6話 最凶

 たちまち穴が塞がる。驚きも束の間、それまで微動だにしなかった世喪達が一斉に忌譚を展開した。『記憶型』と『心象型』。狭い列車の中でいくつもの悪夢がぶつかり合い、混ざり合い、濁流のように目まぐるしく移り変わる。頭の中に無数の誰かの記憶が流れ込んでくる。


「まさ、か……っ……本当に、電車が走ってるのか⁉︎ この忌譚の中だけのっ……出来事じゃなくて? しかもこれ、段々速くなってないか⁉︎」


 先ほどの景色。それは明らかに血の刃が偽物のみならず、本物のドアまで同時に切り裂いたことを意味していた。でなければ外の景色など見えない。つまり忌譚は車両全体を包み込むように展開し、この電車そのものと一体化しているのだ。


 この車内で触れる幻のドアや床は、全て現実。無論、そのスピードも。


「ああ、最悪……この列車はたぶん暴走する忌譚そのものと化したんだ。列車ごと舞台道具の一つにされたんだよ……どこの誰の記憶で、どんな結末に至ったのかは知らないけどね」


 ぐちゃぐちゃの悪夢の向こうから、香茱萸の声が妙にはっきり響き渡った。

 誰かの記憶の結末──それはつまり、死ということ。


「ハッ! それならむしろ好都合だ! 忌術……解放!」


 そう、好都合だった。自分の力なら、この暴走を引き起こしている世喪達にそっくりそのまま忌譚を与え返し、自分達が迎えようとしている結末で逆に殺すことができる。行く手を阻む有象無象を相手にせずとも、一気にカタをつけることが可能なはずだ。──ところが。


「くっ……そっ!」


 目論見はあっけなく失敗した。消し飛ばせたのはいま自分を取り囲んでいる忌譚だけ。自分の力では一度に一つの忌譚を消すのが限界だった。しかもそれらも幾重にも重なり合い、絶えず入り乱れているため、目的の忌譚まで容易に辿り着くことができない。


 この悪夢の大洪水から抜け出すか、一つ残らず消し去るか。それしか手はないのだ。

 まるで一つの意思のもと、世喪達に遊ばれているみたいだ。


「……先に謝っとく。私の忌術じゃ力づくでこの巨大な鉄の塊を止めるなんて芸当できない。さっきみたいに穴を開ければ私たちだけなら脱出できるけど……残った乗客は全員死ぬ」

「だ、だったら急いで運転士を止めないと!」


 焼死、縊死、轢死。おびただしい痛みの奔流。支離滅裂に変化していく悪夢を一つ一つ与え返し、世喪達を葬りながら、帆晴を抱く腕に自ずと力がこもる。


「いや、そもそも意識があるかも危ういよ。狙うならやっぱりこの列車を操ってる世喪達。そいつも先頭車両か最後尾に逃げたんだろうね。ここで私たちを邪魔する敵兵が証拠さ」


 悪夢の向こうで鋭利な斬撃音と断末魔が聞こえる。きっと香茱萸も血の刃で懸命に応戦しているのだろう。忌譚の支配者に近づくべく、一匹一匹。


 だがこのままでは埒が開かない。こっちが全ての敵を駆り尽くすのが先か、それとも忌譚が結末を迎えるのが先か……刻一刻と、確実にタイムリミットは迫っているのだ。


 何か。何か他に手はないのか? こんなとき……そうだ! 前に兼人が話していた!


「安全装置は! まだ作動しないのか? こんな暴走する電車が自動で止まらないわけ──」

「まだわからないの! この列車はもう内外のどんなアプローチも受けつけない! 死に向かって過去にどこかで起きた事故を再現するだけ! 阻止するには戦うしかないんだよ!」


 さーっと、血の気が引いた。電車はますます速度を増している。


 ──不可能だ……そんなの、香茱萸が一番わかってるはずなのに。


 世喪達の猛威はとどまるところを知らず、絶えず忌譚の濁流が押し寄せてくる。自分の忌術ではそれらを一つ一つ潰すのが限界で、外に抜け出すことができない。香茱萸の攻撃範囲は知らないが、これだけの数が相手ではやはり苦戦していることだろう。


 ──それでもし、間に合わなけりゃ……


 気づけば叫び声を上げていた。忌術を見境なく解放し、感情のまま世喪達を葬っていた。


 ──〝コノ世カラ……〟


 ここでおしまいなのか? せっかく世喪達を葬る力を手に入れたのに、妹を守る力があるのに、俺たちはこんな場所で死ななきゃいけないのか?


 ──〝ヨモ……ツ……ヲ葬リ去レ〟


 嫌だ。まだ死にたくない。終わりたくない。まだ何も……成し遂げていないんだ!


「あああああああああああぁあああっ!」


 ガゴンッ──車両に衝撃が走る。


 足元が大きく揺らぎ、思わず帆晴の身を抱きしめる。最期の瞬間に、強く目を瞑った。

 もう全てどうでもよかった。死の間際に、帆晴の存在を感じていられるなら。自分が死んでも、帆晴だけは生き延びてくれるなら。


 怖い。悔しい。


 ──本当にごめんな……最後まで、兄ちゃんが守ってやるから……


 永遠のように長い時間。これが走馬灯というやつだろうか。これほど身構えているにもかかわらず、何の異変も起こらない。いつになっても死の瞬間が訪れない。


 おそるおそる、目を開く。

 そして、その目を疑った。


 全ての忌譚が消え去っている。支離滅裂に広がっていたおびただしい悪夢も、車内を真っ赤に染め上げていた夕日も。車窓に映るのはさっきまでの綺麗な青空。


 電車が、止まっている。あんなに暴走し、死を覚悟した電車が、嘘みたいに静止している。気絶した乗客たちも無傷のまま、車両のどこにもぶつかった痕跡はなかった。


 だが、何より驚いたのは。


 ──なんだ……? あの、無数の白い縄……


 それまで忌譚の裏に隠れていた、世喪達の軍勢。あれだけ猛威を振るっていたそいつらが今、必死に逃げようと抵抗している。能面の奥から苦悶の呻きを漏らしながら、宙吊りの状態で。


 奴らの自由を奪うものの正体。それは、首の辺りに巻きついた白い縄だった。無数の縄が、奴らの首をじわりじわりと絞めていたのだ。


 それらの縄は、屋根を通り抜けるように天井へと伸びていて……


「しっかりその子を抱きかかえてな!」「うああああっ!」


 いきなり香茱萸に胸ぐらを掴まれたかと思うと、視界に空が広がっていた。香茱萸は血の刃でドアを大きく切り開くと、そのまま俺を押し倒すように電車から飛び降りたのだ。


 空が次第に遠ざかり、風を切るような感覚に包まれる。

 落下している? 考える暇もなく、ほどなく背中が強い衝撃に襲われた。


「くっ……痛ってえ……」「生きてる証拠だよ。妹さんは無事?」


 香茱萸は無事に着地できたらしく、息を切らしつつも立ってこちらを見つめていた。

 急いで起き上がり、腕の中を確かめる。帆晴は依然青ざめた顔色をしているが、一応無傷だった。ほっとため息をついて、ゆっくりその身を砂利の上に横たえる。


 ──ここは……線路? 電車から飛び降りて、あれだけの距離を……落下した、のか?


 背中をさすりながら、呆然と辺りを見渡す。ここは線路の上。両脇には住宅が並んでおり、世喪達の姿はどこにもない。ひとまず助かったのは間違いないようだが。


 ──肝心の電車は、どこいった……?


「おーい。ここだよここー。君たちの命の恩人はここですよー」


 声の方角を振り返る。そして──絶句した。


 電車が、空に浮かんでいた。大木ほどの太さもある、雲まで聳える沢山の白い縄に宙吊りにされて。微かに軋みを上げながら、天高くこちらを見下ろすように。


 その上に、巫女装束の女性が一人立っていた。屋根から無数に伸びる白い縄に囲まれて、笑顔でこちらに手を振りながら。その髪は雲が霞んでしまうほどの純白で、腰の辺りまで広がっていて、その神聖なまでの白はまるで──


「よっ、香茱萸。順調みたいじゃん任務の方は」


 女性の言葉に、隣で香茱萸が睨みを返す。俺の知る限り、彼女のそんな表情は初めてだった。


「初めまして、逢真夏翔くん。君に会うのをずっと楽しみにしてたよ」


 なぜ俺の名を? 問う前に、女性は急に左手を頭上に掲げると、右手を腹の辺りで開いた。


「私は黄泉雲よみぐも──黄泉雲よみぐも冬月ふゆつき。お話の前に、まずこいつらを片付けよっか」


 直後、その両手が握り込まれる。宙に一直線を描くように。


 その手が、ゆっくり引き下げられて。電車に残っていた世喪達たちが、反対に空へと縄で吊り上げられていった。先ほど車内で首を絞められた状態のまま。


 まるで全ての縄が見えない滑車を通って、女性の両手に一つに握られているかのように。


「──よく目に焼き付けときな、夏翔。あの女こそが」


 長い髪の毛を揺らしながら、だらりと垂れた無数の能面。おびただしい呻き声。


 空に『裂け目』が現れる。それはちょうど、あの空を現像した写真に『エ』の字の切り込みを入れたように非現実的な光景で、続々と全ての世喪達の真下に展開されていった。


 それはさながら死刑囚が最後に立つ踏み板。一度開けば死が待ち受ける最後の砦。


 今さら理解した。あれは世喪達を死刑に処するための、絞首台なのだと。


「──あれが、歴代最凶の忌術師だよ」


 握っていた手を、女性が離す。


 一斉に空の裂け目が開き──全ての世喪達が、不気味な落下音とともに空中で縛り首となった。おぞましい量の黒い瘴気と散って。


 その光景を、俺は一生忘れないだろう。大勢の人の命を救い、数多の化け物を一度に葬った桁違いの強さ。そのときの俺の瞳は、心は、強い憧れに燃えていた。

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