22話 罪と罰(後編)

 落ちる。死ぬ──そう思った直後、腹部に衝撃が当たった。丸太がぶつかったような鈍い痛み。顔をしかめながら状況を確かめると、太い木の枝にぶら下がっているらしかった。


 ──地面に叩きつけられずに済んで、これは……式さんの忌術か。


 空から落下する過程を省略した、既視感のある感覚。案の定、式さんら残りの面々が別々の木の枝の上に立ち、こちらを見下ろしていた。

 なんとか枝の上によじ登り、幹を支えに立ち上がる。地上を見下ろし、足場の枝との距離に身が竦んだ。どういう事情が知らないが、世喪達威種の近くから引き離されたらしい。


「冬月様からの合図がありましたので。お怪我がないようで何よりです」

「あんたらに待たされたせいでだいぶ世喪達が寄ってきたよ。おかげでまた忌術を酷使する羽目になった」

「なんだ、戻ってきたのか。あのままトマトみてぇに地面に真っ逆さまにぶつかりゃよかったのに」


 誰も驚いた様子がない。どうやら最初から想定内の事態だったようだ。今は世喪達の姿はないが、三人ともそれなりに手こずらされたらしい。


「あの……どうして俺は、戻されたんですか。せっかく世喪達威種の近くまで行ったのに」

「それはあの場に留まっていたらあなたが確実に死んでいたからです。故に私が忌術で」

「死んでいた?」


 意味不明な答えを返す式さんに、問い返す。あのまま世喪達威種を倒すのではなかったのか。


「それと……どうして、わざわざ木の上なんかに?」

「眺望が利くからに決まってんでしょ。あんた、やっぱりあの女から何も聞いてないのね」

「これから始まんだよ、地獄のショーが。テメェは大人しくそいつを見物してりゃいい」


 三者三様に、木の上から意味不明な回答が返ってくる。たしかにここは見晴らしがいいし、遠くにいる黄泉雲冬月の姿までかろうじて視認できるが、これから何が起きるというのだ?


 ──みんなしてあの人のことを見つめて……って、危ない!


 彼女の方へ殺到する世喪達の群れ。廃工場の屋根の上に立つ彼女は、なぜか忌術を使っていなかった。そこに到着するまでに開いたであろう世喪達の道も、すでに邪悪な能面たちに塞がれている。完全に無防備な状態で、彼女はおびただしい世喪達に包囲されつつあった。


 そして、天に鎮座する世喪達威種へと登ろうとする世喪達の山に、彼女は飲み込まれた。


「ど、どうしてみんな黙って放ってるんですか! あれじゃ──」

「ギャーギャー喚くな、ガキ。下手に近づいたらに巻き込まれるぞ」

「でも! あの人を助けない……と……?」


 一際強い、漆黒の一閃。世喪達の群れの奥から、八咫烏の紋章らしき輝きが漏出する。


 直後、目を疑った。半透明のベールが、彼女のいる場所を中心に半球状に広がり始めたのだ。そのベールは怒涛の勢いで世喪達を飲み込み、やがて巨大な壁のごとくちょうど世喪達威種の真下まで空を覆い尽くした。有象無象のみを隔離するように。その様相はさながら──


 ──『右腕』が現れたときの、あの馬鹿でかい忌譚みたいだ……


 漆黒の閃光に耐えかねたように、群がっていた世喪達が一斉に離れる。再び姿を現した彼女は、自分の首を絞めるような格好で両手を交差させながら、超然とした面持ちでその己の首元を見つめていた。禍々しいまでに光り輝く、八咫烏の紋章の漆黒を瞳に映しながら。


「忌術師ってのはな、普通、紋章に封印された世喪達の力のごく一部までしか引き出せねぇ。〝忌譚〟から転用された力、それが〝忌術〟だ。だが、中にはその力の全てを引き出せる規格外の怪物がいる。世喪達の全て……つまり〝忌譚〟を自在に操れる奴が」


 しん、と風が凪いで。揺らめいていた巫女服が、神聖なまでの純白の髪が、時が止まったように静止する。巨大なベールが、静寂に包まれる。


「とりわけ黄泉雲が宿した魂は『イザナミの骸』。うち一体、絶大な力を持つ『首』だ。その性質は罪と罰。そんじょそこいらの忌譚とは規模も質も違ぇ。とくとその目に焼き付けろ。それと覚えとけ。奴の忌譚は忌術より遙かに広範囲に敵を捕える。お前が奴の忌術の届かない場所まで逃げようなんて考えたら、アレがお前を殺すだろうよ」


 透徹した彼女の静かな声が、はっきり空気を震わせて伝わった。


「忌譚──」

「忌術解放……だっけか。ありゃお笑い種だったぜ。あんなもん、何の合図にもなりゃしねぇ。合図ってのはな、身内を危険から逃すために存在するもんだ。なぜなら──」


 ああ、なぜ気づかなかったんだろう。あの神聖な忌術も、彼女にとっては児戯に等しかったのだ。だってあれだけ騒がしかった世喪達が……今じゃ、あんなに逃げ惑っているじゃないか。


「──開帳かいちょう

「──あの中に囚われた奴は、世喪達だろうが人だろうが確実に死ぬからだ」


 地獄が、始まった。あちこちから響き渡る呻き声。苦しみだすおびただしい世喪達たち。それと同じ数の〝罪〟が、至る所で暴かれはじめた。


 忌譚を透明にしたような、無数に浮かび上がる球体。その中に描き出される、世喪達が生前に犯したであろう罪。そのかつて人だったモノたちの顛末が、情景としてありありと綴られた。


 通行人を無差別に刺し殺した者。独り身の老婆に強盗を行った者。詐欺を働いていた者。人を轢いて逃げ去った者。学校で同級生を脅して金を毟っていた者。我が子に熱湯を浴びせた者。そして、誤って友人を階段から突き落とし、死なせてしまった者。


 ──俺も、あの中に囚われたら……


 ありとあらゆる罪が暴かれ、その罪の意識に耐えかねるようにのたうち回り、苦しみ喘ぐ世喪達たち。大きな罪も、些細な罪も、全てつまびらかにされていった。


 ──兼人を殺した罪を、暴いてくれるのかな。


 やがて阿鼻叫喚の地獄に終わりが訪れ──全ての世喪達の首が、胴体から刎ねられた。球体に映し出されていた犠牲者や被害者たちが、骸骨の姿として現れて、その喉元を途轍もない力で締め上げたのだ。お前を絶対に許さないとばかりに歪んだ、恐ろしい形相で。


 ──ああ、だめだ。思い出しちまう…血まみれになった、あの兼人の生首を。


 首を刎ねられた世喪達が次々と瘴気と散り始め、球体も骸骨も幻のごとく消える。半透明のベールも地面から溶け、とうとう頂点で弾け飛んだ。世界と隔絶されていた大地に風が吹き込み、廃工場の屋根に立つ黄泉雲冬月の髪がかすかに揺れて、こちらに微笑を送ってくる。


 まさに地獄の所業。身震いを覚えた。あの光景が他人事と思えなかった。あそこに俺もいたら自分も罪を暴かれていただろう。兼人の姿をした骸骨に裁かれていた。もしそうだったら。


 ──どんなに楽だったろうな……


 ミシッ──最後に残った世喪達威種が、長い沈黙からいよいよ目覚める。それまで体内に吸収していた世喪達が消えたことに気づいたのか、巨大な能面で天を仰いだ。


〝オォオオオオオオオオオオオオォォォッ!〟


 おぞましい叫び声。それは今まで聞いたどんな世喪達の声よりも不気味で、異様だった。世喪達威種の腹に埋まった無数の能面。それらが巨大な能面と共に赤子のような泣き声を上げていたのだ。おぎゃあ、おぎゃあと、まるで水子の霊のように。


「あれが冬月様が歴代最凶と畏怖される真の所以です。では、後ほどお会いしましょう」 

「へ? なっ……わああああぁああああっ!」


 足場を失うような唐突な感覚。全身が風に包まれる。気づけば俺の身体は空を落下し、天に吼える世喪達威種の遙か真上へ転移させられていた。


「さあ、次は君の番だ」


 屋根からこちらを見上げながら、黄泉雲冬月が声を響かせる。


「痛感しただろう、罪を暴かれる恐ろしさがどんなものか。だから今度は君自身が償う番だ。己の犯した罪を。まさか──この期に及んで気づいていないとは言わせないよ」


 空中を落下しながら、世喪達威種の巨大な能面がどろりと溶け。同じく巨大な忌譚が球状に広がり始めた。それに伴い、瘴気が一層濃くなって。──ああ、やっと再会できたな。


「『イザナミの心臓』の姿に覚醒し、そいつを完膚なきまでに滅ぼしなさい。『右腕』にそうした時のように。己が生存する価値を、結社に証明するために」


 真っ暗な闇が、眼下の景色を覆っていく。の怨念が、未練が、闇とともに頭の中に伝わってくる。びゅうと風を切りながら、身体がまっすぐ暗黒の入り口へ落ちていく。


 ──そう、気づいていたさ。気づかないわけがない。親父の死体から世喪達の瘴気を感じた時と同様に、お前の遺体からも瘴気が漂っていたことに。世喪達に──なっていたことに。


「君が生み出した怪物だ。『右腕』を討伐した代償を、その汚点を、自力で精算しなさい。それで初めて結社は君を化け物ではなく、責任能力のある武器として受け入れるだろう」


 ──あの八人の被害者の写真。お前の両親に、同じ高校の制服を着た生徒たち。心のどこかで気づいていたんだ。あれがお前と最後に言葉を交わした日、暴力を振るっていた奴らだって。みんなお前の関係者で、単なる偶然なんかじゃないって。


「……何をしているんだい。早く変身しなさい。いくら相手が『骸』以下とはいえ、あの姿にならなければ君は本領を発揮できない。世喪達威種には勝てない。早く。──早く!」


 ──最初から、なんとなくわかってた。いくら他の魂と混ざってたって、その中にお前の魂があるって。もしかしたら世喪達威種の主人格かもしれないって。でも、信じたくなかったんだ。お前がこの世に強い怨念を抱いてたかもしれないなんて。ごめん、ごめんな。


「俺のせいでこんな姿にしてしまって、ごめんなさい……兼人」


 深い深い暗黒。重力に身を委ねて忌譚の奥へ沈み込む。そして、世界が閉ざされた。底知れない怨念と未練が渦巻いた、による忌譚が。 


「早く逃げて! かけ──」「逢真くん!」


 闇に飲み込まれる寸前、黄泉雲冬月の焦燥感に駆られた声が聞こえた気がした。

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忌術師は地獄に堕ちれない 猪糸コイチ @ww-koichi

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