第9話 カラオケ
澪とのデートは続いて、新しい靴も買い、澪が普段行くようなお店も巡回した。
澪が何かを購入することはなかったし、俺に買わせることもなかったけれど、ただ服やアクセサリーを見て回るだけで、澪はとても楽しそうだった。
「普段なら二、三時間色んなお店を渡り歩くこともあるけど、今日は流石にそれはできないね」
なんてことも言っていて、女性の買い物って本当に時間がかかるんだなぁ、と少しびっくりした。
また、おそらく俺が退屈しないように、澪は笑顔とおしゃべりを絶やさなかった。澪のことをたくさん知ることができたし、俺のこともたくさん話せて、とても楽しかった。
そして、まず間違いなく、この世界で俺のことを一番よく知っている女性は、澪になった。一時の関係だとしても、それが無性にこそばゆい。
午後一時を過ぎた頃、少し遅めの昼食を摂ることに。案内してくれたのは、少し大人な雰囲気の純喫茶『翡翠』。シックでレトロな内装で、別の時代に迷い込んだ気持ちになる。『スイーツホリック』とはまた違った意味で、俺一人だと絶対来ないようなお店だった。
「ちょっと大学生向けの雰囲気じゃなかったかな。けど、私はこういうお店も好きなんだ」
「澪にならこんなお店も似合うよ。ってか、澪に似合わないお店なんてあるのかな」
「らーめん屋さんも似合う?」
「澪がいれば、らーめん屋だって絵になる風景に変わっちゃうよ」
「調子いいんだから」
くすくす。
雰囲気に合わせ、控えめに笑う澪。良いところのお嬢様みたいだ。
ひっそりと、だけど楽しくおしゃべりしながら食事を済ませて、俺たちは喫茶店を後にする。
時刻は午後二時過ぎ。
次の予定は映画鑑賞だったのだけれど、繁華街を歩きながら、澪は言う。
「ねぇ、映画はやっぱり止めよう」
「え? どうして?」
「せっかく燈護と過ごすのが楽しいのに、二時間近くもただ黙って映画を観てるなんてもったいないよ。燈護はそう思わない?」
「……思う」
そして、そんな風に言ってもらえるだけで、胸が一杯になる。
「映画より、カラオケ行かない? 歌いたかったら歌えばいいし、話したかったら話せばいい」
「え? でも、カラオケはダメなんじゃ?」
恋人代行としての禁止事項ではないけれど、初対面の相手と個室に入ることはしない。事前にそう聞いていた。
「普通はしないよ。正直、初対面の男性と二人きりの空間は怖い。でも、燈護なら大丈夫だなって、思っちゃったから」
「……人畜無害、良い人止まりの男だからね」
「もー、すぐそうやって自分を卑下する。燈護は人を傷つけるような真似はしないし、節度もちゃんとわきまえてる。燈護はそういう優しい人。……女性に好意を持ってもらえるには十分な、魅力的な人でもあるよ」
女性にじゃなくて、澪に好意を持ってもらえたら、なお嬉しかったな。
そんな贅沢は、絶対に言えないけれど。
「ありがとう。ちょっと自信がついた」
「ん。じゃ、カラオケ行こっ」
当然のことながら、カラオケは密室の空間である。
もちろん、窓から中を覗くことはできるのでプライベートな空間とは言えない。それでも、二人しかいない状況には無性にドキドキしてしまう。
女性と二人きりで個室……っ。今までの俺の人生を思うと、天地がひっくり返るほどの衝撃である。
さらに、今は澪が俺の彼女である故、澪はごく自然に俺と隣同士で座る。手も繋いだまま。生粋の童貞たる俺は、この状況だけで卒倒しそうである。
「そんなに緊張しないでよ。カラオケなんていくらでも来たことあるでしょ?」
「あ、ありまするが……」
「なにその口調っ。変なのっ。ウブな反応がかわゆいなぁ、きみぃ」
俺の緊張を解すためか、澪が肘で俺の脇腹をぐりぐりしてくる。くすぐったさとその気安い態度に、ちょっとだけ気が緩んだ。
「……俺、ウブなもので」
「ま、燈護をからかえるほど、私も経験なんてないんだけどね、実は」
「え? そうなの? もう百戦錬磨で数々の俳優やモデルと浮き名を流してきた人なのかと……」
「なに、そのイメージ? 全然そんなんじゃないよ。俳優ともモデルとも、付き合ったことなんてない」
「そうなのか……。意外だ。すごく経験豊富に見えるのに……」
「訓練のたまものなんだよ、今の私はさ。
昔はむしろダメダメだったなぁ……。けど、私ができるようになったことだから、燈護だってできるようになるよ。必ずね」
「そうか……。澪が言うと、そうなのかもって気がする」
「うんうん。えっと、それじゃあ、歌おうか? 燈護から歌う?」
「女性の前でいきなりっていうのは恥ずかしいけど……かと言ってここで女性に先陣を切らせるのは情けないな。俺から歌うよ」
「じゃぁ、宜しく。楽しみだなぁ、燈護の歌。きっと素敵な歌声なんだろうなぁ」
「ちょっとちょっと、ハードル上げないで! 全然大したことないから!」
「とか言いつつ、実はめちゃくちゃ上手いっていうことで笑いをとるスタンスだよね?」
「違うから! 本当に!」
「まぁ、とにかく歌ってよ。私は、燈護の歌が聞きたい。たとえもし、下手だったとしても」
「うん……」
俺の歌が聞きたい……か。意図してやっているんだろうけど、ドキッとしちゃうよなぁ。他の誰でもない、俺のことを気に入ってくれている感じが嬉しいよ。
「……ちなみに、アニソンでもいいのかな」
「うん。いいよいいよ。私もアニソン好きだし」
「へぇ、そうなの? 全然そういうの聴かなそうなのに」
「今時、アニソンとそれ以外っていう区別で音楽を聴く人は少数派じゃない? アニソンでも良い曲はたくさんあるし、有名な歌手だってごく普通にアニメの主題歌を歌ってる。アニソン歌ってたら距離を置かれるなんて昔の話でしょ。……まぁ、中にはまだそういう差別意識がある人もいるかもだけどさ」
「……澪が変な意識を持ってないなら、何も気にする必要ないか」
澪の言葉に励まされ、アニメの主題歌を選曲。
有名どころを選んだおかげか、澪もその曲を知っていて、俺の歌に合わせてはしゃいでくれた。
澪は聞き手としてもとても優秀で、じっくり俺の歌に耳を傾けてくれたり、こちらを見て微笑んでくれたり、サビが終われば「今のところ良かった!」と声をかけてくれたり。
わかってる。これが澪の商売だとはわかっている。けれど、嬉しくなってしまうのはどうしようもない。
逆に、俺が聴く側になったら、澪と同じようにすれば良いのだろうな、という勉強にもなる。
学べるものは、全て学ぼう。
そして……少しでも、澪にお返しできたらいいな。
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