5話 懐かしい夢の中で
目を疑った。普通、忌譚の登場人物は顔がぼやけて見ることができない。その世喪達に死をもたらした恐怖の象徴だからだ。でもこの帆晴は、顔も輪郭もはっきり見て取ることができる。
本物の──自分の記憶が再現されたみたいに。
幼い帆晴が、不審な顔でとことこ歩み寄ってくる。呆然と立ち尽くす俺に、おにぃと何度も声をかける。どうしたの、具合悪いのと。
一体何が起きている? 帆晴がいて、俺を「おにぃ」と呼んでいて……つまりこの忌譚の中で、俺は間違いなく逢真夏翔なのだ。俺は知らぬ間に死んで世喪達になっちまったのか?
「ねえ、本当にどうしたの……おにぃ、怖い顔してるよ」
その小さな手が、俺に触れて。思わず払い退けてしまった。
驚いた。帆晴の表情のリアルさに。反射的に動いた俺の手まで、幼く退化していることに。それはつまり、俺が幼い頃に戻って思い出を追体験していることを意味していた。
──待て。あの忌譚が周りごと呑み込んだなら、この帆晴が偽物だって確証はどこにもないんだ。顔がはっきり見えてる以上、帆晴本人だって可能性もありうる。……でも。
俺の忌術は相手の世喪達に対してのみ効果を発揮する。他人を巻き込んだり、周りに怪我を負わせるリスクなどない。だからその気になればいつでも解放して攻撃できる。
けれど、それでも──幼い帆晴の不安げな顔があまりにもリアルで、つい元気だった頃の姿を思い出してしまって。ほんの出来心で、その手を握ってしまった。
──あったかい……
妹の手を、両手で包み込む。頬でその体温を確かめる。
「あははっ、もうくすぐったいよー」
優しくて、愛おしくて。自分でもよくわからないけど、なんでこんな気持ちが込み上げてくるのか知らないけど──気づけば俺は、帆晴を抱きしめて泣いていた。
「ちょ……どうしたの? やっぱり具合悪いの?」「ごめん……ごめんな……っ」
夢だとわかっているのに。ただの記憶だと知っているのに。
ごめん。ごめんなさい。頼りない兄ちゃんで、いっぱい苦労かけて、年々衰弱していくお前をただ見守ることしかできなくて──本当に、ごめんなさい。
涙が止まらない。堰を切ったように、一度溢れ出した気持ちを抑えることができない。
大事な妹が入退院を繰り返す日々を送るようになって、それなのに俺には何もできなくて。とても辛くて、悔しくて。心の底からこの世を恨んだ。
その妹が、今、こうして元気に立っている。それだけで心が報われた気がした。
「夏翔〜? 帆晴が困ってるでしょ、そろそろ離してあげなさい」「かあ、さん……?」
ウェーブのかかった栗色の髪に、優しく語りかけてくるような瞳、そして、全てを許してくれるような慈愛に満ちた笑顔。俺の名前を呼んだのは、死んだはずの母さんだった。
目を瞠った。頭が真っ白になった。
けれど身体は、勝手に動いて。帆晴の身体から離れると、自ずと母さんのもとへ駆け出していた。それはきっと強いられた行動なんかじゃなくて。俺の自由意志だった。
「もう、今日の夏翔はいつもより甘えん坊さんね……ほら、おいで」
舞台はいつの間にか切り替わって、夕暮れ時の観覧車の中。俺は母さんの膝の上に乗せられて、頭を撫でられていた。
とても優しい手つきだった。その温もりを感じるだけで、穏やかな気持ちになれた。
たぶん、気のせいだと思うけど──懐かしくて、前にもこんなことがあった気がした。
「……すごく、怖い夢を見たんだ。母さんが死んで、俺と帆晴の二人きりになるんだ」
「うん、そっか……それは怖い夢だったね」
涙がじわりと滲んで。震える声で、拳を強く握りしめる。
母さんの手から伝わる温もりが、とても心地よくて。ずっと離れていたくないと思った。
「それで……っ……それでね、悲しいことが起きるんだ。父さんが……俺たちをいじめるの」
「そんなのただの夢だよ、夏翔。だってほら、お父さんならそこにいるじゃない」
舞台が、再び切り替わる。満天の星空。楽しそうに鳴り響く音楽。回るメリーゴーランド。
目の前に、父が立っていた。これから──いや、これまで俺たちを散々虐げたクソ親父が。
すぐに夢から覚めた。ここが忌譚の中だと思い出した。
代わりに怒りが込み上げてきた。腹の底から、沸々と。
──全て嘘だ。元気だった帆晴も、生きてた頃の母さんも……全部俺を騙すための偽物。俺はいつから世喪達に踊らされる軟弱者になったんだ?
二人の優しさが、懐かしい体温が、まだ肌に残っている。思わず歯噛みした。
許さない。帆晴と母さんを騙って利用したことを。何より、ずっとこのままでいたいと思ってしまった、簡単に騙されてしまった、自分自身を。
偽物の父が膝をついて俺を見つめる。幼き逢真夏翔と目線を合わせるように。
──俺を誑かすつもりだったんだろうが、ボロが出たな。最後にクソ親父を会わせるなんて。
父の目に涙が浮かぶ。くしゃくしゃの顔で俺を見つめる。でももう騙されやしない。この異常な忌譚の主が誰で、何が目的かは知らないが、罪の重さを思い知らせてやる!
「すまない……」
心臓に手を当てて。渾身の怒りを込め、俺は忌術を──
「今まで本当にすまなかった……ごめんな、夏翔」
──解放、できなかった。
できなかったのだ。父の幻に抱きしめられて。
縋りつくように泣きじゃくる、父の姿に驚いて。
ああ、そうだった。忘れていた。……いや、忘れようとしていた。
過去に一度だけ、父にこうして抱きしめられたことがある。帰りが遅い父に怯えて、今日はどんな罰が与えられるのかと震えていたら、泣きながら抱擁されたことが。
その時もこうして謝られた。ごめん、ごめんと何度も。当時は父の行動にただ困惑したが。
──そうだ……親父が変わってしまったのは、母さんが死んでからだった。
母さんが死んで、父は男手一つで俺たちを育てるようになった。まだ幼い子供二人を養うために、夜遅くまで働いて。父は時々こっそり泣いていた。母さんの死を悼んで。それでもかろうじて幸せな家庭は保たれた。けれどいつからか、仕事から帰る父の表情が険しくなっていき、平和が当たり前ではなくなった。少しずつ、歯車が狂っていった。
かつての父は……父さんは、母さんに負けないくらい優しい人で、まさに理想の家族だった。
「許さないでくれ……父さんは、お前たちに取り返しのつかないことを……」
でも、だったらどうした! 本当に罪の意識を感じていたなら、どうしてその後も我が子を虐待できた! 心を入れ替えて愛情を注がなかった!
──目を覚ませ! さっき帆晴に言ったばかりじゃないか、こんなのただの夢だって!
父の泣き声が耳に響く。謝罪の言葉と、申し訳ない思いが否応なしに伝わってくる。
気づけば、メリーゴーランドの前で帆晴と母さんが待っていた。手を振るでも、名前を呼ぶでもなく、ただ優しい眼差しでこちらの様子を見守りながら。
──目を……覚ま、せ……
俺の手が、ゆっくりと家族の方へ伸びて──「あんたの覚悟もその程度だったわけ」
バリン──突然の轟音。目の前の光景が真っ二つに裂かれ、家族の姿が幻と消える。
そのまま世界が、揺らめいて。現れたのは見知った一人の少女だった。
ストレートボブの黒髪に、どこか無関心そうな切れ長の目。それは疑いようもなく。
「
友人の西河香茱萸が、消えかかる忌譚の中でこちらを見下ろしていた。全てがどうでもよさげな眼差しで、当たり前のようにそこに立って。
一体どうやって? いや、そもそもなぜここに?
様々な疑問が渦巻く中、さっきの世喪達が断末魔を上げて彼女の背後から襲いかかった。
「危ない! 後ろ──」
ザクリ。言い終える前に、世喪達の身体を鋭利な何かが貫いた。
血の刃、だった。手首から流れた血が一瞬で刃の形に変わり、振り向くこともなく世喪達にとどめを刺したのだ。香茱萸の手首から流れた、血が。
「お前……忌術師だった、のか……?」
血の刃が液状に戻り、時を遡るようにつつーっと手首に還っていく。血痕もない、傷一つない状態に治って。困惑する俺をよそに、香茱萸はあくまで落ち着いて周囲を窺っていた。
「運転士が緊急停止をかけた……のかな。ちっ、注目を集めすぎた」
我に返り、車内を見渡す。気絶して倒れている乗客たち。隣の車両から様子を窺う野次馬。電車は知らない間に停車していて、本来通過するはずの駅の名が外に見えた。そして。
「帆晴!」
急いで妹のもとへ駆け寄る。帆晴はさっきの座席のそばで、他の乗客と同じく倒れていた。
意識がない。一応脈はある。が、霊障のせいか顔色がひどく青ざめていた。
「まずい。早く病院に運ばないと……って、香茱萸? おいどうした?」
香茱萸の様子が妙だった。肩を震わせ、顔を酷くしかめながら、手首を強く押さえていたのだ。さっき血の刃が現れた、けれど今は傷一つないはずの自分の手首を。
「っ……何でもない。とにかく面倒に巻き込まれたくない。適当な理由をつけて降りるよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
冷静に話す香茱萸に、俺は抗議する。
「少しは事情を──」
その時だった。それまで冷静だった香茱萸が、血相を変えて後ろを振り返ったのだ。
──なんだ? さっき仕留めた……世喪達?
霧と消えかかる世喪達。能面は真っ二つに砕け、髑髏の口から低い呻き声が漏れている。
──最後の抵抗……じゃない! あれは別の……っ!
理解したときには遅かった。消滅寸前の髑髏の口から、次々と新たな世喪達が吐き出されたのだ。まるで腹の中にでも隠れていたように。荒ぶる波のような勢いで。
「その子を連れて早く逃げな! くそっ、この出現の仕方は……っ」
あっという間に車両が世喪達で溢れ返る。無数の化け物が隅々に散る。
まるで地獄絵図だ──帆晴の身を抱きかかえながら、俺はただ立ち尽くすことしかできなかった。眼前を埋め尽くす世喪達の大群に、不気味に微笑む能面の群れに愕然としながら。
やがて世界が、暗闇に閉ざされて。何もかも見えなくなった。
──くそっ……目眩か、これ? 立ってるだけで精一杯だ……!
決して手放すまいと、闇の中で帆晴を抱きかかえる手に力を込める。よろめく両足に鞭を打つ。しばらくして視界が戻ると、いつの間にか車内が真っ赤な夕日に染められていた。
──時間が大幅に過ぎた……のか? でも、それにしちゃ……
車内に大きな変化はなかった。気を失っている乗客に、腕の中で昏睡状態の帆晴。両隣の車両では乗客が倒れているが、同じく気絶しているだけだろう。それに走行中の電車。そして、なぜかこちらを見つめたまま動かない世喪達の群れ。……いや、一つだけ違う!
「な、なんで! さっき停車したはずじゃ!」
思わず叫んでいた。さっき止まっていたはずの電車が、なぜか再び走っている。これほどの異常事態に見舞われて、普通に運行するなんてありえないのに。
「わかりきってること……でしょ。本当に走ってるわけじゃない。ここは忌譚の中」
苦しげな声。足元を見ると、気絶した乗客の一人だと思っていた香茱萸が、頭を押さえながら立ち上がるところだった。
「ひどい吐き気だったよ……あんたの靴が汚れなかったことに感謝しな」
「無事みたい……だな。一応」
言われてみれば内装が変化している。古いというか、少し前の電車に乗っているみたいな。
「さっさとここから出るよ。ま、出たところで、さっきと変わり映えしないだろうけど」
世喪達たちに目を配りつつ、香茱萸は忌譚を破るべくドアに歩み寄った。
その背中に、疑念がよぎる。忌譚の中でもああして自我を保てるのは、何度も経験して慣れている証拠。もはや忌術師なのは疑う余地もない。なのにずっと正体を隠していた。
彼女は俺の疑念を知ってか知らずか、いきなり手首を切るような仕草をすると、血の刃で偽りのドアを大きく切り裂いた。果たしてその隙間に映ったのは──
「なっ……」「……!」
そこに映ったのは──後方へと過ぎ去っていく外の風景。線路沿いの街並みと青空だった。
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