第3話

 凪いだ海の瞳でじっと夕暉を見詰めていた白竜が「血統の竜」という名称に反応して、ちらりと陽を見た。威圧されたわけではない。なのに勝手に足が震えて動けない。

「夕暉っ」

 鋭く警告の意味を込めて叫んだ名前は、当の本人の台詞に見事にかき消された。

「すっ……ごい、美人さんだねえ」

 うっとりと夕暉は言った。

「……は?」

 間抜けな声が漏れる。呑気な台詞が理解できない。ビジン、を、咄嗟に言語として認識できなかった。

 夕暉は掌を天に翳すようにして白竜を示した。子供のように無邪気な仕草だ。

「彼女。凄い綺麗な子」

「彼女って、お前、竜の性別……わかんのかよ」

 緊張感を微塵も感じさせない態度に、かくんと肩から力が抜ける。夕暉が震えていたのは恐怖ではなく、興奮からだったのか。なんとも紛らわしい男だ。陽の乱高下する心も知らず、夕暉は拳を握って力強く頷いた。

「間違いないよ。だって立ち姿から、気品が溢れてるもん」

 半目になった陽などお構いなしで、驚くほどハイテンションの夕暉は、傍で立ち尽くしていた神官に「近寄っても大丈夫ですか」と鼻息も荒く詰め寄っている。神官は呆然自失のまま頷いた。恐らく無意識だ。問われたことを全く理解できていないだろうことは、一目瞭然だ。王国人が一歩も動けない間にも、夕暉の興奮は収まらない。見たこともないほど高揚してはしゃいでいる。ヘラクレスオオカブトを目の前にした小学生男子だって、いまどきここまで喜ばない。身悶えしている青年を眺めながら、いつか夕暉の語っていた彼の好きな物たちを陽は思い浮かべた。

「うん。竜、好きそうだよな、お前」

 陽の横では、足掛けを支える教臣が片膝を付いた姿勢で、呆気にとられた顔で夕暉を見つめている。全ての者が静止するなかで、周囲をよそに一頻りはしゃいで夕暉はおもむろにハッとした顔になった。

「ちょっと待って」

「うん?」

 恐ろしいほど真剣な顔の夕暉がいて、陽はごくりと生唾を飲み込んだ。夕暉は慌てて、周囲を見回す素振りを見せた。

「こんなところで、こんな別嬪さんがいたら、ニュースになっちゃうんじゃないかな。どうしよう、陽くん。捕獲とかされて解剖されちゃう。隠れないと」

 駆け寄ってきた夕暉に、ぐわんぐわんと身体を揺さぶられる。見たこともないほどテンションが高い。陽は不躾な手を払いのけ、ゆるりと首を振った。

「いや、これ、王国関係者にしか見えてねえし」

「えっ」

 夕暉は、首が取れそうなほど勢いよく、竜を振り仰いだ。

「いや、だから、ぬし様は地上の人間には見えねえから。天馬車と、あっちの竜も」

「じゃあ俺は今、何にもない虚空に向かってひとりで騒いでるように見えてるってことかあ。はたから見たら俺、妖精さんが見えてる系のヤバい人じゃん」

「……行くぞ。太陽が完全に沈んだら、またしばらく帰れなくなる」

 陽の一言で、止まっていた浜辺の時間が再び動き出す。迎えの人々は職務を思い出して、慌ただしく動いた。帰還の最終準備が整えられてゆく。

「さあ、陽様。夕暉様。今度こそ行きましょう」

 輝く瞳で白竜を見つめたまま動こうとしない夕暉の腕を引っ張る。天馬車へ乗り込もうとした時、ふたりの上にすっと影が落ちた。成り行きを見守っていた全ての王国人の間に、また緊張が走る。

 夕暉と陽は揃って頭上を見上げた。夕日を受けて紫水晶に輝く夕暉の瞳と、水色の澄んだ双眸の間で、視線が交差する。視線が交わると、白竜は夕暉の前で音もなく膝を折った。呼応するように、天馬車の赤い竜たちが伏せの姿勢になる。背後で教臣がハッと息を飲んだ。導かれるように、夕暉が一歩、白竜のほうへ踏み出す。夕暉が進み出たのと同時に、彼女は長い首を伸ばして夕暉の首元を優しく引いた。引っ張られた夕暉は、たたらを踏んでよろける。

「え、なに?」

 困惑気味に夕暉は陽を見た。白竜はなおも、何かを訴えるように頻りに夕暉を天馬車から遠ざけようとする。不思議そうな表情でされるがままになっていた夕暉は、突如、何かに気が付いたような顔をした。咥えられた首元を指さす。

「これって、馬車じゃなくて彼女に『乗れ』ってことかな」

 夕暉の台詞に王国人は一斉に騒めいた。異例の事態が立て続けに起きて、息を吐く暇もない。ずりずりと次第に白竜のもとへ引き寄せてゆく夕暉を眺めながら、陽は言い返す。

「王国に来るな、ってことかも知れないぞ」

 そうではないだろうとは思いつつも、王国人を代表して告げてやる。途端に血統の竜が憤慨したように陽へ向かって鋭く威嚇した。

「怒ってんじゃん」

 夕暉が呑気に笑い声を上げた。襟元を咥えられて若干、首が締まっている。陽は白竜に向かって問うた。

「天馬車ではなくて、ぬし様が夕暉を運ばれるおつもりですか」

「陽くんって、敬語、喋れたんだね~」

 夕暉の失礼極まりない発言はきっぱり無視する。白竜は陽をじっと見つめ返すと、返事の代わりに夕暉の首元を優しく咥え、丁寧に自らの背に乗せた。「おお……」と感嘆の声が辺りに響く。事の重大さを理解していないのはこの場でただひとり、異常事態の中心にいる夕暉だけだ。竜の背中で呑気にはしゃいでいる。

「うわー、凄い。ねえねえ、陽くんも乗せてもらおうよ。ぬし様、陽くんも一緒に乗せてくれますか」

 返事のようにぐるると喉を鳴らした血統の竜は、陽の後ろ首を咥えて背中へ放った。夕暉の扱いよりもだいぶん雑だ。

「おわっ、危ねえ」

 放られた勢いで反対側へ転がり落ちかけた。すかさず腕を取った夕暉が引っ張り上げてくれる。助けを借りて白竜の背によじ登った陽は、夕暉に倣って背びれの間に収まった。竜の身体は硬かったが、背びれの間隔がちょうど手すりと背もたれのようで、意外と座り心地が良い。

「オッケー、ぬし様よろしくお願いしまーす」

 陽がきちんと背びれの間に座ったのを確認して、夕暉は竜の背を優しく撫でた。白竜は力強く地面を蹴ると、大きな羽ばたきと共に浮上した。天馬車を曳く赤い二頭がそれに続く。不思議なことに、竜たちの羽ばたきは地上に何の影響も与えなかった。音もなく竜は舞い上がる。興味深そうに変化のない海面を見下ろしていた夕暉は、空の天馬車に不思議そうな声を上げた。

「誰も乗ってないけど、教臣さんたちはどうやって帰るの?」

 地上から心配そうに見上げている教臣たちを指差して、夕暉は首を傾げた。陽はふるりと首を振る。

「問題ない。あいつらは元々、天馬車を使えない。教臣たちはあっちだ」

 階段と共に大きな船が降りてくるのが見えた。教臣たち数名が船に乗り込んでゆく。

「教臣さんたちは、船なんだね。なんで教臣さんたちは天馬車に乗れないの。それにまだ地上に残ってる人もいるし」

「階級によって、王国までの移動手段が決まっているからな。今上の王と王位継承権一位の王族が天馬車。それ以外の王族と神官・知識人は船。その他は梯子を使う」

 肩越しに振り向いた夕暉が盛大に顔を引きつらせた。

「ボンボンだボンボンだとは思ってたけど、王族かあ。予想を遥かに超えてたわ。で、陽くんは?」

「おれは第一王子だ」

「次期王様じゃん」

 何気なく放たれた夕暉の言葉。陽は返答に詰まって小さく息を飲んだ。少し前までは「是」と言えたそれ。けれど多分、今は状況が変わっている。

「ほんとだ。船に乗ってる人と階段組がいる」

 口ごもった陽には気が付かず、夕暉は地上の様子を見下ろしながらはしゃいだ声を上げて子供のように喜んでいる。

 しばらくは楽しそうに遠ざかってゆく地上を眺めていた夕暉だったが、人々が豆粒ほどになったところで、唐突に陽へ問うた。

「階級っていくつくらいあるの? 地上と同じ感じ?」

 夕暉の言葉に、書物で読んだ「地上の王国」の項目を思い出す。

「お前らの知ってる王政とは、だいぶん勝手が違うだろうな。王国の階級自体は単純だぞ。王を頂点として、上から王族、神官・知識人、平民だな」

「王族の世話とかはどうなってるの」

「おもに平民が、職業のひとつとして王宮で王族の世話をしてる。まあ階級つったって上下関係に大した意味はない。王族が存在するのも支配階級なのも、単に王国を存続させるための役目が重いからだしな」

「上下関係がないことはないでしょ。だって教臣さんなんか、君に傅いてたじゃない」

 思わず笑ってしまう。あの場面だけを切り取ってみるとそう見えるのか。見当違いも良いところだ。

「はは、あいつがおれに傅く? まさか。おれに対して、あんな不遜で遠慮のねえ奴も珍しいわ」

「ほんとかなあ」

「王国で暮らしたらすぐに分かる。あいつ、おれの教育係なんだけど、罰として縛られて、一日中、木に吊るされたこともあるぞ」

「ぎゃ、虐待……」

 夕暉は、両手で口元を押さえて慄いた。

「翌日、報復にあいつの神官服のケツんとこ、全部に裂け目入れてやったけどな。真面目な儀式の途中で、立ち上がった拍子に盛大に破れて、笑いが止まらなかったな。ありゃ傑作だった」

「仕返しが悪質だ」

「人のこと木に吊るす方が、悪質だろうが」

「陽くん一体なにしたの」

「落とし穴掘って、それに教臣が落ちた」

 ついでに落とし穴の中に腐った卵を設置しておいたことを話すと、夕暉は目を線のように細めた。

「そら君、吊るされもするわ。教臣さんに同情するなあ」

「おい、こら」

 陽が振り上げた手を綺麗にかわし、夕暉が笑う。呑気に会話を続けていられるのは、力強い竜の羽ばたきにも不思議と全く空気抵抗がないからだ。旅は快適に進んでいる。背中の会話が聞こえているのかいないのか、王国で最も力を持つ竜は、王国へ向けて飛びながら笑うような鳴き声を上げた。その声に、夕暉はハッとまた陽を振りかえった。

「そうだ、あのさ、血統の竜ってなに? ぬし様にみんな凄い驚いてたじゃん」

尋ねる夕暉の瞳はキラキラと輝いている。思わず笑みが零れた。

「ありゃ驚いたなんてもんじゃねえよ。みんな腰抜かしてたぞ。血統の竜つったら、王国の建国以前から生きているっていう、伝説級の竜だからな。王族以外は一生お目にかかれずに死んでいく。王族だって王族判定の時に一回だけだ。そんで全ての竜の頂点にいるのが、ぬし様だ」

「頂点かあ。ん? 王族判定?」

 耳慣れない単語に夕暉が首を傾げる。陽は腕組みをして唸った。夕暉はワクワクした顔で、陽の言葉を待っている。

「そこからか。うーん、あんま上手く説明できねえからな。まず王国の階級についてだ。血統とはいうものの、王族の子が必ず王族になるわけじゃねえ。庶民や神官の子が王族の血を持って生まれつくこともあれば、反対に王族の子が神官や庶民の血を有して生まれることもある。王国は血で階級や職業が決まるんだ。文字通り、血で、だ」

 夕暉は白竜の背の上で器用に向きを変え、陽と向き合うように座りなおした。

「血っていうのは、地上と違って両親から受け継がれるもんじゃない。だから王族だと思われる子供は全員、血統判断の検査を受ける。上下の別が緩いとはいえ、一応は特権階級だからな」

「血統、っていうのは血液を意味するわけじゃないんだね」

「ああ。厳密にいうと血液だけど、血は両親から受け継ぐ遺伝子情報じゃないってことだ。んあ~、上手く説明できねえ」

 陽は側頭部の髪を乱暴にかき混ぜた。伸ばした横髪につけた装飾が音を立てて揺れる。地上と王国では概念が違い過ぎて、説明が難しい。夕暉は再思に眉根を寄せた。

「えーと、端的に言うと、緩い階級が存在してて、その階級は血によって分けられてる。そんで、王族だけはぬし様の審査が必要。ぬし様は普通お目にかかれるような存在じゃなくて、ついでにこんな風に地上に来るなんてあり得ない。だから皆が絶句していた。今んとこ、そういう理解で良いのかな」

 夕暉は、納得していないなりにも頷いた。相変わらず理解が早くて助かる。地上の人間にしてみれば突拍子もない話だろうに、夕暉の適応能力は規格外だ。

「王国の人にとって、血統を調べるのって職業適性検査みたいな感覚なのかな」

 腕組みをして考え込む夕暉を眺めながら、適切な回答が出来ないことがもどかしくて、陽は呟いた。

「じいちゃんにもっと、話を聞いときゃ良かったな」

「おじいちゃんとは良く会うの」

 パチッと目を見開いた夕暉が問う。

「ああ。王位継承権第一位の王族は、退位した前王から、王の役目を学ぶ決まりだからな」

「王国へ行ったら、お会いできるかな」

 陽はゆるりと首を振った。

「いや、無理だな。じいちゃんは一昨年、西の国に行った」

「……そう」

 目を伏せた夕暉の哀惜の表情に、陽は内心首を傾げた。

白竜は迷いなく洛陽に向かって飛んでゆく。夕暉が再びなにか口を開きかけた瞬間、間近に迫った大きな雲に陽は叫んだ。

「夕暉、飛ぶぞ、しっかり掴まれ!」

「え、飛ぶ? うわっ」

 視界が一瞬にして零になる。分厚い雲に突っ込んだ瞬間、ぐにゃりと内臓がかき混ぜられたような不快感に襲われて夕暉が呻いた。時空が歪む。眩暈のような感覚に、陽もきつく唇を噛みしめた。僅か数秒が一時間にも二時間にも感じる。不意に独特の重圧が遠のいて、明らかに空気が変わった。

 ざあっと爽やかな突風が吹く。開けた視界には黄金の空が現れていた。見下ろすと、眼下には陽の見慣れた王国の景色が広がっている。普段は見ることのない角度からの王国。夕暮れに染まる母国は、赤烏に照らされて壮麗に輝いている。黄金の光を放つ王国は、筆舌に尽くしがたい絶佳だ。陽は思わず言葉を失ってその光景を見詰めた。

「うわあ、金色だ。下から見た雲と、おんなじ色してる」

 同じく足元を覗き込んだ夕暉が感嘆の声を漏らした。まるで宝物をみつけた子供みたいだ。白竜の背から限界まで身を乗り出して、落ちそうなくらい背中を丸め、一生懸命に下を覗き込んでいる。陽は喉の奥で零れそうになった笑いをかみ殺した。

「集中しすぎて落ちんなよ! どうせあそこに行くんだからな」

「でも、上空からなんて、降りちゃったらもう見られないじゃん」

 はしゃいだ声に返事はせず、陽も美しい光景に見入った。白竜は背中の騒ぎなど知らぬ素振りでゆっくりと高度を下げてゆく。

 少しずつ近付くにつれ、下の様子が明らかになってきた。階段を上って来た人々と教臣達の乗る船は、既に王国へ到着しているようだ。教臣がしきりに上空を指しながら、大声で指示をだしている。しだいに王宮前に集まり始めた人々が、ただならぬ教臣たちの様子から、ようやく上空の異常事態に気が付いた。みな一様にポカンと口を開けて、白竜の姿を見上げている。

 王国の人々の表情が分かるほど近くになると、白竜は大きく咆哮を上げた。それを合図に天馬車を引く竜たちが山のほうへ帰ってゆく。人々が見守る前で、白竜は優雅に王国に降り立った。

 ゆっくりと膝を折ると、首を捻り夕暉向かって小さく鳴き声を上げる。竜へ小さく頷いた夕暉は、頭を反らして陽に言った。

「降りて、ってさ」

 言いざま、夕暉は白竜の背を蹴って飛び降りた。慌てて陽も後を追う。一瞬、息を飲んだ教臣たちをよそに、夕暉は難なく王国の地に降り立った。軽快な動作で背中から降りた夕暉は、飛んだ勢いのまま弾むように白竜に向き直り満面の笑みを浮かべた。

「背中に乗せてくれてありがとう、ぬし様。凄く楽しかったよ」

 夕暉の声に応えるように立ち上がった白竜は、夕暉の首筋に顔を寄せて擦り寄ると三歩後退り、予備動作もなく大きく飛翔した。瞬く間に小さくなってゆく影に向かって、夕暉は呑気に手を振っている。

 夕暉の台詞で今飛び去った見慣れぬ竜が血統の竜だと気が付いた面々から、悲鳴があがった。中には失神する者もいる。動揺は波のように広がり、神殿と王宮の奥まったところからも、外の騒ぎに気が付いた人々が次々に飛びだしてくる。

「陽様っ!」

 ひときわ大きな声が響いた。見れば王宮から転がるように走ってくる一団がある。陽の帰還を聞きつけた世話係たちだ。

「陽様、お帰りなさいませ」

「ご無事ですか、お怪我などはございませんか」

「戻った。こっちは夕暉だ」

 駆け寄ってくる世話係たちへ鷹揚に頷いて、陽は隣を顎でしゃくって見せる。

「言葉は通じるから心配ない」

「はじめまして。夕暉です。しばらくお世話になるのでよろしくお願いします」

 夕暉が世話係に向かって話しかけた瞬間、一人の女性がわっと泣き崩れた。陽の乳母だった女性だ。

「ああ、ご、ご無事で……っ」

 宥められ同僚に抱えられて王宮に戻っていく女性を眺めながら、夕暉は溜息を吐いた。

「良かった、陽くんのこと心配してくれる人が沢山いて」

「おれがいないと、回すのが大変な仕事も多いからな」

 陽は肩を竦めた。夕暉が眉を顰める。

「またそんなヒネたことを」

「事実だ」

「よし。今日は朝までお説教だね」

「良いぜ、勝手に喋ってろよ。おれは寝る」

 周囲の人間は目を限界まで見開いて、気安い言い合いをするふたりを凝視した。

「陽様に、おともだちが……」

 思わずといった態で呟いたのは、年端もいかぬ少年だ。隣にいた年かさの男がこれを咎める。

「これ、亀吉、口を慎みなさい」

「も、申し訳ございません!!」

 少年は今にも這いつくばりそうなほど勢いよく頭を下げた。少年の謝罪に、陽は目を眇めただけで小さく鼻を鳴らした。見かねた夕暉が陽の髪を無遠慮にかき混ぜる。目撃した人々の間に緊張が走った。

「こーら。別に気にしてないよ、ってひとこと言ってあげれば良いでしょ。君、誰が何を言ってもほとんど気にしていないんだから、彼が謝る必要ないんだもん」

 陽の左眉が不機嫌そうに跳ね上がる。

「ンなこと、わざわざ口に出す必要があるか?」

「ほら、そんな風に偉そうな態度だからみんなに誤解されちゃうんだよ。こんなに良い子なのになあ」

「誰が良い子だ。気持ちわりぃな」

 陽が凄むような声を出すと、ヒッと周囲から悲鳴が上がる。夕暉は眉を顰めた。

「ちょっとは態度を改めなよ。あの子のあんなに必死な謝り方みてたら、本当に身分格差がないのか怪しくなるなあ」

「よけいなおへわら!!」

「あはは、喋れてないよ」

「はらへ!」

「変な顔。えーっと、亀吉くん? 大丈夫だからね、陽くんはちょっと態度が偉そうなだけで、基本的に全然怒ってないから。いや、ちょっとじゃないな、めちゃくちゃ偉そうだね。代わりに謝るね。陽くんが態度デカくてごめんね」

「ほっろけ!」

 両手で陽の頬をつぶして笑っている夕暉に、周囲からは溜息が漏れた。

「あの方、凄いですね」

「猛獣使いがご職業なんだろう、きっと」

「神か」

「祀ろう」

 期せずして、王国到着早々に信者を得た夕暉だった。

「陽様、ご歓談中恐れ入ります」

 呼ばれて振り返ると、深刻な顔つきの男が立っていた。少し離れた場所で、教臣と話し込んでいたはずの神官だ。用件は分かっている。陽は小さく頷いた。ちらりと夕暉に視線を遣ったあと、静かな口調で男は告げた。

「恐れながら申し上げます。規定により、陽様の王族位と、王位継承権を剥奪いたします。理由はお分かりですね」

「えっ?」

 驚いて声を上げたのは夕暉だ。神官はそれ以上何も言うことなく、陽を見つめた。夕暉の前で詳細を話す心算はないらしい。陽は小さく頷いた。

「装飾類はこの場でお外しください」

 促されて、王族を示す装飾品を全て外す。補佐の神官が差し出した箱に、一つずつ納め、最後に胸元の金剛石を男に手渡した。

「そら、これで全部だ」

 金剛石を受け取る瞬間、神官は僅かに痛ましそうな表情を浮かべたが、すぐに元の無表情に戻ると丁寧に腰を折った。

「確かに。お預かりいたします。新しい王国服はまたお持ちいたしますので、それまではこのまま王族の物をお召しください」

「ああ。じゃあな」

 素っ気なく手をあげて、陽は踵を返した。

「え、ちょっと待って、陽くん。王位剥奪って。君、一体なにしたの」

 わけが分からず困惑する夕暉の声には応えず、陽は住み慣れた王宮に背を向けて歩き出した。

「ちょ、無視? なんで置いていくの」

 スタスタと歩いてゆく陽を追いかけようとした夕暉を、引き留める声がある。

「お待ちください、夕暉様」

「え、いや、俺、陽くんを追いかけたいんですけど」

 意思表示に足踏みをする夕暉へ、神官長は厳かに告げた。

「いいえ、なりません。夕暉様、貴方は王族である可能性が極めて高いと思われます。したがってしばくこちらにお留まりくださいませ」

「お断りします。では失礼」

 あっさりと言い放ち、夕暉は大股で歩き出しながら陽の背中に呼びかけた。

「陽くん、ねえ、ちょっと待ってよ」

 思いもよらぬ夕暉の返答に、即座に理解が及ばず、神官長がぽかんと口を開ける。

「え。ゆ、夕暉様!? 夕暉様、困ります!!」

 一瞬遅れて、去ろうとする夕暉の腕に慌てて追いすがる。

「困るって、突然『ここにいてもらう』って言われてもこっちが困ります。そもそも俺は陽くんに着いてきたんだけなんで」

「しかし、貴方様には王宮にしばくとどまっていただいて、王族かどうかを判断していただく義務が」

「知りません。あ、陽くん待って。ということで、俺は行きますね」

 神官の手をいささか乱暴に振り払い、夕暉は遠くなってゆく背中へ必死に呼びかけた。

「あ、ちょっと、ほんと止まって、陽くん。俺ここの土地鑑ないんだよ!?」

 見失わないように足を速める。声は届いているはずなのに、陽の歩みは少しも鈍らない。置き去りにされた神官たちが背後で慌てている。

「お、お待ちください、夕暉様!」

「ああ、もう。分かりました、じゃあ確実に俺が王族だってわかったら迎えに来てくださいよ。王国のどこかには居ますから。判断の方法は知りませんけど」

 御座なりに言い捨てて、夕暉は今度こそ陽を追って走った。


 神官と言い合っている間に、陽は人込みに紛れて随分と遠くに行ってしまっている。けれど夕暉と同じ色をした烏の黒は、どんな人込みのなかでもひときわ美しい光を放って輝いている。天使の輪をくっつけた黒い後頭部に向かって叫んだ。

「陽くん、聞こえてるんでしょ。返事くらいしてよっ」

 必死に引き留めようとする神官たちの声を背に、夕暉は陽を追いかける。すいすいと人波を泳ぐ陽に追いつくのは至難の業だった。呼びかけながら、見失わないように必死に人をかき分ける。夕暉の大声は功を奏した。陽の名を呼びながら追いかける見慣れぬ男に、人々は気が付くと道を譲ってくれる。

 それでもようやく追いついたのは、一キロほど進んだ繁華街の外れだった。

「待ってってば。何が何だかさっぱり分からない。説明してよ」

 華奢な肩を掴んで無理矢理引きよせた。ゆっくりと振り向いた顔は、感情の全てをそぎ落とした完全なる無表情だった。幼い顔に似つかわしくないそれ。初めて見るその表情に、夕暉は思わず熱いものに触れたようにパッと手を引いた。見たことのない陽の様子に、一瞬たじろぐ。陽はじっと能面のような顔で夕暉を見上げている。どちらも視線をそらさないまま無言で見つめあった。数秒ののち陽はふっと小さく息を吐いた。

「王宮に戻れ、夕暉。あとのことはあいつらに聞け。おれはもう王族じゃない」

 静かな声だった。感情の起伏の激しい陽とは思えぬ冷静な表情。違和感を覚えるよりも早く、夕暉の声帯からは尖った声が出た。

「戻れってなに。そもそも王宮は俺の帰る場所じゃないんだけど。無責任な上に薄情な子だね。俺をここに連れて来たのは君でしょ」

 言いがかりも良いところだ。陽に誘われたのがきっかけでも、結局決めたのは夕暉自身に他ならない。はたから聞いていたら大人気がないにもほどがある。けれど夕暉は、敢えてそう言った。普段なら「そんなもん、勝手に着いてきたお前の責任だろうが」くらいは即座に言い返すのに、陽は視線を彷徨わせ睫毛を伏せて口ごもる。

「そ、れは」

 皆まで言わせる心算はなかった。考える暇など与えない。陽の台詞にかぶせるように、ひときわ強い口調で夕暉は言い募る。

「俺は、陽くんが誘ってくれたから、ここに来たんだ。迎えの人たちや神官に言われて来たんじゃない。君がいるからついてきたんだ」

 陽の切れ長の瞳が大きく見開かれた。地面に落ちたままの視線は、まだ合わない。無表情の仮面が剥がれ落ちると、そこには迷子の子供がいた。虹彩が不安定にゆらゆらと揺れている。薄い唇がはくはくと開閉するのを、夕暉は黙って見守った。いくばくかの沈黙が続いて、小さな声が言う。

「良く考えもせず誘った、のは、悪かった」

 夕暉はきつく眉根を寄せた。言いたいことを好きなように言い散らす、陽らしくない態度だ。無駄に堂々としていて何でもはっきりと物を言う。そんな彼らしからぬ気弱な態度。頭を撫でてやりたいのを堪え、夕暉は無言で続きを促した。陽は黒々とした睫毛を震わせる。

「でもおれは、王族位を失った。ここで、今からおれがお前にしてやれることはない。だから」

「君が王族だから、何かをしてもらおうと思ってついてきたわけじゃない。王族なんてクソくらえ」

 陽の言葉尻を食うように夕暉は言った。冷静な声を出そうと努めたけれど、抑えきれなかった怒りが少し滲んでしまっていたかもしれない。弾かれたように夕暉を見上げた陽の顔から血の気が引いてゆく。

「そうだな。お前は、おれが王族だとか知らなかったし、な」

 絞り出すような声だった。弱弱しい声に、夕暉の声は意図せず一層鋭くなる。

「あのねえ、何か誤解してないかな。まず、『王族クソくらえ』って言ったのは、君が王族であることを批判して言ったんじゃない」

 全く理解できていない顔で陽は頷いた。やけに子供じみた仕草だ。夕暉は少し腰を屈めて、指を二本立てて見せる。

「次に、そもそも俺は王国に来てみたかったから、自分の意志でついてきただけだ。次の行き先を考えているときに、王国の話を聞いて興味を持ったから来たんだ。だから来たこと自体に関して、君に責任を感じられるのは心外だね」

 先ほどの台詞と矛盾しているにも関わらず、陽はそれにすら思い至らないようだった。ぼんやりと夕暉を見上げている。顔は紙のように白い。

「無責任って言ったのは、ただ一点。君が俺を誘っておきながら、君と一緒に行くっていう俺の意志を無視して、王宮に置き去りにしようとしていることに対してだよ」

  陽は何度か口を開閉したが、結局こらえるようにぐっと唇を噛んだ。薄い唇が血の気を失い小さく震えている。夕暉は膝を屈めて視線の位置を合わせると、そっと陽の顔を覗き込んだ。

「俺は、陽くんと一緒に行きたいんだけどなあ。それでもまだ陽くんは、俺に王宮に残れって言う?」

「ああ、お前は、王宮にいるべきだ」

 陽は小さな声で、しかしはっきりと言った。それはまるで自分自身に言い聞かせているようだった。夕暉は大きなため息を吐く。

「分かった、こんなことは言いたくないけど。じゃあ地上での貸しを返して。地上で君のお世話をした分、王国での俺の面倒は、君に全部見てもらう。いま決めた」

 一瞬にして陽の顔に朱が走った。

「っ、だからおれは、もう王族じゃない。王族じゃないおれが、お前に何してやれるっていうんだ。何しろっていうんだ!!」

 ぐるぐると腹のなかで渦巻いている感情が何なのか自分でも良く分からないまま、陽は叫んだ。沸騰寸前の脳味噌で辛うじて爆発を抑えている。八つ当たりのようだと感じる暇もない。一度口を開いてしまえ止まらなかった。陽は喚いた。

「お前は王宮にいろって言われただろ。王族かも知れないって。なら、あそこに居れば良いだろうが! 一生、お前の面倒を見てくれるよ。おれはもう王宮に戻れないんだ! 生まれた時から王族だったのに、突然出ていけって言われてっ、これから自分のことだってどうすりゃ良いのか分かんねえのに、人の面倒なんて見ている暇はない!!」

 息を切らして捲し立てる陽に目を丸くしていた夕暉は、次の瞬間にふっと表情を和らげた。柔らかく微笑まれて陽は言葉に詰まる。

「ああ、そうか。君も、混乱してるんだね。ごめん、そうだよね。突然、王族としての権利を奪われて、放り出されたんだ。なのに俺のことまで気にしてなんていられないよね」

 眩暈がした。激情に任せて、陽は思い切り右手を振りかぶる。その手を、強い力で引かれ、陽はつんのめった。ほっそりとした腕からは、意外な程の強さだった。そのままそっと毛布で包むみたいに抱き寄せられる。

 反射的に抵抗しようとしたが、頭を抱え込まれて、夕暉の身体に押し付けられた。夕暉の頬を強かに打つはずだった手は、まるで大切なものをくるむように、ぎゅっと握り込まれている。固い胸板に鼻をぶつけたせいで、生理的な涙が滲む。まるで泣きわめく子供と、それを宥める母親みたいな体勢。道行く人々が不思議そうに陽たちを眺めている。

 夕暉に抱きしめられている。数秒遅れて自分の状況を理解した瞬間、先ほどの怒りとは別の理由で頬がカッと熱くなった。けれど「離せ」という文句は、魚の小骨のように喉の奥に引っかかったまま言葉として吐き出されることはついになかった。他人の体温など気持ち悪いはずなのに、夕暉の腕の中は陽に安堵感をもたらした。気が付けば、陽の両手は夕暉の背に回っていて、彼の身体をぎゅうぎゅうと締め付けていた。

「ごめん」

「……るせえ、ばか」

 小声の悪態に夕暉は「ふふっ」と笑って抱擁を解くと、悪戯っぽく口端を上げて、陽の顔を覗き込んだ。

「というか陽くん、君さ、俺のサバイバル能力舐めてない?」

 急に飛んだ話が読めなくて、陽は夕暉のシャツを掴んだまま間近にある顔を訝しく見上げた。

「財布とパスポートだけで、地上の何十ヶ国もひとりで旅して、今まで生きて来たんだよ。ジャングルだってどこだって、俺は一人で生き延びれるよ。あ、うーん、砂漠はちょっと自信ないけど。ジャングルなら生き物も水もあるけどさあ、砂漠は干からびそう。あ、サソリって美味しいのかなあ」

 何の話だ。陽の眉間に皺が寄る。何が言いたいのかさっぱり分からない。けれどならばやはり、大人しく王宮にいれば良いと思う。結局、自分の助けなんて要らないじゃないかと、陽は鼻を啜った。不貞腐れた陽の頬を両側から乱暴に潰すと、夕暉は目元を和らげた。

「でもそれは地上での話」

「ジャングルでも生きていけるような奴……ここなんか簡単だろ。王国は地上のどの国よりも平和で安全で、王国民は善良で穏やかだ」

 むにむにと猫の子にするように頬を潰されて、滲んだ目元を親指で拭われる。

「そうだね、ここは確かにどこよりも安全なのかもしれない。今までの滞在先には紛争地帯もあったし、原住民しかいない地域にだって行った。アジア人をあからさまに差別する国もあったから、危険な目にもいっぱい遭った。だからそれを考えたらこの国は生きて行くのが凄く簡単なところかも。ただ生き延びるだけならね」

 命の危険になど晒されたことのない陽には想像もつかないことだ。

「王国は物資が全ての人々に行き届いてて、充分に満たされた豊かな暮らしができるからな。だから本で読んだ地上の様子が王国とあまりにも違ってて、はじめて『戦争』っつーのを知った時は驚いたし、理解できなかった。人から奪うとか騙すとか、傷つけるとか。足りないなら皆で協力して増やせば良い。……負の感情は、おれたちには理解が難しい」

「夢のような場所だね」

「ああ。だから大丈夫だ。お前なら、王宮でもきっと上手くやれる」

 だから王宮へ戻れと言いたいのに、陽の手はそれを裏切って夕暉のシャツに皺を作り続けている。自分の身体なのにまるで思い通りに動いてくれない。速乾性の糊でくっついてしまったみたいだ。

「でも俺は、王国のことを何にも知らないもん。ちょっと聞いただけでも、地上と王国とじゃ色んなことが違ってるでしょ。俺は王国では明確に、異分子だ。俺の常識は、ここでは常識じゃないでしょ。だからちょっとした認識のズレで、穏やかな暮らしを壊してしまうかもしれない。小さな漣が、町を飲み込む津波になることだってある。俺は、それが怖いんだ。この素敵な王国に、少しでも風波を立てたくない」

 夕暉がそんなことをするはずがないと陽は思った。寧ろ彼の気質は誰よりも、王国に適しているはずだ。陽は唇を尖らせる。夕暉は一層強く陽の頬を揉んだ。地上でよくマリーにしていた手つきだと気が付いたが、不思議と腹は立たなかった。

「俺の言ってるお世話って、衣食住を何から何まで面倒みてっていってるんじゃない。だってそんなの絶対、俺の方が得意だしね。陽くんはよく王国のことを知ってるでしょ。それに地上のことも分かってる」

「本でちょっと読んだ程度だ」

 本当は、第一人者の祖父のもとで誰よりも学んだ。けれど何となく正直に言うことが恥ずかしくて濁す。たぶんそれも全部分かったうえで、夕暉は目を細めた。

「だから俺に色々教えて欲しい。取り敢えず、そうだね、俺がこの国に慣れるまでくらいは一緒にいて色々教えてよ。俺は、王国で優雅に暮らすより、友人の陽くんと東屋で雑魚寝のほうが良いなあ」

「アズマヤなんか、王国にはねえよ」

「言葉のアヤでしょうが」

 頭を軽く小突かれた。

「そもそも陽くんが王族かそうでないかなんて関係ないんだよ。そんなものアテにしてないし。王宮なんかより市中で王国を満喫したいから、しばらく俺に付き合ってよ」

「悪かった、おれも混乱してた」

 素直に謝罪が零れ落ちた。夕暉は器用に上目遣いで陽の顔を覗き込んだ。

「じゃあ、もう『王宮に行け』って言わない?」

「言わない」

「やった!」

 頷いた陽に、夕暉は子供みたいな歓声をあげた。右手を取られてダンスのようにくるりと一回転させられる。

「おいっ」

「ねえ陽くん、まずは住むとこ探しから。全部、自分で一から始めるのって凄く楽しいよ!」

 笑った青年の顔は、旭光のようにキラキラと輝いて見えた。

「行こ!」

 子供みたいにつないだ手を大きく揺らす夕暉に引っ張られながら、陽は口端を吊り上げた。

「おい、行くってどこに」

「取り敢えずー、観光っ」

「普通は宿探しからだろうが! バカ」

 叫びながらいつの間にか、陽は満面の笑顔になっていた。

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