第14.5話 side 桜庭澪
side 桜庭澪
「……私、何してんだろ」
一人暮らししている自宅に帰り、ベッドで横になって呟く。
どれだけ仲良くなろうと、犬丸燈護はあくまでお客さん。距離感は保たなければならないし、して良いこととしてはいけないことがある。
「頬とはいえ、キスなんて……」
あの瞬間、何か抑えきれないものを感じてしまった。
そんなことをしてはいけないと思いながら、止まることができなかった。
「……燈護のこと、好きなの?」
明確な恋愛感情を抱いたわけじゃない。燈護のことを考えたら胸がドキドキして……みたいなことは、ない。そういうことにしておく。そうじゃなきゃいけない。
冷静になって考えると、あれは行き過ぎた行為だし、もう一度会ったときに同じことをしたくなるかといえば、そうではないとも思う。
たった一日で、彼を好きになったわけじゃない。
好ましい人だとは思ったけれど、もしもう二度と会えなかったとしても、きっと私はすぐに彼のことを忘れて生きていく。
彼が他の誰かと付き合い始めたって、素直にお祝いできる。
彼が他の恋人代行と一緒にいたって、全然気にならない。
「……うんうん。そうだよね。雰囲気に流されて、変に気分が盛り上がっちゃっただけ。桜庭澪を演じ続けて、ちょっとだけ自分を見失っただけ」
桜庭澪は、お仕事上の名前。
私は
桜庭澪は犬丸燈護をちょっとだけ特別に感じたかもしれないけれど、愛葉未来は彼のことをただのお客さんと思っている。
今回のようなことは、二度とない。
もちろん、また犬丸燈護と会えたら楽しいだろうし、全力でおもてなしをするけれど、愛葉未来としての人生に、彼は深く関わってこない。
それでいい。……それで、いい、のかな。
「……切り替えなきゃ。私は愛葉未来。私には、私の生活がある。それに、桜庭澪としてだって、次の予定だって入ってるんだから」
来週の土曜日も、桜庭澪としての仕事が入っている。
メールで何度かやり取りした感じ、変な人ではないし、距離感もわかっていると思う。
「……燈護、利用が初めてにしては、ちゃんとしてたなぁ」
こういうお仕事をしていると、どうしても変なお客さんに当たってしまうことはある。
あくまで恋人代行でしかないのに、一時的に本当の彼女だと錯覚してしまうくらいはまだいい。仕方ない面もある。
しかし、『利用規約では禁止になっていても、本当はエッチなサービスもしてるんでしょ?』なんて言ってセクハラしてこようとする人もいる。
そういうのは即利用停止処分にしてもらうのだけれど、お客さんの中には危うい人もいるという恐怖心は植え付けられてしまう。
燈護は……全然、そんなことはなかった。自分はあくまでお客さんだとわかっていて、やって良いことといけないことをわきまえていた。その上、こっちが盛り上げようとしているときに、しっかりと乗ってきてくれて、自然と盛り上がることができた。
こっちが楽しませる立場なのに、私の方がもてなされているような気分にもなってしまった。
私が楽しいデートを演出するのではなく、二人で楽しいデートを作り上げる感覚があって、とても心地良かった。
それに……燈護が知り合いに絡まれていたとき、嬉しいことも言ってくれたっけ。
燈護は、このお仕事のことを、きちんと理解してくれていた。誤解されやすいお仕事だし、単純な誤解とは言い切れない面もあるのだけれど、燈護は私の仕事ぶりを評価してくれていた。
私が本気で頑張っていることを、わかってくれていた。
「……って、また燈護のこと考えてるし!」
燈護のことは忘れよう。ああ、でも、その前に、『今日は楽しかったよ。ありがとう』メールを送っておかないと。それと、次回があったときのため、今日何をしたのかをメモしておかなければ。メモについては、他の人とのデートと混同して変なことを口走らないよう、特に重要。
「……メール打って、メモして、それから……」
気分転換をしたい。
デート中の話題として大切だから、流行の映画、ドラマ、アニメ、配信なども観ておく方が良い。義務感で観るものもあるけれど、単純に楽しいものもたくさんあるから、気分転換には丁度いい。
「……その前に、燈護がやってるお笑い動画も観たいかなー。って、やめやめ! メールの後は、一旦燈護のことは考えない!」
メールを打って、お風呂に入って、それから途中になっていた映画の続きを観よう。そして、明日は大学があるのだから、早めに休もう。
「……おやすみ、燈護。もし呼んでくれるなら、またね」
メールを送信し、今日の出来事もあらかたメモしたら、スマホを置く。
燈護のことは、一旦忘れる。
次会うときには、単なる恋人代行とお客さん。
それでいい。そうじゃないといけない。
「……寂しくなんて、ないよ」
自分に言い聞かせるように呟いて。
「あっ」
何故だろう。不意に思い出した。
「燈護って……もしかして……あの男子か」
高校生のとき、朝の電車でよく顔を合わせる男子がいた。言葉を交わしたこともなくて、でも、存在だけは認識するようになった。
お互いに顔を知っているだけの関係で終わると思っていたのだけれど、ある日、帰りの電車でも偶々顔を合わせた。
これも何かの縁と思って、彼の隣に座ってみた。
しばらくは何も起きなくて、ただスマホを眺めて座っているだけだった。
そして、私が降りる駅に到着する、一分くらい前。
『あの、名前、訊いてもいいですか?』
話しかけられたことに驚いて彼の方を向くと、随分と顔を赤くしていた。
あ、この人、私のこと好きなんだ。
瞬間的に気づいたけど、だからって、彼と距離を縮めるつもりはなかった。ただ顔を合わせるだけで、特別な感情を抱くわけもない。
少し迷い、名前だけは教えることにした。
『
彼が満足そうに微笑んでいる間に、電車が駅に到着。私は軽く手を振って電車から降りた。彼は少し、切なそうにしていたっけ。
言葉を交わしたのは一度きり。それに、当時の私は今と雰囲気も違うから、燈護は今日、私に気づかなかったようだ。
燈護も当時と雰囲気が変わっていたから、今日会ったとき、私も彼とすぐに気づかなかった。見覚えがあるかも? と思った程度。
「実は違ったりして? うーん、でも、そうだと思うなぁ……。今度会ったら、訊いてみよう……」
この偶然に意味があるのか、ないのか。
……たぶん、ないかな。
どうだろう?
何か、意味があってほしいのだろうか?
「まぁいいや。とにかく、もう燈護のことは忘れよう」
自分に言い聞かせて、長めの溜息を一つ吐き出した。
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