第7話
教臣が持ってきてくれた簡単な朝食だけ口にして、陽と夕暉は連れだって王宮へ向かった。心なしか足元の弾んだ陽がずんずん先へ進んでしまうので、気づけば後ろを歩いていた教臣と並んで歩いていた。何気なく見上げた横顔で日の光を受けて銀縁が光る。
「教臣さん、メガネ似合いますね」
「そうですか? ありがとうございます」
「王国のメガネは、地上と同じなんですか?」
「どうでしょうか」
夕暉の言葉に一つ瞬いて、教臣は首を傾げた。銀縁のそれを外し、夕暉に渡してくれる。受け取ったそれを掛けてみた。
「掛けた感じは一緒かな。てか度キツっ」
頭痛がしそうなほど度がきつい。夕暉の声で振り返った陽が、思い切り噴き出した。
「お前は全然、似合わねえな」
「そうなんだよねえ。サングラスも掛けたら『ハワイの勘違い日本人』みたいになっちゃって。教臣さんは外しても格好良いですね」
「おや。わたくし、口説かれてます?」
「いいえ、口説いてません」
夕暉は真顔で首を振った。
「大変、申し訳ないのですが、お受け致しかねます」
「微塵も口説いていませんが」
「お気持ちはとても嬉しゅうございます」
「やだ、この人、話通じない。怖い」
陽に駆け寄って訴えた。袖を引かれて振り返ったようの目が悪戯っぽく煌めく。嫌な予感に身を引くよりも早く、陽はおもむろに優雅な手つきで夕暉の手を取った。
「安心しろ、夕暉。その陰険メガネの代わりに、おれがお前を貰ってやる」
「なんで俺が貰われる方なの。いやですけど!? 悪ノリ止めて」
恭しく取られた手を振り払う。陽は腹を抱えて爆笑した。教臣もそっぽを向いて堪えきれぬ笑いに肩を揺らしている。遊ばれた。見かけに寄らず、教臣はノリが良い。
「俺はいずれ、小川アナみたいに上品な美女を貰うんで」
「オガワーナとはどなたですか?」
「知らね」
「ほんとに腹立つなあ。ちょっと陽くんも掛けてみ」
陽はされるがまま大人しく蔓を耳に掛けられた。
「うーん。陽くんも、あんまり似合わないね」
話をしているうちにいつの間にか王宮についていた。入口に旗を差し込む教臣を置いて、陽はスタスタ中に入っていく。夕暉もそれに続いた。突然「あっ」大声を上げた陽が、突然廊下を右に曲がって勢いよく走り出す。
「陽く……ぅおっ」
慌てて後を追おうとした足元が滑る。足を取られつつも、素早く体勢を立て直して、夕暉は陽を追った。
「危なっ、転びそうだった。床めっちゃ滑る」
「掃除当番が張り切ったんだろうな。珍しくワックスかかってら」
「陽くんが急に走るから、焦った」
「悪い。父上の旗印がこっちに掲げられてたんだよ」
「旗印?」
「ああ。春日たちが来た時、玄関先にそれぞれ掲げてたろ。そんで、さっき教臣が王宮の入口で掲げてたのがお前の旗だ」
「そんなのしてた?」
夕暉は首を傾げた。己の旗があるとは、今まで知らなかった。
「有事に備えて己の居場所を明示する。振りの長さと同じで王族の義務だ。それが王座じゃなくて広間のほうに刺さってたからな」
陽が広間の入口を指さす。確かに複雑な模様の旗が掲げられている。あれが当代の王紋らしい。夕暉はふうんと頷いた。
「それよりさっきの廊下、危ないから『滑ります』って立て看板でも置いといたほうが良くないですか。教臣さん」
期待した返事がない。疑問に思って振り向くと、背後の長身がない。
「あれ? 教臣さんは」
「お前がさっき滑ったとこ」
「うん」
「そこで音もなく転んで、廊下の向こうのほうまで凄い勢いで滑って行ったぞ。冷凍マグロ滑らしたみてえに」
「え、そんで陽くんは、それを黙って見送ったの」
「おう」
「酷くない? 助けてあげようよ」
「ほっとけ。どうせ『ここで無駄に騒ぐのは格好悪いです』とか考えたんだろ。悟り顔で『気を付け』の、凄え良い姿勢で滑ってった」
「何それ面白い」
想像するとかなり可笑しい。ぜひ見てみたかった。気づかなかったのが悔しい。
「まあ良いや。仕方ないから戻ってくるまでは、これを教臣さんだと思うことにしよう」
掌にメガネを乗せて掲げる。実はまだ返せていなかったのだ。
「今日から、あいつの本体はメガネってことにしようぜ」
真っ白な歯を覗かせて陽は言った。非常に嬉しそうだ。教臣への塩対応はぶれない。
「失礼いたします。陽、並びに夕暉が入室いたします」
開け放たれた広間の入口で立ち止まり、陽は姿勢を正して言った。と同時に何かが物凄い勢いで飛んできた。
「陽!」
「父うえぶっ」
陽が呻く。飛びついてきたのは逞しい体躯を持った男性だった。国王の慈光だ。太い腕に抱き込まれて、陽の足が完全に宙に浮いている。夕暉は思わず呟いた。
「逆トトロ」
「良く無事で帰って来たな」
彼は抱き込んだ陽の頭を勢いよく撫でまわした。陽の頭上は一瞬で鳥の巣だ。陽に喋る暇も与えず抱き上げたままクルクルと回転している慈光は、よほど感極まっているらしい。高速「高い高い」状態にされた陽の目が死んでいる。
「流石だ。義父様と教臣の薫陶を受けていたからだな」
陽は半目で答えた。
「二億八千万歩譲っても、教臣からは受けてねえ」
「地球一周分の譲歩かあ」
「そうなると結局元の場所ですから、譲る気ゼロですね」
背後から聞こえた台詞に振り返る。転んで廊下の端まで滑って行ったはずの教臣だ。無事に戻って来たらしい。
「こちらはお返し頂きます」
本人の代わりとして掌に乗せていたメガネを回収される。
「大丈夫ですか? 怪我してないですか」
「問題ありません。やはりハッキリ見えないと駄目ですね。お恥ずかしい限りです」
夕暉はバツが悪そうに眉を下げた。夕暉がメガネを借りていなければ、恐らく転ばなかった。
「すみません」
「いえ、皆にはぎょっとした顔をされましたが、特に問題はありません」
数分に渡って陽を振り回し、ようやく興奮が治まったらしい慈光がやっと息子を地面に下ろす。
「地上はどうだった。勉強した通りだったか?」
優しく問いかけられて、陽は近づいてくる夕暉を指さした。
「こいつが居なきゃ死んでた」
「やだ、陽くんがデレた」
「デレてねえけど」
「照れちゃってー。でも俺が居なくても、陽くんだったら、ピラニアの生簀とかに落ちても生き残れそうだよね」
「その場合は、逆にピラニアが絶滅してしまうのではないでしょうか」
真剣な顔で教臣が言う。
「お前らの中で、おれは何なの」
「んー、最も絶滅に遠い生き物」
「少なくとも、五次元が滅んでも一人で生き残れそうな生物、ですかね」
「おれの生命力はゴキブリ以上か」
半目の陽に、真面目な顔で教臣が言った。
「陽様、ゴキブリさんに謝罪してください。失礼ですよ」
「オメーの方が百億万倍、おれに失礼だわ!! お前が謝れ!」
噴火の勢いで陽が喚く。夕暉はニコニコと目を細めた。
「大丈夫、ゴキブリより陽くんのほうが格好良いから」
「ええ、陽様ときたら、見た目だけは極上ですからね。クリオネ?」
「殴って良いか、こいつら。つか、お前ら結託すんの止めろ」
慈光はにこにこと三人を見ている。楽しそうな瞳と目が合って、夕暉はパッと頭を下げた。
「ご挨拶が遅れてすみません。はじめまして、夕暉です」
慈光は眩しそうに目を細めた。
「ああ。王国服が良く似合っているよ。そうだ、陽、夕暉。今日の昼食はどうするんだ」
夕暉と陽は思わず顔を見合わせる。
「まだ何も考えてません」
「さっき朝食食ったばっかだしな」
「ならば、共に王宮で食べよう。私もお前から地上での話が聞きたい」
慈光は子供のように目を輝かせた。
「おう!」
無邪気な顔で陽は笑った。
昼食の席で、陽の口数はこれ以上なく多かった。得意げに地上での経験を語る陽を優しく見つめて、慈光は言った。
「ふたりとも、早く王宮へ戻っておいで」
楽しみにしているよと、慈光は笑った。
慈光の元を辞し、王宮から出て空を見上げた陽は思わず眉を寄せた。
「変な空だな」
「雨降りそうだね」
陽の台詞に同じく空を仰いだ夕暉が首肯する。朝からスッキリとしない空だった。王族の力で制御されている王国の天候は、日中、急に雨が降ることなど皆無なはずだ。陽は首を捻った。重そうな灰色の雲が、ポツリポツリと雫を零し始める。それはみるみるうちに豪雨に変わった。
「走ろう!」
夕暉が叫ぶが早いか、ふたりは揃って全力で家に向かって走った。経験したことのないようなにわかの斜雨に、王国の人々が右往左往する。篠突く雨だった。
「今日は雲が安定してるんじゃなかったのかよ」
ぐっしょりと雨を吸った振りを軒先で絞りながら、陽は空を見上げた。玄関先で帯を解き始めた陽の肩を叩いて夕暉が窘める。
「こら、外で脱がないの」
「はあ? こんなクソ重いもん着てられっか。家ン中が濡れるより良いだろうが。あとで掃除する手間が省けっぞ」
言い返しながら、袖も引っこ抜く。潔く下着だけになってしまった陽を見下ろして、夕暉は額に手を当てた。
「いや、そういう問題じゃないです。まだ外だから、ここ」
「うるせえ」
着衣のままちんたらと袖を絞っている夕暉を置いて家に入り、風呂場でバスタオルを手にすると、玄関へ引き返す。戻って来た陽をキョトンと振り返った夕暉の顔へ、一枚、放ってやった。
「んぶっ……、あ、ありがと」
バスタオルは狙いを過たず、夕暉の顔面に勢いよく当たって落ちた。渡したともいえない乱暴な所作を咎めることもなく笑顔で礼を言われて、尻の座りが悪い。陽は乱暴に身体の拭いながら、返事の代わりに嘯いた。
「おれ、先に風呂もーらい」
「あー、ズルい」
風呂場へ向かいながら夕暉は王国服を手早く脱ぎ捨てたらしく、脱衣所に着いた時にはふたりとも素っ裸だった。競い合うようにして風呂場へもつれ込んだ結果、ふたりして左程広くもない浴槽にムギュっと納まることになる。ふたりとも華奢な部類だとはいえ、男二人だ。身じろいだ拍子に、三角に曲げた足が正面の夕暉に当たり、陽は眉根を寄せて彼を睨んだ。
「おい、狭えんだけど」
「こっちの台詞だし。厭なら陽くんは俺が出るのを外で待ってれば良いじゃん」
ツンと顎を上げて顔を背けた夕暉の脛を、思い切り蹴り上げてやった。
「風呂入るっつったのは、おれが先だっただろうが!」
「痛った。ちょっと、すぐに手足が出るの駄目だって言ったでしょ」
「るっせえ、おれが先だ! 出てけよ」
「浴室に入ったのは、俺が先ですぅ」
「はあ? そんなん、横入りじゃねえか」
「競争というのはね、言ったモン勝ちじゃなくて、ゴールに先に入った方が勝ちなんですぅ。残念でした~」
「ンなわけあるか、卑怯だぞ! つか語尾延ばすの止めろ、その喋り方、凄えムカつく」
「陽くんがぁ、出て行ってくれたら~、止めてあげるネ」
「よし、シメる」
凶悪顔になった陽が夕暉に飛び掛かった。夕暉はぎょっとした顔でそれを躱す。
「ちょ、こっち来ないで。ぎゃっ、裸でのしかかんないでよ」
「お前がケンカ売ってきたんだろうが!」
「謝るから、返品してっ」
「おー、十倍にして返品してやるよ」
暴れるふたりの動きのせいで湯船の水面が激しく揺れた。蛇口で腕をぶつけた夕暉が悲鳴を上げる。
「痛いっ」
「あ! つか、湯! ほとんどなくなったじゃねえか。誰のせいだよ」
「俺と陽くんでしょ!」
「違いねえな」
ふたりは顔を見合わせると、示し合わせたようなタイミングで同時に爆笑した。
いつも通りの一日のはずだった。温かな室内で変わらぬ夜を過ごす人々をよそに、忍び寄る影。じわじわと水面下で侵略が進む。陽たちのあずかり知らぬところで、王国は少しずつ変容しようとしていた。
夜の王国に暗雲が立ち込める。陽が王国へ戻って十二日目の夜、平穏な暮らしの終わりを告げるように、王国は歴史上はじめての大嵐に見舞われた。
*
男は目の前に広がる光景に、唖然として立ち尽くした。無意識に塀の陰に身を潜める。息を殺して様子を窺う。目の前で繰り広げられる展開は現実離れしていた。まるで映画の撮影のようだ。隣でそわそわとこちらを見上げてくる円らな瞳に問う。
「おい、あいつのとこに行きたいか」
満面の笑みが答えだった。
先に行かせた彼女が無事に駆け上がってゆくのを確認して、男は消えかけていた光の裾へ慎重に足を滑らせた。
そうしてたどり着いたのは、理解不能な場所だった。見慣れぬ人々に衣服、それから建物。目に映る全てが作り物めいている。
男は当てもなく辺りを歩きまわる。喧噪はそう呼ぶのが不適当なほど温かく柔らかく、穏やかなものだった。柔らかな陽射し。小鳥たちの囀りに、風が木々を揺らす音、そして人々の優しい笑い声。あまりに穏やかで違和感が拭えない。この世の影という影を排除したら、こんな穏やかな光景が出来上がるのだろうか。
良く出来過ぎた舞台の中に、誤って紛れ込んでしまった気分だ。胃の中がかき回されるような不快感が男を苛む。ひどい頭痛と、鼓膜が痛いほどの耳鳴りが続いている。
糸が切れたようにストンと足の力が抜けた。突然しゃがみ込んだ男に、いくつもの視線が向けられる。そのどれもが例外なく気遣わし気なもので、しかし男に目立った怪我などの無いことを見て取ると、すぐに反らされた。誰にも見咎められないのを良いことに、男は長い間そこに座り込んで、ぼんやりと人の群れを眺めていた。
男の肩を、誰かが突然ぽんと叩いた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
「はっ!?」
驚いて、男はその場から飛び上がった。心臓が撥で弾かれたかのように、ドンドンと跳ねている。振り向いた男の勢いに、相手は僅かに仰け反った。男の肩を叩いたのは、箒を手にした男性だった。二の句を告げない男の身体を頭の天辺からつま先まで一瞥して、彼は面白そうに言った。
「アンタ、珍妙な衣装だな。荷物も何も持ってねえし、大方どこかでなくしてきたんだろ。もうすぐ日も暮れる。ついて来な」
そう言って踵を返した男は、肇と名乗った。男は逡巡した。ついて行っても大丈夫だろうか。今の男ははたから見れば見知らぬ怪しい奴だ。そんな輩を、何の見返りもなく助けようとするだろうか。一瞬のうちに計算する。肇と名乗る男の歳の頃は四十後半、体格は普通だが、身長は男の胸元あたりまでしかない。万一襲い掛かってくるようなことがあっても、返り討ちにすることができる。恐る恐る、男は肇について行った。
男の疑念をよそに、彼は何の見返りもなく面倒を見てくれた。自らの家に留め、衣服や食料を惜しむことなく提供してくれる。なのに男には対価を一切要求しなかった。
肇だけではない。出会う誰もが、男を優しく助けてくれる。それがどうしても腑に落ちなくて、男は尻の座りの悪い思いでいた。しかし人は慣れる生き物だ。三日も経つ頃には、善良な人々に違和感を覚えることもなくなった。
幸運なことに、この場所はやたらと東洋風の美人が多い。下心など少しも疑わない女たちは、男が声を掛けると簡単に釣れた。そうと分かれば選ぶ生活は一つだ。男は肇の元を去り、以前のように日中に出逢った女の家を渡り歩くようになった。
今日も昼食にと立ち寄った店の女が、男の目を惹いた。二十代前半だろうか。混雑した店内を、くるくると踊るように給仕する姿が愛らしい。注文を運んできた手をそっと引き留め、囁いた。
「なあ、あんた、何て名前?」
丸くなった目があどけない。
「えと、紗也ですけど」
「サヤ。綺麗な名前だな」
「ありがとうございます」
何気ない誉め言葉にも、頬を赤くして恥ずかしそうに紗也は微笑んだ。彼女との出会いは、男にとって大きな転換点だった。控えめで目立った主張をほとんどせず、常に柔らかな笑みを浮かべて相槌を打つ紗也の姿は、男の心に癒しを齎した。欠けていた虚ろが包まれ埋められる。それでいて紗也は博識だった。ありとあらゆる男の疑問に答え、また寝物語に紗也が語った情報は、非常に有益なものとなった。
それまで毎日寝床を変えていた男は、その後、紗也の元で長らく腰を落ち着けた。彼女との暮らしは穏やかだった。他の女たちとは違い、紗也とはよく昼間にも連れだって出歩いた。
そんなある日、いつものように街を歩いていた紗也は、弾んだ声を上げて足を止めた。
「わっ、慈光様だわ」
耳慣れない言葉を、男は鸚鵡返しする。
「ジコウサマ?」
「この国の王様です」
ニコニコしながら紗也は男を見上げた。
「王様……、そうかここは王国だったな」
「袂がとても長いでしょう。片方だけ伸ばした横髪の飾り、胸元の金剛石と王笏。それから緋色の襦袢。あれが主な王族の証です」
紗也が指で示す先には、数人の供を連れた長身の男の姿がある。王はひときわ豪奢な出で立ちをしていた。明らかに質の良い絹で出来た衣服。身体中に纏う高価な宝石類。王冠こそないものの煌びやかな装飾が、男の目にはひどく眩しく映った。
それは穏やかな暮らしに馴染み始めていた男の心に、大きな風波を齎すことになった。恨み辛み、妬みに嫉み。忘れかけていた黒い感情が鎌首を擡げ、男の中でむくむくと育ってゆく。その中でひっそりと、新しく芽吹いた感情があった。
「紗也。これからはオレも仕事に行くぜ」
「あら、素敵。貴方にはどんなお仕事が向いているかしら」
紗也は豊かな胸部の正面でパチリと両手を合わせた。可愛らしい仕草に、男の心は温かく癒されたはずだ。今までならば。無感動に紗也を見下ろして、男はうっそりと笑みを浮かべた。
「もう、考えた」
陽が王国に戻ってから、ちょうど七度目の夜を迎えた日のことだった。
王国の片隅で、「野心」はひっそりと牙を剥き始める。王
国の片隅に芽生えた小さな悪意。それは水に落とした墨のようにじわりと広がり、王国の暮らしに影を齎し始めた。何千年と続いてきた平和な王国が、変容しようとしている。
最初の一滴は、王国の東の果てに落とされた。
「おい、あんた。ちょっと良いか」
背後から突然に声を掛けられて、農作業をしていた男はおもむろに振り返った。背後にはいつの間にか、見知らぬ人物が立っている。体格の良い若い男だ。この国では珍しい、茶色の短髪を闇に浮かび上がらせている。薄い唇は、王国人らしからぬ軽薄な笑みを浮かべていた。呼びかけられた男はゆっくりと立ち上がり、伸びをするように腰を反らせた。長時間の作業のせいで、凝り固まってしまっている。
「なんじゃ」
「まあ、なんだ。取り敢えず、死んでくれや」
言いざま男は体当たりするように、農夫の腹にそれを突き立てた。彼は躱すどころか反応することすら出来なかった。彼は自分の腹を見下ろして、信じられないものでも見たかのように二・三度瞬いた。
腹には深々と刃物が刺さっていた。ぐり、とそれが回転し、信じられぬほどの痛みに農夫の喉が引き攣れる。彼が状況を把握するよりも早く、痩せた身体は瘧のように細かく震え、膝が崩れた。男の身体は土煙を上げて彼が丹精込めて世話をしていた果実の上に倒れ込んだ。悲鳴を上げる間もなかった。彼は目を見開いたまま絶命した。 長身の男は相手が息絶えていることを確認すると、素早くその懐を探る。
「お、めちゃくちゃ入ってらぁ」
取り出した金貨袋には、ずっしりと重さを感じるほどに大量の硬貨が入っていた。奪った財布の中を検めて、男はほくそ笑んむ。そして「おい」と木陰へ小さく呼びかけた。
「今回のこいつァ、お前にやるよ。見張り代だ。金が要るんだろう。足しにしろや」
「ありがとう、ございます」
手渡された金貨の袋を震える手で受け止めて、青年はそれをぎゅっと胸元で抱きしめた。
その哀れな男性の亡骸が発見されたのは、発生から実に十日も経った後だった。この日を境に、王国の各地で不審な事件が多発し始めることになる。事件は全て同様のものだった。鋭い刃物で命を奪われ、金品を奪われる。地上ではいわゆる強盗殺人と言われる犯罪だ。血が流れることなどなかった王国で継起する凶行は、次第に人々の知るところとなっていった。
陽たちのいる中央に届いた第一報は、市中の噂話という曖昧な形だった。最初の事件発覚から、更にひと月が経過した頃だった。
まだ日のあるうちに戻って来た夕暉の姿を認めて、陽は何気なく尋ねた。
「今日は早かったな。珍しい、飯食ってくるんじゃなかったのか」
友人の多い夕暉は、王宮に越してからも週に何度かは彼らと集まり、運動を楽しんでいる。おもにしているのは野球だが、最近は玉を蹴るフットボールなる遊びが流行しているらしい。市中で暮らしていた頃からの仲間が多く、そのまま共に夕食を囲んでから帰ってくることも多い。部屋が隣とはいえ、月に何度かは互いに全く顔を見ないこともある。今日もその日だと思っていたので、陽は首を傾げた。
「夕暉?」
返事の返らないことを不審に思い、作業の手を止めて夕暉を見上げた陽は、訝しく眉根を寄せた。
「おい、夕暉」
「え、あ、ただいま……」
ハッと顔を上げた夕暉は、なぜか今更、帰宅の挨拶をした。どうも様子がおかしい。カウチの定位置に腰を下ろしたものの、何をするでもなく一点をじっと見つめて考え込んでいる。斜め前に座り、佳容を覗き込む。
「なんかあったのか」
「うん……、うーん?」
生返事が返って来た。しばらく待ったが、まともな返答はない。途中で乱入していた蝶瑚が、運動で汚れた王国服の回収だといささかセクハラ気味にステテコを剥ぎ取っても、されるがままだ。夕食の誘いに旭が来ても、夕食の席で紅輪と春日が懸命に話しかけても上の空。ついでに箸の進まない皿から陽が餃子を半分掠めとっても、目立った抵抗はなかった。紫蘇の聞いた餃子は夕暉の好物だ。地上では最後の一つを巡って、陽と喧嘩に発展したことすらある。これは本格的におかしい。
夕食を終えて部屋へ戻り、食後の一服を出されたところで、夕暉はやっと陽を見た。
「今日、街で変な話を聞いたんだ。最近、おかしな出来事が起きてるって」
愁色の滲む口調に頷くことで、陽は続きを促した。にわかには信じられないんだけど、と前置きをして夕暉は言った。
「それがどうも話を聞く限り、強盗殺人、みたいなんだよねえ」
「ゴウトウサツジン」
耳慣れない単語を繰り返す。知識としては知っている。けれど具体的な事件の内容を聞いても、理解の範疇を越え過ぎていて真剣に受け止められない。夕暉の口調もどこかぼんやりとしている。
「なんか、どうしても信じられなくて」
陽は唸った。夕暉に無理なら陽の理解はいっそう難しい。少し考えて陽は言った。
「なら、見回りでもしてみるか?」
「そうだねえ、見回り良いかも。ちょっと、気になる噂だからね」
「明日から行こうぜ」
「うん、ありがとう」
ぼんやりとした夕暉を寝室に押し込んで、自身もベッドに横たわり、陽は夕暉の言葉を反芻した。けれど上手い考えが浮かぶわけもなく、天井を睨みつけているうちに、気づけば随分と高くなった日が窓から差し込んでいた。
翌日の早朝、目覚めた陽が夕暉の寝室を覗くと、そこはすでに蛻の殻だった。陽は首を捻る。しっかり日は登ったとはいえ、朝食と定めた時間にはまだ早い。人のことは言えないが、夕暉はかなり寝汚い。この時間帯はいつもならまだ、広い寝台の上をゴロゴロ転がっている筈だった。夕暉の姿を求めて王宮をあちこち歩き回る。ようやく中庭に探していた姿を見つけて、陽は窓から顔を出した。
「お、いた。夕暉」
呼びかけるが、夕暉は振り向かない。背中を丸めてなにやら作業をしている。仕方なく、陽は庭先で座り込む夕暉に歩み寄った。
「何つくってんだ」
「んー、木刀。見回りするのに、護身用としてね」
真剣な顔つきで、夕暉はどこかから調達してきた黒檀の枝に鉋を掛けている。その手つきは迷いがない。陽はその器用な手元を見守った。陽の視線に気づいた夕暉が目を細める。
「陽くんは釘バットが似合いそう。ついでに作ってあげようか」
「要らん」
釘バットが何だかは分からないが、夕暉の表情からして碌な物ではなさそうだ。同じく通りがかった教臣が、夕暉の手元を見て不思議そうな顔をした。
「護身用のボクトウだってよ」
無言の夕暉に代わって陽が顎をしゃくる。それなら、と教臣は手を打った。
「どうせでしたら、刀を誂えては如何ですか? 夕暉様は、居合と剣道の心得がおありでしょう。ならば鍛治屋町へ行って、真剣を誂えるのが良いと思いますが。お急ぎでしたら、数時間で出来ますよ」
教臣の返答に、夕暉は奇妙な顔になった。
「……普通、何か月もかかると思うんだけど」
「だから地上の普通は、王国の普通じゃねえんだって」
「急ぎ手配いたします」
教臣が言って、すぐに手配書を足に括りつけた鷹が飛んで行った。朝一番に依頼した刀は本当に、夕方には王宮へ献上された。
「おや、また新しい遊びですか?」
届いた夕暉の刀を携えてやってきた教臣が尋ねた。口調には揶揄いの色が滲んでいる。反復横跳びのような動作を止めて、夕暉がふるふると首を振った。
「筋トレです。筋肉を鍛えてます」
「地上でコイツに習ってはじめた」
隣で高速背筋をしながら陽が言い添える。
「甲殻類ごっこかと思いました」
「あはは、俺が蟹で、陽くんが海老かな」
朗らかに笑う夕暉の後頭部を、立ち上がった陽が無言で叩く。
甲殻類ごっこって何だそりゃと言いたいところだが、ふたりには前科がある。その名もずばり「鳥類ごっこ」だ。口げんかの延長だったとは思うが、詳細はふたりとも全く覚えていない。だがどちらがより上手く、そして多くの鳥類を模した表現が出来るかを競う遊びである。その時の勝負は、鳴き声や羽ばたきを表現するにとどまらず、ムキになった陽が「燕の雛の巣立ち」を表現しようと登った木の枝が折れて落下したことで終了した。楽しいのかと聞かれたら、正直ふたりも正気にもどったあと、意味が分からないと思ったので、推して知るべしである。しょっちゅう変な遊びをしているので、王宮で働く人々には生温かい目で見られることが多いのだった。
「あ、そうだ。見てくださいよ、教臣さん。これ、おかしくないですか」
夕暉は突然、何の断りもなく陽の上半身を剥き出しにした。続いて自らも両袖を落とす。横に並んだふたりの身体を見比べて、教臣はふむと頷いた。
「陽様が、格段に分厚くなっておられますね」
「おう。腹筋割れたし、胸囲も腰回りも夕暉よりでかくなった」
夕暉は、陽の胸板を叩きながら訴えた。
「そう、そうなんです。陽くんは成果が目に見えるのに、俺はあんまり変わんないんです。鍛え始めたのは同じ日で、やってることも同じなのに」
「夕暉のほうが、張り切ってやってんのにな」
陽が得意げに胸を張る。
「陽様は筋肉が付きやすいのでしょうね。慈光様の若い頃に生き写しですから」
「じゃあ、陽くんも将来的には、あんな感じの美丈夫になるの? 許し難い。何という筋肉格差」
「きんにくかくさ」
なんとも言い難い表情を浮かべた教臣と陽を尻目に、夕暉は手作りしたばかりの木刀で素振りを始めた。
「見てろー、そのうち教臣さんを片手で担ぎ上げられるくらいの、マッスルボディを手に入れるよ」
「無理でしょう」
「まあ頑張れよ」
呆れたふたりは夕暉を置いて、それぞれ庭を後にした。
夕暉のトレーニングの結果が、果たして実を結んだのかについては、彼の名誉のために、伏せておく。
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