第8話


 見回りをはじめて数日のうちには、目立った成果は上げられないでいた。事態が動いたのは、月が替わって初めの日のことだった。

 例によって巻き付いていた蝶瑚を丁寧に引きはがし、差し込む朝日に向かって夕暉は大きく伸びをする。

 遠ざけられた蝶瑚は不満そうだ。手足を使ってピッタリと巻き付いているのは百歩譲って諦めるとして、寝間着の下に手を突っ込んでいるのは、どうにかならないだろうか。「頼むからお臍から下は勘弁して」という訴えにより、ここのところおもに胸板が犠牲になっている。大分慣れたとはいえ、寝ている間に忍び込むのは本当にやめて欲しい。

「お前、そろそろ諦めたら」

 広い夕暉の寝台の上、蝶瑚とは逆隣で、欠伸交じりに陽が言った。昨日は話し込んでいるうちに、夕暉の隣でそのまま寝てしまったらしい。

「やだ。俺、朝は爽やかに迎えたい」

「女知らないわけでもねえのに、毎朝騒ぐんじゃねえよ。童貞か」

「やだー、陽くんたら。そりゃ経験の百や二百はあるに決まってるでしょ。君と違って」

「盛り過ぎだろ。何で桁を百にした」

「実はこの腕の傷は、一昨年の命を懸けたロマンスの証でね」

「嘘つけ。それ、マフィアの抗争に巻き込まれた時、親玉と間違われて切られた創っつってたろうが」

 それはどういう状況だ、と壁際の風花は無表情の下、脳内で盛大にツッコんだ。夕暉は神妙な顔で首を振る。

「違う、陽くんそうじゃない。そこは『サザンか』ってツッコむとこなの」

「山茶花?」

「お花じゃないです。歌手です」

「またか。お前なあ、おれに地上ネタのツッコミを求めてくんのは止めろ。しかもどうせお前のことだからまた、知名度低めの曲なんだろうが」

「歌ってる人は凄い有名……ひっ」

 あらぬところを撫でられて、不意打ちに夕暉は飛び上がった。白魚の指が、夕暉の顎をつと撫でる。

「夕暉くんったら、初物なの? やだあドキドキしちゃう。お姉さんで卒業しちゃう?」

「しません。あ、代わりに陽くんをどうぞ」

「やあん」

 陽の方へ押しのけられて、蝶瑚が不満げに唇を尖らせる。豊かな胸元が、陽の顔面に衝突した。陽は眉を顰める。

「生け贄にしようとすんな」

「うーん、陽様は好みから外れちゃうのよねえ。慈光様にそっくりのゴツめの男前になりそうだもの。私、繊細な作りの美人が好きなの」

「おれも蝶瑚は好みじゃねえな」

「え、陽くんにも好みとかあったの」

「おれは、うなじが綺麗で足首が細い、華奢で清潔感があるのが良い」

 陽の答えに夕暉の顔が引き攣る。

「歳に見合わぬマニアックさだった」

「教臣は、腰とケツから太腿にかけてのラインがどうの言ってたぞ。あのむっつり眼鏡」

「うわあ……、教臣さんてむっつりなの?」

「いや、寧ろオープン」

「て言うか、教臣さんとそんな話するんだね。もっと殺伐としてるのかと思ってた」

 陽は真顔で首を振った。

「まさか。知史実と話してんのを聞いた」

「えーと、盗み聞きってことかな」

「おう。吊るされた直後くらいだな。仕返しするのに、なんか弱みねえかなと思って探ってた時にな。ちなみに知史実はチチがデカくて、むちっとしてるのが好きらしい。腋の毛に興奮するとかも言ってたな」

「途中までわりと普通だったのに、最後の気持ち悪っ」

「あとはふたりとも、首が長くて鎖骨が綺麗な美人が良いって」

「なんでも良いけど、知りたくなかったなあ。あと注文が多い」

 夕暉は遠い目になった。蝶瑚がここぞとばかりに夕暉に巻き付きなおす。風花は例によって、ギリギリと音がするほど奥歯を噛みしめている。いつか歯か顎の骨を折りそうだ。

「陽くーん。好みじゃないとか言ってないで助けてって」

「まあ、頑張れよ。おれは朝食作ってくらあ」

 完全に他人事だ。陽は呆れ顔で眺めるだけで助けてはくれない。非情だ。バスルームに逃げ込みながら、夕暉は固く心に誓った。明日からは絶対に、蝶瑚を寝室立ち入り禁止にする。

 身支度を整えて早々に蝶瑚たちを追い出すと、陽たちは遅めの朝食の席に着いた。昼と夜は王宮で用意されたものを食べているが、朝食は陽と夕暉、それから要と音緒の当番制だ。たまに弟妹の誰かが同席したり、ともに台所に立つこともある。今日の朝食は、陽が準備した。コソ練の努力空しく、不揃いに切られた野菜にお手製のドレッシングをかけて、夕暉が「あっ」と顔を上げた。

「陽くん、ご飯食べたら市場へ行こう。王宮の皆への、贈り物を見繕いに」

「贈り物?」

「うん。今月の二十五日は、地上では大切な人に贈り物をする日だから」

 地上学の「催し」の項目で、赤い衣装をきた老人が人々に物を配る絵を見たことを思い出す。陽は少し考えて小首を傾げた。

「買うったって、お前、金ねえだろ」

「うん。大丈夫、陽くんが買うから」

「うん、なんかそんな気ィしたわ」

 夕暉の感覚は独特だ。自分の物は皆の物、しかし皆の物はそれぞれの物と考えているのに、陽の物は例外的に夕暉の物に含まれるらしい。まあ良い。どうせ給金は山ほど余っている。これまでほとんど使ったことがないせいで、王宮の一角には陽の為の金貨が山積みになっているはずだ。口いっぱいに卵焼きを頬張って、陽はあっさりと首を縦に振った。

 その日は風の強い日だった。日は燦燦と降り注いでいるのに、少し肌寒いくらいの気温だ。王国は年中気候が変わらないが、日中と夜間の気温差が十度ほどある。

今日は部屋の大掃除をすると張り切る音緒たちを置いて、夕暉と陽は市場を目指す。

「贈り物って、誰に買うんだ」

「えーっと、コウちゃん、日華ちゃん、旭くん、ハルくんでしょ。それから身のまわりのことをしてくれる人たちと、慈光さん、それから教臣さん」

 斜め上を仰いで、夕暉が指を折る。陽はゲッと顔を顰めた。

「最後のは要らねえだろ」

「一番、必要だよ。一緒に考えて選んでね」

 陽はしぶしぶ頷いた。夕暉が楽しそうに買い物をしている間、全く興味のない陽は、荷物を抱えて「おう」と「いいんじゃねえか」を数時間、躾けられた鸚鵡のように繰り返し続けた。

 市場の最北端の雑貨屋で、可愛らしい揃いの髪飾りを綺麗に包んでもらって受け取る。双子の妹たちへの贈り物だ。これで一通り贈り物は揃った。かなり時間が掛ったがようやく一息つける。

「満足したか」

「うん。荷物を持っててくれて、ありがとう……あれ?」

 夕暉はふと、目に入った人だかりに首を傾げた。

「あっちのほう、なんか騒がしくない」

「行ってみるか」

 陽は頷いた。平和な街がなぜかひどくざわついている。見たことのない不穏な騒めき。胸騒ぎを覚えて、陽は夕暉を置き去りに足早に歩を進めた。


 民衆を掻き分け視界に飛び込んで来たモノに、陽は鋭く息を呑んだ。男が一人、道の端に倒れている。俯せに伏せた男はピクリとも動かない。

 あり得ない。陽は呆然と呟いた。周囲の騒ぎにも関わらず静かに横たわる男。彼がもう息をしていないということは、言われるまでもなく明白だった。肉厚の背中には短刀の柄が生えていた。

 誰もが立ちすくむなか、夕暉はさっと倒れた男へ近づくと膝を折り、彼の顔を覗き込む。手早く瞳孔を調べ、呼吸と心音を確かめると、陽に向かって首を振った。

「だめだ、死んでる」

 ヒュッと誰かの喉が鳴る。夕暉は彼の傍にしゃがみ込んだまま、群衆を見回して言った。

「皆、この場から出来るだけ動かないで。誰か、王宮に行って教臣さんを呼んできてください。『夕暉が緊急で呼んでいる、大至急、非常事態に順応出来る人を多く連れて来てください』と一言添えて」

 誰もが動けずにいるなか、夕暉の冷静な声が響いた。その声に弾かれたかのように、人々は動きを取り戻す。じわりと死体から距離をとるように、放射線状に人の輪が広がった。何人かが王宮へ向かって走って行く。

「どなたか、この男性が倒れるところを見た人、現場に遭遇した人、それから彼のことをご存じの方はいらっしゃいますか」

 輪の所々でおずおずと手が上がる。夕暉は陽を振り仰いだ。

「陽くん、彼らを取りまとめて、そうだな、中央にある集会所で待っていてくれる?」

 陽が頷く。間髪入れずに問う。

「分かった。何を聞いておけば良い」

「聴取しておいてくれるの?」

「その方が、時間が無駄になんねえだろ。態々お前が来なくても、聞き纏めてお前のとこに戻る。書記として要を借りるぞ」

 いつの間にかそこに立っていた要を顎でしゃくる。近くにいたようで、騒ぎに気が付き駆けつけてきたものの、即座に状況が把握できずに立ち尽くしていたらしい。真剣な表情で夕暉を見下ろす陽の冷静な口調が頼もしい。夕暉は要を見上げて言った。

「要くん、陽くんの補佐、お願い出来るかな」

 要はこっくり頷いた。心なしか顔が青ざめている。陽は要の様子に眉を上げたが、すぐに踵を返し、群衆に向かって大声を上げた。

「よし。おい、こっちだ! 心当たりのある奴、取り敢えず全員、おれについてこい」

 手を挙げた面々が陽に続く。

「陽くん、どの位置で誰が何を見たのか、思い出せる限りの情報を聞いて纏めてくれる!?」

 背を向けたまま陽は黙って親指を立てた。頼もしい背中を見送って、騒めく人々をじっと観察していると、間もなく大声が響いた。

「夕暉様!」

 人々をかき分けて、教臣が現れる。夕暉は死体の横にしゃがんだまま、彼に向かって手を挙げた。

「教臣さん、こっちです」

「これは」

 血に伏せた男を見下ろして教臣は絶句した。メガネの向こうの眦は限界まで開かれていて、今にも眼球が零れ落ちてきそうだ。激しい混乱が、顔色に如実に表れている。だが流石に王国事務方トップだけあって、顔色以外は普段通り落ち着いた風を装っている。群衆には聞こえないように声をひそめて夕暉は言った。

「他殺です。誰かに背後から刺されて、殺されています」

「何故。誰が、いったい何のために……」

 夕暉は首を振った。

「分かりません。だからこそ、それを早急に明確にしなくてはなりません」

「どう、致しましょうか……」

「現場保存、情報の収集、犯人の迅速な確保を。いま、陽くんが目撃情報を聞き出して纏めてくれています。俺は今からここを調べます。教臣さんは、俺と一緒にここを検証しましょう。現場保存を今すぐ取り仕切ってください」

 夕暉は素早く周囲を見渡して言った。

「恐らく皆、まだ何が起こったのか良く分かっていない。一刻も早い事態の収拾に努めましょう」

「は、い」

 気の入っていない返答だった。どうも良くない。返事をする教臣は、機械的に頷いているようにしか見えなかった。まだぼんやりと死体を見下ろしている教臣に向かって、夕暉は声を低めた。

「動揺するのは分かります。だけど切り替えて。貴方はこの国の中枢にいる人でしょう。教臣さんがしっかりしなくては、王国民はどうしたら良いのですか」

 教臣はハッと顔を上げた。切れ長の双眸を真っすぐに見つめる。小さな子供に語り掛けるような口調でゆっくりと言った。

「ひとつ、お伺いします。人が殺されるのは、王国では滅多にないことなんですね」

 夕暉の問いに教臣はハッキリと首を振った。頷く瞳には、普段の理知的な光が戻って来はじめている。

「稀なことではありません。絶対にあり得ないことです。本当になぜ、こんなことが」

 夕暉は眉根を寄せた。

「我々はそれを解明する必要があります。出来るだけ早急に。俺も専門家ではないですが、きっと王国の人たちよりはすべきことが分かると思います。任せて貰えますか」

「願ってもないことです。お頼み申し上げます」

 教臣は姿勢を改めて深々と頭を垂れた。

 手早く現場の周囲にロープで規制線を張る。立ち入り禁止の札と、数人の見張りを立たせて、教臣とふたりで現場を検証した。同時に絵師を複数呼び、写真の代わりに何枚かの絵を書かせておく。

 数時間かけて現場を検証したのち、遺体は別の場所へ安置することにした。不慣れながらも、なんとかそれなりに地上の真似事が出来た。執務があるという教臣を一足先に帰らせて、夕暉は肩を撫で下ろす。

「夕暉!」

 呼ぶ声に顔を上げると、情報収集していたはずの陽の姿があった。小走りに駆け寄ってきた陽に尋ねる。

「どう。情報は集まった?」

「ああ、……いや、うーん」

 夕暉の問いに一度は頷いたものの、一瞬考えた陽はなぜか首を傾げた。どうにも煮え切らない。

「情報の量だけなら集まった。でもだからこそ余計に分からねえ。かなり情報が食い違ってるんだ」

「どういうこと。記憶違い、それとも誰かが嘘を言っているってこと?」

 嘘という単語に陽の眉根が寄る。

「王国民に限って、それはねえ筈なんだが。記憶違いはあるだろうけど。ウソ、なあ」

 訝しく首を捻った夕暉を、陽は真っ直ぐに見つめた。

「夕暉、『ウソ』って単語は王国にない。嘘っていうのは日本語だ。おれと夕暉、それから教臣以外には通用しない。それ以外にも、おれたちは普通に喋ってたけど他の奴らには解らねえ単語はいっぱいあったんだ」

「どういうこと」

 夕暉はしばし言葉を失った。すぐには意味が飲み込めなくて、眉間に皺が刻まれる。陽は首を傾げる夕暉の背を軽く押して、帰宅を促した。

「取り敢えず王宮に戻りながら話そう」

 素直に王宮へ足を向けた夕暉に並び、陽は小声で言った。

「おれと教臣は、子供の頃から『地上学』に親しんでいる。王族やその周辺では、慣習的に地上を学問するんだ。この国は恒常的に平穏で、王国民は漏れなく過不足なく満たされているから。……例えるなら、全員が、無垢な赤ん坊の精神のまま成長している国、って言えば良いか。だからそれを守るために、王族と上層部だけが地上学で負の部分を学ぶんだ」

「王国は、澄み切った水なんだね」

「ああ、だからこそ今、僅かな穢れが致命傷になり得る。おれたちが何とかするしかない。取り返しのつかなくなる前に」

 王宮に戻ると、ふたりは急いで共有にしている私室の人払いをした。市中での事件について話し合うべく、教臣と従者たちにむけて使いを出す。ほどなくして音緒が戸を叩いた。

「夕暉様、お呼びですか」

 見覚えのない青年を伴ってやって来た音緒に、夕暉が尋ねる。

「あれ、要さんは?」

「お母さまがご病気だとかで、今日は朝からご様子を見に行かれていましたので、またそちらに」

「そっか」

 夕暉が頷いたのと同時に、出入り口が再度開いた。

「お待たせいたしました。夕暉様の冷静な対応のお陰でひと段落いたしました。有難うございます」

 教臣が頭を垂れる。

「あのような、異様な人死にを見て動揺なさらないのは、凄い」

「うーん、動揺しなかった訳ではないけど」

 何かを言いかけて、夕暉が不自然に口ごもる。

「けど?」

 続きを促され、夕暉は困ったように柳眉を下げた。続いた台詞に、居合わせた面々は揃って絶句した。

「俺の目の前で、親友が地雷を踏んで、木端微塵になっちゃったことがあるから」

 長い睫毛が蝶の羽ばたきのように柔らかく瞬いて、窓の外へ視線が飛んで行く。

「運が悪かったんだ。偶々、対車両の凄く威力の強いのを踏んじゃって……。普通は人が踏んでも作動しない筈なんだけど、装置が狂ってたみたい。それで全身が木端微塵。一瞬の出来事だったよ。密集した地雷原だったから、うかつに近づけなくて、遺体はほとんど拾ってやれなかった」

 台本でも読んでいるような淡々とした声が響く。外を見つめる優しい瞳はきっと、もっと遠くを見ている。どんなに望んでも決して戻らない過去に目を眇める横顔は、静謐だった。誰もが言葉を紡げず、息を呑んで夕暉の話に耳を傾ける。

「皆で必死に一週間探し回ってね、やっとの思いで回収できた一番大きいパーツが、左手の親指だよ。それも第一関節から先だけ。あまりにも現実離れしてたから、悲しむのを通り越して、何が起こったか結構しばらくの間、理解出来なかったよ。悲しみが過ぎるとね、感情が麻痺するみたい。でも肺の辺りがね、永久凍土になったみたいにずっと凍ってるんだ。冷たくて、息苦しくて、寒い」

 左腕がそっと胸の辺りを撫でさする。

「何回も人が死ぬ場面に遭遇したけど、クドラトの時が一番堪えたな」

 亡き親友の名を呼んだ時だけ、夕暉は微笑んだ。月見草のような幽かな笑みだった。

「どっちも同じ、人が亡くなってるんだから、比べちゃ駄目なんだけどね。でも今日の彼は五体揃ってたからまだ、そんなに動揺せずにすんだ」

「夕暉……」

 陽は思わず小さく彼の名を呼んだ。何を言おうとしたのかは自分でも分からない。もうそれ以上、喋らせてはいけない気がした。けれど名前を読んだきり言うべき言葉を見つけられずに、陽は唇を噛む。遠見の目はまだ戻らない。優しい瞳にはいまきっと、在りし日の親友の姿だけが映っている。

「刺された創以外は、綺麗な状態で奥さんに会わせてあげられて、まだ良かった」

堪えきれず音緒が俯いた。小さな嗚咽が漏れる。隣では不在の要の代わりにやって来た青年が、顔を真っ青にして佇んでいる。固く引き結ばれた唇は小刻みに震え、傍らの音緒を気遣う余裕もないらしい。

「絶対に忘れはしないけど、普段は考えないことにしているんだ。それでも偶に、ふとした時には考えちゃうんだけどね、クドラトのこと。視界も利かないような雨の夜は、特に。雨宿りしてたりすると、ひょっこり戻ってきそうな錯覚を起こすんだ」

 陽はハッとして瞠目した。唾液を上手く嚥下し損ねて、グルリと喉が奇妙な音を立てる。

「雨はね、哀しみに優しいんだ。時折思い出して悲しむ時に、静かに寄り添ってくれるんだよ」

 そう呟く声は、そぼ降る雨だった。びしゃびしゃの顔を拭いもせずに、体当たりするような勢いで音緒が夕暉に抱きついた。そうしてそのままワンワン声を上げて泣きじゃくる。胸元にしがみ付いて、ぽろぽろと大粒の涙を零し続ける音緒の頭を、夕暉はそっと撫でた。

「ごめんなさい。今する話じゃなかったね。大丈夫、もう辛くないよ」

 辛くないと夕暉は言うが、それは違うと陽は思った。

 ただ麻痺してるだけだ。経験の多さ故に、痛みを訴える心を抑え込み、自制しているだけだ。哀しくない、辛くないと言い聞かせて蓋をして。大切な思い出と一緒に丁寧に包んで、普段は心の隅へ追いやって。そうしないと哀しみの大きさに圧し潰されてしまうから。

 無邪気に笑う、夕暉の強さが悲しい。けれどそれ以上に、掛ける言葉を持たないことが悔しかった。こんなにも、自分の圧倒的な話力のなさを悔やんだことはない。一切の言葉を失って、陽は折れそうなほど強く奥歯を噛みしめた。

「ありがとう、俺の代わりに泣いてくれて」

 力いっぱい巻き付いてくる音緒の頭を柔らかく抱きしめて、夕暉は静かに礼を述べた。音緒の慟哭がいっそう激しくなる。一向に泣き止みそうにない音緒を困った顔で見下ろして、夕暉はちらりと壁際に視線を遣った。

「ごめん、音緒くんと一緒に行ってあげてくれるかな」

 はっと顔を上げた青年は、操り人形のようにぎこちなく頷いた。

泣きじゃくる音緒を退出させ、三人だけになって夕暉が微笑みかけてくれるまで、結局、陽は指一本動かすことが出来ずに立ち尽くしていた。

「話が反れてすみません。気を取り直して、改めて話し合いましょう」

 夕暉の言葉で、再び円座に向き合った。壁際には退出してしまった音緒たちの代わりに、知史実と彼の補佐役が控えている。

 教臣と夕暉が真剣に対応を話し合っている最中、陽の脳内には発することのできなかった数多の言葉たちが、グルグルと渦巻いていた。目の前で交わされている会話が、全く頭に入って来ない。机の上で一点を親の仇のように睨みつけて一言も発しない陽に、案じる二対の視線が頻繁に寄せられたが、考え込む陽の視界には少しも入らなかった。

「しばらくは一応、警戒して巡回をするように致しましょう」

「どこまで効果があるかは分かりませんが、そのほうが良いと思います」

「直ちに見回り隊を結成します。指導は、お力添えいただいても宜しいでしょうか」

「勿論です。結構人数を集めないといけませんね。三人一組で行動してもらわないと」

「三人も同じ場所に、固まってですか」

「凶器を持っているかもしれない相手です。それに王国の人は対応できますか。三人いれば、ふたりで立ち向かう間に一人が助けを呼びに走れます」

「分かりました」

「それと、見回り部隊を結成するのとは別に、俺たちも見回りを継続しようと思います。……陽くん?」

「なあ、喋れよ。今度、気が向いたらで良い」

「え」

 ようやく口を開いたかと思えば唐突な陽の発言に、夕暉がパチリと瞬く。

「聞かせてくれ。お前の覚えている、クドラトの話。どんな奴だったのか。お前と何をして、どんな話をしたのか。おれは知りたい」

 ほんの瞬きの間、刹那、顔を歪ませたのち、夕暉は笑った。嬉しそうに、それでいてどこか泣き出しそうに。

「凄く気の良い奴だったんだ。生きていたらきっと、陽くんも仲良くなれたと思うよ」

 陽は至極、真面目な顔で首を振った。

「ウン。多分それはねえな」

 第一まず、言葉が通じないので。

 夕暉は何とも言い難い顔になった。ゴホンとワザとらしい咳払いが響く。

「話し合いに戻らせて頂いても宜しいでしょうか、王子様方」

 眼鏡の奥の瞳が、気まずそうに歪んでいる。

「ハイ」

「……悪い」

 夕暉はぎこちなく身を縮め、陽は意味もなく頭を掻いた。

「取り敢えず原因究明が進むまで、当面は警戒態勢を敷くとして、明らかに可笑しいですよね」

「はい。王国は変質している、と評して良いと思います。王国有史以来、これまで血が流れることなどありませんでした。それなのにここのところ、王国各所で争いが起き始めています」

 教臣の返答に、夕暉はきつく眉根を寄せた。腕組みをして天を仰ぐ。

「今回の人は他殺で間違いないとは思うんだけど、王国の人が他人を殺すなんてあり得るのかなあ」

「ひとつずつ、可能性をつぶしていきましょう」

「はい。まずは、事故」

 頷いた夕暉は「一つ」と人差し指を立てた。教臣の眉が上がる。

「アクシデントで、背中に刃物が? 無理がありますね。彼が、自身で……いえ、こちらの方が、より無理がある」

「何かの実験、手品の練習に失敗した」

「それらは事故に含めて良いでしょう」

「うーん。どう考えても候補は、事故・自殺・他殺の三つかあ」

「事故と自殺はやはり、背中に短刀が深々と刺さっている以上、考えにくい。状況は間違いなく他殺ですが、その場合に問題となるのはただ一点、王国民に人を殺す理由がないと言うことだけですね」

「そもそもあの刃物は何だ。変わった形してたけど」

「変わった形って、短刀が?」

「タントウ?」

 夕暉と陽の間で疑問符が飛び交った。教臣が言い添える。

「王国では太刀と刀、他には包丁くらいしかないのです。あれは鍛治屋町一と名高い刀工の最近鍛えた短刀ですね。直接、彼女に確認も取りました」

「鍛治屋町?」

 聞き慣れぬ町名に、夕暉が首を傾げる。

「見回り用に、夕暉様の刀を誂えたのもそこですよ。最も王国の中枢から遠い、外れの町です。東の技術区から更に数キロ北東に位置します。たまに、島ごと行方不明になりますが」

「島ごと行方不明?」

「鍛治屋町は離島なのです。数年に一度、時空の波の影響で、王国と離れては別の国と多く接触するので、王国のなかで最も他国との交易が盛んな街です」

「そんな地域があるんですか」

「ええ。王国には周辺に浮遊する、幾つかの島があります。島は、中央に増してのんびりとした気質の者が多い場所です。『武器』になり得るものを生産する土地とは言え、『悪事』に使うなどあり得ない。そんなことがあれば、王国の存在は根底から覆ってしまいます。だから、どうしても分かりません」

 沈痛な面持ちで、教臣がゆるゆると首を振った。指先が苛立ちを示すように机を弾く。王国屈指の優秀な頭脳で以てしても、事態の原因を解き明かせなかったらしい。

「あとは、王国に不測の異分子が入り込んだとしか」

「それだ!」

 ため息交じりに何気なく呟かれた教臣の言葉を遮って、陽が叫んだ。勢い良く立ち上がった拍子に倒れた椅子が、後ろに控えていた知史実の股間を強打する。予想外の攻撃を受けた知史実は、衝撃に崩れ落ちて悶絶した。彼の従者が、あわあわと気遣う。

 夕暉がキョトンと自分を指さした。

「異分子って、もしかして俺?」

「違えよ、バカ」

 間髪入れずに陽の平手が飛ぶ。

「痛い!」

 それを向かいで眺める教臣の顔には「何言ってんだコイツ」と書いてある。ふたりにとっては夕暉が異分子だというのは有り得ないことらしい。真剣な表情で、陽はずいっと身を乗り出した。

「なあ、地上に置いてきたはずのマリーが居るの、今思えば変だと思わねえか」

「この犬は、地上から来たんですか!?」

 教臣がカッと目を剥いた。夕暉の膝に頭を預けて微睡んでいたマリーがちらりと視線だけで教臣を見上げる。彼女の頭をなでながら、夕暉はこてんと首を傾げた。

「え、はい。言ってませんでしたっけ」

「全く、伺っておりません」

「すみません」

 教臣の常にない剣幕に、夕暉は反射的に謝った。腰の引けた夕暉の様子に、教臣は浮かせかけた尻をそっと椅子に下ろすと、小さく首を振った。

「いえ、こちらこそ確認もせず、申し訳ありません。しかしそうですか、あの犬が地上から。変ですね」

「今考えるとおかしすぎる。前代未聞だ。夕暉のことと、おれの王位継承権剥奪の騒ぎのせいで、気にする余裕がなかったけどな」

「ねえ、俺はほんとに異分子じゃないの」

 改めての問いに、陽は首を横に振った。

「王国に、『夕暉が異分子だ』という認識はないと思う。お前が王国に入った時の待遇は、第一王子の賓客だからな。あの時点では一応」

 陽の台詞を受けて、夕暉は教臣を見た。

「夕暉様は異分子ではあり得ません。金剛石をお持ちでしょう。王国の認識で、貴方は間違いなく王族です。したがって騒動の原因だとは考えにくい。何と言っても、ぬし様が直々に地上まで来られましたからね。客人というよりも寧ろ国王待遇、いえ、慈光様でも迎えに来て下さるかどうか」

 教臣は眉間を寄せて顎を擦った。不機嫌そうに陽が夕暉を見上げる。

「なんでいちいちコイツに確認すんだよ」

「いや、だって君、世間知らずだもん。温室育ちのお坊ちゃんよりも、王国の事務方トップの教臣さんのほうが絶対に、王国のシステムに詳しいに決まってるじゃん」

「そんなことねえよっ。おれだって一通りの教育は受けてるわ」

「いやいや、別に君が知らないのが悪いとは言ってないから」

「なんだ、悪口じゃないんですか」

「悪口じゃないですよ。というか教臣さんは何でそんな残念そうなの」

「陽様に面と向かってハッキリと仰ることの出来るのは、夕暉様だけですので。どんどん貶して頂きたい」

 笑顔が輝いている。弾けんばかりの満面の笑みだ。夕暉は半目で彼を見上げた。

「教臣さんも、言いたい放題じゃないですか」

「いいえ、私の言葉では、陽様も素直にお聞き入れ下さいません。取りに足らない雑音だとでもお思いでしょうよ」

 神妙な顔つきで首を振る教臣だが、明らかに目の奥が笑っている。教臣が冷静沈着で、常に無表情だと思っていたのは間違いだった。見かけの印象を裏切って、案外、彼は柔軟で茶目っ気がある人だ。扱いの難しそうな陽の教育係を一任されているだけのことはある。

「夕暉様の御言葉だからこそ、陽様の心に届くのです。甘やかされてばかりでは、教育に良くありません。たまには真実を指摘されないと」

「教育って、おれ成人してんだけど」

 拗ねた顔で唇をへの字に曲げた陽の顔を覗き込み、夕暉は優しく言った。

「人には得意分野と役割分担があるからね。だから王国で一番詳しい教臣さんに確認しただけだよ。餅は餅屋ってね。他意はない」

「夕暉様は本当に、陽様の転がし……いえ、扱いに長けていらっしゃる」

 教臣は胸元でパチパチと手を叩いた。

「お前ホンット、いつかクビにする」

「おや、陽様にはもうそんな権利はございませんよ。残念でしたね」

 ベエと真顔のまま舌を出した教臣に人差し指を突き出して、陽が喚く。

「おい、夕暉! 今すぐこのクソ野郎を即刻クビにしろよ!」

「えー、やだよ。王国の頭脳でしょ。そんな人、クビに出来るわけないじゃん」

 夕暉は肩を竦めた。教臣が大きく咳払いをする。

「ともかくこの犬が王国へ入ってしまっていることに、今回の件の手がかりがありそうですね。もう少し良く、調べてみましょう」

 ふたりは深く頷いて同意を示した。行儀よくお座りをして、千切れそうなほど尻尾を振っているマリーの胸を撫でながら、ふと、夕暉は言った。 

「俺たちは、確かにマリーをヴィラに繋いで置いてきたよね」

 頷いた陽がハッと目を見開いた。彼女のリードが柱にしっかりと巻き付けられていることを、最後に確認したのは陽だ。

「なあ夕暉、おれは確かに定位置に繋いだ。マリーは、自分であれを外せんのか」

「あのリードは、人間の手を使わないと絶対に外れないはずだよ」

「じゃあ、誰かが外しやがったんだ。何らかの目的で」

「でも、なんでそんなことを」

 夕暉と陽は揃って首を傾げた。教臣が呟いた。

「いや、分かるかもしれません」

「え?」

「あの時点ではまだ、陽様が王位を継ぐ立場にありました。そして夕暉様の王国への適正は非常に強い。おふたりに縁のあるものがあの場に居合わせていたとしたら」

「まさか」

「地上の誰かが王国に入り込んでいる?」

 三人は、勢いよく顔を見合わせた。

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