第5話

 王国二日目の朝、ふたりの寝覚めは最悪だった。

「首が……痛え」

 寝台の上に上体だけを起こして、陽は地を這うような低音で呻いた。艶やかな黒髪は今、嵐の中から生還したメデューサのような様相を呈している。

「寝違えた。動いたら死ぬ。痛くて死ねる」

 隣で同じく、爆竹を十発ほど喰らった鳥の巣のような頭の夕暉が、蚊の鳴くような小声で呟いた。上体を寝具の頭板へ凭せ掛けて、身動ぎもしない。

 ぐうと大きな音がした。

「腹、減った……」

 陽は低く、絞り出すような声で言った。大声を出すと筋を違えた首に響くのだ。夕暉も掠れた音で同意する。

「俺も」

 開けたままになっていた窓からは、柔らかな陽射しと鳥の歌声が聞こえてくる。外は場違いなほど、爽やかな朝の空気が流れていた。

「指一本動かしたくねえ。なんでメシが歩いて来ねえんだよ」

「王宮じゃないからですかね」

「……そうだな」

「うん。そもそもご飯は普通、歩いてこないんだけどね」

「オッシャルトオリデ」

 軽口を叩くその口調は、実に重々しい。軽口と分類するのを迷うほど、重々しい。ふたりとも揃って顔が左に向いているので、視線は合わない。

 どう動いても首に響きそうで、小指のつま先すら動かしたくないふたりは、空腹と無言で戦った。

 空腹も限界を迎えるころ、不意に階下が騒がしくなった。しばらくすると、扉を叩く音と聞き覚えのある声がした。

「夕暉様、陽様、教臣です。入っても宜しゅうございますか」

「どうぞ」

 夕暉の応答で、扉がゆっくりと押し開けられる。ベッドの上で揃って不思議な恰好で固まっているふたりの姿を視界に入れると、教臣は一瞬、呆気にとられたような顔になった。

「どうなさったのですか、おふたりとも。珍妙な恰好ですが」

「どうぞお気になさらず。俺たちのことはこういうオブジェだと思って。それより、こんな朝早くから何の御用です」

 不貞腐れた声で言うと、微かに笑う気配がする。

「早朝に失礼します。夕暉様の王国での衣服をお持ちしました。ついでに陽様のお着替えも。夕暉様のその御衣服は、王国では目立つでしょう。王国服のほうが何かと便利ですよ」

「はあ」

 夕暉の生返事を気に掛けることもなく、教臣が扉の向こうに合図をする。入室してきた男性たちは、てきぱきと衣桁を組み立て、夕暉のものと思しき王族服一式をそれに掛けた。横目でそれを見ながら陽が唸る。

「メシ。服より、メシ……なんでも良いからメシ」

「お腹すき過ぎて、陽くんの鳴き声が『飯』 になってる」

 思わずいつもの調子で思い切り噴き出したせいで首が痛んで、夕暉は悲鳴を上げた。

「あででっ」

「ばーか。あででっ、くそっ」

 夕暉の失態を笑ったせいで筋が張って、陽も悪態を吐く。

「ところで陽様、それは何の遊びです」

 にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて、教臣が言った。状況を把握したらしい。陽は首を動かさないように細心の注意を払いながら、手元にあった枕をブーメランの要領で投げつけた。

「煩え、っ、痛ぇ。……覚えとけよ、治ったらぜってー殴る」

 やはりどうしても響くらしい。教臣は頬を震わせた。

「謹んでご遠慮申し上げます」

「教臣さん、ほんとに適度にしか傅いてないね」

「腹立つだろ」

 陽は「いー」っと歯を剥いた。ただしひどく控えめに。

「陽くんのことを厳しく躾けてくださってありがとうございます」

 神妙な顔つきで夕暉は言った。首が無事なら丁寧に頭を垂れていただろう。実際にはセメント固めにしたかのように、微動だにしなかったけれど。

「偉そうな態度ももう少し、どうにかして頂けていたら、嬉しかったんですけど」

「お前はおれの何なんだ」

「お兄ちゃんのつもり」

「お断りだ。と言いたいとこだが、教臣よりはクソましだな」

「本当に懐いていますね」

 驚く教臣に向かって、陽は言った。

「今まで出会ったやつのなかで、夕暉が一番良い。じいちゃんの次に」

「おお。人間のなかで二番目だった、俺」

「実質、不動のツートップですよ。陽様の人間の分類は、先王とその他ですからね」

「そりゃ光栄だ」

「ところで」

 小さな咳ばらいをひとつ。真面目な顔に戻った教臣が言った。

「しばく動けなさそうですね。王宮から朝食を運ばせましょう」

「っしゃ」

 陽が小さく拳を握る。今日一番の元気な声だ。

「召し上がる頃には、良くなっているでしょう」

 夕暉は盛大に顔を顰めた。

「そう願いたいです」

 程なくして王宮から届いたできたての料理が、部屋へ運びこまれる。痛みはあるものの、ようやく首が正面に向けられるようになってきたふたりは、湯気をあげる朝食に競うように飛びついた。けれど歩き方はひどく慎重で、不自然な摺り足だ。視界の隅では教臣が笑いを堪えていたが、ふたりは一切構わず食事をかき込んだ。

「今日、教臣の評価が少し上がったぞ。苦瓜の次くらいまで」

「全く分かんないんだけど」

 陽の言葉に夕暉が眉根を寄せた。空いた皿を従者に下げさせながら、教臣が言い添える。

「苦瓜は陽様の一番お嫌いな食べ物です」

「それ、限りなく嫌いじゃん」

「芋虫よりは上だ」

「むしろ今まで、わたくしは芋虫に負けていたんですか、衝撃の事実です」

「蜘蛛よりは、まあ、ひとつ上だった」

「蜘蛛ってそれ、底辺じゃないですか」

 教臣は盛大に顔を顰めた。陽は不思議そうに瞬いた。

「底辺? いやハンバーグ以下は、ランク外だぞ。ちなみにハンバーグは五番目に好きな食べ物な。総合順位は八位」

「待って、その中で人類として俺とおじいちゃんが入ってるとして、あと一つが何か気になる」

「ランク外……。幼少期から献身的に尽くしてきた、教育係に対してこの仕打ち。夕暉様どう思われます」

「自分が意外と好かれてたって知って、びっくりしてます」

 口に入れた肉の塊を嚥下して、真顔で夕暉は言った。

「え、そっちですか」

「相対評価でな」

 食事に熱心な視線を注ぐ陽は、小動物のように頬袋を膨らませている。

「おふたりのそのマイペースさ、羨ましい限りです」

「オマエも大概だけどな」

「確かに。陽くんの教育係が務まるって時点で、只者じゃないね」

「失礼だな。それじゃおれが変みてえだろうが」

「変じゃん」

「いや。話、聞けよ。ちょっとで良いから」

 ついに敬語をかなぐり捨てた教臣だった。少し離れた場所では、従者たちが珍獣を見る目で、一連のやり取りを見守っている。

「ご馳走様でした。美味しかった。教臣さん、朝食ありがとうございました。渡りに船でした」

「いいえ、とんでもない。欲を言えば王宮で召し上がっていただきたかったのですが、ご要望とあらば致し方ありません。いつでもお申しつけください」

「ありがとうございました」

 教臣の嫌味を完全に受け流し、夕暉はにっこりと笑みを浮かべた。その間も陽は、絶えることなく食べ物を口に運んでいる。用意した大量の朝食が、次々に陽の口へ吸い込まれてゆく。陽の食事の様子をはじめて目撃した従者は、化け物をみるような目つきで彼を眺めた。

 片手で器用に料理をかき込みながら、陽は「暑い」とぼやいて胸元を大きく寛げた。緩めるついでに引っこ抜いた腰紐で、袂を纏め上げる。王国服の裾を割りパタパタと風を送り込む陽に、教臣は顔を顰めた。

「陽様、君飾らざれば臣敬わず、ですよ」

 教育係らしく陽を諫めた教臣の言葉に、夕暉は目を丸くする。

「『ささめごと』ですか。随分と古い諺を。地上でもあんまり有名じゃないんだけど」

「先王様が大変博識な方だったので、わたくしもそれに恥じないよう必死に勉強いたしました」

「こいつも、地上、特に日本オタクだから」

「先王がその分野では第一人者で、わたくしはその一番弟子ですからね」

「おれが一番弟子だっての! 孫なんだから」

「笑止。貴方がお産まれになる前から、わたくしが何年、先王の元で薫陶を受け、研究をお手伝いしてきたと」

「仕事の合間にだろうが、このつきまとい野郎。あれは迷惑防止条例? とか適応して良いレベルだったから! おれは生まれてこのかた、付きっ切りでじいちゃんに教えて貰ってたんだからな」

 口いっぱいに料理を詰め込んで、陽は行儀悪く箸で教育係を差した。涼しい顔で眼鏡の蔓を押し上げて、教臣はふんと鼻を鳴らす。

「はじめに教えを請いに伺いはしましたが、その後お傍においてくださったのは先王様の御意志ですよ。……ちょっと、だらしない格好をなさらないでくださいって言っておりますでしょう」

「そもそもお前は、おれが身形と口調をきちんとしてたとしても、全く敬わねえだろうが」

「それはそれでしょう。敬うに値しない方はどのような見た目でも敬いませんね」

 しれっと宣う教臣に、陽の頬が引き攣る。

「なあ、ほんと一回、無抵抗で殴られろ。頼むから」

「そのあと貴方が黙って三倍殴られてくださるのなら吝かではありません」

 間髪入れずにそう言って、教臣はにっこりと満面の笑みを浮かべた。陽は乱暴に頭を掻きむしった。

「あああ腹立つ! なんでじいちゃんはこんなやつ採用したんだよっ」

「わたくしが当時、神官の中で最も優秀だったからですね。誰よりも、飛びぬけて」

「誰かコイツをクビにしてくれ!」

 ついに陽は、頭を掻きむしった。夕暉は身体をくの字に折り曲げて爆笑した。

「あはははっ、さすが陽くんの教育係。最高だね」

「お褒めに預かり光栄です」

 一頻り腹を抱えて笑ったあとで、夕暉は滲んだ目元を拭いながら教臣に問うた。

「ところで、わざわざ衣服を届けに来ただけってことはないですよね。何かありましたか」

 教臣はそれに姿勢を正して、今度は軽く頭を垂れた。

「昨日はきちんとお話が出来ませんでしたので、改めてお話に参りました」

 夕暉はバツが悪そうに眉根を下げた。

「ああ、昨日はすみませんでした。教臣さんたちは悪くないのに、八つ当たりみたいにお暇してしまって」

「いいえ、とんでもない。傍若無人具合からいえば、陽様には到底及びませんよ」

「いちいちおれを引き合いにだすな」

「では、言われないように、品のある御振る舞いをどうぞ心掛けてください」

 抗議をバッサリと切り捨てて、教臣はまた夕暉に向き直る。

「今後は夕暉様のお世話係として、わたくし教臣と、こちらの二名が付きます」

「要りません」

 夕暉は即座に首を振った。

「えっ」

 従者として紹介されたふたりのうち少年が、思わずといった風情で声を上げた。陽は溜息を吐いた。肩を竦めて夕暉を横目で見上げる。

「お前な。それはあいつらに『クビ』って言ってるようなもんだぞ。お前が断ったらあいつら、しばらく仕事ねえもん」

 片手をあげて呼んだ別の従者に、陽は食後のお茶を要求した。夕暉が目を丸くする。

「そうなんだ。うーん。でも俺、自分の面倒は自分で見たい派だしなあ」

 陽よりも少し年下らしい少年は、いまにも泣き出しそうな顔をしている。

「早急に、血統の竜にお会いください。観光よりもなによりも検査が先です。最優先です。早急に、今すぐにでも」

 真顔で詰め寄られ、夕暉は気持ち椅子を引いた。

「教臣さん、超怖いんだけど」

 微笑を浮かべている顔は柔和な筈なのに、謎の威圧感がある。一歩、教臣が踏み出した。いつの間にか背もたれにピッタリと張りついていた背筋が伸びる。夕暉はちらりと陽に助けを求めて視線を投げた。けれど矛先が自分に向いていないのを良いことに、陽は素知らぬ素振りで、優雅に交趾の湯呑を傾けている。

「夕暉様、よろしいですか。王族は、王国の存続にとって、非常に重要な役割を担います。王族なしには、わたくし達は王国を保つことが出来ません。したがって王族の従者といえば、王国では大変名誉な職業なのです」

「ハイ」

 夕暉は神妙な面持ちで頷いた。

「勿論、貴方のお気持ちは分かります。突然、王国に来られ、王族かも知れないと言われて戸惑っておられることだと思います。貴方の意見は最大限に尊重して差し上げたい。けれどこの国で滞在される以上、最低限の掟には従って頂きます。そうでないと、この者たちは名誉な職に就けないばかりか、路頭に迷うことになります」

 夕暉は言葉に詰まって黙り込んだ。相変わらず、人を丸め込むのが得意な奴だ。陽はこっそりと教臣の表情を窺った。一見、神妙な真面目くさった顔をしているが、陽には判る。あれは言葉巧みに、自分の思うように事を進めようとしているときの表情だ。

 付き合いが長くなれば、夕暉がそれに気づくのは容易かったはずだ。けれど現段階で夕暉が気づけるはずもない。横目で様子を窺っていると、教臣の鋭い眼差しと一瞬、目が合った。余計なことは言うなということか。触らぬ神に祟りなし。陽は静観を貫くことにした。

 そもそも前提として、王国で路頭に迷うなんてことは、はっきりいってまずあり得ない。仮にそんな状況に置かれた人がいたら、みなが寄ってたかって着るものや食事を与え、住処を提供し、何くれと世話を焼く。それが王国の国民性だ。

 けれどここで訂正すると、きっとややこしいことになる。陽は口を挟みたいのを堪えて、精一杯のしかつめらしい表情を作った。夕暉の縋るような視線に、敢えて大きく頷いて見せる。逃げ道を失って、夕暉が唸った。自らの王手を悟り、たたみかけておきたい教臣は、にっこりと満面の笑顔を作った。

「紹介していませんでしたね。こちらが要」

「要です。若輩ゆえ行き届かぬことばかりだと思いますが、誠心誠意お仕えさせていただきます」

 紹介された長身の青年が深々と腰を折る。歳の頃は二十になるかならないかといったところだが、覗く首は太く胸板も随分と厚い。かなり恵まれた体格をしている。ゴリラくらいなら戦っても素手で勝てそうだ。要が顔を上げたのを見計らい、教臣が言い添える。

「これまでは、わたくしの第三秘書をしていた、真面目で優秀な男です。書類仕事をはじめ、従者に必要な仕事は一通りこなせます。また抜群の記憶力を誇りますので、夕暉様の王国での暮らしで、大きな助けになると思います」

 護衛の人じゃなくて文官なんだと思わず言いかけて、夕暉は言葉を飲み込んだ。彼の体格の良さと、王族の周辺の職という先入観からてっきり、身辺警護でもされるのかと思ってしまった。偏見は良くない。

「そしてこちらは音緒。昨年に成人したばかりで、見習いとして王宮におりました。至らないところも多々あるかと思いますが、夕暉様のもとで色々と学ばせて頂きたく、選出いたしました」

「音緒です。よろしくお願いいたします!」

 急須に手を伸ばすふりをして、陽は夕暉の顔をちらりと横目で窺った。従者の少年の期待に満ちた眼差しを受け、困ったように眉を下げた情けない顔。唇を尖らせて、しばしのち、夕暉は溜息と共に諦めた様子で小さく頷いた。

「カナメさん、ネオくん。王国のことは本当に分からないことだらけだから、こちらこそ宜しくお願いします」

 教臣は満足そうな顔をしている。

「ところで王族の検査についてですが、夕暉様のすべきこと自体はいたって単純です。文字通り会いに行く。それだけです。そうすれば血統の竜が判断してくださいます」

 夕暉が首を傾げた。不思議そうな視線を受けて教臣は頷く。

「王国の竜たちは宝石を集める習性がありますが、血統の竜だけが金剛石を集めます。お会いしてそれをいただければ、王族と認められたことになります」

「え、ほんとにそれだけですか」

「ええ。また、その石の大きさは、能力に応じて違います。簡単に言えば、能力・適正が高いほど、血統の竜は大きな金剛石を差し出します。更に王としての適正が高いと、色の付いた金剛石の場合もありますが、これは王国史上まれなことです」

「俺、違いがわかんないんですけど、色付きの金剛石もあるんですか。色着いてたら別の石じゃないの」

「はい。初代のものとされる金剛石、基幹石と呼ばれる金剛石は赤でしたし」

 そう教臣が言った瞬間、不意に部屋が陰った。同時に羽搏きのような音が、僅かに耳朶を打つ。外の空気が瞬時に変わった。人々の騒めきと悲鳴が耳に届く。それも一人や二人のものではない。

 王国にあるまじき騒ぎを不審に思った教臣は、窓から外を確認しようとして、反対にそこからにゅっと顔をのぞかせたものに鋭く息を飲んだ。夕暉の弾んだ声が、場違いなほど朗らかに響く。

「あ、おはよう。昨日振りだね」

 文字通り首を突っ込んできたモノへ、呑気に挨拶する。陽は顎が外れそうなほど大きく口を開いた。夕暉の声に満足そうに眼を細めるそれは、人前に姿を現さないはずの彼の竜だった。頬を撫でようと伸ばした手へ、白竜はおもむろに口に咥えていた何かを落とした。夕暉が咄嗟に受け止める。

「うわっ、重っ」

 重量のあるものを突然ぽいっと渡された衝撃で、思わずしゃがみ込む。

「……漬物石? うおっ、また」

 間髪入れずにもう一つ。両脇から、恐る恐る覗き込んだ陽たち主従は、目を疑った。「俺、漬物は漬けないんだけどなあ」などと言って、手にしたものをしげしげと眺めている夕暉に絶句する。

 部屋中の時が止まっている間に、血統の竜は甘えたように喉を鳴らして夕暉の胸元に顔を擦り付けると、来た時と同じく、あっという間に飛び去って行った。

「あ、行っちゃった。またね~」

 見る見る間に小さくなってゆく白竜の背へそう言って、夕暉が陽と教臣を振り返る。

「なんか、ぬし様が綺麗な漬物石みたいなのくれたんですけど。どうせなら、ついでに検査してくれれば良かったのにね。って、みんなどうしたの。顎外れちゃわない、それ」

 あんぐりと口を上げている面々に、夕暉は不思議そうな顔で首を傾げた。。

「あ、青の、金剛石……」

「何カラットあんだよ。どうすんだ、これ。デカすぎて首から下げらんねえだろ」

「え、金剛石? この漬物石みたいなのが?」

 夕暉は何気なく青い石を空中へ軽く投げた。途端に悲鳴が上がる。

「ゆ、夕暉様、その扱いは流石に」

「お貸しいただいても?」

 新米従者が泡を食っている横から、早くも立ち直った教臣が、さっと袱紗を差し出した。

「これは見事だ……。二万カラットはあるかな。初代のものとされる、もう一つの金剛石に引けを取りませんね」

 無造作に渡された巨大な金剛石をしげしげと眺め、教臣は嘆息した。部屋の隅で息を潜めて成り行きを見守っていた音緒は、ついに泡を吹いて倒れた。地上では存在し得ないほど大きな金剛石だ。当然、王国でも規格外である。夕暉が嫌そうな顔をした。

「それ首から下げたら、俺の首たぶん折れますけど」

「王笏の上に冠するしかないでしょうね。もう一つのこちらを、首飾りにしましょう」

 教臣に促されて、夕暉からもうひとつの金剛石をこわごわ受け取った要は、辛うじて立ってはいるものの、顔面蒼白だ。青い金剛石と比べれば小さいとは言え、卵大の赤い金剛石だ。百カラットはある。紅玉と見まがうような赤だ。

「要は落ち着いたらそれを持って、音緒と一緒に一度、王宮へ戻りなさい」

「はい……」

 どこか上の空の要へ、腰を下ろすように促す。要は音緒の寝かされたカウチの向かいの椅子に、頽れるように座り込んだ。

「もう検査済ってことになるのかな」

 部屋の混乱を眺めて、ふと夕暉が呟く。教臣は力強く頷いた。

「検査に赴く必要ないでしょう。血統の竜が自らお出ましになり、こんなに大きな金剛石をくださったのですから」

 陽が小さく肩を竦めた。

「お前がなかなか来ねえから、じれて来たんだろ。手間が省けて良かったな」

「うん。ところで、これ。俺も着なきゃ駄目ですか」

 王族服を指さして、夕暉が言った。

「おや。夕暉様は裸で過ごされたいと」

 大胆ですねと、教臣が片眉を上げる。

「んなわけないでしょうが。ここ、振りがもうちょっと短いのが良いなあと思って。街の人たちとまではいかなくても、せめて教臣さんたちくらいの長さにしてくれませんか」

「王族なので諦めてください」

「もしかして、振りの長さもなんか決まりがあるんですか」

 夕暉の問いに、教臣は頷いた。

「ございます。階級が上がるごとに、振りは長くなります。手を使う頻度の高い仕事をしているものほど短く、飲食や火を扱う職業などは筒袖の者も居ますが、われわれ神官はご覧の通り。地上で言うところの小振袖くらいですかね。王族は中から大振袖です」

「王になったら、引きずるくらい長いぞ」

 陽が言い添える。夕暉は文字通り頭を抱えて唸った。

「必要性が全く分からない」

「万が一、緊急事態が起きた時に誰でも一見して王族を判別できるようにだ」

「では早速」

 気が変わらないうちにと、教臣は部屋の外へ合図を送った。従者に囲まれて、夕暉はふるふると首を振る。

「陽くんがこのまま王族の衣服を着てるんなら、俺も我慢して着る」

「王子というものは我儘ですね。陽様、そうなさいませ」

 教臣が大きなため息を吐く。あっさりと許可がでた。促されて脱いだ襯衣を従者へ手渡しながら、夕暉は目をまん丸にした。

「陽くん、我儘だって」

「おれじゃねえよ。お前のことだよ」

 間髪入れずに振るわれた足を、夕暉は大縄跳びの要領で華麗に避けた。

「ちょっと、着替えてんのにっ」

「お前がボケなきゃ良い話だろうが。避けてんじゃねえよ」

「避けるよ、真面目に言ってるのに」

「お前の存在自体がボケてんだ」

「理不尽」

「今更だな」

 陽は鼻を鳴らす。ふたりの軽快なやり取りに、従者からは笑いが零れた。言い合いを続ける夕暉たちを他所に、彼らは手際よく夕暉に王族服を着付けた。

 王国の衣服は着物に近い。男女ともに形状は同じで、どちらもおはしょりはなく、丈は膝上から脛の真ん中あたりまでと個人差がある。襦袢の衿は前をきっちりと詰めて、男女共に大きめに衣紋を抜く。そのうえから着る着物は大きく胸元が空いている。

「何で襦袢はきっちりしてるのに、着物はこんなに開けて着付けるの」

「階級章の首飾りが見やすいようにって、おれは習った」

「だから無地っぽいのが多いんだ」

 それならば納得だ。きちんと実用的な理由があるなら、夕暉だって、ごねたりはしない。

「教臣さんたちは、首飾りの宝石が色付きだから、白っぽい襦袢を着る人が多いんだね」

「ええ。白だと赤や青が映えますからね。禁色の赤と紫以外は自由に選択できますので、白を選択する者が多いです」

「禁色かあ。やっぱ良く分かんないなあ。普通に身分差があるみたいに感じるんだけどな」

 全く分かっていない顔で、夕暉はぼんやりと頷いた。僅かに首を傾げて少し考え、教臣は言った。

「禁色の発想はそもそも、王族側からではなく一般の民から提示され、定着したのです。国を守るという、大切かつ重労働に見合った特権をと」

 着替えの終わった夕暉を上から下まで眺めて、陽は言った。

「似合うな」

「日本人としては、この振りの長さは屈辱」

「そこまで嫌がるもんか。確かに、たまにちょっと邪魔だけどな」

「だって、これじゃ振袖だもん。日本では未婚の女の子の着物だよ。男はこんなの着ません。あと手が出ないのも不便」

 夕暉が唇を尖らせる。

「慣れろ。夜はそれなりに寒いから、温かくて良いぞ」

「そういう問題なの」

「そういう問題だな」

 檸檬を口にねじ込まれたみたいな表情で、夕暉は黙り込んだ。教臣たちは手際よく持ち込んだものを纏めると、「逗留先が決まりましたら、またお知らせください」と言いおいて引き上げていった。


 それから十日もしないうちに、ふたりの住居はあっさりと見つかった。夕暉の対人能力が、遺憾なく発揮された結果だ。

 夕暉は三日もすれば宿の主人たちと十年来の友のように仲良くなり、市場に複数の顔見知りをつくり、空き地で草野球のチームを作った。

 夕暉が地上から持ち込んだ野球という遊びに人々は熱中した。新しい住処はチームの仲間に紹介してもらったらしい。まるで生来の王国人のようにこの国に馴染んでいる。それこそ、生まれてこのかた王国人としてしか過ごしたことのない陽なんかよりも、よっぽど。

 夕暉が野球と交友関係を広げるのに勤しんでいる間、陽は台所でひたすら野菜を切る特訓をした。夕暉の知らないところで上達して、一泡吹かせてやろうと思ったからだ。桂剥きで薔薇を作るのを目標として生み出された山のような野菜の残骸は、近所の動物の餌になった。多分、夕暉にはバレていた。

 住むところを決めると陽はすぐに、王宮へその旨をしたためた書簡を送った。これで一安心だ。あとは教臣が上手く処理してくれるだろう。余談だが、書簡を送る時に使う鷹に夕暉は大興奮だった。陽が「早く書簡を送らねえと」と窘めなければ、今から鷹匠を目指さんばかりの気に入りようだった。

 鷹を見送りながら夕暉はしみじみと呟いた。

「良いなあ、この手紙っていう通信形態。俺スマホって嫌いだったんだよね~」

「地上にいた時、お前がスマホ触ってんの見たことねえぞ。いっつも家に置き去りで、おおむね固定電話化してただろうが」

「うーん。大体、電源も切れてたから、ヴィラにあった固定電話の方が優秀だったと思う」

「なんだそりゃ。そういや王国に持ってきてなかったか? どこやったんだアレ」

「王国立異文化博物館っていうとこにある」

「なんで」

「王国じゃ電波なくて使えないし、教臣さんにあげたら、次の日、博物館に飾られてた」

 嬉々として展示する教臣の姿が目に浮かぶ。

「そもそも、陽くんが来るまでは、持ってすらいなかったし。陽くんと別行動することがあったら、と思って買ったんだけど、使わなかったよね」

 それは初耳だ。陽のために買ってくれていたらしい。教臣の収集癖に対抗意識が芽生えかけたが、続く夕暉の言葉で、陽は教臣の評価を地の底まで落とした。

「パスポートと財布は良いとして、下着まで展示するのは止めて欲しいなあ」

「明日、燃やしに行くわ」

 額に青筋を立てながら、陽は言った。

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