第55話 泣く

 七星と過ごした翌日の夕方。

 自宅マンションのエントランスにて、俺はじとっとした目で見つめてくる夢衣と向き合っている。

 学校帰りにに直接ここに来たのか、ラフな格好に、教科書などが入っていそうな重そうな鞄を方に提げている。


「……あたし、もう女の友情は信じない」

「えっと……」


 何があったのかは察した。七星が、昨夜俺の家に泊まったことを夢衣に伝えたのだろう。


「……あたしも泊めてよ」

「あー……」

「泊めて、くれるよね?」


 夢衣の目に仄暗い影が指す。ダークサイドに落ちていること間違いなしの、凶悪で威圧的な瞳だった。


「……はい」


 にこり。あるいは、にやり。

 なんとも形容しがたい笑みを浮かべている。これ、人を殺せるタイプの笑顔だな。うん。

 抵抗する気力など沸くわけもなく、俺は夢衣を自宅に招き入れる。


「……七星から、ある程度あたしたちの気持ち、聞いたんだよね?」


 気持ちとはつまり、明確にはしていなかった好意のことだよな。


「えっと……まぁ、うん」

「そう。じゃあ、隠す必要もないね。それはそうとして……」


 夢衣が部屋の中を物色し始める。特にゴミ箱。恥ずかしいからちょっとやめてくれないだろうか。

 そして、しばらくごそごそした後に、くんくんと部屋の匂いを確認し、鞄から取り出した消臭スプレーを噴霧。特にベッド周りは念入りに。

 それからさらに、香水の瓶を取り出して、ティッシュ数枚に香りをつける。それを部屋に置いていき、室内にほんのりと甘い香りが満ちた。


「ふぅ……。これでもう、七星の痕跡は消えたね?」

「そもそも何も残ってなかったと思うぞ……?」

「そんなことないよ? 臭かったよ?」

「それ、七星の匂い関係ない奴じゃ……」

「ううん。七星の匂いだった。臭かった」

「そう……」


 あまり臭い臭い言わないでほしいところだけどね。別に臭いわけじゃなく、むしろ良い匂いだし……。まぁ、夢衣からすると嫌悪感を抱く、のかな? 七星、夢衣に嫌われた……?


「ねぇ、燈護君。昨日は、本当に何もしてないんだよね?」


 瞳に色がない。返答次第では刃傷沙汰になりそうな気配。


「何もしてないよ。ちょっと話をして、普通に眠っただけ」

「信じていい? 今ならあたし、何を言われても我慢できるよ? キスもしてない?」

「え? あー……」


 キス、したのかな? たぶん、したよな。どっちかはっきりしない部分もあるけれど……。


「キスしてるじゃん! なんで嘘吐くの!?」


 夢衣が叫び、それからぽろぽろと泣き始めてしまった。

 初めて、女性が思い詰めて泣くのを目の前で見た。

 夢衣は俺の彼女じゃない。七星だって彼女じゃない。

 悪いことはしていないつもりでいたけれど……それでも、こんな風に人を泣かせてしまうこともあるのか。


「……夢衣。聞いて」

「何!?」

「……たぶん、七星とキスした」

「たぶんって何!? したんだったらしたんでしょ!?」


 夢衣の叫びが胸に刺さる。


「……うん。そうだな。キスは、された。俺、キスされるの、拒絶なんてできなかった」

「燈護君、七星のこと、好きなの?」

「自分の気持ちが良くわからないんだ。好きと言えば好き。だけど、それを言うなら、俺は夢衣のことも好きだよ」

「浮気じゃん! 七星のことが好きなら、七星のことだけ好きでいればいいじゃん! なんでそんな半端なこと言うの!?」

「……ごめん。最低なのかもしれないけど、今の段階で、七星を彼女にするつもりはないんだ」

「そんなの燈護君らしくないよ! 半端な優しさは人を傷つけるだけだよ! あたしのことなんてさっさと切り捨てればいいでしょ!? どうせ七星のことが好きなんだから!」

「だから、そうじゃなくて……」

「違わないでしょ!? もう嘘吐かなくていいってば!」


 夢衣の目からは、とめどなく涙が流れている。

 その涙に、胸がずきずきと痛む。

 でも、同時に沸いてくる腹立たしさ。

 俺の気持ちをちゃんと理解してほしいのに、夢衣は感情に呑まれて俺の言葉を聞こうとしてくれない。

 俺の立ち振る舞いは悪かった。七星の強引さを前にして、ただ流されるばかりだった。

 はっきりしない気持ちをおきざりにして、毅然とした態度を取れなかった。

 それは、そうなんだろうけれど。

 どうしてわかってくれないんだ。どうしてわかろうとしてくれないんだ。冷静になってくれれば、きっと理解できるはずなのに。

 ……こんな風に考えるのは、俺が都合良く考えているからかな。

 やっぱり、恋愛って難しいなぁ……。


「ねぇ、何か言ってよ! 俺は七星と付き合うから、もうここには来るなって言えばいいじゃん! 連絡してくるなって言えばいいじゃん!」

「そんなこと、言えないよ」

「なんでよ!? 燈護君は燈護君らしく、ちゃんと優しくしてよ! 優しさを間違えないでよ!」


 なんでだろう。すごくイライラする。

 俺の気持ちをちゃんと理解してくれよ、って思ってしまう。

 俺らしさってなんだよ、って思ってしまう。

 何でこんないい子を泣かせてるんだって自分のふがいなさも嫌になる。

 恋愛の機微なんてわからないし、何が優しさになるかなんてわからないし、完璧なんかじゃないし、流されちゃうこともあるし、人の気持ちを考えきれないこともあるし。

 そんな自分の至らなさも、こうして誰かを泣かせないと気づかないくらい、俺は愚かな子供だよ。


「ねぇ! 燈護君!」

「もうっ、うるさいなぁっ」


 普段の自分では考えられないような、乱暴な言い方をしてしまった。

 夢衣も驚いて目を見開いている。


「思い込みで勝手に盛り上がるなよ! 俺のことを勝手に決めつけるなよ! 俺だって何でもわかるわけじゃないし、いつでも人に優しくできるわけじゃないし、恋愛のことなんてわからないことばっかりだし!

 気持ちだって複雑なんだよ! 七星の強引さにあらがえなかった自分は情けない! 悪いことはしてないつもりだったけど、それで夢衣を傷つけてしまったのは悪いと思ってる! 自分の都合良く色々考えてたって気づいて、申し訳ないとも思ってる!

 それに、夢衣は俺をどう思ってるのか知らないけど、俺は聖人でもなんでもない、ただの男子大学生だ! 七星のことは好きだよ! すごく好きだよ! 流美のことだって正直言えば好きだよ! だけど、七星や流美と同じかそれ以上に、夢衣のことだって好きなんだよ! こんな状態で、誰か一人なんて選べるわけないじゃんか! 俺には時間が必要なんだよ! それで愛想尽かすなら、そっちから俺を見限ってくれよ!」


 珍しく。本当に珍しく、感情的になって、思いを人にぶつけてしまった。

 俺は本当に未熟だよ。こんなとき、自分を上手くコントロールして、上手いとこ女性を泣きやませることなんてできないよ。

 俺も泣きたくなってきた。情けない。でも、夢衣が俺の分も泣いてくれている気がしたから、どうにかこらえることができた。

 しばらく無言で見つめ合って、俺の方から視線を逸らす。


「……ごめん。なんか、夢衣を責めるような感じになってしまった。夢衣を責めたいわけじゃないんだ。根本的には、俺が悪いんだとも思う。ごめん。せっかく来てくれたのに、こんな言い合いになっちゃって、ごめん」


 夢衣から視線を逸らす。夢衣はきっと、俺のことなんて置いて去っていく。

 そう思ったのに、夢衣は立ち尽くしたままで、そして。


「……もう、謝らないでよ。燈護君、悪くないよ。あたしが勝手に暴走してるだけだよ。そんなのわかってるんだよ。わかってるのに、こんなバカみたいなこと言って、本当に情けない……」


 夢衣の泣き方が変わる。顔を覆ってぐずぐず言い始め、体を震わせる。

 先ほどまでの攻撃的な雰囲気はない。ただただ悲しそうな泣き声。

 こんなときの声のかけ方って、経験を積めばわかるようになるのかな。一生わからないような気もする。

 女性の気持ちって、本当に難しい。いや、単純に、人の気持ちって難しい。

 正解かどうかはわからないけれど、夢衣の華奢な体をそっと抱きしめた。

 夢衣も俺の体を抱いて、子供みたいに泣き続けた。

 こんなに全力で泣く人も、初めて見たかもしれない。

 女性だから、ではないかもしれないけれど。

 夢衣が、どうやら全身全霊で恋をしているらしいことを知って、俺はまた反省の心持ち。

 俺じゃなかったら、きっともっと早くこの気持ちも気づいたし、それに合った立ち振る舞いをするんだろうな。

 ごめん。

 何度も謝って、夢衣が泣きやむのを待った。

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