第4話
ふたりがいっそう絆を深めていた頃、王宮では大混乱が起きていた。
今日の出来事全てが、有史以来の未曾有の事態だ。平和な王国にとっては天変地異に匹敵するほどの大事件である。
伴って発生した山のような事務処理に追われ、教臣は一息つく暇もなく王宮をかけずりまわった。大方の処理を終えたころには夜も更けてしまっていた。
教臣は深い溜め息をついて眉間を揉み解す。目がかすむが、あと一息だ。気合を入れなおした瞬間、控えめに扉を叩く音がして教臣はそっと筆を置いた。機密書類を引き出しに素早くしまって席を立ちながら、扉の向こうへ許可を出す。
「はい、おりますよ。どうぞ」
「教臣様、小夜でございます。夜分に申し訳ございません。いま少しお時間を、よろしゅうございますか」
おずおずと顔をのぞかせたのは、控えめな印象の女性だった。普段、教臣の執務室に出入りする人物ではない。珍しい人の姿に教臣は僅かに目を見張る。
「構いませんよ。どのような御用向きでしょうか」
小夜にカウチに座るようすすめて、自らもそちらへ移動した。教臣付きの秘書官が、慣れた仕草で茶を煎れる。机に置かれた湯呑に礼を言い、小夜はちらりとそれを運んできた青年に視線を遣った。教臣は小さく頷くと「人払いを」と彼に命じる。
「畏まりました」
人のいなくなった執務室に沈黙が訪れる。手持無沙汰になった教臣は、急に喉の渇きを思い出して愛用の湯呑に唇を落とした。対面に座る女性へ、失礼でない程度に視線を遣る。申し訳程度の化粧と、低い位置で一つに束ねられた黒髪。よく見るとそれなりに整った容姿をしているのにも関わらず、随分と地味な印象を受ける女性だ。
どことなく見覚えがある気がする。ぼんやりと観察しているうちに、遠い記憶がよみがえってきた。
確か、陽の誕生に際して、教臣と共に陽の乳母として世話係に任命された女性だ。あの頃は教臣も二十歳になったばかりで、彼女もまだ三十前だった。すぐに思い出せなかったのも無理はない。今も王宮にいる教臣とは違い、彼女は陽が乳離れをする頃には、第一王宮を離れたはずだった。
「小夜さま、お久しぶりですね」
「はい、ご無沙汰しております」
そう言ったきりまた口を閉ざして俯く姿を眺めているうちに、先ほど彼女が突然泣き崩れた光景を思い出す。いささか動揺しすぎだと思ったことも。膝に揃えて置かれた華奢な手は、力を入れ過ぎて血管が網の目のように浮き上がっている。固く拳を握りしめて、ゴクリと音がするほど物々しく唾液を嚥下した小夜は、ゆっくりと口を開いた。
「あの方の、ことで……。わたくしは、わたくしはっ、とんでもないことを……っ」
小夜は突然わっと顔を覆った。小夜の手元に、教臣は困惑しながら手拭いを差し出す。
「話がよく分からないのですが、順を追って、主語を明確にお話しくださいますか」
はじめの躊躇が嘘のようだった。陽の乳母は、堰を切ったように秘された彼女の罪を話し始めた。
涙ながらに語られた小夜の話に、教臣は息の根が止まりそうなほど驚いた。ちらりと脳裏を掠めた可能性が、事実である予感に変わる。彼女の話が本当なら、今すぐに調べなおす必要がある。
教臣は勢いよく立ち上がり、泣きじゃくる小夜を置いて執務室を飛び出した。
扉を開けた瞬間、少し離れた場所で待機していた秘書官の知史実が、驚いた顔で教臣を見た。
「面会は、もう宜しいので?」
「私は今から禁書庫へ行く! 申請書類を書いておいてくれ。だが手続きをした事実は、お前以外には絶対に知られるな。それから悪いが、彼女を頼む」
知史実は教臣の言葉に目を丸くする。王国のほとんどが、深い眠りの中にいるような時間だ。冷静さを欠いた教臣の様子にただ事ではないと悟った秘書は、「畏まりました」と表情を引き締めた。教臣の就任直後から全面的に支えてくれている有能な秘書だ。彼に任せておけば、良いようにとりはかってくれるだろう。返答も聞かずに、教臣は全速力で王宮の廊下を駆け抜けた。
時間は夕刻へ遡り、話は市中の夕暉と陽に戻る。
適当な食事処で腹を満たした頃には、陽の混乱も落ち着きすっかりいつもの調子を取り戻していた。
「食った食った」
「美味しかったね。和食と味が似てたから何だかほっとした。早く王国を見て回りたいなあ」
夕暉は腹を擦りながら言った。支払いの際にどちらも財布を持っていないことに気が着いたが、取り敢えずツケにすることで解決済みだ。「王宮、教臣宛でツケとけ」と言い放った陽は、大変ふてぶてしかった。夕暉を見上げて、陽は肩から下げた布の鞄を示した。
「まずは即急に宿を探せ。荷物が重い」
深いため息を吐いた夕暉は、おもむろに足を止めて陽に向きなおる。
「あのね、陽くん。もう一回、確認しようね。一緒に探そうって言ったよね。俺は召使じゃないんだけど」
陽は心底驚いた表情で夕暉を見上げた。
「そんなこと、思ったことない」
「そうでしょうとも。この天然俺様め。取り敢えず『探せ』じゃないから。はい、言い直し」
「宿を、……確保しろ」
「そうじゃなくって。その命令口調を改めなさいって言ってるの」
「命令してない。じゃあ、なんて言うんだよ」
陽は唇を尖らせた。けれど夕暉が言うのなら、偉そうなのだろう。
「『荷物が重いから、先に宿を探さない?』
はい、言ってごらん」
「『荷物が重いから、さきに宿を……サガサネエカ』」
「言わされた感が半端ない棒読みをありがとう。でも、まあいっか」
「褒めろよ」
「なんでよ」
「お前の言ったとおりに言ったじゃねえか」
「陽くん、もうちょいしょんぼりしててくれても良かったかなー」
「もともと、しょんぼりなんてしてねえよ!」
言い合いをする二人の姿に、道行く人々が通りすがりにくすくす笑いを零している。
「宿なあ。宿、宿。あ、すみませーん」
夕暉は近くにいた数人連れに向かって手を挙げた。誰にでも気軽に話しかける夕暉の姿は見慣れた光景だ。それにしても、行動に移す前に一言くらい陽にも断りを入れて欲しい。慣れたとはいえ、夕暉の機動力の速さと行動の突飛さに蹈鞴を踏むことも多い。基本的に夕暉は自由だ。ぼんやりしていると大体、置いて行かれている。
今回は手首を掴まれたので、引きずられる形になった陽は遠い目になった。背後で天を仰ぐ陽を気にも留めず、夕暉は人好きのする笑みを浮かべて彼女たちへ近づいた。
「ご歓談中ごめんなさい。あの、不躾ですが、どこか良い宿をご存知ないですか」
話かけたのは若い女性の五人組だった。夕暉の涼し気な美貌に、黄色い悲鳴が上がる。
「えっ、誰?」
「知らないよお。でも格好良いね」
「あれ、てか後ろ、陽様じゃん。ふふっ、なんか兄弟みたい!」
「やだ、可愛い、手ぇ繋いでる~」
「兄弟っていうより、むしろペットっぽい」
「あはは、お散歩? 可愛すぎる」
苦笑する夕暉の腕を、陽はむっすりとした顔で振り解いた。
「お前のせいだ。解散。じゃあな。……って引っ張るな」
「ちゃんと持ってないと、君は勝手にどっか行っちゃうでしょ。ちょっと待ってよ」
「犬みたいに言うな。手を繋ぐな!」
「迷子防止の手綱ですー。おてて繋いで仲良くしているわけではありませえん」
「言い方、腹立つな! お前さ、おれのこと完全に子供だと思ってんだろ」
「んー、そうね、三歳児くらいだと思って接してる」
「二年前に成人してるわ!!」
「えっ、王国の成人って十歳なの。早くない」
「おれは、いま、十五、です、けど!」
陽は青筋を立てて手を振り解き、夕暉の腹を渾身の力で締め上げた。
「おえっ、ちょ、やめて。内臓が潰れる。中身が出ちゃう。ごめん、ごめんってば」
謝罪の言葉を受けて解放してやる。夕暉尾は警戒するように、さっと陽から距離を取った。
「鳩尾に拳あてた上から力入れるとか、悪質だね!?」
「あ? もう一回か」
「すみませんでしたあ」
話しかけられたと思ったら突然目の前で始まった寸劇に、しばし呆気に取られていた女性たちは、次第にまたくすくすと笑い始めた。
「可愛い~!!」
「陽くんがね」
「こいつがな」
同時に言って、互いを指さす。夕暉が顔を引きつらせて勢いよく右手を振った。
「いやいや、俺はもう可愛いとかいわれる歳じゃないし。勘弁して」
「おれだってそうだわ」
「絶対に陽くんのことだって」
「はあ? お前だろ。鏡で自分の顔みたことあるか? おれは恰好良いとは言われても、生まれてこのかた、可愛いなんて言われたことないぜ。憎たらしいはあるけどな」
「え、陽くんに直接、憎たらしいなんて言ってくれる人いるの」
「恰好良いはスルーかよ。面と向かって言うのは教臣だ。あとは大抵、陰口だな」
「陰口って、思った以上に打たれ強いな、君」
「お前よりは繊細だわ」
「どの口が。あ、いや、待って。分かった」
夕暉がハッとした顔で言った。
「女の人って、ちょっとキモイもんにも『可愛い』っていうじゃん。あれだわ、ほら、俺たち今きっと、ヘルゲの元カノが飼ってたブサ猫状態」
陽が手を打つ。
「それだ。お前、たまには冴えてるな」
「おっけ、解決」
無事、可愛い認定が回避できた。謎の一体感が生まれ、ふたりはガシッと腕を組む。物理的な可愛いではなく、阿吽の呼吸のやり取りが可愛いと評されているとは、夢にも思っていないらしい。そんなふたりに女性たちは一層笑いを堪えていたが、夕暉たちはいたって真剣だ。年頃の男にとって「可愛い」という評価は屈辱なのである。
「ええと、宿、でしたよね?」
一番年長と思しき女性が、おっとりと口を挟んでくれた。言い合いをしているうちに、本来の目的を忘れかけていた。夕暉はハッとして首肯する。
「あ、そうでした」
「うーん、ごめんなさい。私たちはこの辺りに住んでいて、宿のことは良く知らないの」
小首を傾げた拍子に、綺麗に巻かれた髪が胸元で揺れた。斜めに分けた前髪の下で垂れ目が柔らかく細められる。柳眉を下げて、女性は思案するように頬へ手を当てた。ほんのり小首を傾げる仕草が色っぽい。横から「伊代さん」と声を上げたのは、髪を頭上でまとめ上げた細身の女性だった。意志の強そうな目元が印象的なきりりとした美女だ。優し気な垂れ目が彼女を見上げる。
「南風ちゃん、どこか心当たりあるの」
「んーん。でも、伊代さんも知らないなら、誰かに聞けば良いかと思って。おばさーん」
にっこりと笑った南風は、傍の屋台の五十がらみの女性へおもむろに声を掛けた。
「はいよ! いくつ!?」
コテを返す手はそのままに、威勢の良い返事が返ってくる。
「あ、ごめん。そうじゃなくて、あの人たちが今晩、泊るところを探してるらしいの。どこか良いところを知らない?」
南風の台詞で顔を上げた店主の女性は、陽たちを見ると目を丸くした。
「あらあら、陽様じゃないかい。それと、まあ。誰だい、エライ綺麗な子だねえ」
「夕暉だ」
陽が得意げに言った。なんの説明にもなっていない。そしていつも通り無駄に偉そうだ。顎をしゃくった陽の隣で夕暉は丁寧に腰を折った。
「こんにちは、陽くんの友人の夕暉です。お仕事中にごめんなさい。もし良い宿をご存じなら教えていただけますか」
夕暉の旋毛を眺めて、店主はコテを持ったままの左手で、口元を押さえた。
「あらあらあ、陽様と違って礼儀正しい子だねえ。それにあんた、友達がいたんだね」
しみじみとした口調だった。何となくしんみりした空気が場に流れてしまう。全員の生温かい視線を受けて陽はむっつりと黙り込んだ。陽の憮然とした顔を目にした夕暉が、ブハっと盛大に噴き出した。笑い過ぎて全身プルプルしている。震える脹脛に左足で鋭く一撃をくれてやる。蹴られた夕暉は文字通り飛び上がった。
「いっ……ちょっとっ、ボッチ指摘されたからって蹴らないでよっ」
「お前が笑うからだろうが」
「笑うでしょ、普通。あっ、また。暴力はんたーい。ほんっと足癖わるいな。やーい、ボッチヤンキー」
「うるせえ、避けんな。お前だって人のこと言えねえくせに!」
「いやいや、俺は親友いたし、常に一人じゃないから。陽くんのボッチと一緒にされるのは心外です」
「おまっ」
「はいはい、仲が良いのは分かったから、そこまで」
笑いながら女将が手を叩いた。陽はツンと顎を上げてそっぽを向く。
「お前が悪い」
「半分は陽くんのせいだよ。あの、できれば長期で泊まれるところだったら有難いのですが」
店主は柔らかく目を細める。
「先王も良く、王国中を泊まり歩いていたねえ」
「じいちゃんが?」
そっぽを向いていた陽は、彼女の台詞に思わず身をのりだした。
「そうだよ、先王は旅がお好きだろう。良くここにも寄ってくれてね。流石、先王の薫陶を受けていただけあるね。王になる前に色々と国のことを見ておくのは良いことだよ」
「いや、おれは……」
国民にはまだ王位と継承権剥奪の話が伝わっていないらしい。陽は説明しようと口を開きかけたが、口を挟む暇もなく祖父の話を垂れ流してくれる女性に割り込むのが面倒くさくなった。途中から完全に相槌を打つだけの首振り人形と化していた。夕暉は音に反応して揺れる玩具を連想して、コッソリ腹筋を震わせた。
「知っているかい、先王と元王妃様は市場で出逢われたんだよ。いや、絵本にもなったくらい有名な馴れ初めだもんね、そりゃ知ってるか」
「ああ」
「あとは陽様に、気の合う王妃様が見つかれば、国は安泰だねえ」
「ああ」
一方的に喋り倒したあとで、ようやく反応の薄い陽に気が付いた店主は豪快に笑った。
「ああ、つい喋り過ぎちまった。宿だったね。早くしないとそろそろお日様が隠れちまうね。何件か心当たりはあるけど、せっかくだ、先王の行きつけにするかい?」
「そうだな、頼む」
陽は鷹揚に頷いた。夕暉はにこにこと見守っている。先王も御用達だったというお勧めの宿は、市場のある主要道路から外れた、少し距離のあるところらしい。女性が簡単な地図を書いてくれる。
「あ、そういえば手持ちゼロだけど」
「おれのツケにしておけば、あとで王宮から届くから問題ねえよ」
「そ? じゃあ俺が稼げるようになるまでは貸しにしといて」
「別に要らねえよ。多分すげえ余ってるから」
「あ、そっか今までは、お友達が……」
「心底お気の毒、みてえな顔すんな、ボケ」
「エスパーあだっ! ごめんなさい」
夕暉と陽のやりとりに、傍で成り行きを見守っていた女性たちがまたくすくすと笑う。
「ふふ、楽しんでね!」
「うん、ありがとうございました」
「そうだ、私と南風ちゃんも近くでお店をやってるの」
伊代は艶っぽい手つきで夕暉に紙きれを手渡した。紙には簡単な地図と「お野菜南風-みなみ」と店名らしきものが書いてある。
「お食事処よ。良かったら来てね」
サービスするわとにこやかに手を振って、女性たちは夕暉たちに背中を向けた。彼女たちの姿が遠く見えなくなっても、きゃらきゃらと笑う声が、風に乗って長く耳に届く。店主は微笑ましそうに女の子たちの去っていった方を眺めた。
「華やかで良いねえ」
「そうですね」
「はいよ、出来た。これで分かるかい」
手書きの地図が差し出される。夕暉と陽は揃って渡された地図を覗き込んだ。
「この市場を抜けた先だな。歩いて三十分くらいか。行くぞ」
ひったくった地図を手に陽は歩き出した。
「待って待って。ありがとう、今度また、そのお料理を頂きに来ますね」
店主に礼を述べ、一歩遅れて夕暉も着いてくる。
「あいよ、気を付けてね!」
きょろきょろしながらも数分は大人しく歩いていた夕暉だったが、次第に目に見えて落ち着かない様子になってゆく。陽は素知らぬふりで速足に市場を進んだ。角をひとつ曲がったところで不意に視界の隅を掠めたものに、陽は小さく声を漏らした。
「……ん?」
「どうかした?」
「ああ、いや」
夕暉に問われて緩く首を振りつつも、陽は右手の細い路地に先を指で示した。
「ちょっとアゴに似てる奴がいたなと思って」
咄嗟に脳内で漢字変換することが出来なくて、夕暉はたっぷり三拍ののち、おうむ返しに呟いた。
「………………あご」
「ああ。ほら、地上で最後に会ったオッサン。不細工な猫飼ってる、カフェで雨宿りしたときにいた、あの女好き」
「不細工な猫に、カフェって、もしかしてヘルゲのこと?」
半信半疑の顔の夕暉を見上げて、陽は僅かに顎をしゃくってみせた。
「アゴ、そんな名前だったか?」
「待って、アゴ。アゴって、顎かっ」
夕暉は思わず叫んだ。
「なんでアゴ。しゃくれてもないし、ケツアゴでもない。ヘルゲの顎に何ら特徴なくない?」
ちょっと目を見開いた陽は、少しばかり考えるそぶりを見せて言った。
「アゴ割れてそうな顔だから」
「もはや身体的特徴ですらない渾名ですね」
「つか割れてなかったか?」
「全く割れてなかったですね。寧ろ胸毛のはみ出具合の方が凄かったよ。陽くんヘルゲに興味なさすぎでしょ」
「ああ、そういや。そっちは汚すぎて存在自体なかったことにしてた」
「君の渾名の付け方って独特だよね」
「お前だって大概だろうが。野良猫に『ヤギ子』って名前つけてたの忘れねえぞ」
「あれは万人が納得の名前だよ。誰が見ても山羊でしょ。だって、すっごい山羊顔してたじゃん、あの子」
「してねえよ」
半目でかぶりを振る。前科はそれだけではない。知人の飼っていた犬のことは「じゅげむ」だったし、隣の家のやたらとおっとりしたインコのことは勝手に「らーごん」と呼んでいた。自由か。
そのとき、勢いよく飛びかかって来たものに膝をくじかれて、夕暉は「うわっ」と悲鳴を上げた。土産にと先ほど店主に渡された食べ物の容器が夕暉の手から離れ、冗談のように綺麗な放物線を描いて飛んで行く。尻もちをついた夕暉にのしかかったものの正体を見た瞬間、ふたりは同時に叫んだ。
「マリー!?」
「わんっ」
名前を呼ばれたタマスカンハスキーは、嬉しそうに尻尾を振った。ちなみに宙を舞った容器はとっさに陽がキャッチしたので事なきを得ている。容器を捉えた可笑しな姿勢で固まる陽に向かって、夕暉が目をパチパチと開閉した。
「え、ほんとにマリー? なんでここに」
のしかかって夕暉の顔中を舐める犬を何とか引きはがし落ち着かせた頃には、ふたりは感じた違和感のことなどすっかり忘れてしまっていた。
この時の選択が、のちに王国の命運を分けた分岐点の一つだった。けれど今の夕暉たちには知る由もなかった。
「うわっ、ちょっ、マリー。顔舐めるの止めて、お願い。見えない見えない! ノー、シット」
狂ったように夕暉の顔面を舐めまわしていたマリーは、命令を受けて夕暉の上からどき、地面に尻をつけた。千切れんばかりに尾を振っている。そわそわと何度も腰を浮かせて、今にも飛びつきそうな興奮状態だ。
「べとべと」
手で顔を拭って夕暉が笑った。陽は彼をたすけ起こしながら肩を竦める。
「そこの噴水で洗ってこいよ」
獣の臭いを夕暉につけた犯人は、呑気な顔でお行儀良くお座りをしている。シャツの裾で清めた顔を拭い、幾分すっきりとした表情で夕暉は言った。
「大型犬連れで泊まれるかなあ」
夕暉は眉を八の字に下げてマリーを見詰めた。陽は肩を竦める。
「大丈夫じゃね?」
夕暉は陽に視線を遣って小さくため息を吐いた。その顔には「陽くんに聞いても分かるわけないか」と書いてある。
「知らねえよ。外泊したことなんかねえからな」
「そりゃそうだ。まあ取り敢えず、行ってみるしかないか。マリー、おいで。カム」
そうしてふたりと一匹になった一行は、再び宿へ向かって歩き始めた。人懐っこいとはいえ彼女は非常に賢く、普段は歩行を邪魔することなどない。けれど今は、夕暉に会えたのがよっぽど嬉しかったらしい。マリーは頻りに夕暉の膝あたりに身体をこすりつけ、一歩進んでは夕暉を見上げと落ち着かない。マリーを好きに纏わりつかせながら、夕暉は一歩前をさっさと歩いていた陽を呼んだ。
「ねえ、陽くん。王国のこと教えてよ」
歩調を緩める。足元の犬と同じくらいソワソワしている男の横に並び、陽は首を捻った。
「何が聞きたい」
問われても、夕暉には聞きたいことが多すぎる。何から質問して良いやら彼は唸った。陽が助け舟を出す。
「あー、じゃあまずは階級の話。さっきは中途半端だったし。なに話したっけな」
「王族、神官・知識人、平民の三つの階級があって、身分差っていうより、業務上の呼び分けみたいな感じ、って」
短く纏まっているが、夕暉にとってあの説明はそういう理解になったのかと、陽は面白く思った。口端を吊り上げたまま軽く首肯する。
「それと王国の階級が、血統に基づくって。でも血って言っても、両親から受け継ぐ遺伝子情報じゃないから、王族の子が王族とは限らないんだったよね。ますます意味不明」
「そうだ。それと王族だと思われる子供は全員、血統判断の検査を受けるとも言っただろ。いつ検査を受けに行くかだが、答えは言葉を話せるようになったら、だ。王国では、階級によって話せる王国語の発音が違うんだよ」
「そういえば、教臣さんの発音、なんか陽くんのと違ったねえ」
夕暉は得心がいった様子で頷いた。けれど他人事のような口ぶりだ。続いて呟かれた「英語と米語みたいなもんかなあ」との台詞は、陽にはいまひとつ理解できなかった。
「だから、言葉が話せるようになったら、その時点でようやく階級が定まるんだ」
「なるほど」
語尾が上がる。眉根が寄っていて、納得のそれではなく、ただの相槌であることが伺える。構わず陽は続けた。
「ほかの階級は言葉だけで即判断するんだが、王族だけは職務が特殊だから、きちんと検査をする。その検査官が血統の竜だ。まあ稀に、ある日突然、発音が変化して王族になるやつもいる。過去に数例しかないけどな」
「どうしてそんなに発音が大切なの」
「呪文の詠唱が、王族の発音じゃないと上手く行かないからだ。上手く行かないと、下手すりゃ王国が滅亡する」
陽の口調のせいで、夕暉はさして真剣に受け取らなかったらしい。比喩だとでも思ったのだろう。それよりも気になることがあったようで、眉間の皺が深くなる。
「責任重大なんだね。でもじゃあ重責を負ってて、まだ王族の発音をしている陽くんの、王位を剥奪ってどういうことなの」
真剣な眼差しに陽は唇を噛んだ。痛いところを突いてくる。カンの良い奴だ。できれば夕暉には話したくなかった。けれど隠していてもどうせすぐに知られてしまうことだ。陽はため息交じりに苦笑した。
「本来ならこの王国は、地上の人間と交わらない。地面の上に足をつけて住んでいる人間に王国のことを知られることは、最大のタブーだ。理由は良く分からねえけどな。たまに地上に降りて、地上人と交じって暮らす王国民もいる。その場合も王国のことは口外しない。飽くまで地上の民として生涯を終える」
「まさか、じゃあ俺に喋ったことで、陽くんは……。なんでそこまでして俺を」
歩調をわずかに緩め、陽はまっすぐに夕暉を見詰めた。
「夕暉が王族だろうから」
夕暉の眉はこれ以上ないほどハの字に下がっている。陽は言葉を継いだ。
「その喋り方だよ」
「俺の、喋り方?」
説明したばかりなのに、やはり完全に他人事として聞いていたようだ。まだ日本語を話しているつもりでいたらしい。
「言っただろうが。王国の言葉は決して地上の民の声帯では発音できない。喉の構造自体が違うんだと、おれは習った。だけどお前が口にしているのは完璧な王国の言葉だ。しかも、そうだな、ほらちょっと聞いてみろ。何か気づかねえか」
そう言って陽は徐に足を止めた。夕暉も同じく歩みを止める。
「みんな、陽くんとも教臣さんたちとも、発音が違う」
「じゃあちょっと、あいつらと同じように発音してみろよ」
「え、うん。街の人たちと同じ発音……あれ、俺、あのたちの発音できない?」
何度か口の中で単語を呟いてみて、夕暉は驚いた表情になった。十数ヶ国語を自由に操る夕暉は、普通の人よりも格段に耳が良い。言語の取得に関してはそれなりに自信があった。それなのに何度試してみても、陽と同じ発音以外はできなかった。陽は子供に言い聞かせるようにゆっくりと告げた。
「出来ねえよ、おれも夕暉も。王国では話せる発音が、血で違うんだ。『話せる』は、話すことが許可されている、の意味じゃない。話すことが可能、って意味だ。お前の身体に流れている血、それがお前の発音を決めている」
「違う発音が出来ない? 血で発音が決まってるって、そんな、莫迦なことが」
「理解できなくても事実だ。発音は血で決まる。だから階級が血で決まるんだ。おれたち王国の人間は、それぞれ一種類の王国語しか話せない。他の階級の言葉を話すことは、絶対にできない」
陽は足を止め、真剣な表情で夕暉に向き合った。夕暉の顔に浮かんでいるのは、理解不能、という表情だった。
「王国に来る段階でも分かっただろうが。ここは地上の、お前の常識は通用しない。そもそも別の時空に存在している国だって言ったろ。夕暉、お前の話している言語は、王国語は王国語でも、紛れもなく王族の発音なんだ」
夕暉の虹彩が揺れる。多分頭では理解しているのに心が飲み込み切れていないのだろう。夕暉は微動だにせず、虚空を睨んでいる。夕暉の頭は今、高速でフル稼働している筈だ。
状況整理をしている夕暉の邪魔をしないように、彼の代わりにマリーの頭をそっと撫でてやりながら、陽は辛抱強く待った。目の前を行きかう人々を意味もなく数える。その数が三桁に達しかけたころ、ぽつりぽつりと水滴が落ちるような声で夕暉は言った。
「……陽くんの話、信じてなかったわけじゃないんだ。ぜんぶ信じてた。でもまさかそれが、自分にも適用されるなんて思ってもみなかった。正直、納得しきれてないけど、理解はした。そういうもんなんだって」
「お前が、単純バカな楽天家で良かったぜ」
「ほんっと、君は減らず口が過ぎるねえ」
「いてぇな!」
強い力で顎を掴まれて、陽は青筋を立てて怒鳴った。夕暉が言い返す。
「いやいや、いつも君、これ以上の力で俺のこと蹴ってるよね。御相子だよ。むしろ俺はもっと力を入れて蹴っても許される」
「ハンムラビ法典かよ!」
「あ、良く知ってるね」
「地上学の中でも有名な法律だぞ。王国の感覚とは違い過ぎて。ネタ扱いだ」
「へー」
ふたりはそれから長い間、石段の端に座ったまま、あれこれと王国について話し込んだ。徒歩三十分のはずの宿に着いたのは、夜も更けた頃だった。当然その日は観光など望むべくもない。
当面のふたりの住処は、こぢんまりとした木造の宿だ。三階建てで計八部屋しかなく、一階には経営者夫妻が住んでいるという。受付で簡単に手続きを済ませて真鍮で出来た鍵を受け取った。階段で三階まで上がり、右手の扉に鍵を差し込む。
入ってすぐ左手に浴室と手洗い、正面には簡易キッチンの付いた居間が見える。居間の奥に見える扉の向こうには、寝台がふたつ覗いていた。三階の一室で、八畳の寝室と十畳ほどの居間を持つ、この宿で一番広い部屋だ。
「すんげえ、狭いな」
目を輝かせた陽の隣で、夕暉が小さく欠伸を零した。目を擦って滲んだ涙を拭う姿に陽も徒労感を思い出す。荷物を適当にカウチへ投げ出して、そのまま寝室へ足を踏み入れた。近くにあった寝台に陽は頭から倒れ込む。隣の寝具に突っ伏して夕暉が唸った。
「死ぬほどねむい」
「……しなねえよ」
「頭も舌もぜんぜんまわってないよ、陽くん」
「んー……」
それからしばし無音が続く。数分の沈黙ののち、枕に顔を突っ込んだまま、夕暉は呟いた。
「やばい、ちょう寝そう」
「……おれ、いっしゅん、ねてたわ」
「王国って完全にはひが沈まないんだねえ」
「暗くなんのは、一日のうち……ろくぶんの、いち? くらいだ……」
「……だめだ、こんなに明るいのに、もうむり」
「なんもかんがえらんねえ」
「よし、ようくん」
「……ん?」
「明日のことは、あした決めよう。おやすみ」
「おやすみ」
間髪入れずに変な体勢で落ちてしまったふたりは翌日、揃って首を寝違えることを今は知らない。
夕暉と陽がすっかり夢の世界に旅立ってしまった頃。教臣は王宮の禁書庫で調べものに勤しんでいた。
その結果、彼は知る。伏せられた十六年前のある事実を。ほぼ確信した今、早急に国王へ確認する必要があった。禁書庫を飛び出し、王の寝所へ急ぐ。果たして国王は、床についてはいなかった。
「入って構わないよ」
扉を叩くよりも早く、寝室の内側から呼ぶ声がする。入室の許可を得て素早く部屋へ足を踏み入れた教臣は、深々と頭を垂れた。
「夜分に申し訳ございません。なれど直ちにお伺いしたいことがございます」
「ああ、待っていた」
深夜にも関わらず、国王は普段着のままだった。
「『王国史』の記述というのは、全て正しいのでしょうか」
何の前置きもない唐突な質問に、王は淡い笑みを浮かべた。
「ああ。お前が知りたいのは、一五三四年の話だね。事実だよ」
あっさりと肯定が返ってきて、教臣は息を呑んだ。二の句を告げない教臣を、王はソファへ促した。
「座りなさい。お前には話しておけば良かったね」
来客を見透かしたかのように、ローテーブルには煎れたての飲み物が二つ置かれている。用意されていたそれで口を湿らせて、教臣は固い表情のまま口火を切った。
「何故、ですか」
本人の意志とは裏腹に、ひどく感情的な響きでその問いは空気を揺らした。真っすぐに目を見つめてくる補佐官に、王は静かな声で答えた。
「王国は、常に平穏でそして幸福でなければいけない。王国を維持し、全ての王国民の平和と財産を守ることが、王族の務めだからだ」
「それは、あのように事実を曲げて公表することも含まれるのですか」
笑みを浮かべたまま、王は僅かに睫毛を伏せた。ひどく寂しそうな微笑みだった。
「そうだな。正しくは、王国の領土にいる人々を全て、だから」
「このことを知っているのは……」
「当事者である小夜と、私、それから君の前任者だけだ」
「それでは今、この機に公表するというお考えは」
「教臣。それに何の意味がある。いや、確かに利点はあるだろう。けれど公表するには問題が多すぎるのだ。利益を遥かに上回る混乱が生じるだろう。第一いまさら、どんな顔をして王国の民に告げる。『あれは嘘でした』とでも公表せよと? 皆はそれを理解できるかい」
二の句が継げない教臣へ、国王は厳かな声で告げた。
「王国の民は『嘘をつかない』んだよ。そのために我々は、永久に、口を噤んでいるしかない」
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