13話 正義の拳

 雨が降っている。街灯が、夜の公園を照らしている。


 ざあざあという音に混じって聞こえるのは、世喪達の断末魔。実に耳に心地よい、悲鳴にも似た弱々しい呻き声。たった今、忌術をぶつけた世喪達が消滅するところだった。


 楽しい。楽しい。自分より強大な化け物が苦しんで死ぬ様は。自分を虐げ、理不尽な目に遭わせた怪物に、同じ痛みをそっくり味わわせてやるのは。


 今日は大収穫だ。二時間街中を転々として、この公園で五匹目を見つけて殺した。

 でもまだ足りない。もっとだ。もっと殺したい。この程度ではまだ──


「おにぃ……何してるの」


 背後からの、声。振り返ると、街灯の下に帆晴が傘を差して立っていた。


「……お前こそ、何しに来たんだ。こんな時間に危ないだろ」「おにぃを迎えに来たんだよ」


 冷たい雨が、全身を濡らす。激しい雨音は俺たちの間を遮っているかのよう。

 帆晴はなぜか悲しい眼差しで俺を見つめていた。傘を、頼りなく支えながら。


「ねえ、私知ってるんだよ。おにぃが夜中に外で何かしてること。不良を懲らしめてるのか、誰と戦ってるのか知らないけど……日に日に飢えた獣みたいな雰囲気になってること」

「……お前には、関係のないことだ」

「あるよ。ねえ、おにぃは他の誰かを助けたくてこんなことしてるの? それとも自分の感情の捌け口を見つけたいから? お願い、本当のことを教えて」


 居心地が悪くて、つい背を向ける。それが非難や憤りの視線だったらまだどれだけ楽だっただろう。帆晴はただひたすらに、慈愛と悲しみの混じった瞳で俺を見つめていた。


「そんなの……前者に決まってるだろ」「だったらどうして、そんな怖い顔してるの」


 言われて、初めて気づいた。そして──身震いした。足元の水溜まり。そこに映る街灯に照らされた自分の顔は、悪鬼のようだった。化け物だった。まるで、憎むべき敵と同じ。


「痛みってね、誰かに与えるものじゃないの。寄り添って、分かち合うものなんだよ。だから私にも……おにぃの痛みを抱きしめさせて」


 傘を、放り出すような気配がして。ざぶざぶと雨の澱みを踏み鳴らす音が聞こえると、背中に小さな温もりがぶつかった。帆晴が、俺の身体を後ろから抱きしめていた。


 ──あったかい……


 母さんの面影を思い出した。誰よりも優しくて、一緒にいるだけで安心感に包まれた、母さんの姿を。本当に帆晴は、母さんによく似て優しい子に育った。


 ──俺には無理だ。誰かの痛みに寄り添うなんて……あのクソ親父に、味わわせてやりたい。


 父が憎い。あの理不尽な痛みを忘れ去るなんてできない。この特殊な力があればなんでもできる。あの日、俺たちを襲った、同じ理不尽な痛みの権化である化け物を葬り去ることも。


 そっと帆晴の手を振りほどいて、言った。


「俺は、味わわせてやるんだ。この世の理不尽な奴らに。俺たちが味わった痛みを」


 × × ×

 

 目を、開く。息ができない。身体に力が入らない。でも、そんなこと関係ない。

 あれは確か、三年前の出来事。忌術に目覚めて間もない頃に帆晴と交わした会話だった。


 ──あのとき、あんなことを願わなきゃ……今、こんなことにはならなかったのかな。


 後悔していた。謝りたかった。あのとき、帆晴の優しさを拒んでしまったことを。あの頃ならまだきっと引き返せたかもしれないのに。

 今ここで起きている惨劇を、仲間の苦しみをどうにかできるなら、なんだってしてやる。自分の命を差し出したって構わない。だからお願いだ。誰か……力を貸してくれ。


 ──〝まだ……死にタくないカ?〟


 なんだ? 今、急に頭の中で誰かの声が響いたような。


 ──〝君ノ人生には大キな痛みと苦難が待ッてイル。そレでもヨケれば……力ヲ与エよう〟


 違う。これは……昔の記憶だ。どうして今まで忘れていたんだ? 四年前のあの日、世喪達に殺されかけた俺は、不思議な白い人影に出会ったのだ。魂に、入り込まれた。そして。


 ──〝きっト君は、私のコトを忘れルダロウ。ソレデモ、コレダケハ覚エテイテホシイ〟


 命を吹き込まれた。開いた心臓の穴を、塞いでくれた。あの謎の白い人影が、俺に力を与えてくれたのだ。その誰かの記憶が、俺に忌術の使い方や世喪達の名を教えてくれた。


 ──モウ一度力ヲ望ムナラ、私ノ名ヲ呼ブガイイ。強イ感情ヲ込メテナ。私ノ名ハ……


 無数の骸の腕が、脚が、大勢の人々の命を奪っている。暴虐の限りを尽くしている。

 平和だった日常が、糸も容易く蹂躙される。


 ──〝コノ世カラ……ヨモ……ツ……ヲ葬リ去レ〟


 ごめんな、帆晴。あんなこと願った直後に。でも今だけは、あの化け物どもを倒すまでは、兄ちゃんの最後の過ちを許してほしい。この最悪な理不尽を終わらせるために。


「味わわせてやる……あの化け物どもに、みんなの痛みを! ──『』!」


 ──〝この世から……〝黄泉雲ヨミグモ冬月フユツキ〟を葬り去れ〟

 

 ×   ×   ×

 

「痛ってぇ……! もういいって! 失せろよ! 俺はお前をいじめた主犯なんだぞ⁉︎」

「嫌だ……相手が誰でも、絶対に見捨てない!」


 下から手をかけて、瓦礫を持ち上げる。だがいくら踏ん張っても、なかなか持ち上がってくれない。手が、腕が、痛い。指先の皮が剥けて、徐々に血が滲む。


 ──痛みって、こんなに鋭いんだ。こんなに辛いんだ。やっぱり凄いや、夏翔は。


 僕──辻又兼人が救助しようとしている相手は、さっき自分を殴ったばかりのいじめっ子だった。瓦礫に足を潰されて、身動きが取れない状態の彼と偶然すれ違ったのだ。


「なんで俺なんか助けようとすんだよ! もう一度殴られてぇのかお前は⁉︎」

「いいや、大っ嫌いだよ君なんか。でも……あああぁああああああぁっ!」


 ついに瓦礫が、持ち上がって。そのまま転がすように力任せに押し倒す。自由の身になった彼は、束の間驚きながらも、隣に転がっていた鉄筋を杖にゆっくり立ち上がった。


 そのまま、手を伸ばしてきて──反射的に竦み上がった。また、殴られるのではないかと。


「ありがとうっ……!」


 彼は涙を浮かべていた。感謝の気持ちを伝えるように、こちらに手の平を差し出しながら。

 躊躇いつつも、僕はその手を握ると。がっちりと力を込めて、両手で握り返してくれた。大粒の涙を流して、命の恩人を見るような目で。


 死ぬんじゃねぇぞと言い残し、杖を頼りに去るその背中に、つい胸が熱くなる。


 ──やっぱり、人は変われるんだ。だったら、僕だって……!


 一人でも多くの命を助けなきゃ。廃墟と化した街の中を、勢いよく走り出した。


 一時間前、病院から家に帰る途中だった僕は、突然未曾有の大惨劇に巻き込まれた。漆黒の空から生えてきた骸骨の脚が街を踏み荒らし、無数の腕が人の雨を降らせた。これが夏翔から耳にしていた忌譚というものだと、規模が異なろうがすぐにわかった。


 正直、怖かった。吐きそうだった。自分はここで死ぬんじゃないかと。あちこちで建物の下敷きになっている死体や、地面に散っている血の海と、同じ瞬間が訪れるのではないかと。

 けれど、そんな恐怖にまさったのは小っぽけな勇気だった。誰かの役に立ちたいという強い気持ちだった。僕も、夏翔みたいに大勢の人を助けられる、強い人間になりたかった。


 ──夏翔。君は知らないだろうけど、僕は君に助けられた日に人生が大きく変わったんだよ。君が僕の憧れの全てなんだ。だって、あの廃墟に呼ばれた日、僕はあいつらを──


〝アアアァアアアアアアァッ!〟


 突如、街中を揺るがすほどの大音声が響き渡る。思わず耳を塞ぎ、しゃがみ込んだ。


 ──この声、前に聞いた世喪達の断末魔と同じ……まさか三体目が⁉︎


 注連縄を纏った巨大な骸の脚と腕。その二体の怪物が現れただけで街が混乱と恐怖に陥ったというのに、もし三体目が出たのだとしたら最悪の事態だ。


 立ち上がり、急いで声のした方角へ走る。そして、絶句した。

 予想が現実のものとなった。おびただしい死体の山と建物の残骸の上空に、三体目の怪物が顕現していたのだ。二体の怪物が脚と腕なら、それはさながら〝胴〟の姿形をしていた。


 巨大な曲がった背骨と呼ぶに相応しかった。脊椎から始まり肩甲骨、肋骨が広がり、尾骨まで伸びている。それを祀るかのように、大木ほどの太さの注連縄が上から下まで幾重にも垂れ下がり、つづら折りの紙垂が風に揺れていた。それだけなら、他の二体と同じだっただろう。


 ──あのでかい能面と長い髪……世喪達の象徴だ。


 その怪物は他とは違い、能面をつけていた。いや、厳密には首も頭もないため、本来頭のあるべき箇所に浮いていると形容した方が正しいか。その巨大な能面からは長い黒髪が生え、脊椎から尾骨までをくまなく覆い、さながら尻尾の様相を呈していた。


 中途半端な、巨大な怪物と世喪達の──いや、それが人の死後の姿なら、人間との融合体。


 息を呑んでいる間に、ただ空中に浮遊するばかりだった背骨の怪物に、骸の腕が近づいてくる。忌譚から生えた腕ではない、注連縄を纏った巨大な本体の腕が。

 そいつが、なんと──忌譚の力で背骨に襲いかかった。無数の腕を空から呼び出し、能面から尾骨に至るまであちこちを殴り、叩きつけて。能面がひび割れ、肋骨が砕け落ち、空中に停滞しつつもわずかに背骨の体勢が傾く。


 世喪達が、世喪達を攻撃している? はっとしてポケットからスマホを取り出し、急いでカメラモードに切り替えた。後で夏翔に話したとき、信じてもらえないかもしれない。こんな貴重な光景、危険を冒してでも映像に残さないと。──もっと、もっと夏翔の役に立ちたい!


〝キジュツ……カイホウ〟


 怪物が謎の言語を発した直後。世界がしん、と静まり返った。あれだけ暴力の限りを尽くしていた無数の腕が全て消え、大量の脚だけが残った。相手の忌譚を奪い去ったみたいに。


 次の瞬間、目を疑った。目の前の光景が信じられなかった。

 巨大な腕の怪物が、空から降ってきた無数の腕に叩きのめされたのだ。殴られ、へし折られ、指の間から手首までを引き裂かれ。自分で自分を攻撃するように。


 ──違う! あれは……背骨の仕業だ!


 やがて腕の怪物が衰弱したように傾くと、攻撃がやみ、背骨の右側に鮮烈な漆黒の光が走った。その光は徐々にさっきの無数の腕に変貌し……一つに溶け合い、相手と同じくらい巨大な一本の右腕と化した。なんと背骨は忌譚を奪うのみならず、自在に我が物にしてみせたのだ。


〝アアアァアアアアアァアアアアアアァッ!〟


 能面の奥から叫び声を轟かせながら、弱りきった敵に勢いよく右腕を振り下ろす。その拳は相手のど真ん中に命中し、あれほど強大だった怪物に大きな穴を開けてみせた。


 胸が高鳴った。希望が湧いた。世喪達が、世喪達を倒している。その拳は、まるで正義の鉄槌で。人々の怒りを、痛みを、その一撃に込めてそっくり与え返したようだった。


 ──夏翔……?


 その戦い方は、憧れの夏翔とどこか似ていて。それまで恐ろしかった背骨の怪物が、途端にカッコよく映った。この世の理不尽と全力で戦う、希望の象徴へと。


「え?」


 敵を貫いた正義の拳は、激しい叫び声とともに、そのままこちらに迫ってきて──

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