第10話

 店を閉めてから、伸久は冷蔵庫の鹿の肉を取り出すと、片づけなどする音吉といち子をそのままに黙々と肉から筋膜を削ぎ落し、筋を引いていった。


 さらしで丁寧に血の気を拭きとり、柵取りするようにいくらかに切り分ける。厚手の鉄のフライパンをガスにかけると熱し始める横で、肉に下味をつけた。


 熱せられたフライパンからはうっすらと白い煙がのぼっている。室温に戻してぬるくなった肉に白絞りの胡麻油を塗ると伸久は肉を焼き始めた。


 じゃっという賑やかな音がして、気がつくと音吉といち子が黙って腰掛けの席のあたりに立ち伸久の手元を注視していた。


 焼きすぎないようにという教えに従って、両面に焼き色をつけたところで火を小さくする。伸久は肉の中心を素早く指で押してみた。弾力を感じれば頃合いだ。火からおろし、一呼吸。


 一度まな板ののせ、焼き加減を見る為に肉に包丁をいれる。中心部はまだ暗赤色をしているものの、触れると十分に熱を感じられる。


 伸久は食べやすいようにそのまま切り分けて行くと小皿にとり、すっと音吉に差し出した。


 音吉が皿を受け取ると伸久もまな板の上から直接肉を口に運んだ。


 塩胡椒だけの味付けなので肉の味わいが際立って感じられる。固いというわけではないが、噛むほどに歯を心地よく圧し返してくるような弾力があり、それでいて繊維が口の中でほぐれていくのを感じられる。赤身の肉特有の味とでもいうのか、獣肉を食べているという充実感さえ感じられる旨みだった。


 飲み下してから二人を見ると、どちらも驚いたように目を見張っていた。


「どうや」


「……信じられへん……」


 いち子が呟いた。


「なにが」


「こんなに美味しいなんて想像もしてへんかった……」


 呆然としたような目を伸久に向けると、いち子は感極まったように同じ言葉を口にした。


「ほんまに美味しい……」


 そしてうっとりするように頬に手を当て、そのまま一連の動作で「なあ?」と音吉を見上げた。


 音吉も感心しきったように溜息を洩らした。


「もっとくせのあるもんなんかと思ってました……」


「うん。福峰さんが言うてたように、腕のええ猟師の仕事なんやろうな。最初が肝心なんや。血抜きがしっかりしてあるし、すぐに氷詰めにして運ばせたんもよかったんや。でなかったら、こんなにあっさりした上品な味にはならんやろう」


「この焼き方は、ビフテキなんかと同じですか」


「うん。参考にさせてもろた。もう一品考えてるんがある。音吉、ちょっと手伝うてくれ」


「は」


 音吉は短く返事をするとすぐに調理場へ入ってきて、伸久の指示に従いきびきびと天ぷら鍋を取り出して油を熱し始めた。


「いち子、焼き塩に抹茶を混ぜといてくれ。あとな、カレー粉があったな、あれも塩に混ぜて小皿に用意してくれるか」


「はい」


 脂の極端に少ない肉であるから、伸久はかえって油の馴染みがよいのではと考え、残った肉の一部を天ぷらにと考えていた。獣肉とは思えないほどの淡泊な味わいを揚げることでコクをつけて補おうという心づもりで、衣を準備すると油の温度を確かめてから順々に揚げ始めた。


 脇にぴったりとついて音吉は熱心に伸久のすることを見守っている。


「カツにしても美味いと思うけど……」


 伸久が言うと、音吉も頷いた。


 他方、いち子は伸久の思惑を正確に理解したのだろう。抹茶塩とカレー塩の他にも山椒や七味の薬味入れを並べて小皿にはきちんと敷き紙を置いて天ぷらが揚がるのを待っていた。


 果たして、できあがった鹿肉の天ぷらは衣はさっくりとして、噛むと肉汁が熱くほとばしり舌を焼いた。思った通り、油との相性がよく焼くよりも食べ応えがあるように感じられる。


「抹茶塩が上品で、ええ香りがして美味しいですわ……」


 いち子がまたしてもうっとりと漏らす。


「うん。これは肉の味が強いから、天つゆやと負けてしまうな。塩やな。こうして色々な薬味や風味を楽しめるようにするとええな」


「ウスターソースも合うんちゃいますやろうか」


「そうしたらやっぱりカツやなあ。薄く切って重ねてからパン粉をつけたらいっそう柔らかく感じられてええかもな」


「聞いてるだけで涎が出そうやわ……」


 おどけたようにいち子が口を拭う仕草をすると伸久も音吉も笑った。


 これならば。肉の性質が分かった伸久は、これなら他にも料理のしようがあるし、福峰を納得させられるだろうと思い、ようやく安堵して大きく息を吐いた。


 音吉を帰すと、伸久は調理場を簡単に片づけて火の元を確かめてから二階へあがった。


 新しい食材を試すという緊張のせいか、今になってどっと疲れが出たようで伸久は座布団を二つに折って枕にすると、そのままごろりと畳に体を横たえた。


 目を閉じるとまだ瞼の裏に禍々しく血に濡れた肉の塊がちらつくようで、ぐっと眉間に力をいれる。


 西洋料理では肉を煙でいぶすというのがあったが、あれもいいかもしれない……。軽く香気をまとわせるのは酒にも合うだろう。下味をつけておかなければいけないが、洋酒を使ってみてはどうだろう。


 軽い足音がして階段をいち子があがってきたのが分かった。


「あら、のぶさん……」


 驚いたようにいち子は声をかけ、伸久の伸ばした脚の横に座った。


「お疲れになったんですか」


「ふん、ちょっと気が張ってたからな」


 いち子の手が伸久の足に触れたかと思うと、するすると靴下を脱がせにかかった。


「けどほんまに美味しかったわ……。体にもええんでしょう?」


「ああ、そう聞いてる」


「……くすり喰いは精がつくって……」


 素足にいち子の手がひやりと触れた。声には微かな笑いが滲んでいる。伸久はどきりとして、いち子の顔を見ないよう目を閉じたままで、


「そうらしいな」


 ととぼけたように返した。


「ほんまに効果ありますやろか」


「昔からそう言われてるんやしなあ」


 いち子の手が何の気なしに伸久の脚を撫でる。


 伸久は急に居心地が悪くなり、


「精がつくほどいうたら、そうとう仰山ぎょうさん食べんとあかんのちゃうか。毎日なあ」


「そういうもんですか」


「さあ、どうやろうか……」


「鰻なんかはすぐ元気になるように言いますでしょう」


「……いち子、すまんがお茶をいれてくれるか」


 と、断ち切るように、いち子の手さえも振り払うようにごろりと寝返りを打った。


 いち子は素直に「はい」と返事をして、さっと立ち上がり水差しの水を鉄瓶へうつし、電熱器にかけてお茶の支度を始めた。


 かと思うと「あ、急須があれへんかった……」と呟いて階下へ下りて行った。


 伸久ははっとして、目を開けた。二階で蹴飛ばしてしまった急須とやらは、どこへやったのだろうか。そっとあたりを見回す。濡れてしまったという洗濯ものはどこへやったのか。部屋の片隅には畳みつけた衣類が重ねてあって、それぞれに仕舞われるのを待っている。


 伸久は再び目を閉じた。お茶の支度を盆にのせていち子が二階へあがってきたのは、わずかな時間だった。


 

 翌日、伸久は早速福峰に電話をかけた。蔵に勤める若い女が取り次いでくれる間にもいち子は店の掃除に着手していた。


 果たして福峰は電話に出ると、朝から朗らかな調子で、


「おはようさん。どないしたんや、こんな早うに」


「おはようございます。お仕事中に申し訳ないかとも思ったんですが、早うお伝えしたくって……」


「へえ、なんやろ」


「先日お預かりしました鹿肉のことなんですが」


「ああ! あれ! どやった? 食べたか? あんじょういったか?」


 福峰は一層明るく、さもおもしろげに矢継ぎ早に言葉を重ねた。


 伸久はおのずと笑いがこみ上げてくるのを感じながら、答えた。料理人として、そこには腕を試したい、認められたいという闘争心のようなものがあった。


「うちのもんの中ではなかなか好評で。ええ。僕もまあ、そう悪くないなと思て。まだまだ荒削りやけど、なんとなく感覚は掴んだような気がします。今度ご持参頂く時にはご連絡頂けましたら、しっかりやらせて頂きたいと思います」


 はきはきと述べる伸久の背中を、いち子が雑巾がけの手を止めてじっと見ていたが伸久は気づいてはいなかった。


 福峰は伸久の言葉を頼もしく思ったのか、嬉しそうに、


「さすがのぶさんや。のぶさんなら間違いないと思ててん。今度手に入ったらすぐに電話で知らせるよって。楽しみやわ。ほんま、楽しみ。なあ、旨かったんやろう?」


「牛肉と違うて独特といえば、そうなんですけど、不思議な旨みがありましたわ」


「ええなあ。旨い上に、精がつくとあったら言うことなしやないか」


「くすり喰いの意味が分かったような気ぃします」


「うんうん。ほな、きっと電話するよってな。頼むで。わざわざありがとう」


「こちらこそお邪魔いたしました」


 電話機に向って思わず頭を下げると、電話を切った。


「福峰さん喜んでたようですね」


 振り向くといち子が微笑んでいた。


 伸久の胸の中にさっと昨晩よぎった黒雲が霞のようにうっすらと漂うのを、どうしたって止めようがなかった。


 いち子と音吉を姉弟のように見ていたのが甘かったのだ。考えてみれば、いや、考えなくたってもともと二人は「年頃の男女」ではないか。いくらいち子が結婚しているといっても。


 音吉は真面目な青年であるし、裏切ることはないと信じてはいるものの、一点だけ伸久にはその信頼を信じきれない部分があった。


 それは音吉が福峰の手引きで相手は福原の娼妓しょうぎだとはいっても「女を知っている」点で、なにもそれを「汚れている」ように思いはしないものの、もはや純潔ではなくなっているとなるとすべての話しが違ってくるような気がする。女を知るのと、知らないのでは、世界のすべてが違ってしまうような。大袈裟かもしれないが、一度知れば知らぬ世界には二度と戻れないのだから。


 では、いち子はどうか? 伸久は黒い霞を振り払うように頭を振った。


「今度手に入ったらすぐに連絡をくれるそうや」


「のぶさん、やっぱり料理人なんやなあて思ったわ」


「なんで」


「楽しそうやったから。いつも思てたけど。でも、やっぱり新しいことやってみよういう時の気迫というか、真剣なとこは素敵やわ」


「……料理人は皆そうと違うやろうか」


「まさか、とんでもない。私、奉公先で色んな料理人さんや見習いの子たちを見てきたけど、のぶさんみたいな人はおらへんかった」


「……」


「福峰さんかてそない言うてはったわ。のぶさんみたいな熱心で才能のある料理人はそうおらへんて」


「褒めすぎや」


 気恥かしくなり伸久は短く刈った頭をざわざわとかき回した。


 自分の腕を見込んでくれている福峰がありがたく、また、そうであるから嫁を世話してくれたのだろうことを思うと伸久はただただ感謝したかった。


 いち子はそんな伸久を見つめていたが、不意に手にしていた雑巾をバケツの中へ落とし、ついと静かに伸久に寄ってきてぴたりと体をつけると右手に自分の指をからめて背伸びをした。


 あ。伸久はいち子が何をしようとしているのか瞬時に悟り、その動きに呼応するよう首を傾けた。抱擁。そして接吻。


 路地裏にも響く豆腐屋のラッパ。表通りには気の早い遊び人が衆楽館や松竹座を目指して歩き過ぎていく。


 唇が離れるといち子は体も離して再びバケツを取り上げた。その動作と格子戸が軽い音を立てて開いて音吉がやってくるのはほとんど同時であった。

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