4話 妹

 雑居ビル、表通り、住宅街、学校……様々な景色が車窓を過ぎ去っていく。帆晴は年端のいかない少女のように座席に膝立ちしながら、それをキラキラした表情で眺めていた。


 俺たちは母さんの眠る墓地に向かうため、電車に揺られている最中だった。


 電車内はそれなりに混んでいるが、平日のせいか自分以外に学生は少ない。学校には今日休む旨を事前に伝えてある。妹のことを話したらあっさり許可してくれた。


「入院生活は退屈してないか? 欲しいものがあれば買ってくるぞ」

「え? ……あはは、聞いてなかった」


 照れ笑いしながら、帆晴はきちんと座席に座り直す。久々の遠出で浮かれているのだろう。可愛らしい私服に着替えられたその姿は、どこにでもいる普通の女の子のようだった。


「うーん、欲しいものかぁ……それって何でも?」

「財布の中身と要相談」

「ちぇーっ」


 まあそれは冗談だ。可愛い妹のためなら、多少高くてもバイトで賄うつもりだった。


「まあ、最近はスマホゲーにハマってるし、強いて言うならプリカが欲しいかな」

「可愛くない答えだな……」


 呆れた目で見つめながら、心の中で誓う。今度見舞いに訪れるときは最新のゲーム機を買っていこう。そして一緒にプレイしよう。帆晴の笑顔が、もっと見たいから。


 帆晴は四年前の出来事を覚えていない。世喪達に襲われたことも、俺が死にかけたことも。ショックのせいで曖昧な記憶しかないのだ。けど、俺はそれでいいと思う。あんな化け物がいるなんて知らなくていい。帆晴には危険とは無縁の、平和な世界にいてほしかった。


「そんなことよりさ、私はおにぃの近況が知りたいな! 学校で友達はできた? いじめられてない? しっかり者を演じつつ時々甘え上手になることが学校や職場でモテるコツだよ」

「なんで俺が暗い学校生活送ってること前提なんだよ! ていうか最後のどこで覚えた?」

「あはははは!」


 楽しそうに笑うと、帆晴は急に沈黙する。


「……おにぃはさ、自分がお母さんに誇れる人間になれたと思う? 私は……『人の痛みがわかる大人』に、なれたのかな」


 その目は、どこか遠くを見つめていた。


『どうか、人の痛みがわかってあげられる大人に育ってね』──それが母さんの口癖だった。優しくて、いつも自分より家族や他人を優先していた、病に倒れた母さんの。


 大好きだった。ちょっと悲しいことがあっても、頭を撫でられるだけで魔法みたいに優しい気持ちになれた。本当に、人の心を理解して寄り添うことが得意な人だった。

 だから胸が張り裂けるほど悲しかった。その死を受け入れられなくて、わんわん泣いた。まだ幼かった帆晴に、母さんは遠くに旅立ったんだよと言ってやるだけで精一杯だった。


「帆晴は誰より優しいし、人の痛みを理解してあげられる自慢の妹だよ。きっと母さんだって天国で誇りに思ってる」


 それに比べて、俺はどうだ。今の俺を母さんが見たらどう思う。

 妹を脅かす化け物を倒すいい兄か? 街の平和を守るヒーローか? それとも……


「覚えてる? もう何年も前にさ、みんなでこうして遊園地に行ったよね」

「え? ……ああ、母さんがまだ元気な頃か。あの日もこうして電車に揺られてたっけ」

「ジェットコースターに乗って、ウォータースライダーではしゃいで。でも絶叫系のやつはおにぃが怖がっちゃって、スタッフの人にも心配されるくらい大声で泣いたんだよね」

「あははっ、あったなそんなこと。結局母さんが俺にクレープ買ってくれて、一緒に観覧車に乗って、膝の上で頭撫でられながら夕日を眺めて。それでやっと泣き止んだんだっけ」

「そうそう! おにぃってばお母さんにべったりなんだから」


 お互い、つい笑い声が漏れる。懐かしくて目の端に涙が浮かびそうだった。

 思い返せば、あれが母さんとの最後の思い出だったような気がする。あれからしばらくして母さんが病床に伏して、外出もままならなくなってしまったから。


「そのうち帆晴が私もお母さんに甘えたかったーって愚図りだしてさ、いつの間にかいなくなって。慌てて探し回ったんだぞ? あのときは本当涙も引っ込むくらい心配したんだから」

「わっ、ちょっとやめてよー! そんな恥ずかしい記憶ずっと封印してたかったのにー!」

「さっきの仕返しだよ。それで結局どこにいたと思う? メリーゴーランド。帆晴ったら無我夢中で遊んでてさ、聞いてみたらあちこち回ってるうちに時間が経つのも忘れたらしくて、心配した俺たちの方が拍子抜けしてへたり込んだんだ──」

「ああああ!」


 両手で顔を覆い隠す帆晴。よっぽど恥ずかしかったのか、耳が真っ赤になっていた。

 ああ、なんだか楽しいな──こんな心の底から笑うこと、ずっと長い間なかった気がする。こんなに何の気兼ねもなく、他のことなど一切忘れて笑うなんて。


「……あのとき最初に私を見つけてくれたのが、お父さんだったんだよね」


 何を言っているのか、わからなかった。一瞬耳を疑った。


「迷子の呼び出しにも応えないし、他より騒がしい場所にいるんじゃないかって考えたらしいんだ。それで必死に探してくれて、私のことを心配して──」


 帆晴は何を言っているんだ? 俺たちを虐げた、あのクソ親父の話をしているのか?

 ひょっとして──帆晴の言う『みんな』には、あのクソ親父も含まれているのか?


「おにぃも覚えてるでしょ。お父さんが私を見つけてくれたとき、抱きしめてくれたんだよ。無事でよかったって。心配したんだぞって。すごく嬉しくて、温かかったな……」

「……帆晴、もうやめろ」

「でもあの頃のお父さん、すごく優しかっ──」

「それは昔の話だ!」


 車内が、しんと静まり返って。ざわめきとともに好奇の視線が注がれた。


「すまない……」「……ううん、私こそ」


 俯く帆晴に、胸が痛んだ。罪悪感に押し潰されそうだった。


 確かにあの日、あの父親もあの場にいた。迷子になった帆晴を探して、一番に抱きしめた。でも、それは過去のことだ。本当に俺たちを愛していたなら、心の底から大事に思っていたなら、どうして我が子に虐待なんかできたんだ? なぜ四年前置き去りにしたんだ?


 帆晴は夢を見ているのだ。決してありえやしない、幸せな家族の夢を。

 帆晴は優しすぎる。母さんの言葉を受け止めて、健やかに成長した。でもその優しさは時に仇となる。自分を虐げた父親を許して懐かしむなんて、あまりにも歪んでいる。


 そんなこと、決してあってはならないのだ。決して。


「……なあ、帆晴。母さんの墓前に着いたらさ、これからやりたいことを沢山話して──」


 言いかけて、気づく。車内の様子がどこかおかしい。異変に勘づいている人はまだ少ないようだが、隣の車両が妙に騒々しいのだ。

 まさか事件でもあったのだろうか。こんな日に、それだけは避けてほしいが。


 ──いや、違う。この気配は……世喪達よもつだ!


 気づいた時にはもう遅かった。〝奴〟は扉をすり抜けて勢いよくこちらに乗り込んでくると、俺たちの目と鼻の先で立ち止まった。ニタリと、能面の奥から邪悪な笑みを覗かせながら。


「帆晴! 逃げろ!」「えっ、なに? 急にどうし──」


 一面を覆い尽くす黒。暗闇が、一瞬で周りの全てを包み込む。

 何も見えない。何も聞こえない。闇の中にたった一人。他の乗客はどうしたのか、帆晴は無事なのか、それすら分からない状況だった。


 こんなことは初めてだ。移動する列車の中で世喪達に遭遇するなんて。しかも帆晴と一緒いいるとき襲われるなんて。これじゃまるで──四年前と同じだ。


 ──けど、俺はあの時と同じじゃない。お前の〝忌譚〟……そっくりお前に返してやる。


 そう、四年前の自分は無力だった。だから死にかけた。けれど今の自分には力がある。この、『忌譚をそっくりそのまま与え返す忌術』が。

 経験なら山ほど積んだ。敵を何匹も葬ってきた。今の自分なら、妹を守るなど造作もない。


「忌術……」


 視界が少しずつ晴れていく。偽りの景色がゆっくりその正体を露わにしていく。

 すぐに勝負を決めてやる。そのつもりだった。


「解──」


 果たして、眼前に広がった光景は──どこかで見覚えのあるものだった。

 観覧車に、ジェットコースター、そしてメリーゴーランド。それは紛れもなく、さっき帆晴と語り合った遊園地の風景だった。


 どういうことだ? これが『記憶型』の忌譚きたんなら、この世喪達はこの遊園地で死んだということか? そんな都合のいいことがあるだろうか。さっき話したばかりの場所が、こうもすぐに忌譚として現れるなんて。まるで、自分の記憶を覗き込まれているような……


「おにぃ! こっちこっち!」


 声の方向を、振り返る。なんとそこには、青空の下で帆晴がこちらに向かって手を振っていた。まだ幼かった頃の、霊障とも入院生活とも無縁だった昔の帆晴が。

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