第63話 マーキング

「……臭いです」


 駅前にて。

 出会って早々、顔をしかめた流美にそんなことを言われてしまった。


「え? 嘘? 臭い? ダメだった?」


 臭いというのは、今日試しに使った香水のことだろう。良い香りだと思うのだが。

 香水をつけた手首の匂いを嗅いでみる。変に匂いが劣化しているわけでもない。

 すると、流美が俺の手を取り、すんすんと匂いを嗅ぐ。


「これ、香水の匂いですよね? なんで燈護さんがこんなものをしているんですか?」

「こんなものって……。悪い匂いじゃないと思うけど……」

「……これ自体は悪くないですが。じゃあ、もっとわかり易く問います。これ、誰の影響ですか?」


 不満そうな顔。そこで、ふと思い至る。流美は、俺が他の女性の影響を受けていることが気に入らないのだろうか。


「……ここに来る前に、桜庭澪さんに会ったんだよ」

「……桜庭、澪。例の、最初の彼女ですか?」

「その言い方には語弊があるけど、まぁ、例のその人だよ」

「ふぅん……。なるほど……」


 流美が、ショルダーバッグから小瓶を取り出す。香水の瓶、だな。

 それを、俺の手首にワンプッシュ。石鹸に近い甘い香りが広がった。


「え、な、何?」

「……誰かとデートするときに、他の女性の匂いなどさせるものではありません」

「澪の香水の匂いってわけじゃないんだけど……」

「同じことです。他の女性の陰を感じさせるものなど、つけて来ないでください」

「あー……うん。これは、失礼……」

「ちなみに、桜庭澪には、わたしと会うことは伝えていたのですか?」

「うん」

「へぇ……そうですか。では、これは挑戦状ですか?」

「え? 挑戦状?」

「わざわざマーキングするなんて、いい度胸じゃないですか」

「マーキング……」


 酷い言われよう。

 しかし、澪はそういうつもりで俺に香水を買ってくれたのだろうか? そんなに深い意味はなく、単純に俺が今後も使えるものを選んでくれたのでは?

 流美が俺に接近。手首やら首筋やらに鼻を近づけ、匂いを確かめる。すごく恥ずかしい。汗の匂いしかしないんじゃないの?


「……とりあえずは手首だけのようですね。ここのマーキングは消して……では、そろそろ行きましょうか」

「うん……。まぁ、そのごめん。俺、無神経で」

「……いえ。わたしの方が神経質になっているんでしょう。わたしはまだ燈護さんとの付き合いも浅いですし、その……少し、焦ってしまっているんです」

「そう……」

「七星さんからは、わたしたちの気持ち、聞いているんですよね?」

「ん……。多少」

「なら、わたしの焦りも、ご理解いただけるとありがたいです」

「……ん。そうだね」


 流美が手を繋いでくる。ここで流美が苦笑を浮かべて。


「……ごめんなさい。ちょっと、香水が臭いですね。やりすぎてしまいました」

「はは……。思いっきり女性ものの香水の匂いをさせる男になっちゃった」

「電車内では、なるべく人のいないところに行きましょうね」

「だね」


 二人並んで歩き、駅の構内へ。

 それから電車に揺られること十分程度。

 俺の家の最寄り駅で降りたら、駅近くにあるスーパーへ。今日は改めて夕食を作ってくれるそうだ。嬉しいけど、手を煩わせてしまって申し訳ない気持ちが強いかな。

 俺の家に到着したら、早速流美が夕食を作ってくれることに。前回来たときに置いていたエプロンを装着し、キッチンに立つ。

 こういう光景、やっぱりいいと思っちゃうなぁ、と思っていると。


「……裸エプロンを見たそうな顔をしないでください」

「ちょっと! そんな顔してなかったでしょ! 全くそんなこと考えてなかったから!」

「本当ですか? お尻に視線が行ってましたよ?」

「そんなことないから! 絶対ないから!」

「……わたしのお尻、魅力ありませんか?」

「そういうことでもない!」


 流美はくすくすと笑って、料理に戻る。

 変なからかい方をするのは控えてほしいものだ。変なことは考えていなかったのに、ちょびっとだけ意識して……。


「……やっぱり、目がやらしいですよ?」

「ち、違うから! そういうのじゃないから!」

「中高生じゃあるまいし、多少そういう目で見られたってわたしは気にしませんよ。もちろん、相手は選びますけどね」

「……あんまりからかうなよ。俺の心はまだ中学生並なんだから」

「もう二人の女性を家に泊めておいて、何を言っているんでしょうね」

「……それはそれ、だよ」


 名残惜しいとは思うが、流美から視線を外す。

 ベッドに腰掛け、スマホをいじっていると、とんとんとん、と優しくてリズミカルな包丁の音が聞こえてくる。この感じ、心地良いな。

 しばらくすると、流美が静かに歌を口ずさむ。綺麗な歌声に思わず視線をやると、流美と目が合った。今度は俺をからかう様子もなく、にこりと微笑んでくれた。

 くっ……。これはまた、思わずときめいてしまう光景だ。こんな日常があればいいと思わずにはいられない。

 その後も穏やかな時間が過ぎる。ただ夕食の準備を待っているだけなのに、体の芯から癒される感じがした。

 三十分ほど待つと。


「お待たせしました。一緒に買い物したのわかっていると思いますが、今夜のメインは塩チャプチェです」

「おお……」


 見た目も匂いも良い、とても美味しそうな料理が座卓に並ぶ。総菜も利用して彩り豊かにしていて、俺としては感動ものの食事。


「……こんなの作れるなんて、流美って料理上手だよね」

「本当に一から作れたらそう呼んでも良いかもしれませんね。でも、これは誰にでも作れるものですよ。今の世の中、材料を揃えるだけで簡単に作れる料理はたくさんあります。味も十分美味しいです」

「そうなのかー」

「そうなんですよ。もっと細かいこだわりを持って料理をされる方もいらっしゃるでしょうが、わたしはこれで十分だと思っています。

 燈護さんは、本格的に料理が上手い女性がお好きですか?」

「料理ができるに越したことはないけど、そこまでこだわりはないかな。って言うか、手の込んだ料理を出されたら恐縮しちゃうよ。負担になりすぎない料理を作ってくれた方が、こっちも気楽だね」

「そういう感覚を持ってくださると、女性としても気が楽ですよ。料理は決して、呼吸をするように自然にできることではありませんからね。……では、いただきましょうか」

「うん」


 両手を合わせ、いただきます、と挨拶。

 食事を始めて、その美味しさに口もほころぶ。


「美味しいよ。すごく。わざわざ作ってくれてありがとう」

「どういたしまして。……毎日食べたくなりました?」

「んー、毎日とは、言わないかなー」

「……む。そこまで美味しいわけじゃない、と言いたいわけですね?」


 むっとする流美に、俺は笑顔で応える。


「毎日作ってもらうのは申し訳ないよ。作ってもらうばかりじゃなくて、俺も作らないとだよな、って話。さっき、流美も言ったろ? 料理は、呼吸をするように自然にできることじゃないって」

「……それもそうですね。毎日料理担当を押しつけられると、いずれうんざりしてしまうかもしれません」

「うん。たぶん、人が一方的な奉仕を続けられる相手って、自分の子供くらいじゃないかな?」

「かもしれませんね。自然とそういう風に考えられる燈護さんとなら、お互いに支え合う良い関係が築けそうです」

「そうなれるように努力したいね」


 食事を進めていくと、流美がぽつりと呟く。


「……私、燈護さんと一緒に暮らしてみたいです」

「……そう思ってもらえると、嬉しいよ」


 好意を伝えられるのは嬉しい。でも、どうしてもまだ、今の状況では多少の気まずさがある。

 それを見透かすように流美が微笑む。


「急にごめんなさい。わたしが何を言っても、まだ決めることはできないんでしょうね」

「……うん」

「わかってますよ。それくらい。そんな気まずそうな顔をしないでください。

 ただ、全く気持ちを言葉にしないと、何も考えていないと思われそうですからね。多少は、燈護さんを困らせるような発言もさせてもらいますよ」

「……うん」


 流美の右手が、そっと俺の頬に触れてくる。

 微笑みを消し、かと思えば、どこか悪魔めいた蠱惑的な笑みを唇に宿す。


「……わたしなしでは、生きられなくなっちゃえばいいのに」


 ぞくりと体が震えた。雰囲気の変化によるものなのか、セリフに込められた想いによるものなのか。

 俺が何も言えずにいると、流美がまた穏やかな表情に戻る。


「驚きました? わたし、色々なキャラのコスプレをするので、普段の自分から雰囲気を変えるくらいはできるんですよ」

「そ、そっか。いや……正直、かなりどきっとした……」

「これからも、色々な表情を見せることになると思います。楽しみにしていてくださいね?」

「うん……」


 その後は特に変わったところはなく、ごく普通に食事を進めた。

 まだまだ付き合いの短い流美。今夜だけでも、色々な発見があるのだろうか?

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