第2話


 上の空で、引っ張られるがままになっている夕暉がようやく言葉を発したのは、ヴィラに戻ってからだった。

「陽くん」

 穏やかで落ち着いた声色だった。陽を観察するように、夕暉はじっと陽の瞳を見詰めている。同じ色の双眸をまっすぐに見上げて、陽は先んじて言った。

「おれは、一回も肯定しなかった」

 夕暉は首肯する。

「そうだね。俺は日本語で会話をしていると思ってた。いや、今も日本語を話しているつもりだよ。でも彼女たちは違うと言った」

 独白のような台詞に陽は頷いた。ふるりと夕暉が首を振る。

「分からない。じゃあ、俺たちが喋っているのは、何語なの」

 陽は唇を噛んだ。自分のことをどこまで話したものか躊躇したからだ。言葉のことを話そうとすれば、必然的に話は陽の国のことに及ぶ。詳らかにしなければ、この不思議な言語のことを説明できない。夕暉はじっと陽の言葉を待っている。

 窓から差し込む光を受けてガーネットに輝く瞳を正面からしっかりと見据え、陽は覚悟を決めた。

「多分、聞いても信じられないかもしれない」

 話すと決意したのに予防線のようにそう零してしまったのは、怯えた心のせいだ。握りしめた拳の中でみしみしと骨が軋む。言葉を発しようと開いた口はひどく乾いていて、粘度の高くなった唾液がねちゃりと厭な音を立てた。

「お前が、いや、おれたちが喋っているの、は……、地上の言葉じゃない」

 相槌に動いていた夕暉の頭が、こてんと横に倒れる。

「んと……じゃあ、テレパシー」

「んなわけあるか」

 真剣な表情で言われてつい、緊張も忘れてツッコんだ。とぼけているわけではなく、本気で言っているのが分かるからだ。

「違うのか……期待したのに……」

「とにかく違う」

 残念すぎると呟く夕暉の顔は、至って真剣だ。

 陽は今、理解不能な話をしようとしている。それなのにこの緩さ。大物なのか阿呆なのか。どこかズレた夕暉の態度に、全身から力みが取れた。怯えて強張った心が嘘のように解けてゆく。

「おれの故郷は、この地上には存在しない」

「ふうん。じゃあどこにあるの」

 海底かな、ムー大陸的な。と夕暉が目を輝かせた。やはり予想外すぎる反応に苦笑する。

「見ることも行くことも出来ない時点で、お前たちにとったら似たようなもんかもな」

「うわーっ、ワクワクする!! 俺、古代文明とかオーパーツとか古代魚とか、地方に伝わる伝承とか大好きなんだあ」

「括り方がすげえ雑だな」

「そう? 敢えて共通点を見つけるなら、ロマンだね」

 恐竜とか猛禽類とかも大好きと、夕暉は謎の「好きな物」主張を続けている。

「良いよね、未知のもの。地上からは認識できない王国かあ。いつか行ってみたいなあ」

 嬉しそうな夕暉の声で我に返った。夕暉のマイペースに巻き込まれて、何の話をしているのか忘れかけていた。

「そうじゃねえ」

「あ、王国がどこにあるかだったよね」

「いや、本題は王国の所在じゃない。王国語の話だ。お前、おれと会話をするときだけ、自然と切り替わってるんだよ。出会った最初から、ずっとな」

 そう王国語で言ってやると、夕暉は嬉しさと困惑の入り混じる、妙な表情を浮かべた。

「全然、その王国語とやらを喋ってる自覚がないんだけどなあ」

 夕暉も王国の言葉で言った。本人は飽くまで母国語である日本語を話している感覚らしい。夕暉は陽に回答を期待しているようだが、陽にも理解不能なのだ。陽は眉間を寄せて低く呟いた。

「そもそも不可思議なんだ。お前、地上の人間が、おれたちの言葉を話しているのが」

「そんなに難しいの?」

 夕暉が瞬く。

「いや、難しいというより、不可能だ」

「じゃあ俺は今、習いもしないトラキア語を無意識に操っているみたいな感じかな」

「トラキア語がなんだかは知らねえが、王国の言葉は、地上の人間には理解できない筈の言語だ。地上の人間と王国の民とでは、そもそも声帯のつくり自体が違うらしい。本来、言語として聞き取ることも、不可能なんだ」

「なるほどねえ」

 突拍子のない話なのに、「俺の声帯どうなってんの、大丈夫これ。検査とかした方が良いのかな」などと、夕暉は呑気に首を捻っている。陽は少し考えて言った。

「もしかしたら、お前の祖先が、遠い昔に地上に降りた王国の民なのかもしれない。長い王国の歴史の中では、そういう例も稀にあったからな。けど、そうでなくても、どこにでも例外はいる」

「ふうん。何というか、思った以上に浮世離れした話だね」

「まあ、実際に浮いているからな。王国は」

 空を指さして真顔で陽は答えた。ここにきてはじめて、夕暉は顎が落ちそうなほど驚いた顔をした。

「え、物理的な問題なの」

「地上の人間からしたら、だが」

「天空の城……」

 そのとき夕暉の脳内には、日本の某アニメ映画の城が浮かんでいたが、生憎、陽はそれを知らない。

「城はねえよ。王宮はあるけど」

「なんだ。じゃあ、密かに伝わる滅びの呪文とかもないのかあ」

「滅びの呪文!? ねえよ、ンな物騒なもん」

「それ実は光って、王国の位置を示したりしないかな」

 まだ諦めきれていないようで、夕暉は上目遣いで陽の耳元にぶら下がる雫型のピアスと胸元に光る金剛石を指さした。

 余談だが、この夜、夕暉お勧めベストスリーをぶっ続けで観せられた陽は、三作目を観終わる頃には目を真っ赤に腫らすと同時に、立派なファンになっていた。閑話休題。

「何の変哲もねえ金剛石だけど。あー……正確に言うと、王国と地球とは別の時空に存在する異世界だ。本来、王国と地上は互いに交じり合うことはない。ただし時空は完全に平行じゃない。たまに条件が整うと、時空が交わることがある」

「条件?」

「夕立が起きたあとによく晴れた日没だ。おれたちが出会った、あの日みたいな」

 夕暉はゆるりと顎をさすった。

「ふうん。たぶん俺たちが知らないだけで、世界には無数の時空が存在するんだね」

しばく考え込んだのち、ふむ、と夕暉は陽に視線を戻す。その澄んだ瞳をしっかりと見据え、陽は続く言葉を待った。夕暉は得心がいったように三度、頷いた。

「だから『帰り方は分かる。けど迎えが来るまで帰れない』 だったんだ」

「お前、おれがアタマ可笑しいとか思わねえのか」

「え、なんで」

 夕暉はキョトンと目を見開いた。

「なんでって」

 聞かれても困る。陽は口ごもる。

「だって嘘じゃないんでしょう」

「そうだけど」

「じゃあ良いじゃん。なんか知らない言語を喋ってるみたいだけど、俺たちの間では言葉通じてて別に困らないし。いや~、なんか得した気分だよね。普通は発音できないんでしょ? なのに俺は無意識に喋れてる。ペラペラで母国語の域だよ。普通のマルチリンガルより凄くない?」

 凄くないかと言われても、知らねえよとしか言いようがない。陽は思わず半目になった。目の前では一層興奮してきたらしい夕暉が、拳を握って満面の笑みを浮かべている。

「おとぎ話みたいだ。ワクワクしてきた」

「呑気だな。……ぶふっ」

 深刻に考えていたのが馬鹿らしくなって、陽も笑いが込み上げてくる。笑いをこらえる陽の可笑しな顔に、夕暉もつられて笑いだした。理由も分からず、ふたりはしばらく大声を上げて笑い転げた。

「まあ、焦らずにお迎え待とうよ」

 笑い過ぎて滲んだ涙を拭って、夕暉は優しく目を細めた。

「おう」

 いつになく素直に、陽は頷いた。


 ◆

 その日は唐突にやって来た。

 朝には雲一つなかった空が、夕刻にわかに表情を一変させた。強い風が分厚い雲を引きつれて、空を真っ黒に染めてゆく。重い雲から容赦なく降り注ぐ豪雨に、町は白く霞んでいる。

 土砂降りのなかを必死で走り、開いていたカフェ目掛けて一目散に飛び込んだ。

「いやあ、急に来たねえ!」

 全身から雫を滴らせながら夕暉が空を仰ぐ。さすがに濡れ鼠では店の中まで入るわけにもいかず、露骨に厭そうな顔をした店員の視線を浴びながら、しばらくは軒先で雨を凌ぐことにする。

「くそっ、パンツの中までずぶ濡れだ」

 気持ちの悪さに陽は鋭く舌打ちした。短パンの内側に水が染みこんで、下着までぐしょぐしょになっている。潔くシャツを脱ぎ思い切り絞ると大量の水が出た。さながら人工の滝だ。絞ったシャツで顔を拭っていると、隣から勢いよく水しぶきが飛んできて、陽は抗議の声を上げる。

「おい、お前やめろよ。水が飛んでくるだろ! あの犬コロそっくりな仕草しやがって」

 抗議の声に陽を見た夕暉は、にやりと口端を引き上げた。

「そこまで濡れてたら今更でしょ。えい!」

 夕暉が脱いだシャツを投げつけてくる。多分に水を含んだままだ。不意を突かれ顔面に直撃させてしまって、陽は叫んだ。

「うわっ。今しぼったとこなのに!!」

 水を吸ったシャツは重い。毟り取って投げ返したが、当たる直前で長い右手にひょいと受け止められてしまった。戻ってきたシャツを手際よく絞りながら夕暉が笑う。陽は目を吊り上げた。

「外に蹴りだすぞ」

「やめて、暴力反対でーす。店先で騒がないでくださーい」

 繰り出した右足をひょいとよけ、陽の鼻を摘まんでくる夕暉の頬を両側から潰す。

「いふぁい、いふぁい~。こおふぁん! ごえんなはい!」

「何言ってんのか分かんねえよ、バーカ」

「くくっ、兄弟仲の良いこって」

 不意に揶揄う声がして、ふたりは同時に振り返った。解放された頬を擦りながら、夕暉が男の名を口にする。

「ヘルゲ」

「よお」

 屋根の付いたテラス席で、珈琲を手に男は軽く手を挙げた。ニヤニヤとずぶ濡れのふたりを笑ったのは、口ひげを生やした三十がらみの男だ。名をヘルゲ・オルソン。彼は、夕暉が良く行く肉屋の一人息子だった。寡黙だが誠実な肉屋の店主は、地元でも評判が良い。一方のヘルゲといえば、店をろくに手伝いもせず遊び歩くドラ息子だ。

 声の主を見て、陽はさっと夕暉の陰に隠れた。何をされたというわけでもないが、陽はこの男が苦手だった。顔を見ると、声を聞くと、ぞわっと背中に悪寒が走る。生理的に受けつけないというやつだ。

「またサボってるの、ヘルゲ」

「サボりじゃねえよ、フィカ(休憩)だ、フィカ」

 夕暉の台詞に、ヘルゲはニヤニヤ笑いを引っ込めて、不貞腐れたような顔になった。机の上の空になった皿の数は、ちょっと休憩をしたという量ではなかったが、それ以上追求するつもりもないらしく、夕暉は短く頷いた。

 夕暉の背中で陽はベェと舌を出す。「お前の人生は八割くらいフィカじゃねえか。もういっそ永遠に休んどけよ」と、言葉が話せたら罵ってやりたいところだ。

 嫌悪感に腕を擦っている陽にちらりと視線をやって、夕暉は空いていたテラスの席に腰を下ろした。

「ちょっと肌寒いね。俺たちもなんか温かいもの飲もうよ」

 生憎、空いていた四人掛けの席はヘルゲの隣だけだったので、陽は男から一番遠い席を選んだ。

「ついでにご飯も食べていこう」

 腰から下げた懐中時計を覗いて、夕暉はメニュー表を陽に投げて寄越した。顔を顰めて、けれど陽は素直に頷く。腹の虫はかなりの空腹を訴えていた。

 すぐに帰るかと思ったヘルゲだったが、話し相手を見つけてもう少し居座ることにしたらしい。二杯目の珈琲を頼み、頻りに夕暉に話しかけている。大迷惑だ。飯が不味くなると、陽は眉間を寄せた。

「珍しいね、君が女性と一緒じゃないなんて」

 注文した品を待つ間、夕暉はヘルゲにそう言って笑いかけた。長身のヘルゲは黙ってさえいれば、なかなかの色男だ。落ち葉色の髪に青い眼、すっと通った鼻筋と薄い唇がバランス良く配置されていて、身体つきもがっしりと男らしい。いつも違う女性を腕に引っ付けて歩いているところを見かけていた。

「あー、まあな」

 夕暉の何気ない問いかけにヘルゲは口ごもり、もごもごと曖昧な返事を返す。微妙に引きつった頬には、薄っすら紅葉の跡がある。自然な仕草でそこから目を反らし、夕暉は空を仰いだ。

「まあ、この雨じゃね」

「おう、レディたちが身体を冷やしちゃ悪いからな」

 夕暉のさり気ない助け舟に、ヘルゲはあからさまにほっとした様子を見せた。恐らくヘルゲは雨が降るより随分前からここにいたはずだ。陽はちらりと机の隅に追いやられたグラスに目をやった。口紅のあとがくっきりとついている。けれど夕暉はそれには触れず、話題はバカンスの予定に移る。ヘルゲが大げさな身振り手振りで語るバカンスの話を、夕暉は頷きながら聞いてやっている。陽なら思いっきり傷を抉り、ついでに岩塩をグリグリ塗り込んでやるところだ。話せないのが非常に悔やまれる。

 そうこうしているうちに食事がやってきた。しっかりと脂の乗った白身魚の料理に舌鼓を打ち、スープで身体を温める。食後に陽がタルトを頬張る頃には、外は明るくなっていた。空を見上げてのんびりと夕暉が呟いた。

「雨、上がったね。良かった、今日も綺麗な夕焼けが見られそうだなあ。あ、天使の梯子」

 陽は、はっと空を見上げた。遠く海の上に、キラキラと輝く光の筋が何本も降り注いでいる。弾かれたように立ち上がった。背後で倒れた椅子が大きな音を立てる。

「おい、来る! 帰るぞ、急げ、夕暉」

 陽の剣幕に呆気にとられた夕暉とヘルゲが、あんぐりと口を開いて見上げてくる。夕暉から財布をひったくり、二人分の代金を叩きつけるように置くと、陽は勢いよく夕暉の腕を掴んだ。無理矢理立たされて困惑する夕暉の声を無視して店を出る。

「ちょ、陽くん? ヘルゲ、ヘイド(じゃあね)!」

「お、おお、ヘイド」

 切れ長の目を大きく見開いて、ヘルゲは夕暉の挨拶に手を振り返した。

「陽くん、陽くんってば。突然なんなのっ」

 引きずられるようにして走りながら、夕暉が叫ぶ。

「良いから急げ!! 来たんだよ」

「だから何が」

「迎えだよ! 条件が整った」

 知らず声が弾んでいるのを自覚する。

「え!? あ、条件って確か」

「夕立のあとによく晴れた日の夕暮れ!」

 予期せず台詞が被った。顔を見合わせて噴き出す。手を繋いで爆笑しながら全力疾走をするふたりを、すれ違う人々が不思議そうに見送った。



 息を切らせて辿り着いた浜辺には、沢山の人がいた。その中に良く見知った男の姿を見つけ、陽はその名を呼んだ。

「教臣!!」

 駆け寄ってきた陽へ、教臣と呼ばれた男は恭しく片膝を付いて頭を垂れる。

「陽様、遅くなりましたが、お迎えに上がりました」

「ああ、ご苦労。ほんとに遅かったな」

 陽の言葉に、教臣はひょいと眉を上げた。

「時の流れる速さが、異なりますからね、長く感じられたのでしょう。ただ王国と地上とでは三対四ですから、数か月ではさほど変わらないと思うのですが」

「充分だろ。ああ、荷物を取ってくるから少し待て。おい、夕暉」

 陽は鷹揚に頷いて、少し離れたところで立ち止まって様子を見ていた夕暉を振り返った。陽の呼びかけに何気なく顔を上げた教臣は、夕暉に気が付くとギョっと目を剥いた。

「陽様、アレは、どういうことですか」

 陽は踏み出しかけた足を止める。陽の腕を慌てたように引き留めて、教臣は膝を付いた姿勢のまま陽に詰め寄った。

「なぜ、この場に地上の民がいるのですか」

「地上の民って、夕暉のことか」

「ユウキだかなんだか知りませんが、前代未聞です。教育係として、厳しくお教えしたつもりでしたが、こんな重大な掟破りをするとは。どうなさるお心算なのですか」

 陽は黙り込んだ。それでも視線だけは反抗的に教臣を見据えたままだ。二の腕辺りを握る手の強さに、陽は僅かに眉を顰める。

「今までひとりにしておいて、その言い草はないんじゃないですか?」

 冷ややかな声が割って入った。

 ひやりと陽の背筋が凍る。荒げてこそいないものの、その声はかなりの剣呑さを纏っていた。

「事の重大さの分からぬ部外者は、黙っていなさい。……っえ?」

 反射的に一喝した教臣は、一拍の後に呆けた声を零した。常に冷静沈着でめったに表情を崩さない教臣が、混乱している。彼の動揺を知る由もなく、ため息とともに肩を竦めて、夕暉はゆっくりと陽たちのほうへ歩み寄ってくる。陽を掴む教臣の腕を乱暴に毟り取ると、夕暉は冷然と彼を見下ろした。

「部外者。まあ、それはそうですけどね。まずはさ、ご無事で良かった、とか大丈夫ですかとか、気遣う言葉はないんですかね」

 普段のにこやかさがなくなると、整った顔が際立って怜悧さが増す。伏し目がちになった双眸は冷ややかで、怒気を隠そうともしていない。陽の有能な世話係は、腕を振り払われた姿勢のまま固まっている。

 自分に向けられているわけではないにもかかわらず、夕暉の全身から立ち上る威圧感が、陽を一歩後退りさせた。そんな陽には目もくれず、夕暉はすうっと目を細めた。

「なんとか言ったらどうですか」

「おうこくご、それもなぜ……」

 咀嚼するように口内で転がして、夕暉の顔を改めて見上げた教臣は、今度は愕然とした表情になった。

「夕暉、様?」

 夕暉は左の眉をひょいと上げた。

「はい、部外者の夕暉です。ハジメマシテ」

 夕暉らしからぬ、なんとも厭味ったらしい言い方だった。そうとう頭に来ているらしい。思考回路の停止させた教臣は、大きく目を見開いて夕暉の顔を見上げている。我に返った陽は、痛憤している青年の袖を引いた。

「夕暉。着替えと、荷物を取りに行きたい」

「時間の猶予もなさそうだしね」

 途端に教臣に興味をなくしたように踵を返した背中を、陽は小走りに追いかけた。

 ヴィラで手早く王国の衣服に着替え、王国へ持ってゆく手荷物を整える。地上にいる間に荷物が随分と増えた。エコバッグにそれらを詰め込んでゆく。それなりに大きな布袋だったが、愛着のあるものを全部入れたらパンパンに膨れ上がった。もうすっかり住み慣れてしまったヴィラをあとにする。

 もう二度と戻ることはない、仮の住処。振り返ると見慣れたヴィラは寂然と見えた。


 大きな荷物を手に戻ってきた陽を見て、教臣は目を丸くした。

「おひとりで着替えられたのですか?」

「こいつが衣装部みたいな真似、できると思うか?」

 かなりヨレヨレに着ている自覚はある。不貞腐れ気味に、陽は夕暉を指さした。呆れた顔で夕暉は言った。

「え、それって誰かに着せてもらうもんだったの。ほんとになんていうか。平安時代のお姫様みたいだねえ」

 夕暉に荷物を押し付けると、唇をへの字にひん曲げて、陽は鼻息も荒く待機していた衣装部の元へ向かった。あとには夕暉と教臣が残される。

「陽様は、随分こちらで良い経験をさせて頂いたのですね。とても素直に笑っておられる」

 教臣は慈愛に満ちた目で、着衣を整えさせている陽を見詰めた。囁くように零れた台詞に、教臣を見上げた夕暉は目元を和らげた。

「なんだ。余計なことしましたね、俺。ごめんなさい。誤解してました」

 生真面目な顔で教臣は言った。

「謝罪の必要はございません。貴方にはお礼を言いたい。見ず知らずの陽様を大切にしてくださって有難うございます。わたくしは、それが大変嬉しゅうございましたから」

「まあ、なんか、あんま他人とは思えなかったんですよね。なんというか、弟がいたらこんな感じかなって」

 後頭部を掻いて夕暉は言った。返事がないことを疑問に思い顔を上げると、教臣はなぜか夕暉の首筋を凝視している。

「どうかしましたか?」

「いえ、何も。陽様、準備は終わりましたか」

 緩く首を振り姿勢を正した教臣の視線につられて、夕暉もそちらを振り返る。いつのまにかきちんと着付けられた陽が戻ってきていた。バツが悪いと顔中に書いてある。そっぽを向いた小さな頭を、夕暉は優しく揺すった。陽はその手から押し付けた荷物を乱暴に奪い取る。教臣は微笑ましそうにふたりのやり取りを見守っている。

 恐る恐る神官が近寄ってきたのを合図に、教臣は頷いた。

「それでは陽様、帰りましょう」

「ああ」

「気を付けてね」

 夕暉はもう一度、名残りを惜しむように陽の髪をかき混ぜる。その胸元を軽く拳で叩いて、陽は彼を見上げた。

「ああ、お前も元気で」

「うん。俺もそろそろ行こうかな。どこか、別の場所」

 背を向ける瞬間ぽつりと零れた言葉がどこか寂し気に耳に響いて、気が付いたら陽は思わず言っていた。

「一緒に来るか?」

 草履の下で砂利が軋む音がやけに大きく耳に響いた。子供みたいな顔で夕暉が瞬く。

「決まってないんだろ。次の行くとこ」

「うん、全然」

「じゃあ来い」

「わたくしからもお誘い申し上げます。夕暉様、如何ですか」

 横から教臣が言い添える。まるでお茶に誘うくらいの気安さだ。夕暉は苦笑した。

「大丈夫なんですか、俺が行っても」

「前例が皆無というわけではありませんし、何より陽様がこうおっしゃっているのです。如何でしょう、実際に見てみたくはありませんか。王国を」

 夕暉は黙り込んだ。興味がないといえば嘘になる。

陽は不安そうに夕暉を見上げている。置いて行かれる犬のような顔をしている自覚は、恐らく本人にはない。僅かな逡巡ののち、思わず噴き出しそうになるのを堪えて、夕暉は教臣に頷いた。

「行きます」

 夕暉の返答で、ぱっと弾けるように陽は笑った。嬉しそうな陽を、教臣は眩しそうな顔で見守っている。

「俺も一度荷物を取りに行きたいです。ヴィラを返すのに、書置きとかもしていきたいし」

「分かりました。しかしお急ぎください。日が沈むまであまり猶予がありません」

 教臣はそう言って夕暉を促した。

 そうと決まればもう一度ヴィラへと逆戻りだ。さっき後にした時には物悲しく感じたのに、今度はワクワクしている自分に、現金なものだと陽は内心で自分を笑った。


 夕暉の支度はすぐに終わった。手にしているのは携帯電話と財布とパスポート、ただそれだけ。「置いていくわけにも行かないからね。これ残して消えたら多分、失踪事件になっちゃう」と面倒臭そうに頭を掻く夕暉は、近所に散歩に行くのと同等の身軽さだ。いっそ陽のほうが大荷物なくらいだった。あまりに少なすぎる荷物で、この世への未練が微塵も感じられなくて、その光景はなぜか陽の胸をひどく締め付けた。

「悪いけど、戸締り見てきてくれる?」

 軽く頷いてリビングをあとにする。ヴィラ中の鍵がかかっていることを確認してリビングに戻ると、夕暉はテーブルに向かって何やら書きものをしていた。陽に気が付くと、手元から顔を上げて夕暉は目を細めた。

「ありがとう。もうちょっと待ってね。義父さんと義母さんに、手紙を書いてるから」

 夕暉は陽に向かって葉書をひらひらと振ってみせた。木製の随分と立派な葉書だ。裏面には一面にこの島から見える海辺の洛陽が描かれている。数分で夕暉は手紙を書き終えた。

 ヴィラの鍵を持ち主に返し、足早に浜辺へ向かう。本当は顔見知り一人ひとりに別れの挨拶をしたかったが、時間がない。見上げるほどの高さにあった太陽は、今や水平線に消えてゆこうとしている。

 途中で夕暉が小走りでポストへ駆け寄った。反射的に追いかけようとして、けれど少し離れたところで陽は足を止めた。黄色い箱の前に向き合った夕暉は、手にした葉書に視線を落とし僅かに動きを止めた。そしてそっと、受口の弁を押す。見事な島の夕焼けがポストの口に吸い込まれてゆく瞬間、夕暉は静かに呟いた。

「さようなら」

 ポストの中で応えるように、コツンと乾いた音がした。

全ての準備が整った。

 浜辺に戻ったふたりの前へ、待ち受けていた教臣が進み出る。片膝を付いた教臣は、いつの間にか手にしていた笏を恭しく頭上にかざした。陽は心得たように、首から外したひときわ大きな金剛石を、最上部の窪みにそっと合わせた。

 その瞬間、眩い光が辺りに満ち溢れ、視界が真っ白に染まる。夕暉は反射的に両腕で顔を庇い、ギュッと固く目を瞑った。強い風が吹き、砂塵が舞い上がる。近くで羽ばたきのような音を聞いたような気がした。

 少しずつ、瞼を焼く閃光が弱まってゆく。

 ゆっくりと目を開けた。世界は、一変していた。

 迎えの王国人が十数人いただけの浜辺には、突如として立派な馬車が出現していた。ただし馬がいるはずの部分には、三メートルほどの背丈の竜が二頭立っているので、正確には馬車と称して良いのか分からない。大人しく繋がれて立っているのは、夕焼けを切り取ったかのような赤い竜だった。全長は十メートルほどあるだろうか。彼らが引くのは眩耀する黄金の箱だ。

「さあ、陽様、天馬車へ」

 頷いて、陽は真っ直ぐに歩いてゆく。陽に続こうとした夕暉へ、教臣は静かな声で呼びかけた。

「夕暉様。お誘いしておいて、今更、本当に申し上げにくいのですが」

 足を止めると、二メートルほど先で陽も同じく振り返る。陽と夕暉、ふたりの視線を浴びて、教臣は言った。

「もし王国の雲に受け入れられなかった場合、貴方は王国から落ちてしまうかも知れません」

「はあ!?」

「え?」

 陽の憤った声と、夕暉の疑問符つきの声が重なった。ふたりが何か言うよりも早く、教臣は緩く首を振って言葉を継いだ。

「受け入れられるとは思います。ただ、万が一ということもある。立場上、わたくしは、絶対に大丈夫などと無責任なことは申し上げられないのです」

 陽は絶句した。考えもしなかったからだ。にわかに不安が押し寄せる。目の前で夕暉が落ちてしまうことに耐えられるだろうか。即答できる、絶対に無理だ。

 陽は震える声で青年の名を呼んだ。夕暉が首を傾げる。命の危険があると言われたにも関わらず、その表情からは緊張感が全く感じられない。

「誘っておいてなんだが、死ぬ危険があると言われて無理することはない。止めよう」

 青ざめた陽とは対照的に、夕暉は晴れ晴れとした顔で笑った。

「良いよ。死んだら、死んだ時だ。俺は王国に……っ」

 噴火のように怒気が破裂した。気が付いた時には陽の右手は、思い切り夕暉の頬を張っていた。みなまで言えず、不意打ちで受けた衝撃に夕暉がよろめく。

「陽くんっ、いきなり何なの」

 数歩足元をふらつかせた夕暉が、目に譴怒の色を浮かべて陽を睨み上げた。

「自分の命を、軽んじてんじゃねえよ!」

「軽んじてなんかない」

 反撃の拳を素早く身を屈めて避けた。お返しに足払いを掛けながら叫ぶ。

「軽んじてんだろうがっ」

 共に過ごす間に少しずつ話してくれた、夕暉の旅の経験の話を思い出す。細部までは語らなかったが、壮絶という言葉が軽く聞こえるような出来事ばかりだった。

「別に死んでも良いなんて、散々、地獄を見て来たはずのお前が言うな!」

「俺の選択だよ。陽くんは口出ししないで」

「物見遊山じゃねえんだぞ!」

 陽の意志に反してひどく掠れた声だった。今にも泣いてしまいそうだ。穏やかな声色が、続く陽の反駁を柔らかく遮る。

「あのね、陽くん。俺はいつだって、明日に死ぬつもりで毎日を生きてきた」

 声と同じく緩やかに微笑んでいる夕暉の瞳は真剣だ。眩暈がする。後頭部からいきなり強打されたような衝撃だった。陽の目の前に立っているのはいったい誰だろう。良く知った気になっていた兄のような青年が、なにか得体の知れない不気味な塊に見えた。指先から、氷漬けにされたように冷えてゆく。

「別に投げやりに言ってるわけじゃない。勿論、積極的に死にたくはないよ。悲観的なわけでもない。ただ、もしその時が来たら仕方ないなと思っているだけで。人なんていつ死ぬか分からないからね」

 そこまで言ったところで、顔面蒼白な陽に気が付くと、夕暉は少し困ったように眉をさげた。けれど泰然とした声はよどみなく言葉を続ける。

「俺は次の場所に行くたびに、そこで死ぬ覚悟を持って過ごしてきた。人ってね、本当にあっけなく死んじゃうものなんだ。紛争地帯なんか、毎日が命がけだったよ。昨日まで一緒にご飯を食べて笑っていた人が、翌日には病気で死んじゃったり、爆弾に当たって肉片になっちゃうこともあった。知ってる人も知らない人も、たくさん見送って来たよ。でも、それでも皆、懸命に今を生きてた。俺も何回か死にかけたよ。爆風で吹っ飛ばされて一週間も意識不明だったこともある。はじめは毎日ビクビクしてた。俺だって無意味に死にたくはないからね。でもね、ある日ふと思ったんだ。まだ起きてもいない“もしも”に怯えて生きるなんて勿体ないなって。せっかくある今を無駄にしてるって」

「だ、けど……っ」

 言い募ろうとした陽へ柔らかな微笑みを浮かべて、夕暉は言う。

「だからね、陽くん。俺は明日死んでも後悔しないように、今を大事に生きていきたい。それに、明日死ぬかもしれないって覚悟して生きていたら、結構、人って何でもできるんだ。思い切って飛んでみたら、高い山に見えてたものは、ちっちゃな砂山だったりするんだよ」

 お道化た仕草で夕暉は肩を竦めてみせた。

「気を付けてたって、不慮の事故とかで死んじゃうこともあるんだから、考えるだけ無駄だよ。もしかしたら王国から落ちても、死なないかも知れないしね。だから『死ぬかも知れないから来るな』なんて言わないで。死の恐怖なんかに俺の選択肢は奪わせない」

 静かな声で放たれた台詞は、知らず陽の胸の奥深くに鈍い楔を打ち込んだ。初めて聞く本音。普段のキラキラした夕暉とは別人みたいだと思った。何の苦労もなく生きて来た陽とは、明らかに人としての格が違う。夕暉を説得できるだけの経験も語彙力もない。

 陽は言葉を失って唇を強く噛みしめた。夕暉の抱えているものを、知っていたつもりで何も知らなかったことに気づかされる。視界のなかで、夕暉の白い靴のつま先がやけに遠く霞んで見えた。思考を止めた陽の頭上から柔らかな声が降ってくる。

「俺ね、世界中を旅してきて、今まで何十ヶ国と回ったけれど、どこにも居場所がなかったんだ」

 嘘を吐け、と陽は心の中で吐き捨てた。この小さな島で、夕暉は異国人にも関わらず沢山の人間に愛されている。道ですれ違えば会話をしようと人が足を止め、市場へ行けば誰もが競うように夕暉を構い立てる。何処へ行っても彼は人の輪の中心にいた。それなのに居場所がないだなんて。

 陽の心のうちを読んだように夕暉は言った。

「どの国も大好きだったし、人との交流も楽しかったよ。けど、どこの土地にも人間にも、どこか疎外感を感じてた」

 地面がぐらつく錯覚を覚えた。あんなに土地や人々に馴染んでいるように見えていたのに、夕暉にとっては取るに足らない関係だったらしい。とても親し気に見えていた。それこそ陽と王国の人たちの関係なんかよりもずっと。聞きたくないと思った。けれど独白は続く。

「好意はあっても、どこか薄い硝子越しに対峙しているみたいだった」

 ぐるぐるぐるぐる。臓腑がかき回されるような不快感が身体を廻る。陽に親切にしてくれたのも、野良犬へ気まぐれに餌をやるような他愛のなさだったのだろうか。ぽつりぽつりと雨垂れに似た夕暉の言葉は、陽の心を少しずつ重く湿らせてゆく。

「なんて言ったら良いのかな……。故郷が分からないんだ。本当だったらきっと、日本人、日本っていうのが俺の礎石であるはずなのにね。でも何かが違う。いつも足元が不安定っていうか、俺には確かな土台がなかったんだ。帰る場所が、根を張るべき場所が分からなかった。俺っていう人間を構成する基礎がぽっかり空いてるような気がしてた」

 冬の大地を照らす太陽みたいな夕暉がときおり覗かせていた静謐さの理由が、今なら分かる。彼の虚ろを想って陽は奥歯を噛みしめた。陽にはきっと、本当のところで彼の空虚さを理解することが出来ない。花が萎れるみたいに、陽はいつのまにか深く俯いてしまっていた。

「王国に行くのが一番良いような、予感がするんだ。だから行くよ。王国に」

「お前のカンは、結構当たるしな」

 無理矢理作った笑顔は多分、ひどくみっともなくて不器用なものだっただろう。けれど夕暉は他者に寛容な一方、自分の意思決定に関してだけは頑固だ。一度言い出したら説得は不可能なことは、短い共同生活でも身に染みて理解している。夕暉のカンと強運に賭けようと、陽は腹をくくった。

「本気で来るつもりか」

「うん。それにもう両親にさよならの葉書も出しちゃったしね。今更やっぱナシなんて恥ずかしいよ」

「……知らねえぞ」

 言い捨てて背を向ける。ありがとうと背後で夕暉が言うのに振り向きもせず、ずんずんと天馬車へ向かった。なぜだか無性に泣きわめきたかった。

「どうぞ、お乗りください」

 促されて天馬車に足を掛けた瞬間、背後がにわかに騒めいた。ひときわ大きく響いた夕暉の声に驚いて振り返る。

 夕暉の見上げる先には大きな竜がいた。

 プラチナの如くキラキラと輝く真っ白な身体に、思慮深そうな水色の双眸。明らかに天馬車を引く竜ではない。通常の竜の二倍はある白い体躯に水宝玉の目。

 特徴に一致する唯一の竜を思い出して、陽はハッとした。

 王国の奥深くに生息し、特別な場合を除いて人前には決して姿を現さない存在。王国の誕生から今日まで全ての竜の頂点に君臨し続けるという、幻のような竜。

 喉の奥から絞りだすような声が漏れた。

「ンで、ここに、血統の竜が……っ!!」

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