第62話 香水
「燈護の待ち合わせまでは、もう少し時間があるね。この後ちょっとだけ買い物に付き合ってよ」
澪に誘われて、俺は頷く。
「ああ、いいよ。何か欲しいものでも?」
「うん。ちょっと、ね」
またどこか意味深な笑みを浮かべる澪。俺はその心情を察することもできないまま、カフェを後にした。
それから、近所のショッピングモールにあるフレグランスショップへ。香水のおしゃれな小瓶が並び、俺としては少々物怖じしてしまう。香水なんて、今まで全く縁がなかった。
「燈護、香水はつけたことなければ買ったこともないでしょ?」
「うん。全く」
「男性の場合、匂いについては、とりあえず消臭だけしてれば問題なし。でも、一歩進んで、一個くらい香水も試してみていいんじゃないかな?」
「ん? その口振りだと、俺の香水を買いに来たの? 澪のじゃなくて?」
「うん。そう。燈護にプレゼントしようと思って」
「え? ここでもお金出してくれるつもりなの?」
「うん。そんなに高いものじゃないし、私が勝手に連れてきたんだし」
「流石に申し訳ないよ。選んでくれるなら自分で買うよ」
「何? 私のプレゼントが受け取れないって?」
「そういうことじゃなくて……」
「じゃ、私からのプレゼントってことで宜しく!」
ぽん、と肩を叩かれてしまった。
澪がその気なら、俺としては拒絶し続ける理由などない。香水は今まで使ったことないが、ものは試しとも思う。
「燈護は、個性を主張するようなものじゃなくていいと思うんだよねー。匂いがきついのも良くない。爽やかで、ふわっと軽く香る程度で十分……。手、出して」
澪がサンプルの香水を俺の右手に吹き付ける。レモン系の爽やかな香りが広がった。
「こういうのはどう?」
「うん、いい香りだと思う」
「良かった。まぁ、こう言うのはデートのときに使うといいかな。もし大学につけていくなら……こっちの感じはどう?」
澪が別の小瓶を取り、それを自分のハンカチに軽くプッシュ。それを、俺の鼻先に持ってくる。
「これもいい香りだ。石鹸みたいだけど、もうちょっと甘いかな?」
「こう言うのは万人受けするから、気楽に使ってみるといいよ。ちなみに、香水は人によっては不快に感じることもあるし、どこで使うかとか、使用量には注意してね。デートに使うならいい香水でも、大学で使うと嫌な顔されるってのもよくある話」
「確かに、香水の匂いがきつすぎて近づきたくない人、いるもんな」
「そうそう。香水はちょっと使い方を間違えるだけで印象を最悪にもしちゃう。ただ、やっぱりこう言うのも使っていかないと扱いは上手くならないから、少しずつ慣れていけばいいよ」
「うん。わかった。……そう言えば、香水っていうと、小学校の行事でお母さんたちが集まったときを思い出すなぁ。色んな香水が混ざってめちゃくちゃ臭かった……」
「本当、あれは酷かったよね。香水は混ざると臭いってわかりきってるんだから、それぞれ自重してよ、って感じ。
ま、そういうのが、香水は使い方をきちんとわきまえないといけない例だよね。匂いについてのマナーを守れる大人を目指しましょー」
「わかりました。澪先生」
ふふ、と澪が笑って、他にもいくつか香水を試してみる。
澪のセンスが良いのか、お店の置いてあるものが良いものばかりなのか、お勧めされた香水は全部、良い匂いがした。
そのうち、結局購入するのは最初に試した二つで。
「え? 二つも買ってくれるの?」
「うん。高いものは選んでないし、燈護にもお勉強してほしいからね」
「……ますます申し訳ないなぁ」
「いいからいいから。私は、燈護にできる男になってほしいのだよ。それに……別に、見返りを求めてないわけでも、ないからさ?」
見返り……? 俺に何を期待しているのだろうか?
「澪のためにできることなんてあるのかな?」
「そんなのいくらでもあるよ。私、燈護には色々と期待してるんだから。ま、詳細は秘密ってことで! これ、買ってくるね!」
澪は一人でレジに並び、香水を購入してから戻ってきた。
わざわざ丁寧にラッピングまでしてもらう意味があったのかは、俺にはわからない。
「はい、プレゼント」
「うん。ありがとう。……ちなみに、澪の誕生日っていつ?」
「九月十一日」
「ん……わかった」
きちんと覚えておこう。
店を後にしながら、話を続ける。
「プレゼントとか期待してないよ? 今回のは、私が贈りたかっただけ」
「それなら、俺も勝手に贈りたいと思うから贈るよ」
「ふぅん……。そう言われたら、断れないね。ちなみに、燈護の誕生日は?」
「俺は十月二十三日」
「そかそか。私が先で、一ヶ月後くらいに燈護の誕生日か」
「……俺も、プレゼントとか期待してないよ?」
「そーだね。けど……そもそも、その頃に私たちの関係はどうなってるだろうね? 燈護はもう爛れたハーレム生活を始めているわけだし、特定の誰かと付き合い始めてたら、気楽に会えないかもよ?」
「……それは、正直寂しいな。できれば、澪との縁は切りたくない……。いや、そもそも、澪とこうしてプライベートで会うのも、良くないことだってわかってるんだけどさ」
「……私も、燈護とはお仕事関係なく、この先も仲良くしていきたいって思ってるよ」
「そう? それは嬉しい。すごく」
本当に、すごく。
澪も綺麗に笑って、スマホを掲げる。
「個人の連絡先、交換してなかったね。嫌じゃなければ交換しない?」
「嫌なわけない。でも……いいの? 禁止されてるんじゃない?」
「平気……とは言えないけど、トラブルに発展しない限りお店側も特に気にしないよ。そもそもいちいち管理してられないって。
……もちろん、このことが原因で何かのトラブルになったら、お店は私を守ってくれないだろうね。それに、禁止されてるのはそれなりに意味がある。デートのときだけ良い男を演じてる悪人もゼロじゃない。この辺は、本当に自己責任。
けどまぁ、燈護なら大丈夫でしょ?」
「うん。澪を困らせることはしない」
「よしよし。それじゃ、交換しましょ」
澪と連絡先を交換したら、ぼちぼち俺は流美との待ち合わせ場所に向かわないといけない時刻になった。
俺は駅に向かうが、澪はもう少し都心付近を散策するらしい。
「それじゃ、俺は行くよ」
「うん。また明日。……さて、明日の燈護はまだちゃんと童貞のままかしら?」
「……童貞に未練はないけれど、明日も変わってないよ」
「それなら安心だ。あ、そうだ。燈護さ、私の名前、覚えてる?」
「へ? 名前って、桜庭澪じゃないの?」
澪がくすりと笑う。
「そっちじゃなくて、私の本名のこと」
「覚えてるも何も、聞いたことがない……よね?」
はぁー、と澪が今度は深い溜息。
「そっかそっか。燈護は忘れちゃったか。あの頃とは確かに印象もだいぶ違うだろうけど、毎日顔を合わせてた仲なのにねぇ」
「え? 毎日? 嘘? どこで?」
「内緒! 燈護が思い出すまで教えてあげない! ……っていうか、私の勘違いだったりしてね。ま、そのときはそのとき。それじゃ、またね!」
「あ、うん。また……」
澪が明るい笑顔と共に去っていく。その背中が見えなくなってから、俺も動き始めた。
「毎日顔を合わせてたって、なんのことだ……?」
澪の口振りだと、そう親しくしていた感じでもない。顔を合わせていたけれど、言葉を交わすこともなかった? 小学校時代のクラスメイトとか?
「うーん、わからん……」
ともあれ、澪は相変わらず素敵な人だった。明るくて、親しみやすくて、気遣いもあって。
夢衣、七星、流美だって素敵なのだけれど、澪は一段違った魅力があるように思う。大人の女性、という感じ? 一緒にいて一番安心できるし落ち着くのは澪、かもしれないな。
「……かといって、澪と恋愛してる姿は、あんまり想像できないよなぁ」
恋人ではなく、ただの友達として、澪と交流できれば最良なのだろう。
寂しさを感じないわけではないが、この気持ちはさっさと忘れてしまおう。
澪のことより、これからは流美。
……部屋に泊めたとしても、特に何も起きない、よね? きっと。
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