。
「どうする、陽くん。教臣さんのところに行ったほうが良いんじゃない」
「少し、様子を見る」
夕暉の小声を遮って、陽は物陰に身を潜めた。ふたりが見守る前で詠唱が止む。旭に代わって基幹石に歩み寄った末の弟の姿に、思わず陽は飛び出しかけるのを堪えた。春日の足取りはおぼつかない。遠目にも顔色が悪い。陽の肩にそっと手を添えて、夕暉が呟いた。
「ハルくんまで。こんなに、代わる代わる詠唱し続けないと駄目なものなの」
春日の詠唱はひどく頼りない。発音がまだ覚束ないせいで、詠唱の効果が薄いからだ。基幹石の輝き方からも、はっきりと見て取れる。それは夕暉にも分かったようで、見守る表情は見たこともないほど険しい。陽は奥歯を強く噛みしめた。飛び出していきたい。弟妹に代わって、基幹石に力を注ぎたい。けれど王族の地位を外れている今、それは許可されない行為だ。
音緒が言った通り、紅輪たち四人の能力を合わせたよりも陽の力は各段に強い。王国法上は王族でなくなっても、発音は王族のそれのままだからだ。実質は王族のままなのだ。それがひどくもどかしい。
か細い声で読み上げられていた呪文が途切れる。同時に小さな弟の身体が、ふらりと傾いた。近くで待機していた旭が、地に着く直前で彼を抱き留める。
「もう無理だ、春日は休ませてやって」
自身も足元をふらつかせながら、旭は抱えた春日の身体を見張りの兵士に託した。空いた場所へ、青い顔の日華が進みでる。
「どけっ」
叫ぶなり、陽は詠唱を始めようとした日華を押しのけた。突然、飛び出してきた陽に反応しきれず、兵士はまごついた。
「あ、兄上!?」
尻もちをついた日華が、オロオロと陽を見上げている。旭と春日も唖然と陽を見上げた。
交代に来たのだろうか、見張りとは別の兵士が、慌てた様子で守り人の間から走り去るのが視界の隅に映る。それを無視して陽は呪文を丁寧に唇に乗せた。日華が唱えようしたのとは、別の呪文だ。
陽にはまだ、王国の状態に合わせて呪文を唱えることは出来ない。だからこれは、陽が知るなかで最も強力で速攻性のある呪文だ。どんな状態であろうとも確実に効くはずだった。これで恐らく数日は、軽い補助だけで持つはずだ。疲弊する弟妹たちも休むことが出来る。
唱え始めてすぐに効果が表れる。基幹石は今までの誰の呪文よりも強く反応し、明々と輝いた。反動で、あっという間に力が吸い取られてゆく。脂汗が全身に噴き出した。翳した両手が、地を踏みしめる足が震える。それでも陽は呪文を唱え続けた。
ハラハラと見守っていた夕暉だったが、血の気を失ってゆく陽に、ついに駆けよろうと立ち上る。その肩を誰が引き留めた。
「いけません。詠唱を途切れさせると、反動が陽様に返り、逆に危険です」
「教臣さんっ」
先ほどの兵士が呼んできたらしい。
教臣はその兵士に、三人の休息を指示した。命じられた兵士は、ホッとした顔で春日たちを部屋へ促している。三人は、大人しく神殿内に宛がわれた彼らの部屋へ戻っていった。入れ替わりにバタバタと、数人の兵士と神官がやって来る。
「紅輪様、日華様、旭様、春日様に、数日の間は詠唱を止めて、お身体を休めることに専念するように言いなさい」
「はい、畏まりました。……詠唱を止めてしまっても、王国は大丈夫なのですか」
「先ほどの陽様の呪文が効いていますので、この状態であれば、何日か無詠唱でも持ちます。多少の揺れや異変は避けられませんが、王国が滅びることはありません」
神官へ鷹揚に頷いて、教臣は兵士へ目を眇めた。
「貴方がたはせいぜいヘルゲの機嫌でも取って、紅輪様たちがおられなければ王国の滅亡が避けられないことを、しっかりと言い含めておきなさい」
「は、はい!」
兵士は鞭で打たれたかのような勢いで、背筋をピンと伸ばす。
「それから、急ぎ、陽様の装飾を一式持って来るように」
冷静に指示を出す教臣の胸元に、夕暉は思わず取り縋った。
「教臣さん、何かありませんか。俺に、俺に出来ること」
夕暉を見下ろして、教臣は答えた。
「正統なる後継者が、王座を取り戻す。それが王国を正常にするために、一番てっとりばやくて確実な方法です。つまり、夕暉様、貴方が一刻も早く王になることです。それが夕暉様に出来る唯一にして、王国にとっての最良の策です」
「教臣の、言う通りだ。お前が王座を、奪還する……のが、最善、なんだ」
詠唱を終えて戻ってきた陽は、肩で息をしていた。支えようと伸びてきた夕暉の手を乱暴に振り払い、真剣な表情で言い募る。
「なあ、夕暉、王になれ。お前には、その責任があるんだろ。なんでもするって、言っただろ」
「本当に、それが最善なの? 陽くんが王になるよりも?」
「ああ」
「……」
しばしふたりは互いの瞳をじっと見つめ合う。数秒ののち、夕暉はふっと短く息を吐き出した。
「……分かった。それで解決するんなら、俺は王になるよ」
間髪入れずに教臣が言った。
「では行って頂きましょう。継承の竜の元へ」
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