第6話


 引っ越しをした翌日の早朝、ふたりは扉を叩く音で目を覚ました。

 寝ぐせで叢のようになった頭を手櫛で整えながら、夕暉は、のそりと寝床をあとにする。お互いにぼんやりした頭で牽制しあった結果、手が出た陽に負けたのだ。

 ただし一人だけ布団を出るのは癪だったので、問答無用で布団を剥ぎ、俵担きにして陽を居間のカウチに放ってきてやった。彼の暴挙に対する報復措置だ。暴力反対。 

 カウチに寝間着で放り出されても、陽は頑なに目を瞑ったままだった。今度同じ目に遭ったら、絶対にセロテープで瞼を開いたままに固定してやろうと夕暉は決意した。

 脇腹の辺りに遠慮のない一撃をくらったお陰で、かなり眠気は飛んでいる。それでも漏れる欠伸をかみ殺しながら玄関へ赴くと、いち早く反応したマリーが扉に向かって勢いよく尻尾を振っていた。散歩を期待しているようだ。夕暉は宥めるように彼女の首を撫でてやりながら言った。

「お散歩はもうちょっと待って。それにしても早朝からなんだろね。王宮からお返事かなあ、早いね。はあい、いま開けます」

 やる気なく生返事をして鍵を外した瞬間、飛び込んできた物体に夕暉は驚いて飛びあがった。鉄砲玉のような何かが夕暉の横をすり抜けて、陽に飛びついたからだ。陽は直撃を受けて柔らかなソファに沈み込む。

「は? ……春日?」

 寝そべる陽の腹に飛びついた物体は、名前を呼ばれてパッと顔を上げると、顔いっぱいに喜色を浮かべて言った。

「あにうえ~! おかえりなさいっ」

 陽の身体の上で、ニコニコと邪気の無い笑みを浮かべながら足をばたつかせるのは、まだ幼い男の子だ。起き抜けで不機嫌だったはずの陽は、毒気を抜かれた様子で苦笑すると、男児の小さな頭をわしわしとかき混ぜた。

「おお。良くここが分かったな」

「昨日ご自分がなさったこともお忘れ?」

 開け放たれた玄関の向こうから、険を多分に含んだ声が響いた。凛としているが、十代半ばの少女のものだ。腕組みをする少女の一歩後ろでは、同じ年ごろの少女がおずおずと彼女の袖を引いている。その隣で少年が言う。

「書簡を読んだんだよ。教臣宛てのね」

「げェ、紅輪に日華。旭まで」

 心底厭そうな顔で、陽は声の主たちの名を呟いた。視線を受けて紅輪と呼ばれた少女が、入り口に仁王立ちをしたままツンと顎を上げる。

「ゲ、とはお言葉ですわね」

「お前らは、何しに来やがった」

「無様な兄上をあざ笑いに来た以外に、なにがありまして?」

「規約破りで継承権剥奪とか、ばかでしょ」

 少年も口端を皮肉げに引き上げる。ふたりとも負けん気が強そうだ。普段は生意気な陽のうんざりとした様子が珍しくて、夕暉はこっそりと頬を緩めながら成り行きを見守った。少年は大人びた様子で肩を竦めて見せると、陽の腹の上に視線を遣って優しく目を細めた。

「王宮に届いた書簡を見て、可愛い春日が兄貴に会いたがったからね。ボクたちはお目付け役でついてきただけ。あとはついでに兄貴をばかにしに」

 陽は頬を引きつらせ、ため息交じりに夕暉に説明した。

「こいつら全部、異母弟妹な。残念なことに。……弟は、まともな春日だけで良かったんだけどな」

「あら、ご自分はまともだとでも仰りたいの。随分と図々しくていらっしゃるのね」

「お前にだきゃ言われたくねえな。お前に比べたら十分まともだろ」

 交わった鋭い視線で火花が散る。キャットファイトと言いたいところだが、ふたりの背後には龍虎の幻覚が見えた。見た目は美少年と美少女なのだが、何となく猛獣対決と言うほうが形容として正しい気がする。ギスギスした空気を切るように、外の三人に向かって夕暉は声を弾ませた。

「中へどうぞ。お茶で良ければ出すよ」

 陽は盛大に顔を顰めたが、止める心算はないらしく何も言わない。

「お邪魔いたしますわ」

 満面の笑みを浮かべた夕暉を見上げて、紅輪が目をぱちくりさせる。邪気のない笑顔に毒気を抜かれたらしい。呆気にとられた顔で呟いて、夕暉の手招きに誘われるように彼女はふらふらと敷居を跨いだ。妹たちもそれに倣う。

「お、お邪魔……、いたします」

「お邪魔しまーす」

 広くはない部屋の好きなところに居場所を定めた面々に、それぞれ湯呑を差し出しながら、夕暉は一人ひとりと顔を見合わせて微笑んだ。

「改めまして、俺は夕暉。陽くんのお友達だよ。よろしくね」

「兄上に、おともだち」

 紅輪の引きつった声が呟く。日華も大きく目を見開いた。旭はずっとニヤついている。

「ハルくんね、みっつ! あにうえのおとうとなの!」

 陽の腹にしがみ付きながら、満面の笑みで春日が言った。なにせ小さな子供なので言うことなすことが唐突だ。カウチの前にしゃがんで春日と視線を合わせ、夕暉は頷く。

「うんうん、ハルヒってどんな字を書くの? 俺は夕方の『夕』と、日偏の右に軍隊の軍を書いて『暉』で夕暉だよ」

 理解できるとは思わなかったが、丁寧に説明する。

「ゆうにいさま?」

「わ、兄様って呼んでくれるの? じゃあ俺は、ハルくんって呼んでも良いかなあ」

「うん!」

 夕暉に答えて、小さな手を目一杯上げる様子が可愛らしい。春日に代わって旭が言った。

「春日は、春夏秋冬の『春』に日付の『日』で『春日』だよ。ボクは第二王子の旭。旭は、旭日の『旭』一文字でアサヒね」

「恰好良い名前だね、旭くん。仲良くしてね」

「宜しく」

 笑顔で手を差し出してきた旭の手を握った。どうやら王国は握手文化圏らしい。見た目が日本人に近いので若干、混乱する。

「わ、わたくしは紅輪と申しますっ」

 隣から素っ頓狂な声がした。視線を遣ると、顔を真っ赤にした少女が、プルプルと身体を震わせている。少し下がった場所から、もう一人の少女もおずおずと口を開いた。

「日華、です。日付の『日』に蓮華の『華』と書いて……ニッカ、と、読み、ます」

「わたくしは紅玉の『紅』と日輪の『輪』でコウリンですわ。こ、紅で良くってよ」

 緊張からか紅輪の声は少し裏返っている。改めて見ると本当にとびきりの美少女だ。偶然なのか必然なのか、王国民、殊に王族はずば抜けた美形ぞろいらしい。可愛らしい少女の様子に、夕暉は満面の笑みで頷く。

「うん、コウちゃん。可愛い名前だね。俺は夕暉で良いよ。陽くんもそう呼んでるし。日華ちゃんもよろしくね」

「夕暉お兄様とお呼びしますっ」

 紅輪が叫ぶ。夕暉は嬉しそうに目を細め、乙女のように両手を胸の前で合わせた。

「え、君たちも、お兄ちゃんって呼んでくれるの? 嬉しいなあ~」

「ユウにいさまーっ」

 元気よく叫んだ春日に頷いた旭が、小さな頭を撫でながら言った。

「僕もユウ兄って呼ぼう。夕暉のほうが、兄貴よりもよっぽど兄貴っぽいもんな」

「るせえな。ナマイキ言ってっと、つまみ出すぞ」

 陽が心底厭そうに顔を歪めた。左の眉を器用に上げて、嘲るように旭が言う。

「どうせアンタの探し出した家じゃないだろ」

「ああ? 誰が探したって関係ねえよ。今ここに住んでんのは夕暉とおれだろうが」

 凄む陽は王族らしからぬガラの悪さだ。

「いや? つまみ出す権利は、家を探してきたユウ兄にしかないと思うなあ」

「はあ? 権利もクソもあるか。おれが追い出すって決めたら追い出すんだよ」

「とんだ暴君だな、兄貴は」

 旭は大袈裟に肩を竦めて見せた。

「気にいらねえ従者をイビッて辞めさせたお前には言われたくねえな」

「あれは忠彦があまりに仕事しないからだよ。兄貴と一緒にしないで」

「おれはお前みたいに、気に入らなくても辞めさせたりしねえよ」

「そう? やる気がないなら辞めてもらったほうがお互いのためだと思うけど」

 睨み合う両者の間で目には見えぬ火花が散った。どうやら歳の近い兄弟は、折り合いが悪いらしい。陽と違って言葉遣いこそ丁寧なものの、旭も陽と同レベルで負けん気が強い。威嚇しあうあまりに顔が近くなってゆくふたりをみて、夕暉は小さいころ近所で目撃した、暴走族の喧嘩を思い出した。

 慣れているのか、ほかの弟妹たちは我関せずを決め込んでいる。なかでも春日は、兄たちのギスギスした空気を全く気にすることもなく、拙い言葉ながらも夕暉にあれこれ話しかけてくる。足元にコアラのように張り付いていたかと思えば、唐突に両手を広げて「だっこ」とせがまれた。求められるままに春日を抱き上げて、夕暉はますます破顔した。

「みんな、今から朝食を作るけど、良かったら一緒に食べていかない」

「おい、夕暉。なに勝手に」

 咎める陽の声に被せるように、春日が歓声を上げた。

「わーい、ごはん、たべるー」

 文字通り諸手を上げて喜んでいる。もじもじとした紅輪と日華、嬉し気な旭がそれに続いた。いそいそと食卓につこうとする面々へ青筋を立てて、陽は腹の底から怒鳴った。

「か・え・れっ!」

「はいはい、陽くんはお手伝いね。こっちおいで~」

 顔を真っ赤にして怒っている陽の首を、猫の仔でもつまむようにして引っ張る。

「引っ張んな!」

「自分で歩いてくれるなら離したげるよ」

 喚く陽を軽くあしらう夕暉を見て、旭は改めて感心したように呟いた。

「教臣以外で、兄貴をあんなに上手に転がしてる人、初めて見た」

 夕暉はにっこりと、旭に向かって微笑んだ。

「ありがとう、でもまだまだ教育中です」

「まじ尊敬する」

 旭はパチパチと拍手した。その後ろで紅輪も目を輝かせている。ブスくれる陽を庇うように、夕暉は軽快に両手を打ち鳴らした。

「はいはい、ハルくん、コウちゃん、旭くん、日華ちゃん! 君たちは急いで手を洗って来てください。戻ってきたら台所に集まってね」

 夕暉の言葉で、四人は連れだって洗面所へ向かった。その後ろ姿を見送っていると、大人しくお座りをしていたマリーが近寄ってきて円らな瞳で見上げてきた。構って欲しいと、尻尾が控えめに揺れている。ふたりはひとしきり彼女を撫でてやった。

「陽くん、先にマリーの朝ごはん、お願いできるかな」

「おう」

 パッと陽が立ち上がった。もう随分と慣れてきた手つきで皿に餌を盛る横顔へ呼びかける。

「終わったらこっち手伝ってね」

 夕暉がスープ用に野菜を切っていると、背後から足元に衝撃を受けた。春日が足に巻き付いている。

「おかえり。綺麗に手は洗えましたか?」

 子供たちは夕暉の問いに元気よく頷いた。夕暉はおもむろに両手を腰に当て、しかつめらしい表情をつくって見せる。目の前できちんと並んだ彼らを見下ろした。

「では、これからそれぞれに任務を与えます」

「にんぬー?」

 きょとんと春日が小首を傾げる。横からすかさず旭が訂正を入れた。

「任務ね、春日」

「うん、にーぬ!」

 春日は笑顔で復唱した。直っていなかった。

「先ずは一番お姉さんのコウちゃん」

 真っ先に名を呼ばれて、紅輪はもじもじと指を絡ませた。いっそ気持ちが悪いほど大人しい天敵の様子を目にして、陽の顔が引き攣る。「誰だお前」と言いたいのをグッと堪えた。口元をムズムズさせている陽を尻目に、紅輪と視線を合わせるために腰を折り、夕暉は優しく微笑んだ。

「ハルくんと一緒にダイニングテーブルを拭いて来てくれるかな」

「分かりましたわ!」

「次に旭くん。旭くんはふたりがテーブル拭いた後で、セッティングをお願いします。ランチョンマットはその吊り棚のなか。お箸と箸置きはそっちの引き出しに入ってます」

「任せて」

「最後に日華ちゃんには、キッチンで俺たちのお手伝いをして貰いたいんだ。陽くんと一緒に、食器に出来た食べ物を盛っていってくれるかな」

「は、はい……!」

 ソワソワと落ち着かない様子で待っていた日華は、自分も仕事を任されてほっと表情を緩めた。皆に仕事を割り振ったところで、夕暉はパンと軽く手を叩いた。

「はい、それではみんな、頑張って任務にあたるように。ただで食べられるほど、世の中は甘くないのです!」

「はい!」

 日華以外の三人が、元気よくキッチンを飛び出してゆく。キッチン内での手伝いを日華に頼んだのは、単純に陽との相性を重視したからだ。春日では幼過ぎるし、紅輪と旭ではまた喧嘩が勃発してしまいかねない。ただそれだけの理由だったのだが、結果的にこの選択は功を奏した。

 慎重な手つきでベーコンを焼いている陽の隣で、夕暉が手早く卵を巻く。

「日華ちゃん、ボウルに入ってる生野菜と、陽くんが焼いてるベーコンと、あと卵焼きが出来たらそれも盛りつけていってくれる?」

 小さく頷いた日華は、意外にも手際よく、各皿に朝食を盛りつけた。綺麗に盛り付けられた皿を見て、夕暉が目を見張る。

「凄い、上手だね」

「あり、がとう……、ございます」

 日華ははにかむように微笑んで、手元に視線を落とした。そのまま黙り込むかと思えば、おずおずと日華は言葉を継いだ。

「ふだん……、わたくしの従者におねがいして、料理の……、ちょっとした、その、おてつだいを、させていただいて、いるのです」

 夕暉は感嘆の溜息を吐いた。

「それでかあ。どおりで、めちゃくちゃ手慣れてると思った。日華ちゃん、結構お料理できるでしょ」

 夕暉の言葉に首まで朱色に染めて、日華はふるふると首を振った。

「そ、そんな……簡単なもの、ばかりで……その、お料理と呼べるような、大した、ものは……」

「あのね、初めて台所に入ったときの陽くんは、酷かったんだよ。物の名前は知らないし、扱いも知らない。切った野菜はボコボコで食べるとこほとんどなかったし」

「おまっ、あんときゃ『凄い、初めてなのに少しもケガしないで切れたね』っってたじゃねーか!」

 陽が抗議の声を上げる。夕暉はひょいと肩を竦めた。

「だってホントに凄いと思ったんだもん。あの時は。なんにもしたことない子が頑張って切ったから。でも日華ちゃんは君と同じ王族なのに、格段に仕事ができるんだもん。ということで、あの時の陽くんへの誉め言葉は撤回しま~す」

「撤回すんな! 返さねえしっ」

 陽はイーっと歯を剥いた。日華が長い睫毛をそっと伏せて俯く。

「王位を継がれる兄上と、第二王女のわたくしとでは、責務の重さが違い過ぎますから……」

「そうなの?」

 夕暉が、瞬く。

「そうだな。王と王位を継ぐ者と、そのほかの王族じゃまるで違うな。つっても、もう、おれは王族じゃねえし関係ねえけど」

 陽の答えに、自身の言葉を失言だと思ったらしい。少女は益々、萎れたように俯いた。夕暉がポンと手を打つ。

「あ、陽くんのこれ、皮肉じゃないからね、日華ちゃん。単に何の含みもなく事実を述べてるだけで」

「え、は、はい」

「なんでお前がフォローすんだよ」

 陽が胡乱な目で夕暉を見上げる。

「え、君へのフォローじゃないよ。日華ちゃんへの通訳」

「ますますいらねえよ」

 ヤンキーの凄みよろしく間近で睨み上げられているが、夕暉は気にする様子もない。

「御免ね、日華ちゃん。陽くんは言葉も態度も悪いけど、悪気はないんだ。良い子なんだよ。ホント言葉と態度は超絶に悪いけど。あと目つきも」

「んでフォロー雑だな、おい。しかも後半けなしてんじゃねえか」

 パン切り包丁を置き、すかさず裏手で夕暉の胸元を叩く。

「あ痛っ、おお~、陽くんがジャバニーズツッコミを会得してる」

「漫才じゃねーよ! 怒ってんだよ」

「またまたあ。あ、切ったバゲットはそっちの、そう、その籠」

 不意に聞こえた小さな笑い声に、夕暉と陽はそちらを見た。四つの瞳に凝視されて、日華がパッと口元を押さえる。

「あ、ご、ごめんなさい」

 陽は不機嫌顔のままそっけなく肩を竦めた。日華がフフッと微笑む。まだ多少ぎこちないが、今度ははっきりとした笑みだ。大分、夕暉に慣れてくれたらしい。

「あの、わたくしの能力はあまり強くなくて、普段は、コウちゃんが多くの任務を担当してくれているのです」

「能力? が、強く? ない?」

 急に話題が飛んだ気がする。疑問符をいくつもつけて、夕暉は首を傾げた。日華は気づかず首肯する。

「はい。ですので、せめて別のところで、少しでも何かお役に立ちたくて、それで、お料理やお手伝いを、はじめたのです」

「そっかあ」

 途中で「能力って何」と陽を見たが、陽は「あとでな」と口の動きだけで伝えてくる。夕暉が質問を重ねようとした瞬間、パタパタと軽い足音がして、ダイニングテーブルを任せたふたりがキッチンに飛び込んできた。

「隅々まできちんと、丁寧に拭きましたわ!」

「いまね、あさひにいさまが、まっとならべてるの!」

口々に言って、跳ねるように夕暉の足元に纏わりつく様子が子犬のようで可愛らしい。丁度、盛り付けが終わったところだ。頬を紅潮させながら見上げてくるふたりの小さな頭を優しくかき混ぜて夕暉は目を細めた。次は次はとせかされて、盛り付けの終わった皿をそっと渡す。

「ありがとう。じゃあ各自、自分のお皿を運んでください」

 渡された皿を手にいそいそとキッチンを出て行ったふたりと入れ替わるように、旭が顔を覗かせた。

「ユウ兄、終わったよ」

「ありがとう。じゃあ旭くんも自分のお皿持って行ってくれるかな。スープはすぐに持って行くから、三人で座って待っててくれる?」

「分かった」

 旭は素直に頷いて、受け取った皿に目を輝かせた。

 日華にスープをよそってもらっているうちに、陽とふたりで手早く汚れ物を洗う。

「はい、では皆さん、手を合わせて~」

 席に着いた面々に向かって、夕暉はパンと両手を合わせた。慣れたもので陽も無言で手を合わせる。紅輪たちは、顔中に疑問符を浮かべながらも素直に手を合わせた。

「ご唱和ください! 頂きます」

「いただきます」

「いたたち……? ます!」

 朝食を囲んだ会話は弾んだ。

 そういえば、とケチャップを取り上げた旭が言った。

「ユウ兄は、なんで王宮に住まないの? どうせ教臣に催促されてるでしょ」

 問われて夕暉は唇を尖らせた。

「窮屈そうだもん。俺は王国に遊びに来ただけなのに、困る」

「うーん。ここにいても王宮に住んでも、あんま変わんないと思うけど」

「ハルくんは、おうきゅうがいいとおもーう! ゆうにいさまに、おうきゅうにすんでほしいなあ」

 元気よく春日が手を挙げて、弟妹たちは口々に夕暉の引っ越しをせがんだ。

「わたくしも、窮屈というのが理由でしたら、その心配はないとおもいますわ」

 ニコッと口端を吊り上げて、旭は言った。

「ボクもユウ兄が王宮に来てくれたら嬉しいな。それに教臣は忙しいからさあ、ユウ兄が王宮に来てくれると、凄い助かると思うよ。イチイチ伝達事項にここまで来なくて済むし」

 何気なく言った旭のこの台詞が決定打だった。人に迷惑をかけてまで我を通すつもりはない。夕暉は観念の溜息を吐いた。

「分かった。王宮に住むよ」

 ワッと歓声が上がる。素っ気なく陽が言った。

「おれは行かねえ」

「ええー、嘘でしょ」

 夕暉は助けを求めるように旭たちをちらりと見た。小さく頷いた旭が挑発的に目を細める。

「あーあ、これだから友達いない人は」

 頬杖を突いた陽が旭を睨み上げた。

「はあ? 喧嘩打ってんのか」

「やだなあ、兄貴。ボクは事実を言っただけだよ。流石、空気読めないね」

「ただの悪口だろうが」

「違うよ。ボクはユウ兄だけが来てくれるほうが嬉しいけど、あんたがここに残ったら、結局教臣の仕事は減らないでしょ。ばかじゃない」

 嘲る口調にきつく眉根を寄せる。睨み合った視線の間で火花が散った。しかし数秒の睨み合いののち、陽はふいと視線を反らした。

「知るか。……おれは行かねえよ」

「やだー!! あにうえも、おうきゅう、もどってきて!!!」

 春日が爆発したように金切声を上げた。腹の底からの絶叫を真横で喰らった旭が耳を塞ぐ。夕暉は咎める視線を陽に遣った。

「ハルくんがこんなに慕ってくれてるのに、行かないの。酷いなあ、俺も兄弟みたいに思ってたのに、放置されるんだー。俺も可哀そう~」

「っ、分かったよ、行けば良いんだろ!」

 陽は早々に白旗を上げた。すかさずハイタッチをしている夕暉と旭の姿に、乱暴に頭を掻きむしる。

「くそっ、お前だって、教臣に反抗してただけの癖に」

 夕暉は真顔で頷いた。

「うん、まあ、ぶっちゃけいきなり居丈高に『王宮に住め』って言われて、意地になってたとこはある」

 夕暉の告白に、一同はドッと笑った。

「じゃあね~、ユウ兄。王宮に来るの待ってるよ」

 朝食を終え、一同は陽たちのもとをあとにする。満面の笑みを浮かべる旭に、夕暉は笑顔で手を振り返した。

「あにうえ! ゆうにいさま、またね~」

「おう。またな、春日、日華。……てめえらは早く帰れ。もう来んな」

 残るふたりには陽がしっしと手を振る。紅輪はツンと顔を背け、旭はニヤリと口端を引き上げた。

「そう言われたら毎日でも来たくなるね。ご期待に応えて」

「帰れ!」

 ニコニコと微笑ましそうに見守っている夕暉の隣で、陽は忌々しく舌を打った。竜巻の如く現れた彼らは、嵐が去るように帰って行った。兄弟たちの背中が見えなくなるまで見送ると、夕暉は満面の笑みを浮かべて陽を見下ろした。

「俺、王国に来てよかった」

「そうか」

「……ありがとね、陽くん」

 小さな声で呟いて、夕暉は大きな窓から見える、王国の空を見上げた。


 翌日は少し薄暗い朝だった。ぼんやりとした視界によそぐ毛玉を認識して、夕暉は掠れた声で助けを求めた。

「よーくん~、またマリーがベッドに入って来ちゃったみたい。助けて」

 しばらく待ってみたが応えはない。夕暉に負けず劣らず寝汚い陽は、まだ深い眠りの中だ。チラリと見た陽の寝床に彼の姿は見えず、こんもりと布団が小山を作っている。応じる心算は微塵もなさそうだ。仕方がない。

「もー、重いよマリー。よいしょー」

 身体の右半分にかかる重みを押しのけようと力を込めた。

「あン」

「……ん?」

 想像していたのとは違う感触に、間の抜けた声が漏れる。しかもなんか喘いだ。ゆっくりと上半身を起こした。夕暉の動きに合わせてサラリと零れた長い茶色の毛は、明らかに大型犬の物ではない。胸元に添えられた華奢な腕と絡みつく白い足が、朝日の下で眩しい。夕暉の首筋にしどけなく凭せ掛けられていた形の良い小さな頭が、ゆっくりと持ち上がる。泣き黒子を従えた美しい双眸と目が合った。

「おはよ」

 語尾にハートが見えそうなほど甘い声音で囁かれ、眩暈がする。瞳が滲んで見えるほど距離が近い。

「えと。どちら様でしょうか」

 どうにかこうにか上体だけは起こしたが、巻き付いている女性を無理矢理に引きはがすことも出来ず、夕暉は困惑気味に彼女を見下ろした。

「やだあ、蝶瑚って呼んでェ」

 排除されないのを良いことに、蝶瑚と名乗った女性は、抱きつく腕を強めてぎゅうぎゅうしがみついてくる。

「はい、ちょうこさん。あの、ひとまずちょっと離れてもらって良いですか」

 大きく開いた胸元から覗く豊かな谷間と、太腿まで顕わな美脚が艶めかしい。起き抜けの目に毒だが、ついつい視線が行ってしまうのは不可抗力というやつだ。思いがけぬ絶景に見惚れていると、剥き出しだった内腿をするりと撫でられた。

「ちょ、っと、手ぇ入れないで」

 ほっそりとした白い手を掴み、慌てて乱れた寝間着を掻き合わせる。奇しくも恥じらう乙女のような格好で身を捩った夕暉に、蝶瑚が嫋やかに微笑んだ。

「うふふ、可愛い。そんなに警戒しなくても大丈夫よ。承諾なしに取って食ったりはしないからァ」

 言葉とは裏腹に、首筋や胸元へ柔らかく白魚の指が這う。

「せ、セクハラ」

 情けない悲鳴が漏れた。助けを求めて陽を見るが、布団の山は動かない。完全に無視を決め込むつもりだ。

「もう来ていたんですね」

 聞きなれた声が響いて、夕暉は勢いよく入口に顔を向けた。

「教臣さん!」

 救世主だ。目を輝かせた夕暉に、教臣が不思議そうな視線を遣る。

「おや、珍しい歓待ぶりですね。おはようございます、夕暉様」

「おはようございます。じゃなくて、助けてください」

 教臣は呆れた様子で眉を上げると、小さく溜息を吐いた。

「やめなさい。蝶瑚、風花」

「かざなは? ……ひっ」

 聞きなれない単語に首を捻りかけた夕暉は、顔を傾けた先を見て固まった。いつの間にか、ベッドサイドに人が立っている。完全な無表情で見下ろすその女性からは、今まで気づかなかったのが不思議なほど殺気が漲っている。

 教臣に窘められて、蝶瑚は渋々、夕暉から離れた。最後に駄賃とばかりに夕暉の首筋にハの字で並んだ黒子へ唇を這わせられる。

 隣のベッドではようやく起きる気になったのか、布団から這い出て来た陽が、枕に突っ伏したまま「うぬぬ」と呻き声を上げている。うつ伏せで黒髪をシーツに散らしながら伸びをしている姿は、某ホラー映画の貞子嬢に酷似していて、ちょっと怖い。 

 無言で佇む風花と、テレビから這い出ている最中のような陽という、二大ホラーを意図的に視界から外して、夕暉は首を傾げた。

「教臣さん、どうしたんですか? こんな早朝に」

「はい、慈光様にお会いください」

「ジコウ様?」

「父上、現国王だ」

 更に首を捻る夕暉に、横から陽が言い添える。今度は寝そべってテレビを観る休日のお父さんスタイルだが、まだ目は開いていない。髪を四方に散らしたまま、眉間に深い皺を寄せて唇を尖らせている。非情に眠そうだ。

「本日は王国の雲も安定しておりますので、比較的、慈光様の手も空いております。慈光様が『是非に』とのことで、王宮にお越し頂きたく、お迎えに上がりました」

 教臣の言葉に夕暉は難色を示した。

「大袈裟なお迎えとか、ホント止めてくださいよ。言ってくれたら、王宮くらい自分で歩いて行けます」

「分かりました。すぐに出られますか?」

「あれ、良いの?」

 予想したのとは違う反応が返ってきて、夕暉は思わず聞き返した。やけにあっさり承諾された。

「ええ、夕暉様の頑固さは、もう承知しております。ご自身で歩かれるだろうと思って、元々わたくししか来ておりません」

「おれも行く」

 途端に陽が飛び起きる。

「では急いでお着替えください」

 腰紐に手を掛けかけてふと振り返る。二対の対照的な瞳と目が合った。数秒、見つめ合う。片方はにっこりうっとり。片方は真顔で凝視だ。

「あの、着替えますけど」

「ええ、どうぞ」

 暗に「部屋を出て欲しい」と告げるも、全く動く気配がない。隣では、陽が豪快に寝間着を脱ぎ散らかしている。全裸を見られても全く気にならないらしい。

「おい、早くしろ」

 言いながら襦袢に腰紐を締める手つきは淀みない。夕暉に倣い、衣装部の手を借りずに王国服を身に纏うようになって間もないが、もう随分と手慣れたものだ。陽に急かされて仕方なく、女性陣に背を向ける。襦袢を肩に掛けた瞬間、静かな声がした。

「この襦袢は誰が選んだの」

 振り返ると、蝶瑚が真剣な眼差しを夕暉に注いでいる。風花が答えた。

「夕暉様の御衣装を整えたのは、瑞樹です」

「駄目よ。夕暉くんに似合うのは、この赤じゃないわ。もっと青みがかった赤じゃないと。ほら、肌の色がくすんで見えちゃう」

「分かりました。瑞樹は調整係から外して、しばらく修行に戻します」

「そうして。今後、夕暉くんの調整は、私か貴女が担当するわ」

「畏まりました。そのように周知いたします」

「お願いね。ああ、それから帯はもう少し柔らかい色味の方が良いわね。今すぐ王宮に帯屋を呼んで。謁見が終わったら幾つか見繕いましょう。王衣も新しく誂えましょうね」

「手配いたします」

 表情を引き締めてテキパキと指示を飛ばし始めた蝶瑚に、夕暉はポカンと口を開けた。せっかく羽織った襦袢を問答無用で剥がれる。間髪入れずに別の襦袢を押し付けられて、思わず受け取った。

「蝶瑚は、王国服製作の第一人者なのですよ。また、王族の王国服製作並びに調整を担当しています」

「はあ」

 彼女の変化についてゆけず、夕暉は生返事を返した。

「ああ、やっぱりこっちが素敵! 可愛いっ」

 思い切り抱きしめられて夕暉は悲鳴を上げた。胸元に押し付けられた柔らかさが嬉しいような困るような。色っぽい美女の接近はとにかく心臓に悪い。教臣が苦笑する。

「基本的には有能なのですが、綺麗なものが大好きで、好みのものを前にすると暴走しがちだという、悪癖があります」

「夕暉の邪魔すんな」

 着替えを終えた陽が、蝶瑚に向かって目を吊り上げる。

「夕暉くん。存在全てがツボだわァ……」

 大人しく距離を取った蝶瑚は、うっとりと呟いた。白魚の手を軽く頬に当てて目を細める何気ない仕草がいちいち婀娜っぽい。何となく正視できなくて視線を反らした先で、じっとこちらを凝視する風花と目が合って、夕暉は再びぎょっとした。ピクリとも表情は動いていないが、視線がトゲトゲしい。

「カザハナさん、さっきからなんか怒ってません?」

「ヤキモチ焼いてるのよぉ。私が夕暉くんに夢中だから」

 それは夕暉に言われても困る。

「でも大丈夫。ハナちゃんも夕暉くんのこと好きだから」

 ね、と蝶瑚に同意を求められ、風花は真顔でコックリと頷いた。

「御尊顔が、正直、死ぬほど好みです。この世で一番美しい。夕暉様に御会いするまでは、紅霞様が最上だと思っていましたが改めます。一生眺めていても飽きません。硝子ケースに入れて飾っておきたい」

 うっとりとした声で言われた。夢見るような声色だったが、表情筋は一切動いていない。言われた内容もあわせてこれは怖い。

「蝶瑚様の御心が夕暉様にあるのが大変妬ましいし憎いです。しかし夕暉様の御顔には心惹かれてしまう。ですので愛憎入り交じり複雑な心境です」

「ごめんなさい」

 夕暉は思わず謝罪した。

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