第12話

 奇妙なことは続くもので、福峰は翌朝に電話をかけてきて数日のうちにもう一度「くすり喰い」をしたいから、届けさせるので料理を頼むと言ってきた。


 伸久は「分りました」とだけ答え電話を切ったが、そういえば音吉はどうしただろうか聞けばよかったなと思った。その直後。裏口の扉が開いて音吉が入ってくると、伸久の姿にぎょっとしたような顔をし、しかし、すぐに「おはようございます」とくぐもった声で挨拶をした。


 いち子は朝風呂へ行っており、留守だった。


「どないしたんや」


 驚いて伸久が尋ねると、音吉は何やら憔悴しきった顔つきで、よく見れば服も昨晩と同じだしうっすらと鬚が伸びていて、明らかに福原で一晩過ごしたのであろうことが見てとれた。


 あまりのくたびれた様子に伸久は、


「どないしたんや……? なんかあったんか?」


 と、恐る恐る顔を覗き込んだ。


 音吉は棚からコップをとると、水を一杯くんでぐいぐいと一息に飲み干し、大きく息を吐いた。


「昨晩は福峰さんと一緒やったんか? 今、福峰さんから電話があったとこやけど……」


「奥さんはおってですか?」


「いち子? いや、今、風呂へ行ってるけど……」


 伸久がそう言うと音吉はまた大きく息を吐き、椅子に崩れるように腰をおろした。


「なあ、どないしたんや。なんかあったんか?」


 心配になった伸久は音吉の隣の椅子を引き出して、自分も腰をおろした。


「福原でなんかあったんか?」


「……旦那さん」


「うん?」


「……福峰さんは……なんで奥さんを旦那さんへ紹介しはったんですやろ」


「え? それは……、料亭で奉公してたから料理屋に嫁ぐのは最適やて思いはったんやろ……」


「それだけですやろか」


「どういう意味や」


「ここへ嫁がせたら、自分もいつでも会えるからと違いますやろか。遠くへ嫁いだら、もう顔見れませんやろ」


「……」


「福峰さん、奥さんのことえらい褒めてはりました」


「……そうか」


 伸久は音吉の言葉を聞きながら、足元が急にひやっと冷たくなるような気がして身震いした。


 音吉は眉間にしわを刻み、怒りとも嘆きともつかない顔つきで自分の手元を見据えている。


「ようできた娘さんやからぜひに、て。福峰さんが言うてたん、お前も聞いてたやろ」


「……」


「それよりも、昨晩はどうやったんや? 福原の人はお前のこと気に入って、どうとかこうとか言うてはったけども」


「旦那さん、僕は昨日も言いましたように、ああいうんはええんです。昨晩は福峰さんといろいろお話しさせてもうただけで……」


「なんの話し?」


 口にして、伸久は咄嗟にしまったと思った。こんな風に詮索するべきではなかった。思わず口元を手でおさえ、何事か逡巡している音吉を見つめた。


 なにか、あるのだ。到底口にできない、なにかが。福峰には。そして……いち子には。


 まるですべての散逸した陶器の欠片が集まってぴたりと形をなすように、伸久の中で首をもたげていた様々な物思い、疑惑が重なり合って浮かんでいた。


 苦悩する音吉に、伸久は優しく語りかけた。


「なあ、もしかしたら、お前、いち子と福峰さんはなんぞわけがあると思うてるんと違うか?」


 伸久の言葉に音吉は弾かれたように顔をあげた。そして金魚のように口をぱくぱくさせ、喘ぐように、言葉を探しているようだった。


「福峰さんは若い娘がお好きやそうや。せやから、いち子を気に入ってはるんやろ。あの人はなかなか遊ぶ人やそうやから……。くすり喰いかて、その為なんと違うか。さっきの電話なあ、二~三日うちにもういっぺん肉届けるから、また頼むて電話やったんやで」


「そうですやろか……。ほんまにそれだけですやろか。福峰さんが奥さんのこと話ししはる時は、なんや親しげで、なんとなくですけども、なんか特別なことでもあるんかなあて」


「考えすぎやろ」


 考えすぎ? 果たしてそうだろうか? 伸久は笑いながら、音吉の肩を叩いた。


「もうええ。心配せんで。いち子を嫁にしたんは、俺や。俺が決めたことや。お前が考えること違う。さ、お前もそんななりしてへんで、風呂でも行ってこい。服貸したるから」


 音吉はうらめしいような目で伸久を見上げつつ、しかし、伸久がせきたてるので観念したようにふらふらと立ち上がった。


 伸久は甲斐甲斐しく、二階から洗面器や着替えやらを出してきて音吉に持たせると、なかば追い出すように風呂屋へ送りだした。


「ゆっくり浸かってきたらええ」


 そう言いながら扉を閉めると、伸久は壁にもたれて目を閉じた。瞼の裏にはいち子の腰付きや喘ぎ声がちらちらする。


 伸久はその場を離れておもむろに電話をとった。かけた先は、いち子の奉公先であった料亭だった。


 電話には仲居が出て、伸久が名乗ると「ああ、いち子ちゃんの……」とすぐに承知し、しかし奇妙に陰りのある声音になって「いち子ちゃん、どないしてはります? お元気ですか?」と聞いてきた。


 伸久は「おかげさんで」と答え、忙しいところ申し訳ないが旦那さんか女将さんがいたら……と水を向けたところ、


「お二人とも法事ではよから出てはります」


 とのことだった。


「そうですか。いや、いち子が里帰りの際に寄せて頂いたそうで」


「里帰り……?」


「旦那さんにご馳走になったようですし、お礼かたがたと思いまして」


「いち子ちゃん、辞めてからこちらへは来ておりませんが……」


「え?」


「旦那さんとはお会いになったかも知れませんけど、お店には来てませんよ」


「旦那さんと?」


「はあ……」


 仲居は何か含みがあるのか、もごもごと口の中で呟いて、しかしその先はなにも言わず黙ってしまった。


「では、いち子はそちらへは行かなかったんですね?」


 伸久は念を押すように尋ねた。受話機を持つ手に思いがけなく力が入っているのに気付いて、もう一方の手で自分の手首あたりを軽く揉んだ。


「はあ……」


「お忙しい時に失礼しました。なんや行き違いやったようで」


 伸久は電話を切ると、胸のあたりを押さえて、動悸が静まるのを待った。


 肉を喰らって己の血肉にする。ふといち子の言葉が脳裏をよぎる。


 確かにいち子は里帰りの際に主筋であった料亭へ挨拶へ行ったと聞いている。店の内幕を話すようで気が咎めたとか楽しげに話していたのも覚えている。では一体いち子はどこの料亭へ行って、そのような話を誰にしたのだろうか。


 ……里帰りの話を打診しにきたのは福峰であったが。


 壁にかけた時計に目をやる。いち子はまだ風呂から戻らない。

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