21話 罪と罰(前編)
「雨谷はね、相棒を
巫女服の裾を風に靡かせながら、颯爽と前を歩く黄泉雲冬月。木々の間を縫い、根っこに足を取られながら、俺はその背中をかろうじて追っていた。天には胎児のごとく沈黙を貫く世喪達威種が。そして、そのお膝元ともいえる一帯には、世喪達の壁が群れをなしていた。
その邪悪な壁を物ともせずに前進することができたのは、他ならぬ彼女の忌術の賜物だった。背中越しに淡い輝きを漏らす、八咫烏の紋章。
「多くの忌術師が家族や恋人、友人、仲間を殺され、イザナミを激しく憎悪している。それがきっかけで忌術師となり、死闘の世界に身を投じる者もいる。君が思うよりずっと、イザナミは恐怖と憎悪を向けられている存在なんだよ。『右腕』の前代未聞の大虐殺を機に、結社も青田買いとばかりに沢山の人材を引き入れようと躍起になるだろうね」
聞くに堪えない呻き声。断末魔の絶叫。
彼女がまっすぐ進む先で、海を真っ二つに割るように道が開いている。上空には神聖な白い縄に首を吊るされ、次々と息絶えて黒い瘴気と散っていく世喪達たち。その邪魔者を排除した先々で、怯んだ世喪達がさらに逃げ惑い、一本の異様な道が出来上がっていた。
──二人だけでこの人と話がしたいって……夢だったのにな、少し前までは。
かつては憧れの象徴だった、神聖な白い縄。彼女の絹のような髪の色に似たその縄が、今では己を痛めつける恐怖の象徴だ。次々と空中の絞首台へ送られる世喪達を見ても、痛快だなんてこれっぽちも感じなかった。ただただ、身の毛がよだった。
「イザナミへの確固たる憎悪……私がやつの討伐のために術師を仲間に引き入れる基準は数あるけれど、一番はそれだよ。いざやつと対峙した際、命を投げ打つ覚悟すら捨てた、己を躊躇なく使い潰すことができる者。その意味では雨谷は適任だ。けれどそれはなにも彼だけじゃない。香茱萸や式だってそうさ。式はイザナミなんていなければ結社そのものが誕生せず、あんな過酷な生い立ちを恨まずに済んだし、香茱萸については言及はあまり控えるけれど、母親が御三家の遠縁である血筋に縋るあまり、自分がイザナミを討伐するはずだったと彼女とその弟に暴力を振るうようになった。そのせいで香茱萸は自分の母親を殺す羽目になった」
「……はい、聞きました。母親を殺して、地獄……? を、見たって」
「香茱萸とはある契約を結んでいるのさ。結社の強権で罪を不問にする代わりに、私の下で働けってね。彼女にとっては飼われている気分だろう。だから私は嫌われてるってわけ」
なるほど。香茱萸の彼女に対する当たりの強さには以前から疑問だったが、そんな理由があったのか。母親を殺したという話は未だ衝撃的だったし、詳しい事情を知りたいというのが本音だったが、踏み込んではならない一線であることは重々承知しているつもりだった。
「無論、私も憎んでいるよ。イザナミという存在を……
「え……?」
背筋がぞくりとした。そして同じくらい、驚いた。その声はドスが利いていて、けれど何かを激しく悔いているようでもあったのだ。歴代最凶の忌術師がそんな弱音に近い声を漏らすだなんて、想像もしていなかった。
彼女はふと立ち止まると、ゆっくりこちらを振り返る。きっと俺はとても意外そうな顔をしていたに違いない。彼女は俺の顔を見て、ふっと苦笑したのだ。
「そんなに変かい? 歴代最凶と謳われる忌術師が私情に流され、個人の復讐心でイザナミ討伐を悲願に掲げるはずがないと? 黄泉雲家当主としての威信にかけて戦っていると? ……まさか。私だって一人のかよわい人間なんだよ」
言葉を失う俺に、彼女はやや俯き気味に背中を向けると、再び歩き始めた。その手にさっきの曲げわっぱがずっと大事そうに抱えられていたことに、今さら気づいた。
「ところで君は、イザナミを憎んでいるかい?」
「……俺は……いえ、正直わかりません」
世喪達に囲われた道の真っ只中、黄泉雲冬月の背中を追いながら、足元を睨む。
あの街で二体の化け物が暴れ、多くの命が奪われた。イザナミの名前すら知らない人たちさえ、家族や友人を奪った存在を恨んでいるだろう。だが、俺はどうだ? 他の人々や黄泉雲冬月のようにイザナミを恨めているか? ……きっと、否だ。なぜならあの大虐殺と俺の罪とは、全くの別物なのだから。俺が憎んでいるのは、自分の犯した罪なのだから。
──イザナミがあの惨劇を繰り広げた黒幕だろうが、兼人の死はそいつとは関係ない。だって、兼人が死んだのは奴らのせいじゃない。殺したのは──
「そう、辻又兼人は君が殺した。それだけが揺るぎない事実だ。だから君が憎む相手は他の誰でもない自分自身……違うかい?」
肩越しに振り返りながら、黄泉雲冬月が冷たい笑みを浮かべてきた。
胃の奥からせり上がってくる嘔吐感を、必死に堪える。口元を押さえ、焼けるような粘液をごくりと無理やり送り戻し、唾液を何度も飲み込んで不快感を押し流す。荒く大きく呼吸を繰り返して、目元に滲んだ涙を強引に手で拭い取った。
「やっぱり、強い罪の意識……か」
いつの間に前へ向き直ったのか、吐き気を抑え込んだ頃にはとっくに彼女は先へと進んでいた。意識がぼーっとしつつも、なんとか駆け足で追いつく。
「白状しよう。私もね、君のことを皆と同様に化け物だと思っているよ。ねぇ、人を襲い、殺した化け物が逃亡を図ったり、同じ過ちを重ねようとしたとき、どうすべきだと思う?」
上空で続々と縛り首となっていく世喪達らを指差しながら、彼女は淡々と尋ねた。その言葉に傷つかなかったと言えば嘘になるが、とにかく考える。
──『僕も、君みたいになれるかな』
──『誰のセリフかなんて関係ないよ! 僕は君に助けられた! 命の恩人だ! だから僕も君に支えられるだけじゃなくて、君の役に立ちたい!』
──『ヒーローに!』
「……葬ってやるべきだと思います。もう誰も、他に犠牲者を出さないように」
「そう。だからあのとき縛り首にした」
依然先頭を進みながら、彼女はかぱりと曲げわっぱを開ける。中から手に取ったもの、それは少々歪な形に握られたおにぎりだった。そんなものを何故わざわざこんな場所まで? 俺の疑問など意にも介さず、彼女は道を開きつつ黙々と口へ運んだ。
──『あなたは、食べ物もろくに手に入らず困った経験はありますか。死ぬほどの空腹を味わったことはありますか。私はありますよ……毎日そうだったから』
──『あなたにわかりますか。実の母に自分の死肉を食べろと言われる絶望が。日に日に腐る母の死体が恐ろしくて、泣きながら土に埋葬した私の恐怖が。ねえ、何で私たちは分家ってだけで差別されなきゃいけないの? 何であんな貧しい思いをしなきゃいけなかったの?』
なぜだろう。こんな時、脳裏に浮かんだのは夢で見た
しばらく互いに無言で歩き、彼女はおにぎりを食べ終えたのか、背中でよく見えなかったがとにかく曲げわっぱを閉めた。気づけば茂みを抜け、視界が開けて廃工場らしき建物に近づいていた。その真上には沈黙する世喪達威種が。確実に、標的に迫っている。
「時に君は、この世で一番恐ろしいものは何だと思う?」
この世で一番恐ろしいもの? 一体なんだってこんな時にそんな質問をしてくるんだ。おにぎりの件といい疑問は絶えなかったが……一応、答えは決まっていた。
そんなの、大事な友達を自分の手で殺してしまうことに決まって──
──『冬月様は、この世で一番恐ろしいものが何かご存じですか』
──『飢えです。飢えこそが、人を最も狂わせるのです』
「……飢え」
「やっぱりそっか。君、私の記憶に触れただろう」
不敵な笑みで、見つめられて。ぞっとした。口を滑らせてしまったことに、遅れて気づいた。
今、俺はなんと答えた? 飢えと言ったのか? まさか意識が『心臓』に乗っ取られた?
──違う! あの夢が頭から焼き付いて離れないんだ! 死に際の状況が似すぎてるせいで、あの女の子の感情をつい思い出しちまった!
まずい。今度こそ処分されるだろうか。だがこれではっきりした。あれはただの夢じゃない。過去に現実で起こったことだった。さっきの『あのとき縛り首にした』という言葉、あれは俺が夢の内容を知っているか鎌をかけてきたのだ。それにまんまと引っかかった。
くるくるとわざとらしく巫女服で風を切りながら、黄泉雲冬月は言った。
「疑問だったんだ。君が『イザナミの心臓』として本来の姿に覚醒した後、洞窟の中で私と目が合ったとき、明らかにそれまでの態度とは異なっていた。瞬時に自分の置かれた状況を理解した様子でもないし、なら何が君を変えたのかと考えたんだけど、きっかけは一つしかない。例の〝覚醒〟さ。そのとき、君は何かを見せられた……いや、『心臓』の魂がない以上、思い出したんだ。『この世から私を葬り去れ』と言い残された際、一緒に置いていかれた記憶を」
ぴたりと、回転を止めて。彼女はまっすぐ視線でこちらを射抜いてくる。むしろ楽しそうな、俺にとっては不気味でさえある笑顔で。
だらだらと冷や汗が流れる。どうする? どうする? 全部図星だ。彼女の指摘は全て正しい。記憶を置いていかれた……のかは知らないが、とにかく記憶に触れたのは事実だ。
「どんな形で、どこまで私の記憶に触れたのかだけが不明だったけど、今の反応で確信した。全て君が見た通りだよ。私が殺したんだ。私があの少女を──黄泉雲雪凪を縛り首にした」
ケラケラと響き渡る笑い声。より高く、より多く、広範囲に吊し上げられていく世喪達たち。恐ろしいまでの光景に、軽い眩暈を覚えた。
──ああ、この人の言う通り、夢でそっくり見たままだ。この人に俺たちの常識は通用しない。あの少女が最期に見たように、冷酷な忌術師なんだ。
震えが止まらない。歯の根が噛み合わない。怖い。怖い。──怖い。
「さっきの質問の答えだけど。この世で最も恐ろしいもの、それは自らの罪を暴かれることだよ。どんな人間でも些細な罪を犯している。法律の話じゃない。罪の意識……罪悪感を覚えるような行為のことさ。その罪が暴かれ、罰を与えられる以上に怖いことがあるかなぁ?」
ぐん、と右の手首を思いきり引っ張られるような感覚に襲われて。次の瞬間には身体が空へ飛んでいた。それが白い縄で手首を吊り上げられたせいだと理解したのは、ほんの数瞬の浮遊間に包まれ、身体が落下しはじめたときだった。命綱である白い縄が消えた状態で。
「わぁあああああああああっ──」
「君に特別に見せてあげるよ! 忌術師の真骨頂を! なぜ私が歴代最凶の忌術師と呼ばれているか!」
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