あいつの骨
西野ゆう
第1話
懐かしさは微塵も感じない。そのときあったものは、わずかな胸騒ぎと、その原因を知りたいという欲求。
まるで白塗りにしたキャンバスの下から現れた絵。描き覚えのない絵。それを見つけてしまったのだ。
私が実際に見たものは、箪笥の裏から出てきた一通の手紙。
床の間を床の間として使わず、子供であった私の衣装箪笥をそこにおいていた。
箪笥の裏側には、ちょうど私が入られる程度の隙間があり、私の大事なものを隠していたり、時には私自身が隠れていたりした。
その家を取り壊して、新しく家を建て替えることになり、家財道具を片付けていた時に手紙を見つけた。
差出人の名前は書かれていなかったが、宛名書きの汚さと、その出てきた場所からして、私が書いたものには違いなさそうだ。
いつ頃書いたものだろうか。宛名の字から予想すると、小学四、五年生頃といったところか。
それにしても「れいか」とは誰だっただろうか。まるで記憶にない名前だった。
封を開けると中から出てきたのは、たった一枚の紙に、文字が一行。
「ぼくがころしたから、もう大丈夫」
何度読み返しても、遠すぎる記憶にかかった霞は晴れない。完全に私の手は止まってしまっていた。
気分を変えようと、外の空気を吸いに出た。涼しくなったと思ったら、どうやら夕立があったようだ。雨音も全く耳に入らなかった。
空を見上げると、夕焼けで真っ赤に燃えた雲が、やけに低く、速く、空を滑空していた。雲が流れゆく方を目で追って行くと、この辺りのシンボル的風景となっている、大正時代に造られた無線塔が視界に入ってきた。
コンクリートでできた三本の塔。真っ赤に染まった空。息を大きく吸い、雨上がりの独特な匂いを嗅いだとき、フラッシュバックのように、いくつもの場面が脳裏に浮かんだ。
あの少女が「れいか」だろうか。二つの「町」を分ける幅十五メートルほどの細い川。そこに架かる橋の向こう側で少女が泣いている。
橋のこちら側で遊ぶことは許されないのだと泣いている。
幼かった私も、子供だけで『町境』を超えるのは禁忌であることのように思えていた。しかし、夏のあの日、私はその禁忌を犯していた。それは間違いない。
そして私は彼女を泣かす「あいつ」を殺したのだろうか。
最後にかかった濃い靄は、雨の匂いを嗅いでも、蘇ることはなかった。
その橋へ行ってもみたが、少女の家や、その他の周りの家も既に跡形もない。かつての二つの町も、今では一つの市になっている。町はその姿を変えてしまったのだ。
私は記憶の探索を諦め、作業へと戻った。
狭かった家が取り壊されていくと、その土地はさらに狭く見えた。
百年近く住人を雨風から守ってきた家も、重機で軽くつつくと、トランプで作った塔の様に、ぱたぱたと軽い音を立てて崩れていく。
あっという間に廃材へと姿を変えたかつての家が、今度は専用のトラックへと積まれていった。
そして、重機の動きがふいに止まった。オペレーターが降りてきて、重機のバケットを動かしていた辺りを覗き込んだ。
私も何かあらかじめ出しておくべきものがあったのかと、隣で同じように覗き込む。
骨だ。ほとんどが粉々になってしまっていたが、間違いなく骨だった。
記憶を辿り、私は、骨をあるべき人の所へと返しに行った。もちろん初対面の相手ではないが、何十年も会っていない。
目当ての家には、老いに対して恐怖を覚えるほどに変わり果てたその家の主人がいた。私の記憶では、もっと大きい人だったような気がするが、今目の前にいる老人は、私よりも相当に背が低いし、ひどく痩せて骨ばっていた。
私が事情を話し、骨が入った箱を渡すと、老人は首をかしげた。
「いいや、あいつの骨はそこに埋めた。墓だってある。間違いないよ」
橋のこちら側に居を構えている老人は、家の裏を指さして言った。
そこにはまだ犬小屋が残っていた。
少女は、自分の母親から、この橋をひとりで渡ったら、あの大きな黒い犬から噛みつかれる。そう言って橋のこちら側へ来ることを禁じていた。
ある日私は、犬が噛みつかないのを証明しようと、犬の頭を撫でようとした。が、立ち上がると当時の私より大きかった犬。前足で私の二の腕に爪を立て、その鋭い牙は、私の手首に深々と刺さった。
それからしばらくして、あの家から黒い犬の姿が消え、これで少女も怖がる必要なく、こちら側に遊びに来られる。そう思ったが、犬から無様に噛まれた自分が恥ずかしく、しばらく橋に近付く気も起らなかった。
自分を奮い立たせる為に、あんな嘘を書いたのだろうか。
保健で殺処分された犬。それを「ぼくがころした」と。
私は細い川の最下流に架かる橋から、皮袋の口を開け、中のものを川に流し、家路へとついた。
結局あれは何の骨だったのか。
母の遺影を胸に霊柩車に乗る
あいつの骨 西野ゆう @ukizm
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