第11話

 その日は思ったよりも早く訪れた。


 福峰は約束通り電話をかけてきて、翌日にまた肉を届ける算段になっているのでそのつもりでよろしく頼むとのことであった。


 そしてその料理を供するのに席を申込み、小上がりに福峰をいれて四人を迎えることになった。


 予告通り、昼に氷詰めになった肉が届くとすぐに伸久は前回よりも大きな塊を丁寧にさばき始めた。


 まな板が血に染まる。ステーキ用、天ぷら用と切り分けてから、さらにやや筋をかんだ箇所には塩と胡椒、砂糖や香辛料を合わせたものをすりこんで福峰の蔵の酒を惜しげもなくふりかける。これはそのまましばし漬けておいてから、ラードでじっくり揚げ煮にするつもりだった。


 福峰は食事の後は福原へあがるつもりだと言って電話口で笑っていた。精がつくというからには試してみんことにはとうそぶいて。


 音吉は料理の添え物や口直しを支度するのに専念していて、伸久の方をほとんど顧みない。早生わせのきゅうりを甘酢に漬けたり、小松菜を白和えにするのに煮奴の水きりをしたりと忙しい。


 その働きぶりに伸久は妙な気を回したり、疑いをかけるのはやはり早計過ぎると自分を叱責したくなった。


 いち子は皿や小鉢といった器の類を棚から取り出している。これもまた伸久も音吉も顧みるでなし、黙々と立ち働く。


 そういえば。伸久は冷蔵庫に肉をしまいながら、ふと思った。いち子はここへ嫁いできたことを本当に良しと思っているのだろうか、と。そして伸久に満足しているのだろうか、と。


 福峰が見合い話を持ってきた際にはいち子が年の離れた男を望んでいるというようなことだったが、そうはいっても現実に年の離れた男と添うてみてがっかりしたのではないだろうか。


 そんなことを考えてみたところで、どうしてみようもないのだが。


 店の中は煮炊きの熱のせいもあり、汗ばむようだった。ふと見ればいち子が単衣の袂から手ぬぐいを出して額を押さえている。


「暑なってきたな」


 伸久が言うといち子は「ほんまに」とのんびりと返した。


 約束の刻限。果たして福峰を筆頭に酒蔵の旦那衆が談笑しながら、暖簾をくぐって店へ入ってきた。


「いらっしゃいませ」


 伸久が丁寧に頭を下げると、福峰はにこにこ笑いながら「首尾はどうや」と調理台を覗き込むように尋ねた。


 いち子は、小上がりに上がって早速胡坐をかいて懐の扇子で風を送る客たちの履きものを揃え、


「すぐに冷たいものお持ちします」


 と小腰をかがめた。


「いち子さん、すっかりのぶさんの店の人やなあ」


 福峰がからかうように水を向けると、いち子は笑いながら、


「店の人ちゃいます。のぶさんの家内です」


 と言った。


「ああ、それもそうやった。従業員ではないなあ」


 盆にコップを揃えると客たちの前に並べ、いち子は彼らに尋ねることもなくビールの栓を抜いた。


 音吉がそっと背後で「お酒やなくてええのんでしょうか」と伸久に耳打ちしたが、福峰をはじめとする客達は市電を下りたところからわずかな距離を歩くだけでも新開地の夕方からの映画や芝居に行く人々の群れに揉まれて大汗をかいたようで、咽喉を鳴らして一息にコップを空にした。


「いち子さん、ちょっと太ったようないか」


「そうですやろか」


 客の一人がいち子をしげしげと見つめながら、言った。いち子は首を傾げながら、右手を頬にあてる。


「人の奥さんともなれば一人前や。娘の頃みたいにがりがりに痩せとっては女将さんは勤まれへんやろう」


 伸久は微笑みながら、手塩皿に新じゃがの皮つきのまま素揚げしたものをのせて福峰たち銘々の前に出した。カレー粉を混ぜた塩がごくわずかにぱらり。ビールに合う肴だ。


 それぞれ箸をとり、はふはふいいながらじゃがいもを口に入れる。


「今日は珍しいもの食べさせてくれるんやて?」

 客の一人が福峰に尋ねた。


「田舎の方ではそうでもないらしいねんけど、ここいらじゃああんまり聞かへんかな」


 もったいぶって福峰はにやにや笑っている。


 伸久はすでに二つ目の皿を調えていた。


「いち子、みなさんにお酒をお窺いしてくれ」


「はい」


 使う皿は藍色の絵付けがされた小皿で、そこには胡瓜の甘酢に胡麻油の風味を加えたものを添え物にして、鹿肉を低い温度でじっくりと火を通し、そのまま寝かせておいて味を落ち着かせたハムのような冷肉を薄く切って、溶き辛子と共に音吉が福峰たちの前にそれぞれ供した。


 いち子は福峰の酒蔵の酒を命じられて、お猪口を揃えて最初の一杯目だけは各人に酌をした。


 せまい小上がりの卓を囲む旦那衆ににじり寄るような格好でいち子は銚子を傾ける。福峰に酌をする時は福峰自らが体を幾分ひねらせて、いち子が酒を注ぎやすいよう右手に持った猪口を差し出した。それでも狭さが改善されるわけでなし、胡坐をかいた福峰の膝頭にいち子の膝がぐっと近寄った。


「うまい」


 箸を付けた者が嘆息した。


「これはなんの肉やろうか。牛肉ではないし……。なんともしっとりして、柔らかくて」

「それはなあ」


 福峰が伸久を振り向いて目くばせをした。伸久はこくりと頷いた。自らが語ることは、なにもない。与えられた役割をこなすのみだ。


 伸久の意を無言の中にも汲み取った福峰は、卓を囲む客たちに一言きっぱりと告げた。


「鹿や」


 その声は得意げに、自慢げに聞こえて、酒の燗をつけていたいち子が裏でひっそりと微笑んだ。音吉は次の料理の用意を黙々と行っており、伸久は驚く旦那衆たちの顔つきをじっと見守っていた。


 肉を食べることにはすでに抵抗はないだろうが、果たして山の獣を食べるなどとはどうだろう。くすり喰いを嫌がる者もいるかもしれない。いや、神戸の人間に限ってはそんなことはないだろう。


「鹿って、あの? 角がある、あの鹿?」


「他におるんかいな」


「どこの鹿? 奈良?」


「そんなあほな。奈良の鹿は神さんのお遣いやないか。食べるなんてとんでもない」


「それじゃあ、どこでとれるねんな」


 福峰が自分の蔵の者が郷里から持ち帰ったという鹿肉について話し始めると、伸久は次の料理の支度へと取りかかった。


 肉の正体を知っても嫌がらないところをみると、客は福峰同様に「食べること」が好きで「楽しい」人間たちなのだろう。いくら癖がなく食べやすいとはいっても、そこはやはり獣肉であるからして、ほんのわずかではあるが肉の中に臭いともいえない味わいがある。それは強いて言うなら、牛や豚にもあることだが血の味だ。


 命の味や。伸久は胸の中で呟いた。人間だけが、このような食性を持つ。必要十分だけではなく、より多くを求め、さらには美味を求める。生きる為に食べるのでは、ない。「食べる」ということがもはやそれだけのものではなくなっている。山の獣をわざわざ獲って食う必要がどこにあるのだろう。その理由は「旨いから」に他ならない。


 罪の味でもあるというわけや。伸久はさらにふっと微かに笑う。生きてるだけで、すでに罪深いんや。人間がものを食うということは、それだけで恐ろしいことなんや。


 客たちは次に伸久が調えた鹿のすじ肉とこんにゃくを生姜を効かせて甘辛く炊いたものや、天ぷらなどを堪能した。どれも彼らを納得させるものだった。幾度も箸を止めて伸久に「美味しいわ」「ほんま、大したもんや」などの賛辞を送ってくれる。伸久はそれを受けて「ありがとうございます」と素直に礼を言う。


「猪は丹波の方でぼたん鍋で食べたことがあるねん。あれもまたオツなもんやけど、鹿もなかなか美味いもんやねんなあ」


「くすり喰いやなんて言うけど、昔の人はちゃんと美味いもん知ってたんやなあ」


 こんがりと焼けたステーキを供すると、福峰も含めて客たちは子供のような歓声をあげた。


 和洋折衷で準備したわけだが、伸久は料理人として見知らぬ食材を十分に使いつくした気がして大いに満足していた。日本料理にこだわらず、あれこれ手を尽くしたことでこの獣肉というものを美味く、さらに美味くという高みへと追及することができたような気がする。それは料理人にとって、今はもう修行の身ではないとはいえ、新たな「修行」をさせてくれるものだった。伸久の手の中にはまだ手で確かめる肉の生温さや、弾力が鮮烈に残っているようだった。


 まだまだ、いけるんやなあ。伸久はひとりごちる。まだまだ知らんことはようけあって、まだまだできることがあるんやなあ。それは人間の生き方と、同じことなんやなあ。


 いち子が食後の水菓子とお茶を整える間に、音吉が福峰の卓に並んでいた空のお銚子や汚れた小皿を片づけていた。


 何事か福峰たちに話しかけられ音吉は赤くなり、皆がどっと笑うのも、機嫌の良さを物語っていた。どうやら福峰たちが福原での一件で音吉をからかっているらしかった。


 あまりおおびらにいち子に聞こえてはまずいと思うのか、聞かせたくない部分は声をひそめ、音吉が返答に窮したように赤くなるのを見てまた彼らはどっと笑う。からかわれているのが分かるだけに、伸久は助け舟を出そうと調理場から出て小上がりの端にあがった。


 畳に両の拳をついて、軽く辞儀する格好で、


「今日はお楽しみいただけましたでしょうか」


 と、すぱっと一声張った。


「僕も初めてのことで、お口に合うようなものができたかどうか心配やったんですが」


 一同を見渡す。


「のぶさん、もちろんや。鹿の肉がこんなに美味しいもんやなんて知らんかった」

「ほんまに、珍しいもん食べさせてもろたわ」


 気がつくといち子が盆に載せた煎茶を脇に置いて、同じように伸久の横で丁寧に頭を下げていた。


「お気に召していただいてよろしゅうございました」


「いち子さんはこないな肉どう思う? 若い人は肉食べたいやろう」


「……私は……」


 急に水を向けられて、いち子は珍しいことに眉をひそめた。思えば初めからいち子は「くすり喰い」に好意的ではなかったことを、伸久はふと思い出した。


 食べれば美味いとは分かっても、やはり不気味に思うものなのだろうか。しかも調理する前の血に濡れた肉塊を見ているだけに不浄なものに感じているのだろうか。


 いち子は盆を取り上げると、客たちに香高い煎茶を配りながら、


「そうですねえ……」


 と何か考え込むような口ぶりで次のように続けた。


「お肉を食べるというのがそもそも罪つくりなような気がして」


「なんや、そしたらビフテキもあかんのか」


 客が混ぜ返す。が、いち子は盆を手にしたままゆっくりと、


「それは私も好きなんですけども……。お肉を食べると、それがじかに自分の血肉になっているような実感を感じること、ありません? それだけ滋養があるいうことなんかしれませんけども……」


「ふうん、なるほどなあ」


「それに肉いうんはどこか女性的な食べ物のように思て」


「なんやて?」


 それには福峰が頓狂な声をあげた。伸久も驚いていち子をじっと見つめた。


 伸久にしてみれば肉を食うという行為も、肉という食材そのものも猛々しい荒事のような、男の食べ物という気がしていたのでいち子の言葉には即座には合点がいかなかった。


 福峰もそうであったのかしらん、身を乗り出すようにして、


「どういう意味や。女性的ないうたら、菓子やケーキなんかのように思うねんけども」


 と続きを促した。


「女の人の方が、食べることに貪欲なように思います。私だけかも知れませんけど……。肉の味、血の味は野蛮で、生命力に溢れてるように感じました。こういうのを好むのは、本来女の人なんちゃうやろうか、て。くすり喰いは精がつくて言うようですけども、ほんまは精を奪う為のものなんちゃうかしらなんて……」


「……」


 福峰は呆気にとられたように口をぽかんと開けていた。


「すみません、訳の分からんこと言うてしもうて」


 いち子は急に恥ずかしくなったのか赤くなると、そそくさと下駄に足をいれて料理場へ駆けこんでいくと、流しに置かれた皿小鉢を洗い始めた。


 調理場の片付けものをしていた音吉が「僕がやりますから」とひそひそ言うのを押し留めて、いち子が立てる水音が伸久たちの中に現れた戸惑いや驚きの間を流れていく。


 精をつけると言っても、精を奪うために力をつけるということか。


 福峰は襷をかけて流しに向ういち子をじっと見ながら、ぽつりと呟いた。


「……なんや怖いこと言うな……」


 伸久の脳裏にはいち子の内腿の感触や、押し返してくるような乳房がなぜか鮮明に浮かび上がっており、そっと眼を伏せた。肉だ。女の、肉。肉を食して己の血肉とする、女の肉……。



 くすり喰いを試す食事会は客たちに好評のうちに終わり、福峰はこれから福原へ行くのだと言った。


「どうやろう。のぶさん。音やんも連れて行ってかめへんやろうか」


「えっ?」


 福峰が連れてきた客たちが店の表に出て、見送りに出たいち子相手に何事か談笑する隙に福峰は伸久に囁いた。


「……あんまりそういうこと覚えさせるんは良うないんちゃいますやろか……。まだ若いし……」


「そうやねんけども、こないだ相方つとめた八千代がなあ、えらい音やん気に入って。また連れてくるように、て。うるそうてかなわんねん」


「……おあしのこともありますから……。なんぼ惚れてもろても……」


 伸久も福峰につられてひそひそと声を低める。


 音吉は若く、体躯もしっかりしている。顔つきに幾分の幼さが残るものの、鼻筋の通った美男子であると言えるだろう。福原でもてたとしても理解できる。


 しかし、そのような極道をそう何度もさせるのは預かっている親御さんの手前も何やら申し訳がたたないように思う。といって、まるで女を知らない、遊びも世間も知らないのでは音吉がいずれ一本立ちする日がきた時に困るだろうとも、思う。


 なにより心配になるのは、音吉が快楽に溺れて道を誤ってしまわないかだった。


 女というものは、恐ろしいものだ。ましてや福原で海千山千を相手にするような女では、音吉など手向うことなどできはすまい。惚れても地獄、惚れられても地獄。伸久はううんと唸って腕組みをした。


「のぶさんが心配するのも当然のことやけど、音吉のことは責任もつ。もちろん音やんの気持ちもあるわけやから、八千代を袖にしたってかめへんねや。それならそれで八千代も諦めるやろうて」


「……まあ、音吉が行きたい言うなら……」


 まだ戸惑いつつも伸久は諾を歯切れ悪くぼそりと呟いた。福峰はぱっと表情を一転させると、いち子と並んで外へ出ていた音吉を呼び戻した。


 音吉は飛んできて「なんでしょう」と素直な目で伸久と福峰の前に立った。


「音やん、今日は仕事が終わったらなんぞあるんかいな」


「今日?」


「ちょっと付き合わへんか?」


「……どちらへ?」


「福原」


 聞いた途端、音吉が伸久の顔を省みた。それはあたかも伸久の結婚披露の席で、やはり同じように福峰に誘われた時と寸分違わぬ驚きと戸惑いの顔だった。


「音やんともゆっくり話したいこともあるしなあ」


「僕と……」


 音吉が呟いた。


「ええんやで。行っても」


 伸久が援護するように言った。肩に手を置くと二度ほどぽんぽんと軽く叩き、


「行きたくなかったら、断っても、ええ」


 とも。


 内心、音吉が遠慮なり、あまり道徳的でないなどの理由で断ればいいと思っていたが、伸久は自分が若い自分にそれなりに経験したことを思えば言える立場にないようにも思い、ただ黙って音吉の顔色を窺うだけだった。


「なんのご相談?」


 音吉が口を開こうとした時だった。何事を話しあっているのかと不審に思ったのだろういち子が暖簾をさっとめくって顔を出した。


「みなさんお待ちですよって……」


 瞬時に口を噤んだ一同を見渡し怪訝な顔で、いち子は福峰を促すように手のひらで格子戸の外を示した。


「ほな、のぶさん今日はおおきに」


「ありがとうございました」


「音やん、またな」


 福峰は「また」というところを意味深な目で音吉を見つめて、するりと格子戸をくぐった。


 通りで一行を見送るいち子の声が朗らかに響く。音吉はそれを聞きながら、ほっとひとつ息を吐き出した。


「僕はもう、ああいうところは一度でええですわ」


「……そうか」


「けど、福峰さんは僕になんの話があるんですやろか」


「さあて……」


「顔だけでも出さんとまずいですやろか」


「……気になるんやったら、聞くだけ聞いてきたらどうや? それで帰っても福峰さんは怒るような人ちがうし」


「……はあ」


 見送りを終えて下駄の軽い音をさせていち子が戻って来ると、音吉はさっと踵を返し後片付けに取りかかり始めた。まるでいち子の顔を見まいとするように。無言で。


 けれどいち子の方では屈託なく音吉の背中に、


「福峰さんは音やんのことえらい気にいってはるんやね。ああいう人に可愛がっていただくいうんは、先々為になると思うわ。福峰さんは口も肥えてて、料理のことも教えてくれはるし」


「……」


「のぶさんもそう思わん?」


 急に水を向けられて一瞬面食らったが、伸久は「そうやな」と答えて、小上がりの卓を拭いている音吉の照れたような拗ねたような顔を見ながら、


「福峰さんには何かとお世話になってることやし、あんまり無下にしてもなんやしな」


「……旦那さんには仲人さんですしね」


 音吉が布巾を使う手をふっと止めた。


 脇ではいち子が醤油差しや爪楊枝を立てた入れ物を盆にとっているところで、「仲人」という言葉に鼻を小さく鳴らした。


「僕、後でちょっと顔出してきますわ」


「そうか」


 伸久が頷くと、いち子が軽く目を見張って言い募った。


「どこ行くのん? え? 顔出すてどこへ?」


「僕も福峰さんに尋ねたいことありましてん」


「……」


 誰に言うでもなく音吉は呟いた。わずかに店の空気が重く、暗く陰るような気がした。伸久だけがやや困惑しながら、音吉の決意めいた横顔を見つめていた。


 一渡り片付けをすませると、音吉はいつも通りに店を出て行った。


 伸久は別段案じてはいなかった。福峰のことだから万事しっかりと面倒をみてくれるだろうし、それはすでに一度経験済みであるのだから。


 いち子は疲れたのかため息を吐き椅子に腰を下ろすと、包丁を研いでいる伸久を見上げた。


「仲人さんやいうのん、時々忘れてしまいますわ……」


「福峰さんか」


 いち子はこくりと頷いた。


「大阪のお店によう来てはって。大旦那さんがまだお元気やった頃からよくお顔出してて色々とお話ししていかはるんで、店の者はみんな福峰さんのこと面白い人やて言うてましてん」


「社交的な明るい人やから」


「大旦那さんとも親子ほども年離れてるのに、親しいにしてて」


「ふうん……」


「ええ人ですわ」


「そうやな」


「大旦那さんいうんは……先代のことやな?」


「ええ。私が奉公してる時にはもうずいぶんとおじいさんでしたけど、お肉をよう食べはるんでお元気でしたわ」


 そういえば、いち子は勤めていた店で主人たちからずいぶん可愛がられていたというのを伸久は思い出した。なるほど、それで福峰がいち子を知り、目を付けたのだな……。


「……でも、福峰さん、よう遊ぶ人」


 いち子が不意に何か思い出したかのようにくすくすと忍び笑いを漏らした。


 そこにはなにか艶めいた、秘密めかした笑いが混じっていて伸久はいち子が福峰の素行……例えば茶屋通いやカフェ―の女給と親しいだとか……を知っているにしても、生々しい含みがあるようで何となく嫌な気持ちになった。


 伸久は包丁を置いて濡れた手を拭くと、改まった口調でいち子を呼んだ。


「そんな生意気なこと言うもんやない。いち子の里帰りのことまで気にして頂いて、ええ人やないか」


「……」


 別段叱るという感じではなかった。そのつもりもなかった。が、いち子は急に立ち上がると「先にお二階へあがらしてもらいます」とすたすたと階段をあがっていってしまった。声をかける隙もなかった。


 ……怒ったのだろうか。伸久はいち子の脱いだ下駄を見ながら、苦笑いした。不機嫌な様子の背中が急に子供じみていておかしかったし、しっかりしていると評判のいち子が初めて見せた幼さのようで。


 それともなにか。福峰に対していち子は他の特別な感情を持っているのだろうか。


 いち子の口ぶりからすると、福峰の放蕩を不快に思っているようではなかった。むしろ面白がっているような感じだったが。


 包丁を研ぎ終えると伸久は戸締りを確かめてから二階へあがった。いち子は浴衣に着替えて、布団を敷いているところだった。


「福峰さんは若い女がお好きやそうで、芸妓さんより仕込みさんの方がお好みなんやてよう言うてはりましたで」


「……そうか」


「奉公にきてる女子衆にも悪ふざけしはるから、いっぺんご寮人さんが怒ってはりました」


「まあ、調子のええ人ではあるからなあ」


 そこまで言うといち子は不意に口をつぐみ、布団の上にべったりと尻を落とす格好で座りこんだ。


 背後から見るいち子の背中から尻にむかう曲線を見つめるうちに、伸久はなんとも言えない不穏なものが二人の間を垂れこめて行くのを感じていた。



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