忌術師は地獄に堕ちれない

猪糸コイチ

第一譚

1話 世喪達(ヨモツ)

夏翔かける、お前はちゃんと人の痛みがわかる大人になるんだぞ」


 ショッピングモールの片隅で、父は幼い俺の目線に合わせるようにそう言った。

 俺は妹の手を強く握り返して、思った。──このクソ親父がと。


 きっと知らない誰かが聞いたら、善良な父親の素晴らしい台詞に聞こえるだろう。けど違う。この父親は足手まといの俺たちを置いて、自分だけ逃げるつもりなのだ。


 ──死ぬのか、俺たち……? このクソ親父に散々ひどい目に遭わされといて……?


 不安に怯える妹を見つめて、周囲の壮絶な光景に立ち尽くす。


 悲鳴。泣き声。飛び交う怒声。

 みんな何かから追われるように、一心不乱に出口を目指して走っている。老人はよたよたと、親を見失った子供は泣き叫びながら一歩一歩。恐怖が、辺りを支配していた。


 発端は四時間前、父が珍しくお出かけしようと言い出したことだった。命令通り、俺たちは大人しく車に乗った。拒否するなんて選択肢はなかった。上機嫌の父に水を差したら、どんな仕打ちが待っているかわからない。三日間食事抜きの罰を与えられるかもしれない。


 安っぽいアクション映画に付き合わされ、予告に騙されたと延々と文句を聞かされ、フードコートでうどんを食わされた。父は季節限定の高いものを、俺たちは当然一番安いかけうどんを。その最中でさえ味の悪口をずっと聞かされ、気分も味も最悪だった。


 それからぶらぶら店内をうろついている頃。どこからか悲鳴が上がったかと思うと、周囲の人々が突然胸の辺りから血飛沫を噴いて倒れ始め、店全体が大きく揺れたのだ。


 そこからはパニック一色だった。俺たち一家も例外じゃなかった。何が起こったのかもわからず、何から逃げていいのかもわからないまま、とにかく命からがら必死に走った。


 そして、見えない敵がすぐそこまで迫っているらしいとわかったとき。死体の群れと血の海がすぐ目の前まで広がったとき。この父親は言ったのだ。「人の痛みがわかる大人になるんだぞ」と。薄っぺらい笑みを浮かべて。


 どうしてこの父親はこんなことが言えるんだ? 散々自分の子供を虐げておいといて、奴隷みたいにこき使っておいといて、なんで一丁前に父親面できるんだ?


 許せない。いや、許さない。


 俺は怒りと憎しみを込めて、せいぜい笑みを貼り付けて言ったのだった。


「父さんも……いつか俺たちにくれたのと同じ痛みを、味わうといいね」


 瞬間、視界が明滅した。腹に重い鈍痛が広がるのを感じながら、うずくまる。

 それが父のくれた蹴りのせいだと理解したのは、情けない姿で走り去っていく父を遠目で目撃してからだった。


「おにぃ! 大丈夫……?」妹の帆晴ほはるが涙目で駆け寄ってくる。その表情は不安と恐怖に歪んでいて、今にも泣き出しそうだった。「ごめん……ごめんね。いつもおにぃばっかり」

「ううん。俺の、方……こそ……っ」クソ親父の蹴りが思ったより効いたらしい。痣だらけの腹をさすりながら、強引に身体を起こした。「いつも頼りない兄ちゃんで、ごめん、な……」


 謝る俺に、帆晴はぶんぶん首を振ると、小さな両手で俺の右手を包み込んできた。


「いたいのいたいの、とんでけ……」


 とても、とても優しい声だった。溢れそうになる涙を、すんでのところで堪えた。


 帆晴はいつもこうだった。クソ親父に殴られたとき、罵られたとき、いつもこうして優しく寄り添ってくれた。だから耐えることができた。理不尽な暴虐の数々を。

 だから平気だった。帆晴の代わりに腹にたくさんの青あざが増えていっても。

 帆晴のためならどんな痛みも我慢できる。自分がいくらでも引き受けてやる。だから──


「なあ、帆晴? 帆晴だけ、先に逃げてほしいんだ。兄ちゃんな、腹が痛くてしばらく動けそうにないんだ。それでな、先に外に逃げて、外の大人の助けを呼んでほしいんだ」


 痛むばかりの腹を押さえながら、平静を装う。帆晴が助かるにはもうこれしかない。辺りにすでに人気はない。助けを求められる大人も。


 なら、せめて帆晴だけでも。たった一人の妹の命だけは。

 帆晴は聞き分けがいいから、こう言えば先に逃げてくれるはずだ。外の大人を探してこの建物から出られれば、きっとその大人たちが保護してくれる。


 けれど帆晴は、くしゃくしゃの泣き顔になって、大声で言うのだった。


「バカおにぃ! 私も一緒にいるよ! おにぃがここにいるんなら、私もここにいる!」

「……っ……なに、ばかなこと言って……!」


 そのとき──しん、と、空気が静まり返った。


 騒ぎが終わったわけでもない。ただならない気配が、尋常ではない何かがこちらに近づいてくることが、ぞわりと背筋から伝わってきたのだ。


 帆晴と一緒に身を寄せ合って、物陰に隠れる。

 幸い衣類コーナーだから隠れる場所はたくさんある。だが、何かに見られているような、探されているようなとても嫌な気分がした。


 怖い。今更になって、そんな当たり前の感情が込み上げてくる。


 呼吸の一つ一つが、心臓の音が、大きく耳に響くみたいだ。


 息を潜めて、互いの顔を見合わせる。震える小さな手を力強く包み込んだ。


「……大丈夫。兄ちゃんがそばにいるからな」「おにぃ……うん……っ!」


 化け物が感情の読めない顔で俺を見つめていた。


 息が、止まった。


 それは帆晴が安堵の笑みを見せた、直後の出来事だった。

 女の能面を被った、長い黒髪を床まで垂らした化け物が、すぐ目の前に立っていたのだ。老婆のように背を曲げた、手も足もない、髪の毛の塊のような能面の化け物が。


 その化け物が、今、俺の顔をすぐ間近から覗き込んでいた。


 能面がどろりと溶け落ちる。白い髑髏が姿を現す。その足元から、真っ黒い影が周囲に広がっていって……


 気づけば身体が動いていた。考えるより先に、妹の身体を力任せに向こうに押しやっていた。


 真っ黒い影が周りを包み込む。俺たちを切り離す。視界が閉ざされる直前、遠くから妹が俺の名前を呼ぶ姿が映った。それが外界の最後の景色だった。


 完全な、闇。


 手足すらその中にまぎれて、自分の輪郭を見失いそうになる。物音一つなく、自分が倒れたままなのか、立っているのか、それすらわからなくなりそうだった。 


 恐怖に、不安に、心が塗りつぶされる。


 ──何が、どうなってる? 帆晴は無事なのか? 俺は……ここで、死ぬのか?


 恐る恐る一歩踏み出そうとした、そのとき。気づいた。隣のもう一人の存在に。

 おかしい。囚われたのは俺一人だったはずだ。一体いつからそこにいた? どこの誰だ?


 顔は暗闇のせいでわからない。けれど自分より少し年下ぐらいの男の子だということはなんとなく悟った。なぜか正座した格好のまま俯いていて、そこはかとない緊張が漂っている。

 そして、一番不思議なのは、今自分が抱いている感情だった。この人影を見ていると、自分はこの子を守らないといけないような、庇ってあげなきゃいけない使命感に駆られるのだ。


 まるで、自分が帆晴に対して抱く感情と同じ──


〝おい、俺の酒を割りやがったなぁどっちだ〟


 額に鈍い衝撃が広がる。手のひらに伝わる冷気。自分のものじゃないみたいに感触を失くした、膝をそろえて折られた両足。それが土下座の姿勢だと、それも自分から頭を下げたのだと理解したのは、猛烈な恐怖感が全身を駆け巡った瞬間だった。


 ──そうだ、俺は……弟を守らなきゃいけないんだ。庇ってあげなきゃいけないんだ。


 震えながら、ゆっくり頭を上げる。暗闇はどこかに消え、そこらじゅうに空き缶の転がった、見覚えのない古くて狭い部屋が広がっていた。そこに俺と、たった一人の弟は跪いていた。


 部屋の中央に、どすん。テーブルに腰を下ろしているのは、割れた酒瓶をギラつかせながら弄ぶ一人の男だった。その顔は血塗られたように赤黒くぼやけていて、今にも酒瓶の切っ先を向けてきそうな殺気に溢れていて、恐ろしさのあまり思わず目をそらした。


 隣では弟が震えながら正座している。間違って父のお気に入りの酒を割ってしまった可哀想な弟が、蒼白な顔で俯いている。けれどその顔は、やっぱりぼやけてよく見えない。


 ──そうだった。俺は兄ちゃんだから、弟の失敗は代わりに背負わなきゃいけないんだ。


 どん、と再び額に強い衝撃。頭に血が上った父が、俺の頭を踏みつけたのだ。


 怖い。怖い。


 父があまりにも恐ろしくて、殺されるんじゃないかという恐怖で、今にも失禁しそうだった。


〝頭を下げたってこたぁ……おめえが割ったんで違いねぇんだな〟


 床に頭を踏みつけられながら、何度も頷く。弟が酒瓶を割ったとき、父は帰宅寸前の時間だった。だから咄嗟に弟から瓶を奪って、俺がやったことにしてやると強引に言い放ったのだ。


 たった一人の……そう、たった一人の大事な弟なんだから。


 ──弟……いや、違う! 俺の家族は帆晴だ! 俺の大事な家族は妹だけだ!


 悪夢にでもうなされていたみたいだ。自分でも信じられなかった。この誰とも知らない家族を、本物の家族だと思い込まされていた。その錯覚がやっと解けた。

 なのに身体は言うことを聞いてくれない。誰かの記憶をなぞっているみたいに、『兄』としてここの登場人物の振る舞いを強いられているみたいに、勝手に動いてしまう。


〝だったら何で××の服が汚れてんだ。おめえ父親に向かって嘘つくのか? ああ?〟


 男はかなり酔っ払っている。踏みつける足に力がこもる。頭が潰れそうに痛い。

 逃げなければ。こんな酔っ払いも、居もしない弟も知ったこっちゃない。これがただの悪夢だとわかったならすぐ行動しなければ。なのに。なのに身体が動いてくれない!


〝おめえが割りやがったんだな俺の酒を! ぶち殺してやる!〟


 男が酒瓶をかかげて立ち上がる。突如、身体の自由が利き、出口めがけて走り始めた。

 頭の中には恐怖と、それ以上の罪悪感。きっとこれも偽の記憶に操られているのだろう。けれど自分本来の心はこれがチャンスだと告げていた。逃げるなら絶対今しかない。


 帆晴のところに帰るんだ。俺が守る大事な家族は、帆晴だけだ!

 ふと後ろを振り返った一瞬──弟が、涙を浮かべて笑った。


〝お兄ちゃん……今まで、ごめんね〟


 心臓を、冷たいガラスが貫いた。

 ばたりと、そのまま仰向けに床に倒れる。頭が真っ白になった。


 ──なに……やってんだ、俺……? こいつを庇った……のか?


 寒い。呼吸がうまくできない。困惑と痛みが心と身体をぐちゃぐちゃになって襲う。


 二つの人影と古ぼけた部屋が、幻のようにゆらめいて消え去る。気づけば視界にはショッピングモールの天井。帆晴が俺の名前を呼ぶ声。そして、こちらを見下ろす能面の化け物。

 胸から溢れ出して止まらない血だけが、さっきの悪夢をありのまま再現していた。


 あの悪夢は何だったんだ? 脳みそが働かない。意識が少しずつ遠のいていく。

 化け物がこちらに背を向けて、関心をなくしたふうに歩き出す。


 だめだ。そっちは、帆晴のいる方だ。

 わかっているのに、ここで動けなきゃ嘘なのに、死の予感に全身を支配される。


『ごめん……ごめんね。いつもおにぃばっかり』──偽物の弟が謝るように笑ったあの瞬間、脳裏に浮かんだのは妹の姿だった。父親から理不尽に虐げられるあの光景に、自分たち二人の生い立ちが重なって見えた。ただただ理不尽に耐え忍ぶしかない、自分と妹の姿に。


 ──これが最後なのか? 俺も帆晴も、理不尽な人生のまま終わるのか? クソ親父に虐げられといて、わけのわからない化け物に殺されてそこでおしまいなのか?


 走馬灯のように蘇る。辛くて、苦しくて、死んだ方がマシだと何度も思った日々。


 ──嫌だ、そんな最後! 同じ痛みをこのクソな世界にまだ味わわせてないんだ!


 グギャッ──化け物の断末魔が聞こえたのは、その直後だった。

 朦朧とする意識の中、誰かがこちらに歩み寄ってきた。白い光を放つ、不思議な人影だった。


 ──〝まだ……死にタくないカ?〟


 心の中に直接響いてくる声。冷たくて、けれどどこか優しさを感じる女性の声だった。

 誰かはわからない。けれど小さく、精一杯の力を込めて、うなずいた。


 ──〝君ノ人生には大キな痛みと苦難が待ッてイル。そレでもヨケれば……力ヲ与エよう〟


 白い指先が胸に触れる。何か温かい力が、溢れ出る血を止め、心臓の鼓動を取り戻した。

 全身の血管が脈打ち、新鮮な空気が急激に肺を膨らますのがわかった。


 ──〝きっト君は、私のコトを忘れルダロウ。ソレデモ、コレダケハ覚エテイテホシイ〟


 必死に呼吸しながら、思う。忘れるもんか。これだけは絶対に。何があっても。


 ──〝コノ世カラ……ヨモ……ツ……ヲ葬リ去レ〟


 ──味わわせてやる。この世の理不尽な奴らに。俺たちが味わった痛みを。


 白い影が自分の身体の中に入り込み……そこで、意識が途切れた。

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