第9話

 それに遭遇したのは、本格的に警邏をはじめて四日目のことだった。夕暉と並んで辺りを警戒していた陽は、視界の隅に異変を感じて足を止めた。息を潜め、通り過ぎかけた細い通りの奥へ目を凝らす。蹲る影を目視した瞬間、

「おいっ、お前何してる!」

 叫んで、陽は勢いよく走り出した。一拍遅れて夕暉も後を追う。

走り寄る気配に、倒れた男の懐を探っていた影がぱっと顔を上げた。

 闇夜に鈍い光が煌めく。

「陽くんっ」

 咄嗟に陽の腕を引き、背後に庇った。盾のように掲げた傘の柄がへし折れ、勢いよく飛んで行く。反射的に腰に差していた刀を抜き、再び振るわれようとしていた凶刃を弾き飛ばした。その刃先が曲者の鼻先を掠める。

「……チッ」

 影は小さく舌を打ち、素早く飛び退った。

 一拍遅れてはらりと落ちた、口元を覆う布。露になった顔に、ふたりは同時に叫んだ。

「ヘルゲ……っ」

「アゴ!?」

 ふたりが動きを止めた一瞬の隙をついて刃物を拾い、男はあっという間に走り去ってしまった。

「野郎っ」

「陽くん、待って」

 すかさず後を追おうとした陽を制し、夕暉は刀を鞘に収めた。

「なんで気が付かなかったんだろう。あの日、王国でマリーを見つけた時にヘルゲらしき男を見かけたって、陽くんが言ってたのに」

 唸るように言って、夕暉は自分の頭を掻き乱す。

 陽はその腕を掴んで強く引いた。夕暉が蹈鞴を踏む。

「落ち着け、夕暉。お前のせいじゃない。あの時点で、おれたちがあのクソ野郎の侵入に気が付くのは無理だ」

 くしゃりと悔し気に歪められた美貌。泣き出しそうだと思った。きつく握り締められた拳は骨が白く浮かびあがり、彼の混乱をまざまざと伝えている。

「でも俺がもたらしたんだ。俺のせいだ」

「なあ、夕暉。汚れた水は、もう戻らないか」

 陽の問いに夕暉が息を呑む。夕暉が応えるよりも早く、陽は即座に首を振ってみせた。

「そんなことはねえだろ。原因を取り除いて、時間と手間をかけて浄化する。地上の奴らは、色んなもんを、汚しては何度も綺麗にしてきたはずだ。おれは知ってる」

 夕暉は答えない。きつく噛みしめられた唇からは、血の気が引いている。

「多種多様な奴らがいる混沌とした地上でできて、おれたちに出来ないはずがねえ」

 夕暉の顔は俯いたままだった。つま先に落ちていた小石を、親の仇のような眼光で睨みつけている。

「なあ、起こったことを悔やんでどうなる。おれたちは今どうするべきだ。これからのことを考えろ。お前は、それが得意だろうが」

「……ごめん。そうだね、今の状況で出来る、最善を尽くそう」

 応えた声は固かった。大きく広がった血だまりを避けて静かに膝を折り、夕暉は地に伏せる被害者の脈をとる。刃の抜かれた傷口はもう血を流してはいない。ヘルゲの凶刃に倒れた男の心音は、既に止まってしまっていた。

「俺は専門家じゃないから確かなことは言えないけど、同じだと思う。傷口の角度と、それからこれ」

 そう言って夕暉は、刺された皮膚をそっと露出させた。促されるままに顔を寄せる。刺し傷以外には何も変わったところがないように見えた。疑問符を浮かべて夕暉を振り仰ぐ。

「何もないでしょ、刺し傷のまわり。ちょっと見てて」

 言うなり夕暉は懐中していた短刀を、近くに転がっていた犬のヌイグルミに突き立てた。

「ヌイグルミだから多少、分かりづらいけど、あの人の創とちょっと違うと思わない?」

「この左下の、花みたいな痕か?」

「うん、この間、ちょっと気になって教臣さんに確認してもらったんだ。これ、刀下紋って言って、一つ一つ形が違うんだって。島で作る刃物、全部」

「これが同一だと、同じ刃だってことか」

「そう。刀下紋はどんな深さで刺しても必ず付く。指紋みたいに、全てあるはすなんだ。王国で作られた刃物には。それがないのは」

 ハッと、陽は顔を上げた。

「王国外……つまり地上で作られた刃物!?」

「恐らくは。他の痕も確認しよう」

 これまでの被害者を安置している場所へ遺体を運び、全ての遺体を全て検めた。短刀が刺さったままの二体以外、凶器は持ち去られている。

「凶器が抜かれているやつは、刀下紋がない」

「じゃあ、今までのも凶器がねえやつは、アゴの仕業で良いんだな」

「うん、状況証拠はね」

「いいや、夕暉。間違いなくアイツだ。さっきおれたちは、この目で見たろ。アイツが、この人に刺さってた刃物を抜くところ」

 陽は黙って傷口を晒した。

「止めよう、アイツを。一刻も早く」

 事態の収束に努めることを決意したふたりだったが、遅かった。事態は無情にも、予想できない速さで進行していた。


 長い夜が明ける。異変は突如、起こった。

「うわっ」

「地震!?」

 地鳴りのような揺れ。足元から突き上げるような衝撃が響く。不規則な振動に、建物が不気味に軋み鳴いている。ふらつきながらも、夕暉は近くにあった腕を掴んで必死に叫んだ。

「陽くん、外だっ」

 外へ飛び出した陽と夕暉を迎えたのは、信じがたい光景だった。街は一変していた。建物が倒壊し、行き場を失って右往左往する人、わけが分からず呆然と立ち尽くす人。黒く厚い雲が天を覆っている。

「……んだよ、これ」

 道の向こうから走ってくる男を見つけて、陽は叫んだ。

「教臣!」

「陽様、夕暉様!」

 ふたりを認識して教臣は名を呼んだが、その走りは止まらない。目の前を通り過ぎようとした彼を追い、並走しながら短く問うた。

「何事だ!」

「分かりません、けれど異常事態です。わたくしは至急、慈光様の元へ向かいます」

 一息に答えて、教臣は一層、速度を上げた。その後ろ姿はみるみるうちに遠ざかる。ぐんと足を速めた教臣を追いながら、陽は叫んだ。

「おれたちも行くぞ!」

 空を仰ぐ人たちを横目に、王宮へ急ぐ。王宮に近づくにつれ異様さは目に見えて増した。王宮の上空が真っ赤に染まっている。その正体に気が付いてふたりは息を呑んだ。

「竜だ」

 ぬし様に限らず、竜たちは通常、王宮の裏にある深い山奥にひっそりと暮らしている。人前に姿を現すことなど、記憶にも記録にもない。しかもこんな大群をなしてなど。

 次々と山から下りて来る竜たちは時間と共に増え続け、赤い渦になり、狂ったように王宮の上を旋回し続けている。聞いたことのないような、獰猛な鳴き声だ。王国中に漂う不穏な空気。まさに天変地異と称するに相応しい、怪奇な光景だった。

「おい、急ぐぞ」

 足を止めかけた夕暉を陽が呼ぶ。夕暉は頷くと、王宮の中へ飛び込んだ。王宮の長い廊下を全力で駆け抜ける。

 最奥、王の間に続く巨大な扉に辿り着いた時には、激しく肩で息をしていた。常は閉ざされているそれは、なぜか大きく開け放たれていた。厭な予感がした。

「慈光様!」

「父上!」

 叫びながら、教臣と陽が同時に王の間に飛び込む。一足遅れて後を追った夕暉は、勢い余って教臣の背中に激突した。

「んぶっ……ごめん、教臣さん。陽くん?」

 立ちすくんだふたりの名を、夕暉は訝しく呼んだ。肩越しに覗いた先、王座にいつもの快活な王の姿はなかった。慌ただしい足音に、ゆっくりと顔を上げた玉座の男。それが誰だか認識するよりも早く、その男の足元に力なく横たわる人物の姿を視界に入れ、陽たちは同時にひゅっと息を呑んだ。

「ちちうえ」

 呼びかけに答える声はない。変わり果てた姿で横たわる彼の周囲には、ひと目で手遅れだと分かる量の血液が広がっている。大きな体躯を飄然と玉座に沈め、悠然たる微笑みを浮かべていた陽の実父。快活で若々しいのに、どこか翁めいた瞳をした国王だった。予想を超える惨状に絶句した三人へちらりと視線をくれると、男、ヘルゲは軽薄な仕草で鼻を鳴らした。

「フン、甘っちょろい奴らだな」

 肩の辺りに足をかけ、ヘルゲは無造作にゴロリと慈光の身体を転がした。敬意の欠片も感じられないあまりにもひどい行いだ。陽はカッと頭に血が上ったのを感じた。火が付いたように全身が熱くなる。

「野郎……っ」

 引き金を引かれた鉄砲玉のように反射的に飛び掛かろうとした身体を、夕暉が後ろから羽交い絞めにする。陽は喚いた。

「止めんな、夕暉! アイツ、コロス! ころしてやるっ!!!」

「丸腰でどうするつもり。犬死したいの」

「お前……っ」

 冷静な声色が癪に触って、噛み付こうと振り仰いだ夕暉の顔に言葉を失った。全ての感情を押し殺した、温度のない平坦な声が言う。

「人に殺意を抱いたのは、生まれて初めてだよ。出来るものなら、今すぐヘルゲを嬲り殺しにしてやりたい」

 ヒュっと、呑みこみ損ねた呼吸が陽の喉を鳴らした。氷漬けにされたみたいだ。頭が冷えるどころか瞬時に全身が凍った。瞋恚が、人の形をしている。

 夕暉は陽たちと同じだけ、否、それ以上に憤っていた。こんな風に敵意を剥き出しにする夕暉を陽は見たことがない。陽を拘束する腕に乱暴さはない。代わりに激情を堪えて噛みしめた唇からはみるみるうちに血が滲み、一粒、二粒と、涙のように零れ落ちてゆく。爆発的な怒りを内包してなお、冷静に状況を見極めて理性を働かせる。きっと夕暉は困難な状況になる度に、今日と同じようにそうやって最善を模索し、生き抜いてきたのだろう。

 無意識に陽の身体から力が抜けた。

「常に最善を考えて、究極の状態でこそ冷静であれ。そうすることが結局一番、最悪の状況を回避する方法だ」

 夕暉の言葉は正しい。実践に裏打ちされた言葉は説得力がある。けれどいくら分かっていても、陽には無理だ。

「じゃあ、どうすんだよ!」

「……っ、今は、撤退するしかない」

 夕暉の小声に、また怒りが再燃する。

「はあっ!? お前はっ、お前は、殺されたのがお前の父親でも同じこと言うのかよっ」

 夕暉の腕を勢いよく振り払い、振り向きざま胸倉を掴み上げた。一瞬、何かを言いかけて呑みこんだ夕暉は、顔を僅かに歪めて押し殺した声で言った。

「そうだよ。いま向かって行っても無駄死にだ。それで、俺たちの無駄死にでも慈光さんが生き返るんなら、俺だってそうするよっ。でもそうじゃない。仇を取りたいなら尚のこと、こんなところで言い争ってる場合じゃないんだ」

 互いに集中していた夕暉と陽は、もうひとりの同行者の動きに気が付くのが遅れた。夢遊病者のような足取りで、教臣が王座に音もなく歩み寄る。追おうとした夕暉だったが、ぐっと踏みとどまる。陽は自分が飛び掛かろうとしたことも忘れて叫んだ。

「あのバカ!」

「駄目。今、捨て身でヘルゲに近づくのは愚策だ」

「分かってっけど、アイツが」

 小声で反論した陽を目線だけで制し、夕暉は乱暴に血の滴る唇を拭った。左手はすでにさり気なく鯉口を切っている。

 いったい何をしようとしているのか。固唾を飲んで成り行きを見守る。教臣は地に伏した慈光の傍らで立ち止まると、静かに彼を見下ろした。ヘルゲは別段、面白くもなさそうにその様子を眺めている。ヘルゲに従っている兵士たちは腐っても王国民だ。にわか仕込みの兵力には、夕暉たちを拘束したり、近寄って来た教臣を排したりするという発想はないらしい。武器を掲げてヘルゲの座す王座を囲んではいるものの、ぼんやりと所在なさげに佇んでいる。その様子にヘルゲは苛立たし気に眉を上げた。ちらりと陽たちを眇めると、兵士たちに向かって顎をしゃくった。

「おい、お前ら。あいつらを」

「走れ!」

 ヘルゲの目的をいち早く察した夕暉が、陽の腕を全力で引いた。一瞬よろめいた陽も、意図を察して出口へ走る。

 無我夢中で走った。途中ですれ違う王宮仕えの人々が、驚いた顔で彼らを見送った。まだ中枢の異変には気が付いていないのだろう。

 王宮を飛び出したところで、続く足音がないことに気が付いた夕暉が悲鳴を上げた。引き返そうとした夕暉の腕を咄嗟に掴み返す。

「やめろ、戻ってどうなる!」

 視線が交差する。火花が散った。一瞬の間を置いて、ふたりは再び真っ暗な市中に向かって走り出した。


 夕暉たちの走り去った王宮では、王座に反り返っていたヘルゲが、短く息を吐き出した。彼の脇には、側近と定めた兵士たちが立っている。近衛兵とはやはり名ばかりで、みな案山子のように棒立ちのまま、ただただ成り行きを眺めているだけだ。「襲い掛かかってくる者は排除しろ」としか、命じていないからだろう。人が死んだことにイチイチ大騒ぎをしなくなっただけましか。元々、期待はしていない。人と争うという概念のない王国民たちが、武器を人に向けることを覚えただけでも大した進歩だ。もう一度、深く溜息を吐く。

 視線の先では、物言わぬ元王の傍らに教臣が片膝をついて寄り添っている。指一本触れることなく、ただ傍に。片時も外れない視線は、敬虔な信者の祈りのようだった。夕暉と陽は逃がしてしまったが、まあ良い。ヘルゲは気だるげに顎をしゃくってみせた。

「そいつを捕えろ」

 にわか仕込みの兵士たちは、命令を受け戸惑いをあらわした。ヘルゲは知る由もないが、教臣といえば先王と慈光からの信頼も厚く、また長く右腕として尽力してきた、王宮でも絶大な影響力を持つ人物だ。しかしヘルゲの命に従って、ジワリと距離を縮めていく。

 あと一歩で手が届く、そんな距離に寄られてはじめて、教臣が顔を上げた。兵士たちがたじろいだ。思わず後退る。彼らには目もくれず、真っすぐにヘルゲに視線を定めて、教臣は言った。

「抵抗はしない。大人しく囚われてやる。だがその前に、慈光様の御身体を安置させろ」

 そうでなければ梃子でも動かないとでも言いたげな目をしている。ふたりはしばし対話の代わりに視線をぶつけ合った。見上げてくる男の瞳に暴れる意志がないことを見てとって、ヘルゲは目を細めた。

「ふん、良いだろう」

 ヘルゲの返答に軽く目を伏せて目礼とすると、教臣は周囲の者に命じて手際よく準備を整えた。神官を呼び、慈光の遺体を清める。清拭は教臣が丁寧に行った。式典用に誂えられた国王服を左前に着付け、普段通りの装飾を施す。

「慈光様を『守り人の間』へ」

 教臣の指示を受けて、数人の神官が輿を担いで歩み寄った。歴代の王たちが眠る神殿へ、列は静かに進んでゆく。

 見張るためか単なる興味からかついてきたヘルゲは、守り人の間の入口で唖然と立ち尽くした。絶句したヘルゲの目前に広がる光景は、理解を超えるものだった。

 天井の全てが硝子で出来たこの部屋は、眩いばかりの光溢れる美しい部屋だった。外は荒天のはずだ。それなのに天窓の向こうは不思議なことに太陽の光に満ちていた。部屋の中央に、色とりどりの花に囲まれて、大きな赤い金剛石が鎮座している。直径が四メートルほどある、巨大な金剛石だ。キラキラと四方に煌めきを放つ金剛石は球体で、まるで太陽のようだった。

 周囲には、金剛石を守るように円状に座す、歴代王たちの姿がある。男女合わせて八人。その姿は一様に美しく若さを保ったままで、丹精込めて作られた人形のようにも見える。瑞々しく張りのある肌はまるで眠っているだけのようで、今にも瞼を開き動き出しそうだ。

 輿に乗せられた慈光が、しずしずと運び入れられる。並ぶ歴代の王たちは、等間隔に並んでいる。慈光をどこへ運び入れるのかと、ヘルゲは首を傾げた。

 驚いたことに、輿が近づくと、静かに円が広がり一人分の空間が生まれた。魔法のようだ。同時に軽い羽音が響いた。梟くらいの大きさの黒い生き物だ。どこから入って来たのか、近づいてきたそれは小さな竜だった。黒い小さな竜は、音もなく皆の前に降り立つと、見る間に大きさを変えた。教臣たちは、三メートルほどになった竜に驚いた様子もなく、慈光を静かに輿から降ろす。黒竜は新しく開けられた場所で慈光をそっと包むように丸まると、彼の胸元にあった石を咥えパキリと砕く。そしてそのまま石のように動かなくなった。神官たちは膝を折り、短い祝詞を捧げる。

 立ち尽くしていたヘルゲは、祈りを終えた神官たちの退出を見送って、呆然と呟いた。

「……なんだよ、ここ。墓、なんだろ? こいつら、死んでんだよな」

「そうですね、地上の言い方で言えば歴代王墓、ということになるのでしょうね。しかし我々は、ここをハカとは呼びません」

 慈光をじっと見つめたまま、教臣は小さく首を振った。

「彼らは呼吸と心臓、その他の身体の動きを止めただけです。王は死してなお、その荷を下ろす事を赦されない。彼らの有していた金剛石と一体になり、王国を守り続けます。未来永劫、この王国の続く限り」

 強い瞳がヘルゲを射抜く。

「この国で王になるというのは、そういうことなのです」

「……連れていけ」

 大人しく縄を掛けられ連行されてゆく教臣の背を、ヘルゲはじっと見送った。


 一夜が明けた。

 王国の異変は収まらないどころか、一層、深刻さを増している。不気味な地鳴りと共に足元は不規則に揺れ、頭上では昼夜を問わず竜が飛び交う。その空は、眩いほどに晴れたかと思えば、次の瞬間には一転、雷鳴と共に大粒の雨を降らせたりと、天候が全く定まらない。明らかな異常事態だった。

「おい、これは良くあることか。異常な天候、それから足元の揺れと、あいつらだ」

 窓の向こうを指さす。ヘルゲの指先を辿った一人がのんびりと答えた。

「あんなに沢山の竜を見たのは、初めてだなあ」

 同意を求められて、隣にいた男が頷く。

「ああ。お天気も、夜以外で雨が降るのは、今まで見たことがないです」

「足元がこんな風に、ふらふらするのもね」

 笑い合う人々にはまるで危機感がない。ヘルゲの眉間に深い皺が刻まれる。

「何故だ」

「はあ、なぜでしょう。なにせ誰も経験したことがないので、分かりません」

 兵士たちは、一様に首を傾げるばかりだ。

「誰なら判る」

 いっそう苛立ちながらヘルゲは問うた。顔を見合わせた兵士たちのうち、一人がおずおずと口を開いた。

「教臣様なら、判るかも知れません」

「タカオミたぁ、誰だ」

「教臣様は、慈光様の第一秘書で補佐官です。一番この国のことをご存じのはず」

「どこにいる」

「見張りつきで、貴賓室におられます」

「貴賓室?」

 どうしてそんなところにと眉を吊り上げたヘルゲに、長身の男が答えた。

「昨夜、ヘルゲ様が捕らえるようにと仰いましたので」

 ヘルゲは不遜に顎をしゃくった。

「連れてこい」

「畏まりました」

 頷いて、数人が王の間を出て行く。足取りは休憩に行く時と変わらない。飽くまでものんびりとした兵士たちの動作に、ヘルゲは苛立たしく舌打ちをした。

 腕時計の長針が一周するほどもの時間をかけて、兵士たちは彼を連れて来た。引きずるでも追い立てるでもなく、教臣は自分の足で歩いてやって来た。後ろ手に腰の辺りで縛り付けた紐の先を兵士が握ってはいるが、中間は随分と弛んでいる。ヘルゲの頬がひくひくと震えた。忌々しく睨むが、睨みつけられた兵士たちは不思議そうに首を傾げている。

「お前がタカオミだったのか」

 やってきた男の顔を見てヘルゲは言った。百九十センチ近い長身に、銀縁眼鏡の涼やかなこの美丈夫に、嫌というほど見覚えがある。慈光の亡骸に寄り添い、場を取り仕切っていた男だ。ヘルゲは横柄に顎をしゃくった。

「お前、補佐官なんだってな。オレに従うなら、縄を解いてやる」

「断る」

 間髪入れずに教臣は言った。能面の如き無表情で、そこには何の感情も浮かんでいない。ヘルゲの米神がピクリと引き攣る。

「ああ?」

「断ると言っている」

「舐めた口きいてんじゃねえよ!」

 言うや否や、ヘルゲは思い切り王笏を振るった。横っ面を殴られて、勢いを殺しきれずに教臣が転倒する。受け身も取れず強かに身体を打ち付けて教臣は呻いた。

「た、教臣様っ」

「そいつに近寄るんじゃねえ!」

 恫喝に、倒れた教臣を助け起こそうとした兵士が、肩を震わせて硬直する。

「で、ですが」

「口答えするんじゃねえよ!! そいつを手助けしようとするやつは、切り捨てる」

 荒事に慣れていないにわか仕込みの兵士たちは、揃ってその場に立ち尽くした。青ざめて硬直している男達を尻目に、ヘルゲは無抵抗の教臣を足蹴にし続ける。

「オレを誰だと思ってやがんだ!! 舐めたツラしやがって!」

 無防備な腹に、端整な横顔に、何度もつま先がめり込む。衝撃で、大柄な教臣の身体が床から浮き上がる。容赦なく蹴りを喰らって相当痛みがあるだろう。しかし衝撃を殺そうとする様子は全く見られなかった。無抵抗で蹴られるままになっている。

「ヘルゲ様、だ、言ってみろ!!」

 地に這いつくばった教臣の髪を掴み上げ、ヘルゲは口端を歪めた。掴まれた勢いで根元からブチブチと髪が抜ける。口の中を切ったのかプッと血を吐き捨て、教臣は傲然と言った。

「拘束されたままで結構。キサマに従うくらいなら、死んだほうがましだ」

 淡々と、教臣は言った。散々に痛めつけられたというのに、彼の口調には憎しみも苦しみも、どんな感情も現れていなかった。明確で頑なな拒絶、だたそれだけがそこにある。道端に転がる石を視界に入れただけのような、取るに足らないものを見る視線。まるで興味がないと言わんばかりの温度の無い瞳が、ヘルゲを静かに見上げている。この視線をヘルゲはよく知っている。古傷のような記憶がよみがえる。腹の底がカッと煮えた。

「なら、そうしてやるよっ」

 言いざまヘルゲは短刀を引き抜いた。泡を食った兵士がヘルゲの腕に飛びついた。数人がかりで必死に凶器を持つ手にしがみつく。

「ま、待ってくださいっ」

「ヘルゲ様!」

「うるせえ、止めんじゃねえっつってんだろうが!」

「いいえ、どうぞ、お聞きください。教臣様はこの国の頭脳です! 我々の知り得ぬ王国中枢の事情を把握しているのは、慈光様のおられない今、教臣様ただおひとりです」

 その言葉にヘルゲが僅かに逡巡した。教臣はゆっくりと身を起こし、衝撃で飛ばされた眼鏡を拾ってふっと息を吹きかけた。

「王族なしに、我々は王国を維持できない」

「今、この国の王は、このオレだ!」

「王だと言うならば、試してみれば良い。お前が手にしているその王笏で、祈りを捧げてみろ」

「祈り?」

「そうだ。『王族は特別な職務を負っている』そう、誰かから聞かなかったか」

 不意に紗也の言葉が甦る。

― 王族はね、この国を守ってくださっているの。私たちにはできない特別なことなんですよ。

 教臣は、台本でも読むような平坦な口調で告げる。

「王族、殊に王は、王国の維持と安定に必要不可欠だ」

「……どこで、何をする」

「守り人の間、慈光様をお連れした場所だ。その中央に真っ赤な金剛石があっただろう。王はそこで日に三度、特別な呪文を唱えて石に力を注ぎ、王国の力を保っている」

「……にわかには信じがたいな」

「だから試してみろと言っている」

 ひと際大きく地面が揺れた。教臣が叫ぶ。

「誰か、私の執務室へ。恐らく知史実が留守居をしている筈だ。彼に言って『王の職務』という書籍を貰ってきなさい」

 一同は守り人の間へと急いだ。持って来させた書籍の記述を見せながら、教臣はヘルゲに方法を指導する。

「こいつを、読んだら良いんだな」

 中央の金剛石に王笏を翳し、ヘルゲは教えられた呪文の詠唱を始めた。教臣と知史実、そして数名の近侍たちが、少し離れた場所からそれを見守る。

「これで、王国の異変は収まるのですか?」

 近侍の一人が教臣に問うた。教臣ははっきりと首を横に振った。

「異変は、慈光様が亡くなられて王国の維持に必要な日課の呪文詠唱が出来なかったため、王国を維持する力が弱まり起きたものです」

「日課の、呪文の詠唱?」

「ええ、ほとんどの王国民が王族の責務の詳細を知りません。ですが、王国の維持には王族の祈りが必要なのです。王が一日に三度、他の王族はその補助を。……武力で制圧しただけの奴に、王国を保つ力はありません」

 そもそも発音が違うのだ。試してみずとも、結果は火を見るよりも明らかだった。

「では、その、定期的なお祈りがなければ、どうなってしまうのでしょう」

 おずおずと男が尋ねた。一呼吸。教臣は答えた。

「……王国は、間もなく、滅亡するでしょう」

「おい、これで良いのか」

 一通りの呪文を詠唱し終えたヘルゲが振り向く。ヘルゲの問いに、教臣はゆっくりと首を振った。

「いや、基幹石が反応しなかった。失敗だ」

「テキトウ言って、オレを騙してるわけじゃねえだろうな」

 教臣は軽く目を見張る。

「王国が滅べば、私とて運命を共にする。なのになぜそのような嘘を吐く必要が?」

 ヘルゲは忌々しそうに舌打ちをした。

「疑うなら、試してみるんだな」

「今、やっただろうが」

「王子、王女を捕えているだろう。彼女たちをここへ呼んで、先ほどのお前と同じことをさせてみろ。そうすれば解る」

 半信半疑で教臣の言葉に従ったヘルゲだったが、呼び出した紅輪の詠唱の結果を目の当たりにして、目を見開いた。詠唱が始まって間もなくすると、基幹石が仄かに輝き始めたからだ。同時に地面の揺れが小さくなる。手を取り合って喜ぶ兵士たちとは反対に、教臣の表情は厳しい。

「教臣、駄目ですわ。わたくし一人では、到底……。これでは王国の維持には程遠い」

 一時間にも及ぶ長い呪文の詠唱を終えた紅輪は、血の気が引いた唇を強く噛みしめて俯いた。乱れた髪が頬に張り付く。大きく呼吸を乱し額には脂汗が滲んでいる。手足が震え、今にも膝を付きそうな風情だ。

「日華様にもお手伝い頂きましょう」

 小作りの頭が左右に揺れる。

「いいえ、足りません。旭と春日も必要ですわ」

「分かりました。すぐに連れて参ります」

「わたくしはもう一度、詠唱を試みます」

 大きく息を吸い込んでもう一度呪文を唇に乗せる直前に、紅輪は悔しそうに顔を歪めてひとり呟いた。

「兄上なら、きっと……。おひとりで充分だったはずですわ」

 当初は疑い半分だったヘルゲだったが、すぐに認識を改めた。紅輪たちの呪文詠唱で、疲弊する彼らとは対照的に、王国の異変が目に見えて改善されはじめたからだ。

 王座に戻り少し眉根を寄せたのち、ヘルゲは顎をしゃくった。

「おい、そいつの縄を解いてやれ」

「私は結構。それより紅輪様、日華様、旭様、春日様の待遇を改善しなさい」

 教臣の縄を解こうとした兵士を制し、教臣は言った。

「斯様に全力を尽くされて尚、王の力には程遠いのです。けれど彼らが王の代わりに力を注がなければ、王国は立ち行かない。これから文字通り、紅輪様たちは死力を尽くして基幹石に力を注ぐことになります。彼女たちの拘束を解き、力を注ぐことに専念して頂かなくては。力を合わせ、王の仕事を分担して担うようにお願いできますか」

 四人は力強く頷いた。

「当然ですわ」

「……が、がんばり、ます」

「ボクにどこまで出来るか分からないけどね。やってみるよ」

「ハルくんできるよー!」

 それぞれの前向きな返事に、教臣は僅かに笑みを浮かべた。

「重責を負わせてしまうのが心苦しいのですが、どうぞ宜しくお願い致します。詳細は追って、知史実からお知らせするように手配いたします」

 間髪入れずに、周囲へ指示を出す。

「松葉は直ちに守り人の間から近い場所へ四つ、快適な環境を整えた部屋を作ってください」

 指示をされた兵士は、縄の結び目に手を掛けたまま困ったようにヘルゲを仰いだ。ヘルゲが小さく頷く。

「畏まりました。王女様、王子様方は不自由のないように致します」

「有難う、丁重に扱って差し上げてください。私は貴賓室にいる。逃げも隠れもしない。何か不明なことがあれば何時でも聞きに来い」

 後半はヘルゲに向けた台詞だった。ヘルゲが低く呟いた。

「なんでだ」

「何故だと? 笑止。自らが生まれ育ち愛する場所を、誰が無為に無くしたいと思うんだ」

 教臣は吐き捨てるように言った。漆黒の双眸がヘルゲの青を冷たく見下ろす。

「……見張りは、継続するぞ」

「好きにしろ」

 教臣はあっさりと踵を返した。閉じ込めたとはいえ、見張りは一人だけで大した拘束もしていない。本人に全く逃げる意志も抵抗する意志もない以上、拘束する必要がないからだ。誰もかれもが純粋培養の良い子ちゃん。何もかも手ごたえがなさ過ぎてイライラする。ヘルゲは苛立ちを隠さぬ荒い口調で言った。

「一人にしろ。出て行け!!」

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