2話 忌術師

 四年後──

 

 無数のナイフが、押し寄せてくる。

 前から後ろから。絶えず絶えず。ありったけの怨念を込めて。


 空は赤黒く。深淵のごとく果てしなく。周りには囲うようにゆらめく複数の人影。顔を黒く塗り潰されたその影たちが、声もなく何度も鋭利なナイフを振り下ろしてくる。


 痛い。痛い。


 身体中を刺され、貫かれ、とめどなく血が流れる。鋭利な痛みが創痕とともに増えていく。全身から力が抜けてよろめき、今にも倒れてしまいそうだ。


 ──これがお前の心の痛み。死んでも人に味わわせたい苦しみ……生前の心象風景か。


 そう、これは悪夢。人を物語の中に閉じ込め、死を強いる理不尽な非現実。

 でも痛みだけは本物で、頭に流れ込む偽りの記憶に抗う術はなくて。この悪夢に囚われたら最後、死ぬまで〝奴ら〟と同じ末路を辿る瞬間を待つしかない。


 ──けどそれは俺も同じだ。辛くて、苦しくて、死んだ方がマシだと思った。それでも人を傷つける真似はしなかった……お前らはどうだ、こんな理不尽を強いて心が痛まないのか?


 影たちの動きが止まり、束の間の静寂。全身から流れる血が制服を真っ赤に濡らし、足元はよろめき、すでに立っているだけで精一杯の状態だった。


 目の前の影が、一際高くナイフを振りかざす。最後の時が迫る。


 ──味わわせてやる……この世の理不尽な奴らに、俺が味わった痛みを!


 自分の左胸に、手を当てて──俺は強く叫んだ。


忌術きじゅつ……解放!」


 空が、漆黒に塗り替えられる。

 影たちの猛攻がやみ、どす黒い血飛沫が宙に散る。


 それはさっきまで暴虐の限りを尽くしていた、影たちから出た血だった。手にしたナイフをくるりと己へ反転させ、切っ先を自分めがけて貫き始めたのだ。

 まるで人に強いた理不尽な悪夢を今度は自分が味わわされているように。人に与えたのと同じ痛みを、まったく同じ方法でやり返されているように。


 漆黒の空に夥しい断末魔が響く。次から次へと影たちが力尽きて倒れていく。

 やがて視界を埋め尽くしていた偽りの風景がゆらめき、蜃気楼のごとく形を失い始めた。


〝アアアァアアアアアアアァ!〟


 全ての幻が消え去り、淡い光が周囲を照らす。現れたのはアスファルトの道と電車の走行音轟く高架橋。ここは郊外にある寂れた長い高架下だった。


 その奥に、悪夢の主である化け物──〝世喪達よもつ〟が絶叫をあげて悶えていた。


 象徴たる女面は剥がれ落ち。その正体の髑髏も至るところに刃物で貫かれたような穴が開き、霧と消えかかっている。長い髪を振り乱して最後の時に苦しむその様は、先ほど悪夢で己が与えた痛みをそのまま与え返されたことを如実に物語っていた。


 悪夢の中の痛みを、そっくりそのまま世喪達に与え返す──それが俺の得た〝忌術きじゅつ〟だった。


 低い呻き声を最後に、世喪達が完全に霧散する。最初から何もなかったかのように。

 それを確認してから、俺は制服の埃を払う。制服を汚していた血は綺麗さっぱりなくなり、痛みや傷跡も嘘みたいに身体のどこにも残っていなかった。あの悪夢を最後まで見届けた者は同じ死を迎える。が、逆に完結まで見届けなければただの痛みの伴う悪夢で済むのだ。


「君は、一体……」


 震えた声に、後ろを振り返る。そこには腰を抜かした青年が怯えてこちらを見上げていた。

 たしか、同じ高校の生徒だったはずだ。

 世喪達退治に郊外を探索していたら、たまたま彼が襲われている場面に遭遇したのだ。あとは悪夢の通り。彼を遠くへ押しやってから、化け物退治にまた一歩貢献した。


「君こそこの辺りは危ないよ。化け物がうろついてるから。一体何してたんだ?」

「そ、れは……は、廃墟に行って……写真を、撮ろうと思って。それより、君は何者なの?」


 怯える青年に歩み寄って、俺はその手を取った。


「俺は逢真おうま夏翔かける。街の平和を守る〝忌術師きじゅつし〟だよ」

 

 ×   ×   ×

 

 俺は靴紐を結ぶのが苦手だ。登校前、スニーカーの靴紐を締めながらふと思った。

 気の緩みだろうか。緊張感がないのか。ただ、心ここに在らずというか、自分が今いるべき場所はここでないような、そんな漠然とした感覚を抱くのだ。


 それは今朝、スマホのアラームに叩き起こされたとき。祖父母におはようと挨拶を交わすとき。日課のランニングをしているとき。朝食を食べているとき。制服に着替えるとき……


 あのクソ親父は死んだ。四年前、あの世喪達に殺されて。左胸をざっくり貫いた穴から、あのとき俺たちを置いて逃げた直後に同じ目に遭ったんだと理解した。その割に死に顔だけはとても安らかで、俺はざまあみろとも、これで自由の身になれたという気分にもなれなかった。


 その日からだ。これでいいのかというモヤモヤした気持ちが、頭の片隅から離れない。


「おう、もう出発か。夏翔かける


 振り返ると爺ちゃんが見送りに来てくれていた。シワの濃い微笑に、自然と笑い返す。


 クソ親父の死後、俺たちはその祖父母の家に引き取られた。母は優しい人だったがとっくの昔に病死したし、そのせいで向こうの祖父母や親戚とは疎遠だった。当時、一番俺たちを可愛がってくれていたのが今の祖父母で、迷惑な顔一つせず快く迎え入れてくれたのだ。

 この家に、祖父母に、俺は本当に感謝しかない。


「高校生の朝は早いんだよ。爺ちゃんはもう歳なんだから寝てていいのに」

「なにおぅ? 俺は毎朝お前よりずっと早く起きてラジオ体操してんだぞ。若いモンにはまだまだ負けねぇわ」


 ケケッと一蹴すると、爺ちゃんは急に神妙な面持ちで言った。


「そういや近頃ここいらで行方不明の事件が多いみてぇだ。物騒な世の中なんだ。夏翔も気をつけろよ」

「……うん、わかってるよ」


 きっと世喪達の仕業だ。最近奴らの動きが活発になっている。早く対処しなければ。

 覚悟を新たに靴紐を強く結び直すと、鞄を持ち、玄関の扉を開けた。


「行ってきます」「おう、今日も勉強頑張ってな」


 学校までの道を歩いていると、色々な人にすれ違う。色々なことを、考える。


 この不思議な力、忌術きじゅつに目覚めたのは四年前。あの事件で生死の境をさまよって目覚めると、病院のベッドにいた。なぜ助かったのか、どうして開いたはずの心臓の穴が塞がったのかは覚えていない。医者からは幻覚だと言われたが、間違いないのはあの日を境にこの力を得たことと、これが世喪達を倒すためだけに特化した力であるということだった。


 それは幸いなことなのだろう。俺はこの世の理不尽が許せない。他者を虐げるヤツ。日常を脅かすモノ。俺にとってその最たるものはあのとき俺たちを襲った、世喪達だった。


 奴らの正体は、死んだ人間の魂から生まれた怨霊だ。

 生前の記憶を悪夢として人に追体験させ、時に禍々しい心象風景の中に閉じ込め、最後には自分と同じ死に方に至らしめる化け物。いわゆる『記憶型』と『心象型』。


 忌まわしい生前の物語。俺は奴らの悪夢を〝忌譚きたん〟と呼んでいる。


 奴らのせいで、妹は──


「おはよ。相変わらずしけたツラしてるね」「うおおぉう!」


 心臓が飛び出るところだった。声の主は、いつの間にか隣を歩く見知った少女だった。

 西河さいが香茱萸かぐみ。綺麗に切り揃えられたストレートボブの黒髪に、どこか無関心そうな切れ長の目。身長は俺より頭一つ低くて、加えて猫背だからもっと低く見える。


「どうせまた世喪達よもつのことでも考えてたんでしょ。ずっとそんなだとそのうちハゲるよ」


 つまらなさそうにスマホをいじりながら、香茱萸は呆れたふうに、そしてさも当然のことのように語った。香茱萸は入学式の時から隣の席の、数少ない友人の一人だ。そして、俺の身の回りで世喪達が見えるさらに数少ない人物の一人でもある。


 普通の人間に世喪達は見えない。たとえば爺ちゃんなんかは気配すら感じることはできない。いわゆる霊感の有無だろう。その常人にない第六感が、奇しくも彼女には備わっていた。


「お、俺には俺の人生があるんだ。何やったって自由だろ。放課後に友達とタピ活する青春を送ろうが、夜な夜な化け物を狩りまくる青春を送ろうが俺の勝手だ」


 俺の抗議に、香茱萸はスマホから目を離さないまま嘆息した。


「いまだにタピ活とか平然と口にするあたりが流行に疎いあんたらしいわ……ま、いいけどさ。たまには他のことにも目を向けなよ」

「たとえば……なんだよ」

「まずタピ活とか恥ずかしげもなく言う前に実際に本物のタピオカを飲む」

「香茱萸って俺のことナチュラルに見下してるよね」


 彼女にはよく世喪達の件で相談に乗ってもらっている。最近はどこでよく目撃するか、それらしい事件はないか。その度に呆れられるのだが、もうすっかりご愛嬌だ。彼女も彼女でそれまで疎外感を抱いていたのか、自分にしか見えないと思っていたものが見える俺にシンパシーを感じてくれたのか、今では毎朝一緒に登校する仲になっている。


 ……にしても香茱萸のやつ、なんで俺がタピオカ飲んだことないの知ってんだ? なんて思っていると、前方で電柱にもたれかかっていた青年がこちらに気づいて駆け寄ってきた。


「おはよう夏翔! 西河さん! 何の話してたの?」


 現れたのは、いつぞやナイフの世喪達から助けた青年だった。名前は辻又つじまた兼人かねひと。あの日から命の恩人だと懐かれるようになり、こうしてよく一緒に行動することが多くなった。

 命の恩人までは……言い過ぎだと思うけど。友達が増えるのは素直に嬉しい。


 兼人の質問に、俺たちは口を揃えて答えた。


「こいつが流行に疎すぎるって話」「世喪達退治がんばろうって話」


 直後、左足に激痛が走った。


「いってえええええぇえ! おまっ……おまえなあ、いきなり人の足踏むなよ!」

「あんたが私の話を受け流したのが悪いんでしょ。ほんといつもいつも世喪達って……」

「あはは……ふ、二人は本当に仲がいいんだね」


 俺たちのやりとりに、兼人は若干引いた笑いを浮かべていた。

 彼もまた、世喪達が見える身近な人間の一人だ。あの高架下で遭遇したのが初めてらしいが、彼にも香茱萸のように時折相談に乗ってもらっていた。


「そうだ! 僕、何か役に立てればと思って技を身につけたんだ! 見てて!」


 兼人は急に鞄を地面に下ろすと、コホンと咳払いをして──キメ顔で言った。


「忌術……解放っ!」

「……」「……」


 時間が止まったようだった。兼人のキメ顔は、まだなお続いていた。

 その右手は、ちょうど心臓の位置する左胸に添えられており。しかもそのセリフは、俺がよく忌術を使う際に言うもので……要するに俺のモノマネだった。


「ぷっ……あはははは!」「……」


 目の端に涙を浮かべて爆笑する香茱萸。対して俺は、頬がだんだん熱くなるのを感じていた。


「それっ……ぷっ……かっこよすぎ! 一枚! ねえ一枚撮っていい?」

「兼人……俺のそのセリフって、そんな恥ずかしい……?」

「ええ⁉︎ かっこいいと思うよ僕は! 僕も忌術? に目覚めたらいいなぁと思って、一番身近な夏翔の真似をしてみたのさ」


 追い討ちをかけるように、兼人は純粋な瞳で語った。


「かっこいいと思うよ僕は! だから夏翔はもっと自分に自信持ちなよ! 忌術……解放っ!」


 またしてもキメ顔を作る兼人。スマホでパシャパシャしまくる香茱萸。泣きそうな俺。

 全身が熱い。今すぐ逃げ出したい気分だった。兼人の純粋な善意が、余計に心に辛かった。

 こうして俺たち三人は、仲よく遅刻したのだった。

 

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