第31話 性悪
腕を組んだままエレベーターで向かったのは、五階にあるバッティングセンター。元ソフトボール部らしい選択だ。
それはそうと。
「なぁ、なんで璃奈に自分が彼女だなんて言ったんだ?」
「む? まだあの子のことを口にするのね? あたしとのデート中なのに」
「まぁ……良くないことだとは思うけど……」
ボールと金属バットが衝突する音が響く。七星は、どこか懐かしそうにバッターボックスに立つ人たちを見やる。
「深い意味はないよ。ただ、そう言った方が面白そうだったから」
「面白そうって……。それだけで?」
「そうだよ。それだけ」
「……そうなのか。うーん……」
「燈護にはわからないよね。あの場で燈護の彼女宣言したら、璃奈って子が何か面白いことしてくれると思った。それを見られたら楽しいじゃない?」
「うーん……そうなぁ」
「納得はしないでいいよ。ただ、これは勘違いしないでほしいんだけど、あたしはあの子を傷つけたかったわけでも、泣かせたかったわけでもない。まさかあれだけで泣くとはあたしも思ってなかった。ちょっと痴話喧嘩が始まる程度かなって」
「それもどうかとは思うけれど……」
「燈護は優しいからねぇ。でも、あたしは性格悪いから、なんか起きてくれたら面白いなって思った」
「……うん」
傍観者としては、トラブルは面白いものに映るのだろう。俺は他人のことでも争い事は見たくないけれど、世間的には七星のような発想をするのもさほどおかしなことではない。はず。
「ねぇ、燈護。あたし、先に言ったよね。リアルには聖女も天使もいないって。あたしは性格悪いし、意地悪だし、ずるいし、身勝手だし、わがまま。嫌いなものは嫌いで、他人の不幸を楽しんじゃうこともあって、傷つけられたら傷つけ返したくなる。
あたしは、そんな悪い女だよ。純粋無垢な燈護には、きっと釣り合わないね」
七星の綺麗すぎる微笑みは、俺を拒絶しているようにも思えた。
だけど、本当に俺を拒絶しているのではなくて……わざと悪いことをして気を引く、寂しさを募らせた子供のような雰囲気も感じた。
ここで、俺に離れていって欲しいわけではないんだと思う。頭をがしがしと掻いて少し考え、告げる。
「釣り合う釣り合わないとかいう考えは、俺にはよくわからない。
確かに七星は、決して天使でも聖女でもないんだろう。
ただ、七星は悪い人ではないとも思う。人間、誰にだって暗い面は持っているもので、いつも笑ってはいられないし、悪いことをしたいときもある。
そんな当たり前の一面を持っているだけで、悪人だなんて思うことはない。
むしろ、そういうどうしようもないところに、生きていく上で大切な面白みや奥ゆかしさが詰まっているとも思う。
俺はお笑いをやっているから余計にそう思うんだけど、聖人と聖女しか登場しない世界に、笑いなんて生まれない。正しくはあっても、全く面白味のない世界になる。
そんなの、本当につまらない。人間は多少愚かであってくれないと、俺は困ってしまう。
七星は悪い人じゃなくて、ただ人間であるって言うだけ。俺はその人間臭い一面を、心のどこかで愛おしいと思ってるよ」
七星が、くすりと笑う。今度は、拒絶の意志は感じられなかった。
「……そっかそっか。燈護はそんなこと言ってくれちゃうのかぁ」
「……なんだよ、そのにやつき。そんなにおかしかったか? せめて、笑うんだったらもっと盛大に笑ってくれよ」
「そーじゃないよ。燈護は見かけによらず熱いなぁと思って」
「……そうかな」
「うん。青い炎って感じ」
「褒められてる?」
「褒めてる褒めてる」
「二回言われると途端に胡散臭くなる……」
「好き好き大好きちょー愛してる」
「からかわれてるとしか思えない」
「わかってないなぁ。ま、今はそれでいいけど」
「は? 何が?」
「あたしとしても、まだ興味を持ち始めたくらいの話だし」
「何の話?」
「処女でもない大学生の女が、そう簡単に落ちるとは思わないでね?」
「いや、え? 何が?」
「さ、とりあえず体を動かそうか。あ、エロい意味じゃないよ?」
「そんな捉え方しないって」
ふふと笑った七星は、不意に俺の耳に口を寄せ、小声で囁く。
「エロい意味でも、いいよ?」
「……は?」
「さっきからはぁはぁ言い過ぎ。何興奮してんの?」
「……言ってない」
「顔、赤いよ?」
「へ、変なこと言うから!」
「女からの誘いを変なこと呼ばわり……。これだから童貞は……」
七星がくすくす笑いながら離れ、メダル貸出機に千円札を投入。吐き出された五枚のメダルを手に、ガラスドアで隔てられたバッターボックスに入っていく。ドアの上には百三十キロと書かれていた。
七星はバットを手にして、機器にメダルを投入。バッターボックスに立った。
とても美しい立ち姿だった。本気でソフトボールに取り組んでいたことがよくわかる。
ボールが飛んでくる。速い。野球もろくにやったことのない俺からすると、とても反応できる速度じゃない。
それでも、七星は初球から見事に打ち返した。
「すげ……」
ソフトボールでは、どれくらいの速度の球が飛んでくるのだろうか? これくらいは軽く打ち返すのが普通?
七星は、飛んでくる速球を次々と打ち返していく。たまに空振りもあったけれど、その鋭いスイングには憧憬の念さえ覚えた。
一ゲーム終えて、七星が出てくる。
「流石、元ソフトボール部。すごく綺麗だった」
七星が一瞬きょとんとする。
「かっこいいって言われることはあっても、綺麗って言われるのは初めてかも」
「そう? かっこよくもあったけど、やっぱり綺麗だったよ」
「そう? 変なの。じゃ、次は燈護もやってみてよ」
「俺はもっと緩いやつじゃないと当たらないよ……」
「いやいや、燈護もこれくらい打ち返せるようにならないと」
七星が俺の手を引く。
「俺は野球部員じゃないぞ?」
「ストレートしか投げてこないんだよ? 素人でも練習すれば当たるって」
「うーん……」
「ほらほら。とにかくやってみる! 空振りしまくってるところ笑ってあげるから!」
「性格悪っ!」
「何度も言ってるじゃん。そうだよ、って」
「開き直りだ……」
「……あたしも、別に変化球投げてるつもりはないんだけどなぁ」
「え?」
「じゃ、頑張ってねー。あ、コインはさっき買ったのあげる」
「あ、お金は……」
「いいからいいから!」
七星に背中を押され、バッターボックスに放り込まれる。
……ここで逃げるのもつまらないし、とにかくやってやるか。
バットを持つなんていつぶりかな? 中学では体育でソフトボールをやったような……。
「頑張れー。ホームラン打ったらキスしてあげるー」
「……よし、いっちょやったろー」
自信はない。けど、あんな冗談に乗せられてしまうのも、悪くない。
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