第9話
翌日、音吉もまた鹿の肉のことを聞き「ええっ」と驚きを露わにし、やはりいち子同様に怪訝な顔し、しかし次いで料理人の見習いらしく「どないして料理しはるんですか」と期待のこもった目で伸久に視線を注いだ。
「うん、前にな、西洋料理では肉を熟成させるいうんを聞いたことあるんやけども、これはあんまりおかん方がええと思うわ。血の気が多いからな……。臭うようになる」
伸久は言いながら調理台のバットに肉の塊を取り出した。
「ほら見てみ。弾力があるやろ。肉の繊維が細かいんや。こういうんはあんまり火いれすぎると固くなる。ビフテキかてあんまり焼きすぎたら固いやろ」
「けど赤いんはあぶないんと違いますやろか」
「さあ、そこや……。肉の焼き方いうんはやっぱり西洋料理をお手本にせんとあかん」
「……」
伸久はしばし思案してから、音吉に言った。
「昼の間にいち子と店の支度しといてくれるか。北長狭通りへ行ってくる」
「北長狭通り?」
「知りあいのコックがいてるんや。こういうことは教えを乞うんが一番や」
「市電で行かはるんですか」
「ふん。店開けまでには戻るよってに、あと頼むわ」
「福峰さんは今日来はるんですか」
「分らん。けど、こっちの首尾を知らせんとあかんやろう。それはまた戻ってから考える」
それだけ言ってしまうと、そのまま出て行こうとする伸久を音吉は慌てて制して、階段の上り口から二階へ声を張った。
「奥さん、旦那さんがお出かけです」
二階でいち子が「はい、すぐに」と大きな声で返すと、すぐに駆け下りてきて、
「すみません、ちょっと片付けものしてて」
「ああ、ええ、ええ。分かってる。福峰さんの預かりもんのことでな、ちょっと出かけてくるから。あとは音吉と頼む」
「はい」
いち子は頷くと壁にかけてあった伸久のハンチングをとって差し出した。
伸久はそれを受け取ると頭にのせ、格子戸を出て見送るいち子を背に歩きだした。いち子の声が「行ってらっしゃい」と明るく響いていた。
市電に乗って元町1丁目で下りると伸久はトアロードを目指して歩いた。北野へ伸びて行く緩い坂の途中にはトアロードホテルがあり、周辺には西洋料理の店やドイツパンの店などが点在し、さらに山本通りまで上っていけば外国人の住居として知られる洋館や、外国人向けのアパートなどが並ぶいかにも神戸らしい外国の空気をまとう場所だった。
伸久が懇意にしている西洋料理の店のコック場へ裏口から訪なうと、驚いたことに普段は休憩中にのんびりと煙草をふかしながら英字新聞などを開いているフランス人の料理長が自ら裏口の扉を開けてくれた。
「のぶさん」
料理長は訛りのある日本語で伸久に笑顔を向け、朗らかに肩を叩いて、
「のぶさん、どうしたの。きょうやすみ」
と、すぐに中へ引き入れてくれた。
「休みちゃいます。今日はちょっと妹尾さんに勉強させてもらお思って来たんです」
伸久は懇意のコックの名を言った。
「せのおさん、きょうやすみよ」
「えっ。ほんまですか」
「ほんまよ。せのおさん、きのうからおくさんにベビーさん生まれるんでおやすみ」
「えっ」
伸久は大阪時代に知り合った、同じような見習い時代を経験する妹尾と仲が良く、互いに料理について談じあったり、時には議論したりする、いうなれば「切磋琢磨」する間柄で、無論彼が所帯を持ったのはずいぶんと前のことで承知してはいるのだが、年もそう変わらない妹尾の、これもまた年齢のそこそこいった妻が出産とはまったく寝耳に水だった。
あんまり驚いているので料理長は妙に思ったのか、コック場の隅の椅子に伸久を誘い、自らコーヒーをいれてくれた。
「そうか、子供が……」
白い厚地の陶器のカップに注がれたフランス式の苦いコーヒーは、しかし、香高く、口に含むと僅かな酸味が下を刺激した。
感慨深く呟く伸久に、
「せのおさん、おろおろしてたよ」
「そらあ、慌てますやろ。妹尾さんには初めての子供やし」
「のぶさんは?」
「僕とこは……」
言いさして、ふといち子の顔が脳裏をよぎった。
若い妻を迎えて子供ができることは至極当然のように伸久は思うのだが、その反面、いち子が
若いのだから当然といえば当然だし、母性というものはそもそも腹に子を宿してから芽生えるという。だからいち子にまだ頼もしい母親らしさなどはなくて当然なのだけれど。
伸久はいち子が子供を産むことに違和感を覚えた。夜の生活の中でいち子が何も臆することないことや、精力的であることが母親になることから遠いのだ。艶めいた目でこちらを見据える時、悩ましく腰を使う時。いち子の中にあるのは純粋な女の
そして自分はどうだろう。伸久は我とわが身を振り返る。若さに任せた頃と違って、勢いは少しずつ緩やかになっていくだろう。子供を産ませることができるかどうかも、分からない。自分はまったく健康体であるとは自認しているものの、あの若さの前では時として自信を失う。
不意に湧き上がる奇妙な
お客さんから鹿の肉が持ち込まれたこと。氷詰めになっていること。もも肉の塊で血の臭いがしていること。下処理や調理はどうすればいいのか……。
一渡り説明すると、料理長は興味ぶかそうに、
「神戸でもジビエたべるなんでしらなかったよ」
と呟いた。
「ジビエ?」
「やまのけもの。ジビエ。牛や豚とちがってとくべつ」
「特別……」
「のぶさん、むずかしくないよ。かんたんよ」
料理長はにっこり微笑んだ。そしておもむろに立ちあがると冷蔵庫からさらしに包んだ肉の塊を取り出した。
「これ、フィレミニョン。あぶらない、あかみのにく。シカ、これにちかいね」
「確かに見た感じ似てます。でももっと赤いし、もっと血の臭いがしてるように思います」
「シカのにく、ぜんぶあかい。ちのにおいするはからだにいいしょうこよ。たべるとちがふえる」
「ははあ、鉄分多いいうことですか」
「そう。のぶさん、わかってはる」
「やっぱりステーキですやろか」
「そうね……。グリルがおおいね。でも、あぶらがないから、かえってあぶらとあいしょういいよ。フリット、ベニエ……」
「それ、どんなんです?」
伸久はポケットにいれてきた帳面を取り出した。
福峰が体に良いと言ったのは、そういうことか。なるほど、赤身で脂が少ないのは肥満を防ぐし、鉄分が多いなら女性にも向く。
下処理の仕方を丁寧に書きつけながら、伸久はそれもこれも福峰の心遣いであろうかと有難く思った。
伸久自身は太っているわけではないし、健康に不安があるわけではない。しかし、それは「今は」というだけのことだ。若い頃に比べて腹周りは幾分たるんできているのは否めないし、音吉などと比べるとやはり体力の低下は感じることがある。
ふと伸久は思う。いち子は、伸久が早くに老けてしまったら。ようするに、いち子自身が年を取って醜くなるより先に伸久が名実ともに変化したなら、いったいどうするのだろうか。
年齢というのは時として残酷だ。奪われるのは生命ではない。さまざまな見栄であり、美しさであり、自信だ。伸久はいち子がこの先も今と同じように心を傾けてくれるのか自信がもてなかった。
体力の低下は
「一回食べたぐらいでは精力がつくとも思えませんけどね」
伸久が肩をすくめると、コック長は首を振りながら答えた。
「たくさん食べてみれば、分かるよ」
「はあ」
「けど、日本の食べ物にもあるでしょう? 精のつくもの。すっぽんとか……」
「それは、まあ」
伸久はコック長に礼を言うと、その場を後にした。
市電に乗る前にユーハイムで菓子を買うと急ぎ足に店へ戻った。思うところあるせいか商店街を行き来する若い娘にやたらに目がいってしまう。なぜいち子はあんなに貪欲に夫の体を求めるのだろう。そして伸久は素直に喜べない自分を感じている。まるで自分の肉体が「食べもの」になったような気がする。若さに任せて旺盛な食欲で貪られているかのような。そういってはあまりに情けないだろうか。
店に帰ると音吉がいつも通りにきちんと仕事をこなしており、伸久の姿を見ると「どうでしたか」と興味津津といった顔で尋ねてきた。
「うん、いろいろ教えてもろてきた。今晩いっぺん試してみよ思う」
「そうですか」
「音吉もちょっと試していってくれ」
「ええんですか」
「もちろんや。まあ、音吉は若いから精つけんでもええんやけどな」
「福峰さんは精をつけたいから鹿なんか食べたいんですやろか」
「さあ……。あの人もなかなか道楽者やからなあ」
「福原に馴染みの妓がいるて……」
「ふうん。まあ、そうやろうなあ。いち子は?」
店を見回したところ、いち子の姿がない。二階のあがり口に視線をやると下駄がなくなっている。
「買い物か?」
「はあ……。さっきちょっと買い物がある言うて出て行かはって」
「そうか」
「
「そうやな。頼むわ」
伸久は料理人の白衣に手を通し、さっと
伸久は二階めがけて、
「適当に放っておいてええで! うちのことはいち子がするからな!」
と声を張った。
二階の物干し台に出るガラス戸をがたがたいわせる音がして、音吉が足音も荒く歩き回るのが伝わってきた。
伸久が鍋にかけた出汁の加減をみて、鰯のぴかぴか光るのが腹を抜いて冷蔵庫にしまわれているのを確かめた。無論、その横には鹿の肉がひっそりと眠っている。
「遅なりました」
いち子が駆け込んでくるとすぐに「あれっ、音やんは?」と目を見開いた。
「二階や。雨降りそうやいうて、洗濯物いれてくれてる」
「ええっ。そら、あかん。悪いわ」
いち子は買い物籠を置くと慌ててばたばたと階段を駆け上がって行った。
二人の足音が二階からどたばたと響いてくる。と思うと、一瞬静かになり、そしてどっと二人が声を揃えて笑うのが聞こえてきた。
伸久は天井に目を向け、我知らず呟いた。「若いなあ……」と。
何がおかしいのか二人はころころと笑い転げ、そしてまた足音も賑やかに階段を下りてきた。
「さわがしいなあ。なんや、一体」
「なんでもありません」
「いややわ、音やん。音やんがせっかく洗濯ものいれてくれてたのに、私、お盆に急須置いたままなん忘れてて蹴り飛ばしてしもて」
「せっかく乾いてたのに、また濡れてしもて」
「あんまり慌てたから足の小指ぶつけたわ」
二人はさもおかしそうにまた顔を見合わせて笑った。伸久はまたしても同じ言葉が口をついて出そうで、慌てて唇を噛み、わざと呆れたような顔で「あんな騒々しくしたら隣りから怒られるで」と注意した。
嫉妬する気持ちは、なかった。ただ若さが眩しく思えてならなかった。
この時はまだ気づいていなかった。いち子がいつの間にか音吉を「音やん」と親しく呼ぶようになっていることには。
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