第30話 二の腕

 声をかけても良かっただろうか? 迷いながら通り過ぎようとすると。


「夢衣、どうしたの? あ……って」

「ん? その人知り合い?」


 璃奈の視線の先に、俺がいることはわかってしまったらしい。あえて知らないふりをするべきか、否か……。


「あ、ええっと、その……別に知り合いとかじゃなくて……」

「ふぅん? じゃあ、さっきの意味深な『あ……』は?」

「え、何? うちらには内緒の人? 気になるなぁ」

「や、ち、違うって! 知り合いとかじゃ、全然なくて……ただ……えっと……」


 わかりやすく狼狽うろたえている。俺と知り合いだと宣言した際、どこで出会ったのかと問われるのは気まずいのだろう。友達二人には、恋人代行のことは言ってなさそうだ。

 無視して通り過ぎるのは、薄情だよなぁ。

 立ち止まり、知り合い程度の距離感を意識しつつ、声をかける。


「やぁ、また会ったね。もう、財布は落としちゃダメだよ? お金をなくすだけならまだしも、個人情報とか勝手に見られたら嫌なこともあるだろうからさ」

「あ……うん。そうだよね。気をつける……」

「じゃ、友達と一緒みたいだし、今日はここで」


 軽く手を振り、七星の手を引いて歩き出す。

 今の会話で、あの二人は概ね俺が何者かを察したはず。『この人は璃奈の財布を拾ってくれた人なのだろう』と。事実とは違うけれど、上手くぼかせば勝手に想像力で補完し、納得してくれる。


「何? 財布拾ってくれた人?」

「なんだ。やっぱり知り合いじゃん」

「ああ、えっと、知り合いと言えば知り合いだけど……親しいわけでもないし、さ」


 良かった。どうやら納得してくれたらしい。

 よしよし、このままフェイドアウトすれば問題なし……のはずだったのに。


「ね、ねえ!」


 璃奈がわざわざこちらに近づいてきて、俺に声をかけてくる。


「え? な、なに?」

「と、隣の人、誰!?」

「ええ?」


 なんで今そんなことを訊く?

 別にやましいことなど何もないが、俺に関心があるように振る舞うのは良くないのでは?

 七星の顔をちらりと確認。何故か七星は意地の悪そうな笑みを浮かべていた。


「あたしが気になる? あたし、燈護の彼女。それがどうかした?」

「ふぇ……?」


 璃奈が唖然として口を半開きにする。

 それから、何故か目をうるうると潤ませる。え、泣きそうになってない?


「それ本当なの!? 燈護君!」


 おい、俺を下の名前で呼ぶなよ。せっかく『財布を拾ってあげただけの名も知らぬ知り合い』のふりをしたのに、台無しじゃないか。


「燈護君……?」

「妙に親しげ……?」


 あーあ。後ろの二人も訝しんでいるじゃないか。

 ともあれ、そっちより璃奈の方を……。


「さっき、あたしたち二人でラブホ行ってきたよ?」


 七星が、また話をややこしくしてくる。何故今それを言った。


「ラ、ラブホぉおおおお!?」


 璃奈も、公衆の面前でラブホと叫ぶのは止めなさい。マジで。


「燈護君!? 一体どういうことなのかな!?」

「ど、どういうこともなにも……」

「彼女がいるなんて聞いてないよ!?」

「いや、だから……」


 待て待て。なんか、俺が浮気した人みたいになってるじゃないか。そうじゃない。全くもってそうじゃない。

 しかし、俺がきちんと説明をする前に、周りからひそひそ話が聞こえてくる。


「浮気よ浮気、サイテー」

「このご時世によくやるよ」

「ああいう平凡そうなやつが案外あくどいことやるんだよなぁ」


 畜生め。俺は何も悪くないぞ。


「……彼女がいるなら、そう言ってくれれば良かったのにっ」


 璃奈の頬をつぅっと涙が伝う。本当に泣いてしまった。なんでだ? もし、七星が俺の彼女だったとして、璃奈には関係ない話じゃないのか?

 なんと声をかけるべき? 一言で、勘違いしていると理解してもらうには……?


「この子は恋人代行だよ! 俺にこんな可愛い彼女ができるわけないだろ!?」


 本当は恋人代行でもないけど、これで誤解は解けるはず。


「……恋人、代行?」

「そう! それだけの関係!」

「う、嘘だよ! 恋人代行、ラブホなんて行かないもん!」


 ああ、それもそうか。

 しかし、ちゃんとした彼女でもないから、俺と七星の関係は説明しづらい。


「ラブホはエントランスをちらっと覗いただけ! 部屋には入ってない! 俺はまだ童貞のままだ!」


 公衆の面前で何を宣言しているのか。周りの反応は意図的に無視だ。


「本当に……? それが本当なら、証拠を見せてよ!」

「証拠、だと……?」


 処女であれば、場合によっては証明できるかもしれない。

 しかし、童貞であることの証拠など提示できるわけもない。

 何をどうしろと……?


「えっとぉ……えっとぉ……」


 悩む俺を、璃奈がまっすぐに見つめてくる。まるで合格発表を待つ受験生みたいな真剣さで、とてもこの状況で見せる顔ではないと思う。

 しかし、ここはなんて答えるべきか。俺が童貞だと一発でわかる、魔法の言葉は……?


「……おっぱいが二の腕と同じ柔らかさって、本当なのかな?」


 俺は女性に対して何を尋ねているのか。セクハラと訴えられても仕方ない発言ではないか。

 しかし、待ってほしい。他にとっさによい言葉が思いつかなかったんだ。いかにも童貞臭い発言なんてそうそうあるわけじゃないんだから、仕方ないじゃないか。

 璃奈は、ほへ? と惚けた顔をしてから、だんだんと顔を朱に染めていく。


「ど、ど、ど、どう、なんだろう、ね? ひ、人によるんじゃ、ないかな……?」


 何を思ったか、璃奈が自身の二の腕を揉む。それから今度は胸部に両手を持っていき、そこではっと我に帰る。


「何をさせるのさ!?」

「俺は何もさせてないからな!?」

「あたしが実際に確かめるように誘導したでしょ!?」

「してないって! 全然そんな意図はなかった!」

「嘘だ! 燈護君は嘘ばっかりだ!」

「ええ? 俺は何も嘘なんて……」

「ぷふっ。あっはっはっは!」


 俺たちの会話を遮るように、七星が盛大に笑い出した。俺と璃奈の視線が七星に向く。


「いやぁ、ごめんごめん。ちょっとからかっただけでこんな展開になるとは思ってなかった! 悪戯が過ぎたよ、ごめんね」

「から、かった……?」


 璃奈が首を傾げる。七星は不敵に笑い、璃奈をなだめるように言う。


「あたし、意地悪だからさ? からかってみたくなったの。あたしと燈護が付き合ってるってのは嘘。さっきラブホ見てきたのは本当だけど、なんにもやらしいことはしてないよ。ってか、誘ったのに断れちゃった」

「さ、誘った!?」

「かるーくね。ま、あたしもそこまで本気じゃなかったんだけど」

「……燈護君と、一体どういう関係なの?」

「ただのお友達、かな? ってか、まだ友達ですらないのかも」

「友達……」

「ってなわけで、あたしは燈護とデートの続きすんね。お昼奢ってもらった分、今日は残り一日恋人代行やることになってるの」

「お昼奢りで、恋人代行……?」

「あたしは別に本職じゃないから、報酬をいくらにするかなんてあたしの自由じゃん? どこに行くかも、何をするかも自由。じゃ、そゆことでー。バイバーイ」


 七星が腕を組んできて、引っ張る。

 璃奈の誤解は解けただろうけれど、そのままにしておくのは気が引けるような。


「ちょっと燈護? あたしが代行でも彼女ってことは、燈護はあたしの彼氏なんだよ? いつまでも他の女のことばっかり考えないでくれる?」

「あ、まぁ、そうだな……。ごめん。えっと、またね」


 璃奈に手を振る。璃奈からの反応はなかったが、七星がぐいぐい引っ張るので仕方なく前を向く。

 俺と璃奈は、悪く言えば友達ですらない。恋人代行とお客さん。

 璃奈の私生活には関わるべきではなくて、今ここでゆっくり話をするのもためらわれる。

 うーん……。もどかしいなぁ。

 最後にもう一度だけ振り返ると、璃奈はこちらを睨むように見据えていた。

 バカッ。

 微かに、そんな罵倒が聞こえた気がした。

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