10話 また、明日
「くしゅん! うぅ……誰かが私の噂した」
「き、気のせいだろ」
花瓶の花を取り替えながら、俺はベッドの帆晴にぎこちない笑顔で答えてみせる。
あれから一週間。俺はこれまでと変わらない学校生活を送りながら、香茱萸や式さんとの訓練を着々とこなしていた。飛んでくる障害物の数々は前より避けられるようになったし、異空間に落ちるトラップも事前に察知できるまでに成長した。時には香茱萸が相手になって、対人格闘も行うようになった。……当然、俺がボロ負けだが。
帆晴の容態もだいぶ安定し、俺は放課後、こうして久しぶりに病室へ面会に訪れていた。
「母さんの墓参り、残念だったな。また元気になったら一緒に行こうな」
「そうだね。お母さんに報告したいこと沢山あるし。はあー、早く外出許可下りないかなー」
ぷくーっと天井を睨みながら、帆晴はベッドの上でジタバタと布団を蹴る。
霊障の影響か、帆晴はあの電車での出来事を覚えていない。一応、急な体調不良で昏倒したとは伝えてあるが、当の本人は慣れっこなのか特に気にしていない様子。兄としてはその慣れが悪い方へ転がらないか心配だが、とにかく無事な姿が見れて安心したというのが本音だった。
「じゃあ兄ちゃんそろそろ帰るけど、本当に具合は大丈夫か?」
「大袈裟だなぁ。私なら平気だって。それよりさ、今日のおにぃなんだか生き生きしてたけどいいことでもあった? とうとう初恋の人でもできたとか? キャー!」
「ばっ……ばっか! 違ぇよ! じゃ、帰るぞ」
病室を出ようと扉を開けた、その時。
「……ねえおにぃ、暴力はだめだよ?」
手が、止まった。暴力だって? どうして今、そんな。
振り返ると、帆晴はなぜか憐れむような、慈しむような眼差しでこちらを見つめていた。
「隠し事のつもりだろうけど、バレバレだよ。だっておにぃ嘘へただもん。私が気づかないとでも思った?」
ふわりと微笑んで、帆晴は語る。
「不良をやっつけてるのか、誰と戦ってるのか知らないけど……そんな怪我じゃすぐわかるよ。危ないことしてるって」
ぎくりとして、額の絆創膏に手をやる。けれどその手の甲にも、腕にも、足にも、至るところに怪我の跡が残っていた。世喪達を殺すための訓練の、怪我が。
──『痛みってね、誰かに与えるものじゃないの。寄り添って、分かち合うものなんだよ。だから私にも……おにぃの痛みを抱きしめさせて』
古い記憶が、ふと蘇る。いつか妹と交わしたやりとりが。
「誰が憎くて、何が許せないかなんてもう聞かないけど……おにぃはただ、自分の怒りを他の誰かにぶつけたいだけじゃないの? ……お願いだから、もうそんなことやめて?」
とても悲しそうな、瞳で。まるで全て見透かされているような、逃げ出したい気分だった。
──『どうか、人の痛みがわかってあげられる大人に育ってね』
帆晴の優しい性格と面影は、母さんにそっくりだな。……父親譲りの、俺とは真逆で。
「……大丈夫だよ。危ないことなんて何もないから。もう、おやすみ」
病室の扉を閉めて、廊下を歩く。かつん、かつんと、自分の足音がやけに大きく響いた。
『おにぃはただ、自分の怒りを他の誰かにぶつけたいだけじゃないの?』──違う。そんなつもりじゃない。俺はただ、この世の理不尽が許せないだけで。
「オラッ! ヘラヘラ笑ってんじゃねぇぞゴラァ!」「気持ち悪ぃんだよ!」「いつまで耐えられるかな〜」「本番はこれからだからね〜? おら……よっとぅ!」
病院を出て、夕空の下。往来で何やら揉め事が起きていた。五、六人の高校生らしき男たちが、一人を取り囲んで殴る蹴るの暴行を繰り返していたのだ。
怒りが湧き上がった。下校や退社の時間帯、大勢の人が行き交う中で、誰もが遠巻きに眺めるか見て見ぬふりをするだけで、誰一人止めようとする者はいなかったのだ。
「おいお前ら! 何してやがる!」
駆け出していた。感情のままに、暴力沙汰の現場へと急いでいた。
──あれ? あの制服って、うちの高校のやつじゃ……
辿り着いて、驚きを隠せなかった。男たちはみんな自分と同じ高校の生徒だった。そして、そいつらから暴行を受けていたのは──
「……なに? 今いいとこなんだけど。知り合い?」「……ああ、友達だ」
「あっ……あはは……やあ、夏翔……」
兼人だった。目の周りが青あざで腫れ上がり、鼻血やら怪我やらでボロボロの兼人が、膝をついて連中に力なく笑いかけていたのだ。こんなのへっちゃらだとばかりに。
「なになに? こいつ友達いたん?」「ありえね〜こんなオタク野郎に友達なんて」「でも俺らの邪魔しに来たぜ?」「やっちゃわね? こいつも」
下衆な声が、笑みが、俺の周りを取り囲む。
知っていた──兼人が、学校でいじめを受けていることは。暴力を振るわれたり、パシリに使われたり、道化の真似事を強いられたり……クラスが違うせいで聞き及んでいる範囲でしか知らなかったが、そんな腸の煮え繰り返るような行為が以前から日常的に行われていたらしい。
それを知ったのは彼と初めて出会った日。ナイフの世喪達から助けた時だった。
あの日、彼はいじめグループから呼び出されていたのだ。人気のない廃墟へ。それも初めてのことではない。似たようなことがこれまでに何度も、何度も。
──そうか、このクズどもが兼人を……絶対に許さねえ!
拳を大きく振り上げる。ぶっ潰す。ボコボコにしてやる。俺がこいつらを──
──『……ねえおにぃ、暴力はだめだよ?』
拳が、止まった。
「調子づいてんじゃねぇぞゴラァ!」
夕空が、ひっくり返って。それが殴られたせいだと理解したのは、頬に遅れて痛みが広がり、地べたに尻から転ばされた後だった。
──くそ、痛ってぇ……あの野郎、手加減しやがったな。
連中は水が差されて興が醒めたのか、ぞろぞろと帰り出した。後に残されたのは傷だらけの兼人と、立ち向かおうとして殴り飛ばされた馬鹿だけだった。
悔しい思いを抱えながら、起き上がろうとすると。そっと手を差し伸べられた。それは痣だらけになりながらも決して笑顔を絶やさない、兼人の手だった。
「ありがとう。やっぱり夏翔は僕のヒーローだ」
「……俺は、何もできなかったよ」
その手を借りて、立ち上がる。きっと情けない、悔しさにまみれた顔に映ったことだろう。
染みるような夕日。人々の長い影が行き交う道で、短い沈黙が降りた。
「……なあ、兼人。なんでやり返さなかったんだ」
彼の受けている仕打ちが、あんな壮絶なものだとは思わなかった。あんな連中の言いなりになっているなんて。今でも震えが収まらない。怒りで、悔しさで。当事者なら尚更のはず。
なのに彼は、優しく微笑んでいる。あんな奴らには屈しないと言わんばかりに。
「あんな理不尽な目に遭わされて、どうして笑ってられるんだよ。お前が我慢しなきゃいけない道理なんてないだろ? やられたらその分やり返していいんだ!」
俺がいじめの件を教師に訴えた時もそうだった。なあなあで済ませようとするだけで解決せず、本人たちに直接殴り込もうとした。けれど兼人は、それだけはダメだと止めたのだ。
「でも夏翔だって、さっきやり返さなかったでしょ」
「それは……ちょっと躊躇っちまって」
兼人は、はぁと観念したふうに息を吐くと、真剣な面持ちで語った。
「僕だって、あいつらなんか嫌いだよ。いくら殴り返しても足りないくらい大っ嫌いだ。けど……こうも思うんだ。あいつらの真似をしてやり返すようになったら、いつか僕もあいつらみたいになるんじゃないかって。大嫌いな奴だからこそ、同じになんかなりたくないんだ」
何も、言い返せなかった。痛みと悔しさをよく知っている兼人のその言葉は、とても重くて、深く胸に突き刺さった。いや、そもそも。
──どうして俺は、反論なんかしようとしてるんだ?
「……夏翔。実は僕、ずっと君に言いたかったことがあるんだ」
折りしも、夕日が逆光になって。兼人の顔が影で隠れた。
「あの日……あいつらに廃墟に呼ばれた日、本当は僕──」
リリリリリ──着信音が兼人の言葉を遮る。こんな時にと思いながらスマホを取り出すと、画面に表示されていたのは香茱萸の名前だった。
「……いいよ。出てあげなよ」
「……悪い。すぐ終わる」
画面をタップして、電話に出る。
『招集だよ。早くも実戦に出動しろってさ』
「それ、今じゃなきゃだめなのか」
『あの女も来てる。愛想尽かされて追放されたくなきゃさっさと来な。場所は──』
淡々と場所を告げて、香茱萸は一方的に通話を切った。──いよいよ実戦、か。
「ごめん。それでなんの話だっけ」
「……ううん、また今度でいいや。ちょうど病院もすぐそこだし。怪我を診てもらうよ」
そう言って、兼人は病院に向かって歩き始める。その背中は、どこか寂しそうだった。
「……兼人! また明日学校で会おうな!」「……うん、夏翔。また明日」
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