第44話 悩み
「本当にごめんなさい。わたしのせいで……」
改めてフラワーミュージアムに向かう途中、鳴歌が視線を落としながら言った。
「鳴歌さんは悪くないですよ。悪いのはあの男の方。鳴歌さんは適切な距離感を保って接していたのに、相手が勝手に勘違いしただけ。
恋人代行って、難しいですね。一生懸命に頑張って、お客さんを喜ばせてあげたいのに、やりすぎると距離感を狂わせてしまう……」
「……なるべく、笑顔は控えるようにしているんですけどね」
「ん? 笑顔を?」
「このお仕事を始めた頃は、もう少し笑顔を心がけていたんです。でも、そのせいなのか、『あなたを本気で好きになってしまいました』って言い出す人も出てきてしまって。わたしはそんなつもりはなくて、擬似的な恋愛を楽しんでほしいだけだったのに……」
「なるほど……」
鳴歌の笑顔は大変魅力的。その笑顔を向けられ続けたら、勘違いしてしまう気持ちも理解できる。
「途中から、無理に笑顔は作らないだけじゃなく、撮影以外では笑顔を控えるよう心がけました。それで、あくまで恋人代行なのだと線引きをしてもらうよう、意識していました」
「……なるほど」
少し前、鳴歌が言わなかった理由がこれか。
楽しい話ではないし、お客さんに対して言うことでもないよな。
「それでも……中には、ああやって何か思い違いをしてしまう方もいらっしゃいます。……わたし、もうこのお仕事は辞めた方がいいんでしょうね」
「え? 辞めるんですか?」
突然の思いの吐露に動揺してしまう。
「わたしのせいで、何かが狂わされてしまう人がいます。彼のような人を、これ以上生み出したくはありません……」
「そうですか……」
鳴歌の苦悩を、深いところまでは理解できない。
今日のことだけじゃなく、今までずっと悩んできたのだろう。そして、今回で丁度溜まっていたものが溢れてしまった、と……。
「楽しい思い出もたくさんあります。わたしのすることで、笑顔になってくれる方がいらっしゃるのは、わたしにとっても嬉しいことです。
わたしとのデートで、もう一度ちゃんと恋愛してみようと、決意してくださった方もいらっしゃいます。色々あって女性不信になっていたけれど、わたしと交流して、女性も悪い人ばかりじゃないと思えるようになった、と。
その人に対して、わたしが本当に特別なことをしてあげられたわけではないと思います。いつも笑顔でいたわけでもなく、場を盛り上げられたわけでもなく。
わたしにできたのは、ただ、相手の話を聞いて、受け答えするだけ……。
わたしじゃなくても良かったとしても、わたしがそんな風に誰かの力になれるなら、このお仕事もいいなと思っていました……」
ふむ。
デート中にも関わらず、他のお客さんのことまで話してしまっている辺り、鳴歌は本当にこの仕事を続ける気力を失っているように思える。
辞めてしまうのだろうか? それはあまりにも惜しい。だって。
「その方は、たぶん、鳴歌さんと交流できたから、勇気づけられたんだと思います。他の誰かでは、ダメだったでしょう」
「なぜ、そう思うんですか? わたし、本当に大したことはできてなくて……」
「鳴歌さん、あまり笑わないでしょう? だからこそ、その方は、鳴歌さんを信用したんだと思います」
「笑わない、から?」
「お客の立場として、笑顔を振りまいてくれる恋人代行は好意的に映ります。けど、ああ営業してるな、っていう気持ちも同時にあります。
鳴歌さんはあまり笑わないから、営業を頑張ってるというより、一人の人間として自分と向き合ってくれているという感覚になります。
だから、彼が立ち直る勇気を得られたなら、それは鳴歌さんのおかげです。偶然かもしれませんが、鳴歌さんだからこそ救えた人がいたんだと思います。
……今後どうするかは、鳴歌さん次第です。ただ、ああいうイレギュラーのせいで、鳴歌さんが自分を責めて、仕事を離れようとするのは……惜しいとは思ってしまいます」
「……わたしだから、救える人」
「そうは言っても、ああいうのがまた現れるかもしれないと思うと、単純に怖いですよね。仕事で得られる充実感云々以前に、身の危険を感じる仕事からは離れるべきだとも思います。
俺は、ただのお客さんです。鳴歌さんの人生に口出しをできる立場ではありません。決めるのは、鳴歌さん。
ただ、鳴歌さんだけにできたこともたくさんあるってこと、ずっと覚えておいてほしいです」
鳴歌がしばし無言で歩く。
少し待って、それから。
「燈護さんにとっても、わたしは特別ですか?」
「ええ、もちろん。
ふと見せる笑顔は本当に素敵です。撮影会で豹変する姿は衝撃的でした。恋人代行として色んなことに悩み苦しみ、試行錯誤してきた歴史を感じられて、俺も自分のことを頑張ろうって思いました。鳴歌さんが得意なことで精一杯誰かを楽しませようとする姿を見たら、自分も得意を磨いていけばいいのかもって思えました。
鳴歌さんは俺にたくさんの影響を与えてくれています。鳴歌さんは、俺にとっても特別です」
「そう……ですか……」
こちらを見ない鳴歌の頬が赤い。
今こそ写真を撮りたいけれど、そうするとこの表情は消えてしまうんだろうな。
こういう大事な瞬間は、いつだって記憶に残しておくしかないんだろうな。きっと。
「燈護さん」
「なんでしょう?」
「わたし、燈護さんに会えて良かったです。燈護さんは、人を励ましたり、勇気づけたりするのが得意なんですね。燈護さんの言葉を聞くと、もう少し頑張ってみようかなって気持ちになりました」
「無理は、なさらず」
「はい。もちろん」
鳴歌がきゅっと俺の手を握る。
それから。
「燈護さん。わたし……」
何かを言い掛けて、鳴歌が首を横に振る。
「やっぱり、なんでもありません」
「そうですか?」
「はい。なんでも、ありません」
鳴歌は前を向いている。何を言い掛けたかわからないけれど、俯いていないのなら、それでいい。
鳴歌と一緒にいられる時間はまだある。残りの時間、存分に楽しもう。
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