太陽の王国

御幸ヶ峰 由夏

第1話


「嘘ぉ!?」

 夕暉は思わず絶叫した。

 隣ではさっきまで激怒していたはずの陽が、笑い転げている。地べたを右へ左へと転がって、爆笑しながら何やら呟いているので、笑っている理由はすぐに知れた。

 唖然と眼下の光景を凝視する。今起こった事象が全く理解出来ない。

「こんなのって、ありぃ……?」

 思わず声も裏返るというものだ。

「アリなんだろ」

 陽がヒィヒィ笑いながら言った。目元には笑い過ぎて涙が流れている。

 幕引きと幕開けは、誰もが予想もしない形で訪れた。




 大きな赤い夕陽が、灰色の分厚い雲の向こうにゆっくりと沈んでゆく。

 小舟を揺らす柔らかな波の音だけが、静かに響いている。遠くで海鳥が鳴いた。陸地から離れているのは数海里だけなのに、別世界にいるようだった。筆舌に尽くしがたいというのは、まさにこの光景のことだ。

 自然豊かな島の片隅で、夕暉は静かに落陽を眺めていた。見事な夕焼けの空に急き立てられるようにして、借り受けた小舟を沖に出したのは、ほんの数十分前のこと。一時間前、にわかに降り注いだ夕立のせいで、地平線の上には重い雨雲が鎮座している。初めて見る海と空の表情だ。低く広がった雲の狭間に、大きな太陽が粛然と落ちてゆく。自身は姿を消してなお、雲の下腹を焼く残照。厚い雲のベールの向こうで消えゆく夕日は、言葉にできない風情があった。空と海の間で夕日を反射して、雲が黄金色に輝いている。眩い光は、思わず閉じた瞼の裏を鮮烈に焼いた。

 知らず、頬に涙が伝っていた。荘厳すぎる夕焼けは、人を感傷的にするらしい。故郷の風景で微笑む義母の姿が浮かんで、ほんの少し、胸が痛む。

 夕暉は実の両親の顔を知らない。引き取ってくれた義父母のもとで、夕暉は四歳半ばを過ぎても、ろくに話すことが出来なかったらしい。そのくせ歩き出すよりも早く読み書きをこなし、二歳にして太陽ニュートリノ問題を独学で完全に理解した。そのとき読み書きできた文字は、実に十数ヶ国語に及ぶ。不均衡な子供だった。養父母は夕暉が馴染める場所を求めて、色々な場所へ引っ越しをしてくれた。けれど結局どこの土地もだめだった。十五歳の誕生日、養父母がプレゼントしてくれた旅券を手に、夕暉は日本を飛び出した。身体ひとつで飛び出して、それ以来、世界中を放浪する生活をしている。

 異質だった夕暉を、全力の愛情をもって育ててくれた養父母のことは愛している。けれど十五歳のあの日以来、夕暉は一度も日本に帰っていなかった。きっともう、戻ることはないのだろうという予感もある。定住する場所を求めて、これまでに数多の国を巡ったが、どこにいても感じる違和感が、夕暉を拒んでいた。まだ見ぬ故郷を探して、夕暉は世界を彷徨い続けている。

 いつの間にかぼんやりと手元に落ちてしまっていた視線を、地平の向こうに戻した。苛烈な残霞も、少しずつ夜の帳が飲み込んでゆく。冷たくなってきた風が、むき出しの腕から体温を徐々に奪いはじめていた。夜の気配を意識した瞬間に、急に寒さを思い出す。完全に暗くなる前に岸へ戻らなければならない。小舟の上に引き上げていた櫂を、海水にそっとさし入れた。その時だった。

 大きな何かが海に落ちたような音が、微かに夕暉の鼓膜を震わせた。音のした方へ目を凝らす。沖の方で、波が不自然に蠢いた。黒い影が、穏やかな海面を波打たせて漣を生んでいる。時折上がるヒレのようなものが、人間の腕のように見えた気がした。

 オールを沖の方へと返す。金色の稲穂をかき分けているようだ。輝く太陽の反射で海面が見えにくい。近づいて、影の正体を知るや否や、勢いよく海中に飛び込んだ。

人だ。人が溺れている。力なく海藻のように海の中を揺れる腕を掴む。必死で身体を手繰り寄せた。後ろから脇の下に手を回し、沈みかけていた身体を水面に浮かせる。力の抜けた人体は、ひどく重い。舟に引き上げるのは、思った以上に難しかった。舟ごと何度もひっくり返りそうになりながら、溺れていた相手を小舟の上に乗せたころには、大きく肩で息をしていた。

 ぐったりと船底に横たわるのは、十代半ばの少年だった。瞼を閉じた顔は青白く、唇や爪先は紫色に変色している。自発呼吸をしている様子がない。救命措置を施こそうと胸元に手を当てた瞬間、眩暈がした。無理もない。人ひとりを水中から引き揚げたあとだ。夕暉自身も消耗が激しい。けれど少しも手を止めるわけにはいかない。

 懸命な措置ののち、咽るように少年は水を吐き出した。彼の呼吸が戻ったことを確認して、夕暉は意識を手放した。



「……い、お……おいっ、……起きろっつってんだろ!」

「痛い!!」

 突然、頬に強烈な衝撃を受けて、あまりの痛みに夕暉は飛び起きた。突然跳ね起きた上体に、驚いてのけ反った顔。横たわった夕暉の顔を覗き込んでいたらしい。少年は「突然起き上がんじゃねえよ」と、きまり悪そうに視線を反らしてボヤいている。  状況がとっさに思い出せなくて、上体だけ起こしたまま辺りを見渡す。困惑した顔でこちらを窺う双眸と視線が絡んだ。はっとする。

「ねえ、大丈夫。痛いところは、苦しいところとかはない」

「あ? ああ。いや、別にどこも何ともねえけど」

 夕暉の剣幕に気圧されて、まん丸に見開かれた目。少年の身体を素早く観察して、胸を撫で下ろす。良かった、出血もない。大きな怪我はなさそうだ。

 改めて相手の顔に視線を据えた。そして驚いた。残照のなかでぼんやりと浮かび上がったのは、ちょっとそこらでは見られないような、とびきりの芳顔だった。

 肌理細やかな肌は、若々しく海水を弾き、濡れそぼった髪は、夜空のような藍墨茶色だ。上質な絹のような光沢がある。小作りな顔の真ん中に、夜の海を切り取ったような白群の宝石がふたつ。ふいに長い睫毛が瞬いて、その美しい蒼の瞳が潤んだ。

「生きてた」

 ほっとしたような顔が、「良かった」と独り言のように呟く。

「……何もあんな派手に叩くことはないでしょうに」

 熱を持った頬を、右手で押さえて夕暉は訴えた。遅れて痛みがやってくる。腫れているような気さえした。口を尖らせた夕暉に、少年の綺麗な切れ長の目が丸くなったと思ったら、次の瞬間にはきつく吊り上げられる。

「お前が紛らわしいんだよ、ボケっ。死んでんのかと思って焦っただろうが!!」

「わーお。こんな清々しいほどの逆ギレ、初めてみたよ」

「るせえな!! いや……だが、礼を言う」

 随分と生意気な口を利く。ただ途中で自分の状況を思い出したらしく、不器用に謝辞を述べられた。不貞腐れた顔で告げられたそれは、礼と言って良いのか分からないほど、大層ふてぶてしいものだったのだけれども。

 舟底に置いていたオールを取り、急ぎ岸へ漕ぎながら、夕暉は小首を傾げた。

「君は何で、あんなとこで溺れていたの」

 唇を数回震わせたのち、少年はきつく眉根を寄せた。本人にも委細が分からぬようだった。さらりと質問を変える。

「日本人、だよね。日本語しゃべってるし」

 着ているものも、日本の伝統衣装に似ている。だが大分と裾が短い。足元は草履とアルパルガータを組み合わせたような不思議な形状で、露出している膝下まで編上げがある。着物の衿は肩の辺りまで広く開いていて、指先が完全に隠れていた。襦袢の衿はきっちりと詰められているので、着崩れているわけではなく、そういう着方なのだろう。概ね着物の形状なのだが、所々違っていて「着物」と言い切る自信はない。何よりも、振りが長い。おはしょりはないが、大振袖のように見える。夕暉はもう一度、首を傾げた。

「男の子、だよね」

「おれの、ど・こ・がっ、女に見えんだよ!」

 少年は再び毛を逆立てた。夜の海に似た双眸に、強い怒りの炎が燃える。瞬間湯沸かし器みたいだなあと、夕暉は呑気に思った。

「いや、全然見えないけど、振袖みたいなのを着てるから。美少年にしか見えないけど、万が一にも違っていたら失礼かなって」

 夕暉の返答に毒気を抜かれたようで、少年はポカッと口を開けた。喜怒哀楽の変化が手に取るように分かるのが面白い。

 一応は確認したものの、実はどうでも良かった。夕暉にとってはその人がなんであれ、「人間」という括りにしかならないからだ。けれど世間ではやはり性別の問題は繊細だ。それよりも夕暉には気になることがあった。

「どこから来たのか分かんないけど、ひとりでお家に帰れる?」

 小さな頭が今度はゆるりと横に振れる。夕暉が逡巡したのは、コンマ数秒にも満たない僅かな間だった。こんなところで母国の人間に遭遇したのも何かの縁だ。拾った猫だって最後まで面倒をみないといけない。少年に聞こえたら本気で引っかかれそうなことを心の中で呟いて、夕暉は言った。

「じゃあ、うちにおいで。泊めてあげるよ」

 小舟を所定の場所へ繋いで返しながら、まだ迷っている様子の少年に、軽い口調で告げて踵を返す。けれど波打ち際から数歩進んだところで、背後の気配が立ち尽くしていることに気付き、夕暉は足を止めた。

「あれ? 行くとこあった?」

「ない。……世話になる」

 夕暉は人好きのする笑みを浮かべてみせた。

「俺は夕暉。世界中を旅してる途中なんだ」

 邪気のない夕暉の笑顔に、少年は一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐに夕暉に向かって手を差し出した。

「陽だ」

 簡潔な自己紹介だった。差し出された手を軽く握り返す。

「おいで。びしょ濡れだし早くシャワーを浴びて着替えた方が良い」

「ああ。……つか、なんで普通に会話が出来てるんだ」

 少年の囁くような声は、大きな欠伸をかみ殺す夕暉の耳には届かなかった。



 誰かが陽の身体を控えめに揺さぶっている。

 手から逃れるように寝返りを打った。顔を向けた方向はあいにく、窓の方だったらしい。閉じた瞼の向こうが明るい。まだ惰眠をむさぼっていたいのに。睡魔に勝てなくて、陽は眉を顰めて掛布を手繰り寄せる。猫でも忍び込んでいるのか、掛布はもぞもぞと身じろぎをした。押さえつけようと足をかけて、腕の中に抱き込む。

 近くで控えめな笑い声が聞こえた。陽の起床を促す声は、耳慣れない柔らかな成人男性の声。けれどその音楽のような美しい抑揚と発音は、陽が最も聞きなれたそれだった。

 いつもの寝台、いつもの朝だ。聞こえた言葉に安心したら、また深い眠りの世界が陽を誘う。優しく陽を揺さぶる腕さえ、今はゆりかごのように心地よい。

 ふいに生温かい息が顔にかかった。熱い舌で顔中を舐めまわされる。猫にしては舌が長い。陽は不快感に身を捩った。眉根を寄せながら抵抗していると、ふいに重圧が消えた。

「こら、マリー。その子を放してやって。君もそろそろ、起きて飯を食べたほうが良いんじゃない、陽くん」

 冷水を頭から掛けられたかのように、急激に目が覚めた。自分の置かれている状況を思い出すと同時に勢いよく跳ね起きる。視界いっぱいに広がったのは、陽を起こした声の主ではなく、嬉しそうに舌を出す大きな生き物だった。驚いて飛び退る。その勢いで、陽は寝具から転がり落ちた。強かに腰骨を打って呻く。

「大丈夫? あ、マリー『待て!』」

 陽の上にのしかかり顔を舐め回してくれたのは、マリーと呼ばれたこいつらしい。大きな狼のような犬だった。恐ろしい顔つきに反して、マリーは夕暉の指示を従順に守り、大人しくお座りをした。しかし堪えきれないらしく、ふさふさとした尻尾を千切れそうなほど勢いよく左右に振っている。

 指示を待ってブンブンと尾を振りながら見上げてくるマリーに「良い子」と夕暉は柔らかく微笑んだ。

「マリー、あっちにご飯があるよ」

 夕暉の言葉を聞くや否や、マリーは弾かれたようにシャンと立ち上がり、半開きだった扉を押して出て行った。その大きな尻尾を見送った夕暉は、膝に手をあてて陽の顔を覗き込む。

「おはよう、陽くん」

「……はよ」

 何となく気まずくて、一緒に落下した掛布を目元まで引き上げた。なぜだか笑顔の夕暉に、髪を盛大にかき混ぜられる。

「よしよし」

「おいっ」

 その手つきがまるで犬に対するものと同じだったので、抗議の声を上げる。

「朝食、食べるでしょ。顔を洗ったらテラスにおいで」

 夕暉はそう言うと、陽の返事を待たずに踵を返した。取り残された陽は、かき回されて鳥の巣のようになった頭を抑えながら起き上がった。仏頂面を作ってみたものの、口元がむず痒い。

 無遠慮に名前を連呼されて、戸惑った。気安く名前を呼びあう相手など、これまでいなかったからだ。可愛がってくれた祖父母が昨年、西の国へ旅立ってしまってから、陽はいつもひとりだった。

 撫でられた部分をなぞるように、くしゃりと髪をかき混ぜてみる。夕暉の掌の体温がまだ、残っているような気がした。遠くからのんびりと陽を呼ぶ声がする。

「陽くーん、ご飯が冷めちゃうよ」

「いま行く!」

 答える陽の口元は、自分でも意識しないままに笑っていた。陽は布団を蹴って、部屋を飛び出した。

 簡単という割には大量に用意された朝食の相伴に預かり、物も言わずに五分程で皿を全て空にした。

「煎茶、飲む?」

 頷いて、差し出された茶器を受け取る。舐めるような量を口に含むと、馴染んだ味が舌の上に広がった。猫舌の陽には少し熱い。夕暉は全く平気なようで、一煎目を飲み干すと、また鉄瓶に手を伸ばした。携帯式のガスコンロの上に、どっしりとした赤銅色の鉄瓶が乗っている。陽の国でも見慣れたものだったが、この国にあるのはいささか奇妙だ。陽の視線に気が付いた夕暉は、鉄瓶をコンロの上に置きなおしながら、屈託ない顔で笑った。

「鉄瓶、良いでしょ。こないだ蚤の市で東洋のものを扱ってる人がいてさ。懐かしくて買っちゃったんだ」

二煎目の湯を急須に注ぎ終わると、鉄瓶の蓋を切る。空いた隙間から、白い湯気がゆらゆらと立ち上った。

「さて、陽くん。改めて聞くけど」

「んあ?」

 思わず間の抜けた声をあげてしまう。煎茶を吹いて冷ますのに集中していたせいで、何を言われたのか聞き逃した。

「あ? 聞いていなかった。もう一回言え」

「まだ何も言ってませんけど」

 夕暉が半笑いになる。

「それより陽くん、『言え』じゃないでしょ。なんでそんなに偉そうなの」

「ダメか?」

 陽はキョトンと夕暉の顔を見つめた。少し考えて言い直す。

「じゃあ……もう一回言わせてやる?」

 夕暉は眉間を押さえた。

「天然で俺様かあ。まあ良いか。昨日も聞いたけど、行く当ては? 見る限り何も持ってないよね」

「ないな」

 着の身着のまま、それ以上は何も持っていない。明らかに手ぶらなのを、いまさら誤魔化す気は起きない。

「お前こそ、なんでこんなところにいるんだ。お前、ニホンジンだろ」

 現在地の国の名前こそわからないが、ここは日本から遠く離れた場所にあるはずだ。そして日本からの旅行先としては、そう有名なところでない。

「俺はバックパッカーやってるから。俺だって手ぶら同然だけど、陽くんは本当に何も持ってないよね。それが何で……なんかに」

 夕暉の呟いた島を脳内の地図と照らし合わせ、陽もようやく自分の位置を把握する。

「ここはオウシュウのリトウだったのか。そうだな、なんでここにいるのかも、帰る場所も分かってる。けど迎えが来るまで帰り方が分からねえ」

 一息で言い切って、適温になった煎茶をあおる。「まあ悪くねえな」と呟いた陽のマイペース具合に、夕暉は眉を顰めた。

「態度もそうだけどさあ、帰り方が分からないって、君はどっかのボンボンなの? いやボンボンだね。確実にお坊ちゃんだよねえ」

 昨夜は暗くて良く見えなかったが、陽の身を包む絹は上等な品で、装飾品も、金剛石をはじめ多くの宝石があしらわれている。一目で裕福だと分かる格好だ。

「そのお迎えに、連絡は取れないの」

「無理だな。帰る手段は、迎えを待つこと。それ以外に方法はない。まあ条件が整い次第、来るはずだが」

 陽は言い淀む。問題はその条件が整うのがいつになるのか、なのだ。

「あいつらも、おれの居場所はわかっている。最優先で迎えにくる準備をしているはずだ」

「そっか」

 夕暉は目に見えてほっとした顔になった。陽の帰る場所がきちんとある、そのことに対する安堵の表情だった。

 無条件で陽を助けて一晩止めてくれたことから薄々感じてはいたが、基本的に夕暉は人が好いらしい。呼吸をするように自然に世話を焼いてくれる。

 外の景色に視線を投げる。昨夜の急な雨が嘘のような晴天だ。遠くまで広がる海は、初夏の日差しを浴びて、嬉しそうに光っている。隣で鉄瓶の中身を確かめている夕暉に視線を戻す。朝日の中で、陽は改めて夕暉をじっくりと観察した。

 肌は健康そうな小麦色をしている。けれど半袖の袖口から覗く元の肌は色白で、境目が筆で書いたようにはっきりしていた。随分と焼けたらしい。全体的に線は細いが、胸板も腹筋も、程よく筋肉が付いているのが服の上からでも分かった。ふくらはぎは、歩くたびに綺麗に筋肉が盛り上がる。良く身体を使う人間の身体だ。ただ二の腕だけは、やたらと細かった。陽も二の腕だけ筋肉が付きにくいのが悩みだったので、密かに仲間意識が芽生える。

 男の美醜に興味はないが、顔立ちは多分、整っている。すっきりと通った鼻筋と高さのある小さな鼻尖。唇は陽よりも肉感的で、やや下唇が厚めだ。柔和な曲線を描く眉と僅かに垂れ気味の目が、夕暉の印象を柔らかいものにしていた。黒目は黒というよりも蒼色に近い。全体的に色素が薄いのにも関わらず、短く切った髪の毛だけが墨で染めたように真っ黒だ。日本人には珍しいほどの漆黒で、太陽の光に照らされても濡れ羽色のまま、艶やかに天使の輪っかを作っている。

 いつの間にかまじまじと観察してしまっていた。優し気な瞳が陽を捉える。バッチリ視線が絡み合った。けれど不快感はなかった。

「それで、そのお迎えが来るまで、陽くんはどうしたい」

 夕暉が、首を傾げて問うた。陽の気持ちは固まっていた。国へ帰れない今、自分がどうしたいのか。真っすぐな視線が、陽に据えられている。ただ、問うている瞳。なんの混じりけもない澄んだ瞳が、陽の返事を待っていた。

「ここにいても、良いか」

「うん、勿論。ひとりで旅するのも飽きてきてたとこだったからね。良かったらここにいて」

 押しつけがましくない、さり気なくて優しい言葉が返ってくる。

「……恩に、着る」

 必死に考えて口にした謝意は、大口を開けて笑った夕暉にぴしゃりと跳ね返された。

「恩義なんて感じていただかなくて結構。それよりも、一緒に楽しいことを見つけてよ」

「分かった」

 素直に頷いたら、また頭を撫でまわされた。まるで子供かペットにするような手つきだったのに、腹が立つどころか少しだけ嬉しい。夕暉の気配はなぜか、国と祖父を思い出させる。

 誤って落ちてしまった時は、もう帰れないのかと死をも覚悟した。けれど夕暉のおかげで、何とか無事に迎えを待つことが出来そうだ。夕暉に拾われていなかったらきっと、もっと困っていただろう。国では今頃、大騒ぎになっているはずだ。慌てふためく面々を想像して、そんな場合ではないというのに、陽は少しわくわくしていた。


 夕暉のもとで逗留することになった陽だったが、この土地の人間の言葉を聞きとることはできても、話すことはできない。衣食住のみならず、生活は思った以上に夕暉に頼りきりだった。けれど文献でしか知らなかった世界に心が躍る。

 夕暉はどこまでも陽に優しかった。けれどただ甘やかすだけではない。食事は最初の朝食以降、毎回手伝わされたし、掃除と洗濯も同様だった。

 出来ない、やったことがないという陽に、ひとつひとつ夕暉は丁寧に教えてくれた。やってみて向いていないと思ったことは次から強制しなかったが、試しもせずに「できない」と拒否することを、夕暉は絶対に許してくれなかった。包丁など見たことすらなかった陽に、包丁を握らせて、自らも隣で切って見せながら根気強く教えてくれた。初めて切ったニンジンは、ガタガタで無残な残飯のようだった。

 どんなに失敗しても、夕暉は少しも怒らなかった。一方で出来たことに関しては、どんな小さなことでも、必ず夕暉は笑顔で陽を認めてくれたのだ。残骸のような人参だって、夕暉は漏らさず陽の働きを褒めてくれた。

「初めてなのにケガしないで切れたね。凄い」

「慰めは要らねえ。こんなのゴミじゃねえか」

 陽はスープにゴロリと入れられた人参を見下ろした。大きめの野菜たっぷりのスープのなかで、歪な人参だけが浮いている。夕暉の流れるような手つきを思い出す。陽の落ち込んだ様子に気が付いているのかいないのか、夕暉は人参をしげしげと眺めた。

「上手だよ。俺なんて初めて包丁使った時、人参は原型とどめてなかったし、失敗しすぎて最終的に玉ねぎがピンクだったもん」

「血染めの玉ねぎ、怖えよ」

 その光景を想像して、ゾッとする。夕暉は苦笑した。

「玉ねぎって滑って切りにくいじゃん」

「それ食ったのか」

「勿体なかったけど、さすがにあれは捨てたよ。だって自分のとは言え、血だらけのごはんは流石に厭かな」

 鉄の味しそう、と夕暉が呟く。陽も、自分の血が塗された玉ねぎはちょっと食べたくない。想像して、厭そうな顔をしていたのだろう。夕暉は苦笑から一転、吹き出しそうな顔をした。

「だから、陽くんはきっと俺よりももっと早く上手に切れるようになると思うよ。猫の手も上手だったしね」

「比べるレベルが低すぎねえか」

 照れ隠しに、ぶっきらぼうな声がでた。

 何もしたことがなくて、一人では掃除すら碌にできなかったのに、夕暉に出会ってから、陽はできることが増えた。本当に些細なことだったけれど、それは陽に確かな自信を与えたのだ。国にいては絶対に得られなかったことだった。

 夕暉は、良いところを見つけるのが得意な人だった。

 人を褒めるのに限ったことではない。雨が降っては雨粒が木々を打つ音が美しいと、太陽が出れば暖かい光が嬉しいと、目を輝かせる。美味しい食べ物を口にして顔中に喜色を浮かべ、美しい演奏を聞くと身体中で欣快を叫んだ。日常のほんの些細な出来事も、彼にかかれば全てが素晴らしいものに変わる。夕暉の目が映す世界はきっと、眩く輝いているのだろうと陽は思った。

 けれど時折、夕暉はふっと遠い目をする。彼は多分、気づかれているとは思っていないだろう。

 陽がそれに気が付いたのは本当に偶然だった。

 陽が夕暉の元で世話になり始めてから、ひと月ほど経った夜。灰色の空から霧のような雨の降りしきる、薄暗い夜だった。

 いつもであれば、深い眠りについているような時間。陽は猛烈な喉の渇きで目を覚ました。ゆっくりと身を起こす。ベッドとカウチ、それからローテーブルとクローゼットがひとつずつ置かれた十五畳ほどの部屋。それが数週間前からの陽の住みかだ。

夕暉が仲良くなった島の人間に好意で貸してもらっているというヴィラは、無駄に大きい。ベッドルームだけでも主寝室のほかに来客用が四つもあって、キッチンはパーティ用の大きなものと普段使いの小さなものの二つもある。夕暉は陽に、四つのうちの一番大きな客室をまるまる一部屋、提供してくれた。

 物音を立てないよう注意しながら扉を押し開ける。広々とした廊下は柔らかな夜の気配に満ちていた。同居人を起こさぬよう、気配を忍ばせて暗闇を歩く。夕暉は主寝室で眠っているはずだ。そこは普段ふたりが使っているキッチンと隣接している。

 静けさの中で深々と呼吸をする。湿気を孕んだ空気が肺を満たした。耳を澄ませば、小さく開けられた窓の隙間から、しとしとと雨の音がする。

 優しい夜だった。

 穏やかな気持ちで、陽は薄暗がりに歩を進める。大きな冷蔵庫を開けてガラスのウォーターボトルを取り出したところで、視界の端に白いものがふわりと揺れた。即座に眠気が飛ぶ。ある事実に気が付いたからだ。カーテンが風に揺れている、それが示すもの。窓が、開いている。侵入者だ。

 この島は治安の良い場所で、普段は特に貴重品もないからと、夕暉は在宅中に窓を開け放っていることが多い。地元の人々も似たような状態だと言っていた。しかしさすがに就寝中は鍵を閉めていたはずだ。

 蓋にかけていた手を下ろす。台へ静かにボトルを置いて、陽は息を潜めて様子を窺った。唾液が喉を落ちてゆく音が、やけに大きく耳に響く。

 開いていたのは、リビングからテラスに続く大窓だ。足音を殺して、壁伝いにゆっくりとそちらへ近づいた。陽の緊張をよそに、カーテンは穏やかに風と踊っている。壁にピッタリと背をつけて、リビングを視線だけで見まわした。暗闇に慣れた目は、室内に陽以外の気配がないことを確認する。

 国の伝統で左だけ胸元辺りまでのばしている横髪が、夜風に揺れる。剥き出しの二の腕に触れる空気は、しっとりとしていた。肌で感じる位に、今夜は湿度が高いらしい。夜半から降り始めた雨のせいだ。雨は緩やかに、夜の大地を濡らせている。

 徐々に目が外の闇に慣れてくる。テラスの端に黒い影のようなものを見とがめて、陽は身体を強張らせた。身を低くして、注意深く謎の影を観察する。

 正体はすぐに判明した。人だ。誰かがテラスの端に座っている。だが異変に気づいても陽には対処の仕方が分からない。夕暉を起こそうと主寝室に向かいかけた陽の足を止めたのは、視界の隅に翻った洋服に見覚えがあったからだ。

 もう一度、宵闇に目を凝らす。地面に伏せた犬の後ろ姿がプリントされたシャツ。間違いない。陽が昼に市場で見つけたものだ。初めて陽が夕暉に物をねだったものだから、夕暉は喜んで購入してくれた。まさか自分が着させられるとは、露ほども思わずに。「お前用だ」と買ったばかりのシャツを押し付けた時の、夕暉の顔は見物だった。

「嘘でしょ、陽くんが着るんじゃないの」

「おれが着るわけないだろうが」

 言外に「そんな変なシャツ」と言ったのを正確に読みとって、夕暉は顔を引きつらせた。

「やけに変なTシャツを欲しがるなあと思ったら、そういうことか」

 陽はくくっと喉を鳴らした。

「気づくの遅えよ。お前そっくりだろう、そいつさ。目が合った瞬間にビビっときた」

 夕暉は「こんど恥ずかしい意味のスベンスカが書かれたTシャツ着せてやる」とぶつぶつ言いつつも、その場で陽の押し付けたシャツに着替えてくれた。困り顔の夕暉の目と、シャツにデカデカと描かれた犬の目が、同じ角度で垂れているものだから、陽は一日中笑いが止まらなかった。

 昼に買ったばかりの変わったシャツを着た人物、疑いようがない。その影は夕暉に間違いなかった。

 見たことのない彼の姿。記憶にある夕暉の後ろ姿とテラスに座る男の印象があまりに違い過ぎて、頭では夕暉だと思いつつも心がそれを否定する。

 夕暉が陽に気づく様子はない。波打つカーテン越しに、じっと彼の背中を見つめた。石像のようにじっと、夕暉は雨のそぼ降る宵闇を見つめている。泣きたくなるくらい、寂しそうな後ろ姿だった。常は真っすぐに伸びた竹のような背筋を小さく丸め、右足を腕の中に抱えるようにして座っている。

 いま起きたところという雰囲気ではなかった。長い時間、そこに座り続けているのだろう。その証拠に吹き付ける風のせいでテラスの木はやんわり湿気を孕んでいるのに、夕暉の周辺は乾いている。外に向かって投げだした左足の裸足の指先だけが、しっとりと雨に濡れていた。雨音に交じって、ときおり波の音が届く。優しい気配に包まれて、夕暉はただ、夜の空を見上げている。

 遠い目は、泣いているようにも微笑んでいるようにも見えた。しとしとと降り注ぐ雨は柔らかくふたりを包んでいる。それなのに目の前の光景は、陽の心を冷たく凍り付かせた。白いレースは相変わらず、波のように柔らかく翻っている。

 随分長い時間、彼の背中を見つめていたように思う。反対に一瞬だったような気もする。結局、陽は彼に声を掛けることもできずに、そっと元来た廊下を引き返した。 

 ベッドの上に転がっても、脳裏に焼き付いた哀しい背中が消えてくれない。その夜、陽は夕暉の寂しそうな後ろ姿を何度も思い出して一睡もできなかったのだ。

翌朝、昨夜の憂いを少しも覗かせぬ笑顔で「おはよう」と笑った夕暉の顔を、陽はじっと見つめた。返事も返さず睨むように凝視してくる陽に、夕暉は不思議そうな顔をした。

「どうしたの、お腹でも痛い?」

 何かを隠している風もない。夕暉は腹芸を全くしないタイプだ。出来ない、ではない。しないのだ。

 陽は悟った。昨夜の出来事は夕暉にとっては珍しいことではない。そして意に介するほどのことでもないのだと。

 その日から、陽はこっそり夕暉の行動を気にするようになった。注意して夕暉の動きを観察していると、あることに気が付いた。夕暉は時折ふらりと、ひとりで姿を消す時がある。大抵の場合は一・二時間、長いと半日帰ってこないこともあった。男同士、ベッタリ常に一緒にいるわけでもないし、それまでは気に留めていなかったが、あの雨の日に似た夜の彼の不在はひどく気になった。

 何度かこっそりと後をつけた。決まって夕暉は海か空を眺めていた。人目につかない人通りのない場所を選んで、ひっそりと。

 疲れている時や気が滅入っているような時、夕暉は決まって猫のように音もなく陽の前から姿を消した。

 無言で空や海を眺めるほかには目を閉じている時もある。偶に滑らかな頬に、涙が伝っていることもあった。周囲から音が消えたかのように、静謐さを漂わせていた。たまに訪れる気分の落ち込みを直す手段が、彼にとっては人目を避けてひとりでぼんやりと過ごすことだったのだ。そうやって夕暉は、心中の陰陽のバランスを取っていた。夕暉は負の感情の発露が極めて静かなタイプだった。


 ふた月さんざん悩んだ末に陽が選んだのは、直接、尋ねることだった。

「お前、時々ふらっと消えて、ひとりでぼんやりするのなんでだ」

 左斜め上に視線を漂わせ、夕暉は言った。

「うーん。俺、人前で負の感情をみせるの好きじゃないんだよねえ。別に隠したいんじゃないんだけど、人に見せたとして、それに付随するやりとりが面倒臭い」

「めんどくさい」

「うん。落ち込んでたとして、俺は誰かに励ましてもらいたいわけでも、慰めて貰いたいんでも、共感してもらいたいんでもないんだよね。他人に見せてどうなるものでもないから。それに励ましが的外れだったり、こっちがもう気分変えて立ち直ってんのに、真摯に対応してくれてたら申しわけない気持ちになって。人に話すとしんどいのが倍増する気もするし、時間の無駄かなって。どうせなら誰かといる間は、最大限に楽しく過ごしたいでしょ。人生は有限なんだから、人と共有するのは楽しい部分だけで良いと俺は思うんだ。泣いたり怒ったり、辛いのはひとりでやり過ごすほうが俺は向いてるしね」

 そういう考え方の人間もいるのだと、陽は驚いた。たびたび独特だと思ってきた夕暉の視界は、清濁併せて沢山のものを見て来たからだ。二十一という年齢に見合わないほど様々な経験を夕暉はしている。

 左の太ももと二の腕にある深い古傷は、命の危険に晒された証拠だ。脇腹に銃弾が掠った痕があることも知っている。詳しくは語らなかったが、旅の最中に戦闘に巻き込まれかけたのだという。

 それでも何事もなかったかのように笑う夕暉の姿は鮮麗だった。夕暉の楽天的な性格はきっと、一周回ったが故の強さだ。様々な苦難を経験して乗り越えられた者だけが手に入れられる本物の強さ。眩しいほどに強い芯のある魂だった。

 早い段階で彼の持つ虚に気が付けたことは、幸運だったと陽は思う。そうでなければきっと、底抜けに明るい彼の態度に、そのうち嫌味のひとつやふたつは言ってしまっていただろうから。

 不用意に傷つけたくない相手。ともに過ごすうちに、陽のなかで夕暉という人間は、そんな存在になっていた。


 ◆

 陽が夕暉の元に滞在をはじめてから、数か月が経った。白夜を越え、気温が出会った頃の半分ほどにまで下がり、季節の変化を身体中で感じる。全てが陽にとって新鮮だった。

 この町は小さな島のなかにある。縦長の小さな島で、北部と南部と、そして中部は東西と壁で四つに分けたうちの西側に、夕暉は滞在していた。かつて軍事国家の海上要塞として機能したこの町は、全体が高い石の壁に覆われている。つまり町の東側は一面を壁、西側は美しい海に面していることになる。

 かつての軍事拠点も、今はただのんびりとした雰囲気の町だった。街の中心には市場がある。全体的に落ち着いた印象の町だったが、さすがに市場は活気に溢れた場所だった。とはいえ首からカメラをぶら下げた観光客もほとんど居らず、地元の人々の生活に密着していることが伺える。概ねヴィラで自炊をしている夕暉は、数日に一度この市場を訪れる。

 旅人だとは思えないほど、夕暉はこの町の人々に馴染んでいた。ひとりでふらりと消えてしまうことも多かったが、出来る限り陽は夕暉のあとをついて回った。

 市場で陽は、夕暉の袖を掴んだまま一言も喋らない。喋ることが出来ないからだ。けれどそんな陽を、夕暉は深く追求しようとしなかった。陽の態度は決して褒められたものではない。なのに夕暉は何も言わなかった。会話をしたければすれば良いし、そうでなければ別に黙っていれば良い。そう思っているようだった。

 母親に巻き付く幼児の如く夕暉にしがみ付いて離れない陽の姿に、人々は微笑ましさを感じたらしい。夕暉の行きつけのチーズの店で、店主が大きな身体を揺らして笑いながら言った。

「仲良しの兄弟だな、坊主たち!」

「特に口元の角度がね、こう、そっくり」

 隣のパン屋から女将が口を挟む。チーズ屋は大きく頷いた。チーズを入れた袋を差し出す腕は、切り倒したばかりの荒々しい丸太のようだ。おまけだと言いながらしゃがみ込んで、陽の手に棒付きの飴を一本握らせてくれるのは習慣のようなものだった。ついでに乱暴な手つきでガシガシと頭を撫でられて、陽は頬を染めた。逞しくて豪快なこのスペイン人を、陽はちょっと気に入っている。

 喋らない陽に代わって「タック」と言った夕暉に合わせて、陽もぺこりと頭を下げる。この国の礼の仕方ではないけれど、多分、謝意は伝わった。店主はもう一度豪快に笑って、陽の頭をグラグラと揺らした。

 彼に手を振り市場を後にしながら、夕暉はぽつりと呟いた。

「いろんな人に言われるよね。そんなに似てるかなあ」

くっきりとした二重で垂れ目の夕暉と、すっきり一重で吊り目の陽。下唇の厚い夕暉の唇と、薄い陽の口元。通った鼻筋で共に彫りは深いかもしれないが、肌の色だって丸っきり違う。どちらかというと似ていない。共通するのは、濡れ羽色の黒髪と光の反射で色を変える黒蛋白石の眼くらいだ。

「まあ確かに良くシンクロするよね。言葉とか、動きとか。そう考えると、ほんと、他人な気がしないなあ」

 陽は無言で夕暉を見上げた。はじめて出会った時に頭をよぎった疑問がまた蘇る。

「どうしたの」

 無言になった陽に、夕暉は首を傾げた。

「なんでもない。おい、夕暉、これも要る」

 寄り道して訪れた雑貨屋でコップを差し出した陽に、顔見知りの店主は目を丸くした。

「おお、ボウズが喋っとる」

店主の驚愕の表情に、「陽くんは、結構お喋りですよ」と夕暉が笑った。

「ヴォッショグ。そんで、それは何語なんだ」

 クレジットカードと商品を夕暉に渡しながら、店主の男は尋ねた。受け取ったコップを陽の手に持たせて、夕暉は答える。

「タック。日本語です。ロシアの向こうの、遠い島国」

 否定も肯定もせず、陽はそっと窓の外に視線を投げた。小さなこの島には、日本語の分かる人がいない。

 陽が人前でも口をきくようになってからひと月近くの間、日本語を解する人間に会うことがなかった。だから完全に油断をしていたとしか言いようがない。

「あのっ、すみません」

 会計を済ませて店の扉に手を掛けた夕暉の背を、緊張気味の声が追いかけた。振り返ると、若い二人連れの女性が縋るような表情で夕暉を見ている。大きなスーツケースを引きずった、見るからに旅行客といった風情の女性たちだ。

「ん? 俺に話しかけてる?」

「はい! ああ、良かった。やっぱり日本人だ」

 声を掛けた女性が満面の笑みになる。活発そうな栗色の短髪の女性だ。その半歩後ろでは、黒髪の女性が心配そうな表情でこちらを見つめている。

「どうされましたか」

 夕暉が彼女たちに向き直り、日本語で尋ねた。短髪の彼女は言った。

「あの、すぐに泊まれる宿をご存じないでしょうか」

 唐突な言葉に夕暉は目を丸くする。今度は黒髪の女性がおずおずと切り出した。

「実は、日本で予約したはずが、きちんとブッキングできていなかったみたいで」

「ああ、成程。宿に行ったら宿泊を断られたんですね」

 夕暉が得心顔で頷いた。この雑貨屋は、案内所を兼ねている。

「はい。だからここで聞こうと思ったんですけど、実は私たち、あんまり英語が得意じゃなくて。そしたらさっき貴方がジャパニーズって言ったのが聞こえて、つい」

 困っていたところに、日本人らしき男が流暢に英語と現地の言葉で談笑をしているのを見て、思わず声を掛けたらしい。

「ちょっと待っててくださいね」

 希望の場所と予算を聞いたあと、夕暉はコーヒーを啜っていた店主のところへ戻る。

「ねえ、イェリク。この辺で、今から泊まれる宿ってあるかな。あの人たちが探してるみたいなんだけど」

「ああ、ちょっと待ってな」

 店主は何処かへ電話を掛けると、すぐに夕暉に向かって頷いた。

「ドゥニィエルのところが空いていた。ここから近えし、値段も手頃で良いだろう。二人分言っといたぞ」

 イェリクは夕暉にメモを手渡した。

「タック。海も近いし手頃で良いね。伝えるよ。ヘイド」

 軽く手を挙げて踵を返した夕暉は「宿に案内しますね」と女性たちに微笑んだ。

「ありがとうございます。助かります」

 短髪の女性が、パッと華やいだ笑みを浮かべる。黒髪の女性は困ったように眉を下げて、仏頂面の陽を横目でちらりと窺った。

「でも、ご迷惑では……」

 扉の前で佇む機嫌の悪そうな陽に、気後れしているらしい。陽としては別段、不機嫌な顔をしているつもりはなかったが、なまじ顔が整っているだけに真顔でいるとよく怒っていると誤解されるのだ。

「いいえ、どうせ俺たちの帰り道なので、お厭でなければお送りします。よし、行こうか、陽くん」

 笑顔で応じた夕暉は、扉を開けながら女性たちを仕草で促した。その扉から、いの一番に出て行った陽に、夕暉が苦笑する。

「君が一番に出るのかよ」

「おい、早く行くぞ」

 通りで踏ん反り返って夕暉を呼ぶ陽の姿に、女性たちの口元からもくすりと笑いが漏れた。夕暉はひょいと肩を竦める。

「あ、彼はあれで別に怒っているわけじゃなくて、いつもこんな不機嫌そうな感じなのでお気になさらず」

 夕暉の脹脛に、軽い衝撃が走る。

「痛たっ。こら、陽くん。人を蹴ってはいけません」

「煩い、バーカ。無駄口を聞くな、さっさと歩けノロマ」

「ほんと君はそんな顔して、口汚いなあ」

「顔ぉ? 気品に満ち溢れた精悍な顔してるだろうが」

「だからだよ」

 ふたりで言い合いをしているうちに、ホテルが見えて来た。

「ダニエルんとこ、あれだ。あの噴水の向こうのやつ。ごめんなさい、貴方たちそっちのけで煩くしちゃって」

 振り返りながら夕暉が眉を下げる。

「いいえ。でも、兄弟でもないのに仲が良いんですね」

「え?」

 夕暉はキョトンと彼女たちを見詰めた。艶やかな長髪を揺らして、黒髪の女性が控えめに微笑んだ。

「他人の距離感じゃないですよね。何を言っているかは分からないですけど、テンポよく、じゃれているみたいに会話をされていたから。まるで本当の家族みたい。とっても仲良しに見えます」

 力強く頷いた女性に、夕暉は笑いながら手を振った。

「あ、いや、そっちじゃなくて『兄弟じゃない』って分かってもらえたのが初めてで。俺たち、この町では散々『兄弟だろ』って言われ続けてたから」

 今度は女性たちのほうがポカンとした表情を浮かべる番だった。

「兄弟に間違われるんですか?」

 夕暉と陽を見比べ、ふたりは首を傾げる。

「なんででしょうね。貴方は日本人だけど、彼は違うでしょう。だってふたりの会話、日本語じゃないんだもの」

「そういえば、おふたりが喋っているのって、何語なんですか? 聞いたことない不思議な言語。彼は何処の人?」

 咄嗟に返答が返せなかった。夕暉の脳が、彼女たちの言葉を処理しきれなかったからだ。言葉を失った夕暉の袖を陽が引く。

「夕暉。腹が減った。帰るぞ」

「あ、ん? うん? 帰ろ、か」

 返事を返したものの、恐らくまだ彼女たちの質問が咀嚼途中らしい。生返事で夕暉は応える。聞こえないとは知りつつ「じゃあな」と女性たちに声を掛け、陽は夕暉の腕を掴んで無理矢理、帰宅を促す。

「あ、え? あ……良い旅を~?」

 腕を引かれながら、夕暉は最後まで疑問符の付いた声で女性たちに手を振った。


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