9話 友達
脂汗が噴き出す。悪寒に全身を襲われる。視界が、ぐにゃりと歪んでいく。
なぜ。どうして──左胸を押さえながら、走馬灯のように様々な疑問が駆け巡った。
苦しい。息ができない。
痛い。痛……く、ない?
「いつまで死んだ真似してんの。ふらふらしてないでシャキッと立ちな」
ナイフを弄びながら、香茱萸はいつもの退屈そうな顔で吐き捨てる。その刃先は、なぜか血で汚れていなかった。いや、それ以前に。
──どこも刺されてない……?
血など流れていなかった。ナイフが突き立てられたはずの左胸も刺し傷は見当たらず、痛みも感じない。これはどういう……
「あの女が言った通り。危機感が足りてない。私が本物の通り魔だったらあんた死んでたよ」
ナイフの先端を、柄の中にカシャカシャと引っ込ませて。彼女は俺を蔑んだ。それは明らかに、子供がイタズラに使うおもちゃのナイフだった。
「俺を試した……のか? いや、でもだって、冬月さんは訓練は後日改めてって」
「あの女がそんな約束守ると思う? 昨日あの屋敷で話してわかったでしょ。あの女がどんな性格の持ち主か。決められた日時を守って、決められた訓練をして、なんて言うと思う?」
「……つまらない」
「正解。ってわけで結社へようこそ。あの女からは私があんたの教育係を任されたから」
おもちゃのナイフを鞄に仕舞って、香茱萸は踵を返して歩き出す。言いたいことは沢山あったが、ぐっと堪えて小さく嘆息一つすると、俺は彼女の隣に追いついて歩き始めた。
してやられた。あの人の性格を甘く見ていた。思い返せばつまらない、面白くない、ゲロ甘コーヒーを飲ませてくるのオンパレード。自己中心的でわがまま放題な性格だった。
──あの人みたいに強くはなりたいけど、性格までは絶対見習いたくないな……
止まりかけた心臓を押さえて、香茱萸の横顔をちらと覗き、尋ねる。
「これって訓練なんだろ? いつもの通学ルートだけど、このまま学校に行くのかよ」
「あんたの学校生活は尊重するようあの女から言われてる。ていうか、日常を優先して訓練と両立しろってさ。余計なことは考えないで、今ままで通りの学校生活を送ればいいんだよ」
「今まで通りの学校生活……ね」
「……そうさ」
香茱萸との歩調が、徐々にズレていく。
「えっと……昨日はありがとな、助けてくれて。混乱してて、まだお礼言ってなかった」
「別に。礼を言われる筋合いはないよ。どうせあの女から聞かされたんでしょ。私は結社の忌術師で、あんたを監視するために学校に潜入し、接触した。身柄を守るのも仕事のうち」
気まずい。とても気まずい。内心不安だったのだ。友人の香茱萸と、今まで知らなかった忌術師の香茱萸。なるべくこれまで通りに接しようと思ってはいたのだが。
──ダメだ。いざ直接会うとどうしてもぎこちなくなっちまう!
気づけば彼女は普段とは違うルートを通り、人気のない路地裏まで入っていた。
「? こんな場所になんの用だ?」
「だから、最初に言ったでしょ」
隣を歩きながら、香茱萸は突然上体を仰け反らし──
「あんたは危機感が足りてないって」
「危機感って、こんな路地裏で──ぐへぇあっ!」
顔面に衝撃。何が起こったのかもわからず、そのまま尻から地べたに転倒した。
──痛ってぇ……なんだよこれ、タライ……?
痛む鼻を押さえながら、涙目で足元に視線をやる。そこにはコントで使われるような大きな金ダライが転がっていた。こんなもの一体どこから? 前方には何もなかったぞ?
辺りを見渡すと、自分にぶつかったのと同じタライが香茱萸の後方にも落ちていた。その香茱萸はといえば、平然とした足取りで前に進み続けている。
まさかあれを避けたのか? たった一瞬で?
「さっさと起き上がらないと次が来るよ」
「次⁉︎ 次ってどこから──ぶひゃあっ!」
横顔を何かに殴られる。今度はピコピコハンマーだった。凄まじい勢いで風を切るピコピコハンマーが、どこからともなく現れて殴ってきたのだ。
一方の香茱萸は華麗にそれを躱してみせ、俺のことなどお構いなしに先を歩き続けている。
──すげぇ反射神経だな。けどこんな芸当ができるのは……いた! あそこだ!
路地を囲う建物の上からこちらを見下ろす人影。それは昨日、瞬間移動の連続で散々痛い目を見せられた和装の従者。式さんだった。この度重なる災難は彼女の仕業に違いない。
彼女は折り目正しく遠くからこちらに一礼すると、次なる獲物を手に取った。
──くそっ、休む暇も与えてくれねぇのかよ!
急いで起き上がり、闇雲に走る。どこから罠が仕掛けられるか予測できない以上、とにかくあちこちへ動き回りながら進む以外に選択肢はなかった。
「──今のあんたの弱点を教えてあげようか」
どこだ? どこから来る? 緊張に身構える中、香茱萸の冷淡な声が路地裏に響き渡る。
「──自分の力に慢心して損なっていた、臨機応変な判断力だよ」
「ひゃああああああぁっ」
ビシャア! まさかの上からだった。水が満タンに入ったバケツが、ご丁寧に逆さの状態で頭上に落ちてきたのだ。全身ずぶ濡れで呆然とする俺に──「ぎょほぇっ!」後頭部をハリセンの追撃が襲いかかる。……これもういじめじゃねえか。
「──敵がいつも同じやり方で襲ってくるとは限らない。たとえばいま頭上から落ちてきたのが世喪達だったら? 忌術を使う暇もなくいきなり上から現れたら?」
追い討ちをかけるように、香茱萸は語る。しかも、と。
「──その世喪達があんたの元父親で……その標的が妹さんだったら?」
「……!」
横から豪速球で飛んでくるサッカーボール──を、寸前で俺は受け止めた。
「そんなの……決まってんだろ!」
背後から来た花瓶を、そのまま投げたボールで打ち砕いて。
走り出す。感覚を研ぎ澄ませて。周囲をよく観察しながら。
「一つ質問──ひいっ! いいか? どうしてお前は──うわぁ! 忌術師やってんだ?」
躱す。あらゆる攻撃を。読む。あらゆる罠を。
それでも避けきれない罠は多かったが、転んででもとにかく走り続けた。
「──あんたに教えてやる義理はない……想像に任せるよ」
「ったく、秘密主義なとこは──うおぅ! 相変わらずだなぁ!」
前へ。前へ。転びながら、つまずきながら。
香茱萸は全ての罠を難なく回避している。それでも追いついた。これで、やっと。
「──私からも一つ質問。さっき父親と妹さんの話をしたとき、あんたキレたよね」
なんだ、急に? どうして今さらそんな話を。
「──これでも私は人間観察が得意なんだ。あれはどっちの怒りなの。妹さんが狙われること? それとも父親の世喪達に対して? ねえ、あんた世喪達のことを考えるとき……いつも心の奥底じゃ、父親への憎悪がチラついて離れないんじゃないの」
「なっ……」
あと少しで香茱萸の背中に追いつこうという、矢先。異次元への丸穴が開いたように、急に眼前の景色が切り替わった。その丸穴が映し出したのは、なんと香茱萸の頭頂部だった。平面を走っていたはずが、なぜか香茱萸をすぐ上空から見下ろす形になっていたのだ。
平面から、空という三次元への転換。そうか、これが瞬間移動の正体──式さんは別空間へ繋がる穴を作り出して、そこから自在に物体を転移させていたのだ。
だが今さら理解したところで遅く、俺の片足はすでに穴に踏み込んでいて。
「──あんた強くなりたいんでしょ。それは父親が憎いせい? 妹を守りたいから?」
ぐぎゃあっ! 為す術もなく穴へ転がり込んだ俺は、香茱萸の目の前に落下した。尻から着地するという醜態を晒しながら。痛みに耐え、なんとか起きあがろうとすると、
「命をかけて戦う理由。どっちか決めておかないと、いつか命取りになるよ」
喉元に、血の刃が突きつけられていた。
息を呑んだ。
こちらを見下ろす香茱萸の眼差しは、冷淡で、脅しとは思えない気迫があった。
永遠にも感じる、数瞬。先に沈黙を破ったのは香茱萸だった。
「……私にもね、弟がいるんだよ。訳あってもう何年も会えてないけど、それこそいざってとき自分の命を投げ捨てられるほど大事な弟がね」
「え……お、弟?」
訳がわからなかった。突飛な話に、ただただ困惑した。
「母ならとっくの昔に死んでる。殺されたんだ。でも悲しくはなかったよ。清々しくもなかった。あんたの父親に負けず劣らずクソ親だったからね。その父親だって顔も知らないけど。とにかく母の死後わかったことは、私たち姉弟がある御三家の遠縁だってことだった。──私は弟をこっちの世界に巻き込みたくなくて、忌術師になった。戦いから遠ざけるために」
はっとした。親に虐げられて、大事な弟を守るために戦って。それじゃまるで。
──お前が戦う理由って、俺と同じ……だったのか?
ゆっくりと、血の刃が手首に戻って。彼女は自嘲気味に笑った。
「私とよく似た境遇のばかと出会えて、くだらない毎日を一緒に過ごして……楽しかったよ。忘れた青春が戻ったみたいで。だから……あんたとは友達のままでいられると思ったのに」
今さら気づいた。今日のやたら冷たい態度、昨日の今日で唐突に打ち明けてきた身の上話。怒っているというより、悲しんでいるというより。きっと彼女は。
「ひょっとして香茱萸……拗ねてる?」
「は、はぁっ⁉︎」
素っ頓狂な声を上げ、彼女はそっぽを向く。
「そっ、そんな子供みたいな」
「でもお前、いま顔真っ赤だぞ」
香茱萸の顔は茹でダコみたいに紅潮して、羞恥も露わに火照っていた。それを指摘されてもっと恥ずかしくなったのか、ばつが悪そうに目を泳がせている。
そうか、そうだよな。香茱萸だって忌術師の前に、年頃の可愛い女の子なのだ。
「俺、正直不安だったんだ」
上体を起こし、地に視線を落とす。
「お前が俺と友達になってくれたのは、ただ任務のためだったのかなって。でも違った。昨日、死と隣り合わせのあの電車で、お前は俺に戦えって鼓舞してくれたよな。背中を託してくれた。よく考えてみりゃそんなの、普段から信頼できる相手にしか頼めないのに。……だから俺も、お前のこと信頼してる」
ゆっくりと、顔を上げて。目が合った。それは初めて見る、彼女の驚きの表情だった。
彼女が俺とよく似ているなら。あの毎日を楽しいと思ってくれたなら。不安にならないはずがないのだ。自分をまだ信頼してくれるかと。友達だと思ってくれるかと。
──『だから……あんたとは友達のままでいられると思ったのに』
香茱萸は不安だったのだろう。今までの関係が壊れてしまわないかと。
「香茱萸。今はまだ、頼りないかもしれないけど……これからも俺と、友達でいてくれる?」
手を伸ばす。彼女の方へ。迷わず、まっすぐに。
「ぷっ……ははっ……あはははは!」
一体何がおかしいのか。ひとしきり腹を抱えて笑うと、彼女は涙を拭った。
「それ、起き上がらせてもらう側の台詞じゃないでしょ」
「え?」
思い出す。そういえば、まだ地べたに尻をついた状態だった。
「ぷっ……だな」
香茱萸が手を差し伸べる。晴れやかな表情で。その手を借りて、俺はやっと立ち上がれた。
「にしてもお前、意外と可愛いとこあるのな」
直後、思いっきり右足を踏まれた。
「痛っっってえ! だからなんで足踏むんだよ!」「自分の胸に聞いてみな」
「あれ? 夏翔? おーい……ってどうしたのその怪我⁉︎ おまけにびしょ濡れじゃん!」
声の方向へ二人で振り向く。どうやって駆けつけたのか、すぐそこに兼人が立っていた。
一体どうして? 尋ねる前に、兼人は矢継ぎ早に喋り始めた。
「二人とも全然会わないから今日は一人で登校しようと思ったんだけど、たまたま夏翔の声が聞こえたから。でもその怪我。そこらじゅうに転がってるガラクタ……まさか!」
まずい。勘づかれたか? そう身構えていたら。
「西河さんを不良から助けたんだね! 凄い! 凄いよ夏翔!」
百八十度正反対の勘違いだった。
「身を挺して守るなんて! やっぱりカッコいいや夏翔は! ねえ! 西河さん!」
ウキウキの兼人に、今さら違うと言い出せない俺。呆れ顔でこちらを見つめる香茱萸。
助け舟を寄越してくれたのは、まさかの香茱萸だった。
「ああうん、そうだよ。こいつ私より強いから。ほら言ってみな、俺が助けましたって」
帆晴、兄ちゃんの心の声が届いてるか? 俺、絶対こいつより強くなってみせるよ。
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