12話 イザナミの右腕

 何も見えない。身動き一つ取れない。

 真っ暗な視界の中。建物が壊れるような凄まじい轟音と振動だけが伝わってくる。重力に逆らうような圧に身体が押し潰されそうだ。


 何が起きた? 何に捕まった? 忌術を解放しようとしたら、急に忌譚の渦の奥から巨大な白い腕が伸びてきて、驚く暇もなくそのまま全身を握られてしまった。


 ──忌譚を破ったってことは、あの世喪達たちの仕業じゃない! 何か別の……なっ──


 謎の手が、ゆっくり開いて。絶句した。眼下に広がる惨状に。自分が置かれている状況に。


 ついさっきまでいた廃ビルが、崩壊していた。屋上ごと巨大な脚に踏み潰されたみたいに。跡形もなく、無数の瓦礫の山と化して。


 巨大な手が、自分を乗せて空を進んでいた。──いや、厳密にはそれは手ではない、なんと巨大な指の骨だった。天まで遥かに聳える腕の骸骨が、大木ほどの太さもある幾重もの注連縄しめなわを纏い、つづら折りになった白い紙垂しでをなびかせながらびゅうと風を切っていたのだ。


 そして、崩壊した廃ビルのすぐ傍には、同じような外観をした巨大な一本の脚が立っていて。


 この世のものじゃない──神社を彷彿とするその神聖な衣は、邪悪な存在感を放つ骸骨とあまりにも不釣り合いで。不気味すぎるその外観は畏怖の念さえ感じられた。


 ──こいつら……は、世喪達なのか? デカすぎる。この化け物は、一体……


 何が目的なんだ? なぜ俺を連れ去る? 骸骨の腕はただ街の上空を滑るように飛ぶばかりで、俺の疑問や混乱になど答えてくれるはずもなかった。


 ──二人はどうなった? 無事なのか? と、とにかく俺も戦わないと──


 世界が、完全な無音に沈んで。街を染めていた夕空が、脚の化け物を中心にたちまち漆黒に塗り潰される。闇と呼ぶには禍々しい、なぜか街の景観がはっきり見て取れる漆黒に。

 それが光を遮るための暗闇ではなく、街を呑み込むほどの大規模な忌譚だと理解したのは、漆黒の空からおびただしい数の巨大な骸の脚が降ってきたときだった。


 ──さっきの脚の化け物……あいつがやったのか⁉︎ これが、忌譚だって……?


 家が、ビルが、車が、巨大な脚に踏み潰される。おびただしい骸の脚にぺしゃんこにされていく。至る場所で何度も何度も、ありとあらゆるものが徹底的に。


 地獄だった。言葉を失った。

 何十、何百という人々の悲鳴が響き渡っている。無数の瓦礫が宙を舞い、血飛沫が街中を染めている。逃げ惑う人が、呆然と空を見上げる人が、無残に地面のシミと化していく。


「ぶっ殺す!」


 忌術解放──こいつらが世喪達なら、忌譚を展開しているなら、俺の力は届くはずだ。


 ──この範囲なら、帆晴の病院まで被害は及んでない。安全なはずだ。だけど!


 許せない。いや、許さない。この人殺しの化けモンどもが!


「ぐっ……は……」


 猛烈な痛み。よろめいて手の上から滑り落ち、全身が風に包まれる。

 体中を蹴られたような、踏まれたような鋭い痛みだった。今まさに忌譚の脚がやっているような。それはつまり忌術の反動が返ってきたということ。相手の力が自分の力を圧倒的に上回っているということだ。足止めの役にすら、務まらないと。


 ──くそっ、やべぇ。このままじゃ地面に真っ逆さまだ! 頭から落ちて死……なない?


 ぐはっ! 背中に衝撃。肺から全ての空気が吐き出される。案の定落下はしたものの、かろうじて軽傷で済んだ。地面に落ちるまでの過程をほとんど省いたみたいな。


「夏翔!」「逢真様! ご無事ですか!」


 仰向けに倒れたまま。目の端で、円形に景色が変わる。そこから瞬間移動でもしたように駆けつけてきたのは、香茱萸と式さんだった。


「連れ去られた逢真様を私の忌術で奪還しようと、転移で追いかけながら機会を窺っていたのですが……不幸中の幸いでした。自ら飛び降られたのは賢明な判断です」

「ただの事故ですよ……けど、おかげで命拾いしました。ありがとうございます」


 なるほど。式さんの忌術で上空から地面すれすれにショートカットできたというわけか。この場に彼女がいてくれて助かった。香茱萸が差し伸べた手を借りて、ぐっと立ち上がる。


「なっ……二人ともボロボロじゃないか!」


 唖然とした。香茱萸は額から大量の血を流し、式さんに至っては左腕を骨折したのか血まみれの状態でだらりと垂らしていた。二人とも傷だらけで、見るも無惨な状態だった。


「はっ、ご心配どうも。『腕』が現れてすぐ『脚』も出現して、忌譚ごとビルが踏み潰されたからね。獅貴神が咄嗟に機転を利かせてくれなかったら今頃お陀仏だったよ……っ」

「それで転移を繰り返して、俺を助けに来てくれたのか。そんな酷い怪我まで負って……」


 気丈を装っているのだろう。香茱萸は威勢よく言い放ちながらも、完全に息を切らしていた。俺がいない間、一体どんな惨状が繰り広げられたか……想像するだに胸が苦しくなった。


「この状況を看過できるあんたじゃない。その様子だと忌術が通用しなかったんでしょ」

「……ああ、まるで効かなかった」


 沈黙に支配される。自分の無力さが情けなくて、拳を握り込んだ。


「あいつらは……一体何なんだ? 能面もなけりゃ世喪達の姿もしてない。なのにこうして街を覆い尽くすほどの忌譚を展開してる。本当に、世喪達なのか……?」


 場が、静まり返る。躊躇うような、互いに押し付け合うような、嫌な空気だった。

 先に口を開いたのは、香茱萸だった。


「……奴らは、『イザナミの右腕』と『イザナミの左脚』。正真正銘、世喪達だよ」

「は⁉︎ 右腕と左脚って……イザナミって一匹じゃないのかよ!」


 冬月さんから聞いた、世喪達の頂点に君臨する最凶最悪の大怨霊。数えきれないほどの人々を虐殺し、日本中を恐怖に陥れた正真正銘の怪物。それが、俺の知るイザナミの全容だった。

 それが今、なぜかこの街で二体も暴れ回っている。聞いた話と全然違うじゃないか。


「正確には一匹じゃないんだよ。いや、元は同じ一体だけど……とにかく説明してる暇はない。今はっきり言えるのは、奴らが紛れもなく最凶最悪の世喪達──〝イザナミ〟ってこと」


 血の気が引いた。あれが、あの化け物こそが〝イザナミ〟? 最凶最悪の世喪達?

 信じられなかった。信じたく、なかった。心のどこかでこう思っていたのだ。戦うことになるのはきっと、これから始まる忌術師としての人生の最後だろうと。訓練と実戦を積み、強さを磨き上げた果てに合間見えることになるのだろうと。


 そんな相手が、こんなにも早く──それも二体同時に。 


「逢真様、今は絶望している場合ではありません。ここはお任せを……っ……!」


 折れた左腕を震わせながら、式さんが両手を合わせる。突如、瓦礫の上に立っていた一番大きな脚の上半分が消え、隣のビルの上空へ転移した。そういえばあの一体だけ、なぜか他と違ってあの場から動かない。それに注連縄を纏っているのはあの一番大きな個体だけだ。


 ──そうか……あれが『イザナミの左脚』。混乱して基本すら忘れてた。あいつがこの忌譚の支配者なら、直接倒しちまえば他の脚も消える!


 左右に捻った両手が、ぱっと離れ──本体の脚が見事に切断された。ところが。


「っ……面目次第もありません」「いや……ありゃ到底敵わないよ」


 切断された上半分と下半分。その断面から無数の注連縄が伸びると、互いに絡み合ってたちまち元の形に合体したのだ。切れ目一つ、残さずに。──もう、どうすりゃいいんだ。


 式さんは意識を切り替えるように深くため息を吐くと、やがて俺に語った。


「あれらは……いえ、『左脚』は我々の足止め役。我々さえいなくなればおそらく去ります。即刻ここから忌譚の外へ離脱しましょう。あれらの狙いは、逢真様──あなたです」

「は⁉︎ なんで俺が? 確かに連れ去られるとこだったけど……そうだ、あの時だって! 電車で俺が見た妙にリアルな忌譚! 襲ってきた世喪達の大群! 冬月さんははぐらかしたけど、式さんたちは何か知ってるんでしょう⁉︎ 今すぐここで教えてくださいよ!」

「そのような暇はありません!」


 きっぱりと、そう言い切って。その有無を言わさぬ物言いに、俺も黙るしかなかった。


「お二人とも私に寄ってください。今すぐ遠方へ離脱します」


 不承不承、指示されるがまま式さんに近寄る。確かに今は言い争っている場合ではない。


 ──どうして俺なんだ。なぜイザナミは俺なんか狙う?


 疑問は山ほどあったが、ここは押し殺すしかない。奴らの狙いが本当に俺なら、ここから離脱すれば街に用はなくなる。足止めも無意味と気づき、攻撃をやめて去るはずだ。


 それが、街の人々が助かる唯一の道なら。


「お屋敷に戻ります……っ!」


 折れた左腕が、痛々しく震えながらゆっくりと上がり──両手が、左右に擦り合わされた。


「……式さん? まだですか……?」「そっ、そんな……もう一度! 今度は隣町へ!」


 何度も、何度も。両手が左右に捻られる。骨折の痛みを必死に堪えているのか、時折漏れる悲鳴に俺はとうとう耐えかねて、両手でそっと彼女の手を掴んだ。


「もうやめてください! きっと奴らに負わされた怪我のせいですよ。式さんは悪くない」

「いえ、そんなはずは……さっきまでは確かに忌術を使えていたんです!」


 思い返せば。二人がここまで辿り着いたのも、俺が高所から命拾いしたのも、式さんが忌術を発動できたからだ。『左脚』を切断したときも確実に使えていた。では、なぜ。


「獅貴神! 私たちを忌譚のギリギリ縁まで! 早く!」「か、かしこまりました」


 血相を変える香茱萸。即刻、俺たちは忌譚のギリギリ内側に転移した。そうか、忌譚そのものを──手首を切る仕草をすると、香茱萸は現れた血の刃で勢いよく漆黒の空を叩きつけた。


「くそっ、固すぎる!」


 だが、砕けたのは血の刃で。漆黒に蟠る空は、傷一つつかなかった。


「……逢真様、西河様。残念なご報告があります。救援を求めて冬月様に連絡を入れようと試みたのですが……繋がるどころか、圏外で電波すら入りません」


 申し訳なさそうに、式さんは圏外と表示されたスマホの画面を見せてくる。急いで自分もスマホを確認してみたが、同じく画面に表示されるのは圏外の文字だった。


「どうやらこのどデカい忌譚は、私たちを完全に孤立させたいみたいだね……」


 背筋が凍った。脱出もできない、救援も呼べない。これでは本当に陸の孤島だ。

 絶望して、街を見上げる。建物を踏み潰して回る大量の骸の脚。こだまする人々の叫び声。


 ──戦えってのか? あの二体の化け物と? 俺の忌術は役立たずなのに。


「……っ!」「そんな!」「おい……冗談、だろ?」


『右腕』が動き出した。上空から降りてくると、大地を鳴らすように勢いよく手の平を地面に打ちつけたのだ。その途端、『右腕』を中心に漆黒の空にもう一つの漆黒が重なり合って──大量の脚の間を縫って、おびただしい骸の腕が生えてきた。大地を、底から掻き回すように。


 一つの街に、二つの巨大な忌譚が溶け合った。


 人の雨が、降ってくる。空高く掘り上げられた地面ごと、聞くに恐ろしい悲鳴を響かせながら。男も、女も、子供も、老人も。そのまま、地の底に叩きつけられて──


「させません!」


 寸前、それらの人々が消え──無事に地面に降り立った。呆然と、隣を見やる。そこには決して諦めまいと、立ち向かわんと闘志を燃やす、式さんの姿があった。


「西河様は『左脚』の操り人形を。私は『右腕』の傀儡を狙います。本体でなければ我々の力でもおそらく敵うはずです。冬月様が到着されるまでのわずかな時間稼ぎですが」

「ちっ、結局はあの女頼みか……わかった請け負うよ。それまで生き残れたらの話だけど」


 式さんは頷くと、颯爽と駆け出していく。瓦礫の山を踏み締めて、次々と骸の腕を切断して回りながら。時に落下してくる人々を転移させ、多くの命を救っていった。


 一方の俺は、ただ立ち尽くすばかりで。がしっと、突然香茱萸に胸ぐらを掴まれた。


「なにぼーっと突っ立ってんのさ。らしくないじゃん! 強くなるって決めたんでしょ!」


 迫真の表情に、言葉を返せなかった。


「結社がこの異常事態に気づかないはずがない。きっとあの女が駆けつける。それまで私たちは別行動を取って、一人でも多くの命を救う。生憎子供が傷つくのを黙って見てらんない性分でね。……あんたはどうするの。どうしたいの」

「……俺だって。大勢の人が理不尽に殺されて放っとけるわけないだろ。でも、俺の忌術は届かなかった。二人みたいに応用が利くわけじゃない、俺はただ……痛みを与え返すだけだ」


 自分の原動力は、ただの怒りと憎しみで。けれどイザナミは圧倒的に自分を凌駕していて。忌術を解放したとき、感じたのだ。イザナミの邪悪の念と、凄まじい怒りと憎しみを。

 忌術も使えない自分に、一体なにができるというのか。


「……だったらひたすら逃げてな。逃げ場なんてどこにもないけど。私だってあんたに死なれたくないからね。ただそうやって、現実に目を背けて自分を憐れんでればいい」

「っ……!」


 香茱萸は俺を離すと、遠くへ去っていった。屍の山を避けて、血の刃で骸の脚に次々と斬撃を与えながら。踏み潰される寸前だった人々が、恐る恐る空を見上げて……その涙は、きっと安堵と感謝の涙だった。彼女に救われる命が、確かにそこにはあった。


 俺の周りには、血に染まった瓦礫が散乱しているばかりで。その下から、間から、いくつもの事切れた手や足が転がっていて。


 ──あの手……動いた! まだ生きてる!


 死体だと思っていた指が、ぴくりと動いた。急いで駆けつける。瓦礫に足を阻まれながら、血の海を踏み越えながら。縋る気持ちでがむしゃらに。


 下から手をかけて、瓦礫を持ち上げる。巨大な岩ほどもある建物の残骸を、渾身の力を込めて。だがいくら踏ん張っても、なかなか持ち上がってくれない。手の持ち主は瓦礫の山に囲われるように埋まっていて、これさえ避ければ助かるのに、次第に反応が薄れていく。


 手が、腕が、痛い。指先の皮が剥けて、徐々に血が滲む。


 ──痛みって、こんなに鋭いもんだったっけ……こんなに、辛いもんだっけ。


 忌譚の痛みに慣れすぎたせいで、すっかり忘れていた。現実の痛覚を。理不尽な目に遭っているのに何もできない、現実世界の無力さを。


「あああぁああああああぁっ!」


 ついに瓦礫が、持ち上がって。そのまま転がすように力任せに押し倒す。だが、もうすでに反応はなくなっていた。その人は、死んでいた。


 どこにでもいそうな、ごく普通の初老の男性だった。どこにでもある服を着て、どこにでもいそうな皺のある顔をして、どこにでもある結婚指輪を大事そうに嵌めていて。


 がっくりと、膝をついた。涙すら流れてこなかった。


 ──俺の力は、何のためにあったんだ? 大勢の人を救える力じゃなかったのか?


 知らなかった。忌術が通用しない自分が、こんなに無力だったなんて。力が使えないだけで、こんな腑抜けになるなんて。人一人、助けることもできないなんて。


 ──あんなに戦ったのに。訓練したのに。四年前から……俺は変わったはずなのに。


 ふと、帆晴の言葉が蘇る。


 ──『痛みってね、誰かに与えるものじゃないの。寄り添って、分かち合うものなんだよ。だから私にも……おにぃの痛みを抱きしめさせて』


 頬を、生暖かいものが伝う。触れてみると、それは涙だった。

 そうか。どうして今まで気づかなかったんだ。帆晴はとっくの昔に知っていたのだ。俺の心の弱さに。俺の痛みに。帆晴だけが、四年前から成長していた。


 ──ははっ……なんで勘違いしちまったんだ。俺は何も変わってない。成長してない。死んだ親父に囚われて、過去の痛みが今も忘れられないだけだ。


 ただ、不思議な力を得たというだけで、ここにいるのはどこにでもいるごく普通の子供。自分の無力さに、不甲斐なさに、乾いた笑いが喉の奥から漏れてきた。


「ぐっ……!」「あああっ!」


 我に返って、目をみはった。倒壊した建物の屋根に、香茱萸と式さんが吹っ飛んできた。二人ともボロボロになりながら、もはや身動きするのも困難な様子で。


「香茱萸! もう無茶するな!」


 香茱萸はそれでも戦おうと、己に鞭打ち起き上がろうとして。途中で力尽きて背中を打った。何度も、何度も。決して諦めまいと己自身に挑戦するように。

 駆けつけた頃には、香茱萸は意識が朦朧としており。俺の存在に気づくのにやっとだった。


「かけ……る……?」「ああ、俺だよ。もうこれ以上起き上がるな。死んじまう!」


 浅い呼吸をする香茱萸の両肩を、そっと抱き。仰向けに大人しく寝かせる。

 俺が何もできないでいた間に、誰も助けられなかった頃に、香茱萸は必死に戦った。己の命を賭けて。大事な友達が傷つく姿なんて、これ以上見ていられるわけがなかった。


「くっ……ああああっ! 痛っ……痛い、よお! 助け──きゃああああぁあああああ!」

「おいどうした! しっかりしろ香茱萸!」


 突然、香茱萸がのたうち回る。全身に激痛が走っているように、耐えかねるように叫び声を上げて。胸を上下させて喘ぎ苦しみ、痙攣を起こしながら。


 ──新しい傷も出血もない……どう考えても異常だ。忌譚とは別の現象なのか⁉︎


 その痛みはまるで彼女の内側から発生し、彼女自身を苦しめているようだった。腕に、胸に、腹に、足に。一つ一つ鋭い痛みが刻まれるようにびくりと跳ねて。その光景はまるで──


 ──見えないナイフで体中切られてるみたいだ……


「どなたか、そこにいらっしゃるのですか……誰か……お願い……見捨てないで……」


 離れて倒れている式さんが、か細い声を漏らす。急いで容態を見に行くと、彼女は両目を強く押さえながら、苦悶の表情で啜り泣いていた。


「嫌だ……消えたくない……一人は怖いの……誰か私を見て……見てよ……」


 明らかに様子がおかしい。普段の式さんらしくない。

 目が痛むのか? とにかく具合を確認しようと半ば強引に両手を引き剥がすと、怪我はおろか、傷一つなかった。なのになぜか俺の姿が全然見えていないようだった。肉体に異常はないにもかかわらず、失明と同じ症状が現れているような。


 ──二人の身に何が起きてる? どうすりゃ治ってくれるんだ?


 そのとき、俺は混乱していた。故に油断しきっていた。だから遠くから骸の腕が迫ってきても、ギリギリまで気づくことができなかった。


 腹の底に響く、衝撃。骸の手の平が、容赦なく身体を薙ぎ払ってきた。巨大な腕に比べたら、自分などハエ同然に小さな存在で。なす術もなく真後ろへ吹っ飛ばされた。


 空中を舞いながら、必死に思考を巡らせる。──苦しい。息ができない。けど、受け身さえ取れれば即死は避けられる。あの訓練が役に立った。両手で後頭部を守れば。


「あ……?」


 街の残骸に落下して、一番最初に感じたのは衝撃でも、痛みでもなかった。背後から左胸を貫く、冷たい感触だった。恐る恐る、左胸を見下ろすと。


 真っ赤に濡れた鉄筋が、自分の心臓を貫いていた。


 どくどくと、生暖かい血が溢れ出ていく。制服を染めていく。

 頭が真っ白になった。信じられなかった。目の前の光景が。我が身に起こった出来事が。


 不思議と、苦しくはなかった。痛みも感じなかった。ただひたすら、寒かった。底冷えするほどの悪寒が、脂汗とともに全身を包み込んだ。


 ああ、俺はここで死ぬのか。最期を悟って、ゆっくり瞼を下ろした。

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