14話 四面楚歌

 雪が、津々と降っている。音もなく、静寂に閉ざされた灰色の空の下で。

 少女が一人、立っていた。黒い巫女服に身を包んだ、純白の長い髪をした幼い少女が。


 凍えそうな寒さに、少女ははぁーっと両手に息を吐きかける。けれど、その吐息さえも凍えるようで。ただでさえボロボロで窮屈な草履ぞうりは、ここへ来るまですっかり底が擦り減ってしまって。ずっと昔に母が織ってくれた巫女服も、至る所がほつれ、穴が開いていて……孤独に締め付けられそうな心で、少女は目の前の屋敷を見上げた。


 まるで天を衝くような、見下ろされていると錯覚してしまうほどの威圧感ある屋敷だった。その周りを、果てしなく広がる塀がぐるりと囲っていて。少女が立っている前には、巨大な門が来る者を拒むように固く閉じられていた。


 恐る恐る、小さな拳が門を叩く。雪に掻き消されてしまいそうな小さな音で、何度も、何度も。両手に力が入らなくなり、諦めかけた矢先、やがて大きな音を立てて門が開いた。


 現れたのは、巫女服の少女だった。同じ純白の長い髪を伸ばした、幼い一人の少女。


「どちら様でしょう。ここが黄泉雲の本家だと心得てお越しでしょうか」


 格式張った、同じ年の頃とは思えない堅苦しい態度に、少女の身が竦む。


「あ、あの……私、黄泉雲の遠い分家の者で。母が、『自分が死んだら本家を頼りなさい』って言ってて、それで……先日、母が亡くなってしまって、ここに来ました」


 たどたどしい話し方に、相手の少女は品定めするような視線を送ってくる。立派な巫女服に、みすぼらしい巫女服。きっと見下されているだろうなと、少女は萎縮した。


「……どうぞ。お入りください」

「あ、ありがとう……ございます……」


 相手に招かれ、屋敷に中へ足を踏み入れる。バタンと、背後で勢いよく門が閉まった。


「すごく広いお庭……」


 中を見渡して、少女は圧倒された。屋敷よりも広いのではないかと思うほどの、広大な庭園。雪化粧を被った、多種多様な立派な庭木。氷の張った広い池に、その上を渡る美しい橋。そのどれもが見たこともない、自分とは縁遠い景色だった。


「あっ、す、すみません! 分家の身でとんだ無礼な真似を──」

「ううん、全然いいよ! それより、さっきは怖がらせちゃって本当にごめんね……」


 申し訳なさそうな顔で、相手の少女は両手を握ってくる。とても優しい手つきで、打って変わっておどおどした態度で。──あったかい。困惑のあまり、何も言葉を返せなかった。


「私、黄泉雲家の人間としての自覚が足りないって、お父様からいつも叱られてばかりで

さ……えへへ……だから、調子に乗ってちょっとかっこつけちゃったんだ」


 狼狽した。母からは常々、本家と分家では身分が全く違うと教えられてきた。本家は分家を同じ人間と思わず、劣等種と決めつけていると。なのに、目の前の少女はなぜかこうして謝罪している。まるでごく普通の少女のように。自分を同じ人間として扱っているように。


「ね、ねえ。君もさ、私と同い年くらいでしょ。この家って周りに誰も歳が近い子いなくてさ、ずっと寂しかったんだ。ちなみに私は八歳なの。君は?」

「え、えっと……歳は七つで、名は雪凪せつなと言います……」

「わああっ、可愛い名前! 私はね、冬月って言うの。よろしくね、雪凪ちゃん!」


 少女──冬月に手を引かれるまま、雪凪は庭の中を歩く。未だ困惑を禁じ得ないまま、主導権を握られた気持ちで。けれど心なしか……先ほどより、寒さが和らいだように感じた。


「雪凪ちゃん、私と同じ髪なんだね。知ってる? 黄泉雲の血筋で純白の髪の女児が生まれたら、最凶の忌術師になるって言い伝え。その子供には神聖な巫女服を着せよって」


 ──『雪凪、お前は最凶の忌術師になるんだよ。お前が代わりに果たすんだ。私の──』


「……どうでしょう。私は貧しいだけの、平凡な人間ですから。冬月様のお名前は聞き覚えがあります。次期当主の最有力候補だとか。私と違って、さぞ幸福な人生なのでしょうね」

「……ううん、そんなことないよ。私はむしろ雪凪ちゃんが羨ましい。いつも厳しい鍛錬ばかりで、やりたい遊びもできなくて、俗世とは関わるなって外に出ることすら許されなくて……だ、だからね? 外の世界で生きてる雪凪ちゃんが、ちょっぴり憧れなの……」


 ──『ごめんね、雪凪。いつも貧しい思いをさせて。食べる物にも事欠いて』

 ──『分家じゃなくて、本家にさえ……本家の人間にさえ生まれていれば……!』


「もう、みんな頭が固すぎるんだよ。私だってゲーム機ってものに触ったり、こんな巫女服なんか脱いで色んなおしゃれしてみたいのに。雪凪ちゃんもそう思わな──」

「冬月様」

「わっ、ご、ごめんね。話しすぎちゃったよね。私、友達いたことないから……」

「冬月様は、この世で一番恐ろしいものが何かご存じですか」

「この世で一番恐ろしいもの?」


 冬月は立ち止まり、首を捻った。


「イザナミ……じゃないの? だから黄泉雲家は代々『イザナミの血族』って呼ばれてるわけだし……」

「いいえ、違います。飢えです。飢えこそが、人を最も狂わせるのです」


 握っていた手を振りほどいて、雪凪は語った。


「あなたは、食べ物もろくに手に入らず困った経験はありますか。死ぬほどの空腹を味わったことはありますか。私はありますよ……毎日そうだったから」


 ──『もしその時が来たら、〝あれ〟の記憶が教えてくれるはずだ。どうやって──』


「私は他の誰よりも飢えの苦しみを知っています。飢えで死んだ人の苦しみも、飢えに喘いだ人の狂気も、生きながら自分の肉を人に食われた人の痛みも。人は飢えに直面したとき、野生に戻るのです。獰猛な獣へと。食らうことこそ人間の本性」


 ──『どうやって人を食うか。だから母さんが死んだその時は、私の肉をお食べ。躊躇っちゃいけないよ。お前は私の大事な娘なんだから。私で飢えを満たすんだ。そして──』


「あなたにわかりますか。実の母に自分の死肉を食べろと言われる絶望が。日に日に腐っていく母の死体が恐ろしくて、泣きながら土に埋葬した私の恐怖が。ねえ、何で私たちは分家ってだけで差別されなきゃいけないの? 何であんな貧しい思いをしなきゃいけなかったの?」


 ──『そして雪凪、お前は最凶の忌術師になるんだよ。お前が代わりに果たすんだ。私の代わりに、私たち一家を散々虐げてきた本家への復讐を!』


「答えてくれないなら……食い尽くしちゃえ! 『イザナミの──」


 直後、雪凪の身に異変が起こった。全身が軋みを上げるように、腹の中で何かが暴れているように派手に背中を仰け反らせたのだ。白目を剥いて、びくびくと痙攣を起こしながら。やがて肉を食い破って現れたのは、無数の鋭い肋骨だった。猛獣の牙のごとく鋭い肋骨。


 異形の身体が、突如巨大化して。肉という肉が蒸発すると、背骨を残して他の全ての骨が消え失せ──顕現したのは、腹から無数の牙を生やして仰け反った、巨大な骸の化け物だった。


〝オオオオォオオオオオォォッ!〟


 天地を反対に見上げるような、逆さまの巨大な能面。腕も、脚も、頭骨もない、肋骨だけが牙のように大きく開いた、後ろに反り返った巨大な背骨。純白だった髪は黒に染まり、能面から尾骨にかけて伸びたそれは、重力に従って地面にとぐろを巻きながら溢れ返っていた。


 そして、無数の牙の間に幾重にも垂れ下がった、不釣り合いなまでに神聖な注連縄しめなわ


〝キジュツ……カイホウ〟


 瞬間、巨大な顎の骨が出現し──冬月の腹を、頭から飲み込むように噛み付いた。

 よろめくでもなく、驚くでもなく、冬月は動かず立ち尽くしていた。まるで死体のように。


〝オ母サン……やっタ! ヤったヨ! 私、オ母サンの言ウ通リにデキたよ!〟


 眼前の光景に、腹の化け物──雪凪は歓喜する。このために、ここへ来たのだから。母の復讐を遂げるためだけに今まで生きてきたのだから。その目的が、一つ叶った。


〝サあ……次は本家ノ人間ヲ当主もろトモ皆殺シに──〟


 バリン──屋敷へ進もうとした、矢先。何かが砕ける音がした。逆さまの視界を戻すと、忌術で生まれた顎が粉々に散っていて。冬月が傷一つない状態でこちらを見つめていた。


 その頭上には、純白の白い縄がぐるぐると渦を巻いていて。


「便利でしょ、これ。使い方次第で何でもできるんだ。敵の攻撃を防ぐことも、敵を内側から破壊することも。それに──世喪達の首を吊るすことも」


 天地が、元にひっくり返って──能面ごと、いきなり縄に吊り上げられる。驚きのあまり、背骨と牙が黒い瘴気と消えて。純白の髪をした元の雪凪の姿に戻った。


「へえ、人に戻れるんだ。首のない敵を殺すのって初めてだから、正直その方が助かるよ」


 首に食い込む縄を掴んで、雪凪は必死に抵抗する。混乱して、じたばたと足掻いて。それでも縄は容赦なく空へ上り、身体はなす術もなく徐々に吊り上げられていった。

 かろうじて薄目を開けて、敵を睨む。だが、そこにはもうなよなよした少女の姿はなかった。冷徹な眼差しでこちらを見上げる、〝忌術師〟の姿があった。


 思い出せ。思い出せ。母の言葉を。どうして冬の寒さに耐えてまでここへ来たのか。


 ──『一緒に遊びたい? そんな暇があるなら忌術の鍛錬でも積んでな!』

 ──『ふざけるな! もう二度と本家の人間と仲直りしようなんて言うんじゃないよ!』


 ああ、そうか。やっとわかった。母は最初から自分のことなど見ていなかった。愛して、いなかった。あの人はただ、自分を都合のいい復讐の道具として利用していただけだ。


 ──せめて最後に一度くらい、お腹いっぱいご飯が食べたかったなぁ……


 真下の空に、『エ』の字の切り込みが刻まれて。忌術師の少女が握っていた両手をぱっと離すと、絞首台のごとく切り込みが開き──幼い少女はそのまま縛り首となった。


「分家や他の御三家は同じ人間と思うなってお父様から教わってるの。だからせめて安らかな夢でも見て。おやすみなさい、雪凪ちゃん」

 

 × × ×

 

「おはよう、逢真くん。ちょっと見ない間にずいぶん大きく成長したねー」


 暗闇の向こうから、俺を呼ぶ声が聞こえる。眠っていたのだろうか。とても長い夢を見ていた気がする。俺は今まで、どこで何をしていたんだっけ?

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