第8話

 いち子が里帰りから戻ったのは一週間後のことだった。長い逗留だったことから、いち子の母親から詫びの電話をもらい、土産にと実家から色々と持たされてきたとかでいち子は大きな荷物を抱えてふうふういいながら帰ってきた。


 そして帰ってくるなり伸久と音吉に深々と頭を下げ、

「ついつい甘えてしもうて、申し訳ありませんでした」

 と詫びた。


 荷ほどきもそこそこにいち子はたすきをかけるとバケツに水を汲み、雑巾を絞り始めた。


「そんなすぐに働かいでもええんやで」


 伸久が言うと、いち子は首を振り、


「一週間も遊んでたんやから、その分取り返さんと」


 そう言って椅子から玄関から順番に拭き清めた。


「お店、どないでした」


 いち子がおもむろに尋ねる。


「音やんにも忙しい思いさせてしもうて悪いわ」


「いえ、僕は前と同じ仕事してただけで慣れてますから」


「後でぜんざいでも奢るわなあ」


 バケツの中で雑巾を濯ぐ手がきびきびと動くのを伸久は調理台の前から眺め、「日常」というものが戻ってきたのを感じた。


 日常という精神的観念ではなく、明確な肉体を伴う日常だ。


 目の前を確かに行き来するいち子はさも楽しげに立ち働き、店を開けて客を迎える頃になるとすっかりと女将然として料理を運んだり酒の支度を整えたりしていた。


 常連客から里帰りについて尋ねられると、朗らかに、


「あんまりのんびり遊んでるもんやから、母にえらい心配されてしもて。二日目からもうはよ帰りはよ帰りて言われて」


 と受け答えした。


 奉公していた料亭へご機嫌伺いに行った際には主人に招かれて「ちょっとおつきあい」程度に酒の相手をし、婚家の話をせがまれるままに、しかし当たり障りのないように話した。


「あんまりお喋りすると、店の内幕を暴露してるようやから、ほんまにほとんど、何という話をするでなかったですわ」


 それからいち子は奉公先の若い料理人が豆腐の味噌汁に入れる豆腐は包丁で切らずに匙ですくっていれる方がいいなどの研究をしていて「感心してしもた」としみじみ言うのが何やら急に年かさの女の風情で頷いたりもした。


 伸久は定期的に頼まれるようになったお茶屋の女将さんの「旦那」用の極めて個人的な重詰めを用意していて、出来上がるとよく冷ましてから蓋をし小風呂敷で包んでいち子を呼んだ。


「これな、分かってると思うけども」


 いち子は包みを見るなりこくりと頷いた。


 お茶屋の「旦那」という人たちは何も公然の夫というわけではなく、別に家庭を持っているのが当たり前で、むしろお茶屋の元芸妓でもある女将さんなどの方がよほど伸久にとっては大事な客だった。


 時々折にふれては女のところを訪れる「旦那」という人の好みを覚え、希望があればその通りに料理を調える。それは大抵酒の肴に向くもので、見た目だけは美しく彩り、実はそうなくてほんのぽっちり、一口一つまみだけ。それさえも本当に彼らの口に入っているのか疑問だった。それでも頼まれれば断らず気軽に引き受けるのは、このような小さな店で、女の町とも言える新開地界隈で小さな仕事を引き受けるのは女達が必ずといっていいほど後になってあちこちに宣伝してくれるからだった。


 いち子はその点を心得ており、ことさらに明るく丁寧に接する。


 そうしてその夜もお遣いに出したところ、ちょうど音吉が帰宅するので二人は「途中まで一緒に」と揃って店を出て行った。


 二人のいない店で片付けなどしていると、すでに暖簾を入れているにも関わらずからりと軽い音を立てて格子の引き戸が細く開けられた。


 おやと思って伸久が顔をあげると、そこには福峰が顔を覗かせていた。


「福峰さん」


「すまんな、こんな時間に」


 福峰は片手拝みに伸久に笑いかけ、中へ入って来るとうしろ手に戸を閉めた。


「どうされました」


 包丁を手入れしていて濡れた手を拭きながら尋ねると、福峰は腰かけに座った。


「今日はこれからちょっと福原へな。いや、遊びいうわけやないねん。付き合いがあってなあ。その前に面白いもんが届いたから、持ってきたんや」


「面白いもん?」


 伸久が怪訝そうに聞き返すと、福峰は持ってきた包みを台に乗せ、風呂敷を開いた。


 藍色地に青海波を描いた風呂敷からは小さな木桶が出てきた。伸久は体を傾け、台を覗き込むような格好になった。


「いち子さんと音やんは?」


「音吉は今しがた帰ったところです。いち子は曲水きょくすいさんにお遣いに出したところで……。あそこの旦那さんが来はる時に料理をちょっと頼まれることあって。それで」


「曲水? あそこやったら八栄壺やえつぼが前にあるやろうに。ほら、焼き鳥の」


「はあ。焼き鳥に旦那さんが飽いてしもうたそうで」


「ふうん。酒の肴いうんはほんの付け足しや。飽きるも何もあれへんけどな」


「けど分からんでもないですわ。なんぼ食べへんいうても、同じもんが続くいうんは……」


「嫌か」


「いえ、食べる方が嫌やいうんやないと思いますわ。出す方が嫌なんです。僕は女将さんの気持ち分かる気します。見栄いうたら、それだけかもしれませんけども……」


「ははあ、女心が分かるいうわけやな。道理でモテるはずやな」


「またそんな冗談ばっかり」


 福峰は軽口を叩きながら、木桶の蓋を開けた。


 中は氷が詰めてあり、中央になにやら竹の皮のような油紙に包んだものが入っていた。


 伸久は一目見てそれが何らかの「食べもの」であることを察した。


 以前にも福峰が揖保川いぼがわのあたりから氷詰めにした鮎が届いたとかで、店に持ち込まれたことがあり、乞われて塩焼きにしたことがあったのだ。蓼酢たですをつけて供すると、福峰は大喜びで上手に鮎の骨を抜き何匹もたいらげ終い目には「あかん、げっぷすると鮎の腹のとこの匂いがする。苔や藻の匂いや」と笑った。


 大体福峰という人は美味いものが好きで、しかも相当な量を食べることから料理屋にとってはありがたい客であると共に、気の抜けない通人でもあった。


 仕事柄ほうぼうの美味いもの屋や料亭へ行くのもさることながら、自分の蔵で働く若者や丹波杜氏に至るまでが郷里に戻った際には主人の食い意地を知っているので地元の美味しいものや野菜、果物などをさまざまに届けてくれる。おかげで福峰は料理に精通し、ずいぶんと口が肥えるようになっていた。それでいてひけらかすでもないが、言葉の端々に「ほんまはちゃんと分かってるねん」という抜け目のない厳しい視線を持っていて、料理人が「嫁」ならば福峰は「底のない姑」のようなものだった。


「なんです」


 伸久は福峰が包みを開くのを見守りながら、同じことを尋ねた。


 福峰は「ふふふ」と笑うと、


「のぶさんは、これ、知ってるかなあ。食べたことあるやろうか」


 と、試すように斜めに伸久の目を覗き込んだ。


 包みの中から現れたのは「肉」の塊だった。


「丁寧に下処理してあるよって、臭いいうことはないやろ」


 肉は暗赤色をしていて、まだ血で濡れ濡れと光っており、ハリと弾力のある姿を見せていた。


「これはなんの肉ですか」


「これなあ、うちの蔵の者で丹波の者がおるやろう。その親父さんが山で捕ってきたんや」


「ということは、ぼたん?」


「ちゃうねん。ぼたんいうたら冬のもんや。これはなあ、鹿の肉やねん」


「鹿」


 伸久は思わず頓狂な声をあげた。


 すると、その声とほとんど同時に格子戸が開き、


「どないしたんです、今の大きな声」


 と、いち子が顔を出した。


「あら、福峰さん、来てはったんですか」


「うん、ちょっとな」


 いち子はさっと店の中に視線を巡らし、福峰が客として訪れたのではなく何らかの用足しに来たのであることを瞬時に察した。


 伸久は「早かったな」と一言だけ言うと、木桶の中の禍々しいような肉にそっと手を触れた。


 氷詰めにされていただけあってひやりと冷たく、感触は締まっている。血抜きは十分にされているのであろうが、独特の臭気が漂い、肉の表面は薄い筋膜きんまくに覆われていた。


 伸久の様子に気づいたいち子はそうっと顔を覗き込みながら、


「これはなんの肉ですか」


 と尋ねた。伸久は魅入られたように黙っていた。


 答えたのは福峰だった。


「これなあ、丹波の鹿の肉やねん」


「鹿の肉? そんなん食べれますのん?」


「夏の雄鹿はなあ、脂がのって美味しいんやそうやで」


「……」


 いち子は怖いものを見るように肉に視線を注いだ。


 福峰はそれが何か期待をこめたように感じたのか、得意げに話し始めた。


「猟には鉄砲を使うんと罠を使うんと二種類あるねんて。熟練した猟師いうんはなあ、くくり罠かけるんにしてもちゃあんと鹿の通る道いうんが分かってて、しかもそれが右足からくるんか、左足からくるんかが分かるいうねん。けどな、やっぱり罠やと鹿も暴れるやろう? そうしたら肉が焼けてしもうて良うないねんて。焼けるいうんは、ようするに筋肉がうっ血して疲労した状態になるいうことやな。血がまわった肉は美味しないそうや。ほなら、どないするかいうたらな、やっぱり鉄砲がええんやて。あれもどこでも狙うわけにはいかんねん。肉めちゃめちゃなるし、食うとこなくなってしまうし、傷ものにするんと一緒やしな。頭や。頭を一発や。暴れさせたらあかん。即死させるんや。けど、そんなん誰でもはでけへんねん。熟練した、腕のええ猟師だけや」


「……」


「罠で仕留める時かて、心臓をな、一発で刺すんやて」


「……」


 伸久は話しを聞きながらいち子の顔色が幾分青ざめたように思えて、まだ続きを滔々と語りそうな福峰を制するように言った。


「これをどないして料理するんですか」


「それや。そこやねん。猟師は刺身にするとかいうけども、なあ。肉を生やなんてちょっとよう食べへんから、なあ、のぶさん、なんぞ考えてみてくれへんか」


「けど生物やから日持ちせんから……」


「また届く手筈になってるねん。せやからこれは練習とでもいうか、まあ試作やな。のぶさんは勉強家やから、あんじょうしてくれるやろ?」


 言うだけ言うと福峰は氷詰めの木桶ごと置いたままにして、さっと立ち上がった。


「鹿の肉いうんは体にええそうやで。滋養いうんかなあ。精力がつくそうや」


「猪が体温めるいうんは聞いたことありますけど……」


 頼むわと言うと福峰は急ぎ足に店を出て行った。相変わらず忙しい男だと伸久は苦笑いしたが、いち子は福峰の去った後を神妙な顔で立ち尽していた。


 神戸では外国人が多いせいもあって肉を食べることは盛んだ。ハムやソーセージなどの加工品もトアロードあたりに行けば専門の店で買うことができる。他にも洋食から支那料理から、肉を扱う店はいくらでもある。が、ほんの少し前まで肉を食べるなんてことは庶民の間では考えられないことだったのだから、人間の変化というものは著しくも単純だ。


 四足を食うことはほとんど禁忌であったはずの食文化の中にあって、肉を食うことが浸透していったのは結局のところ「うまかった」からだろう。人間の欲望のひとつである食欲を満たすのは、腹を膨らませるという満足に限ったことではない。「よりうまいもの」を食うことへの欲望こそが人間の文化的な欲求なのだ。


「いち子、大丈夫か」


 伸久は肉を冷蔵庫にしまいながら、そっといち子に声をかけた。


 いち子はほとんど表情のない顔で、こくりと静かに頷いた。


「びっくりしてしもて」


「ふん、そらそうやな」


「……その肉、どないしはるんですか」


 いち子は怯えるよりは不快そうな、冷蔵庫の扉付近をしげしげと睨むような顔をしていた。


「薬喰いとかいうたんは体によかったからなんやろうなあ」


「薬喰い……」


「昔っからこの国では獣の肉は食べへんかったやろ。けど、病人や年寄りには滋養やいうて食べさせたんや。薬や、言うてな。せやから獣肉を食べるんを薬喰いて言うんや」


 いち子は納得したような口ぶりで「はあ、なるほど」と言いはしたものの、目を背けるように後ずさった。


 牛や豚などの家畜の肉と違って、野生の獣肉はどこかしら禍々しい。そう思う気持ちも分からないではなかった。山に分け行って鉄砲で撃つという行為の野蛮さと、人間だけに許される特権意識。山の中で獣の皮を剥ぎ、川で水につけて放血する。伸久はそれを直接見たわけではないが、恐らくはおびただしい量の血が川へ流れるのだろうと想像できた。川一面が血の色に染まるほど。


 そのような一連の作業は家畜であっても同じことなのだが、伸久は野生の獣に関してはすべてが山の中で行われるということにどこか殺戮の禍々まがまがしさと、それでいて神事にも通じる崇高さを感じる。相反するものへの奇妙な魅力がそこにある。


 薬喰いとはよく言ったものだ。生命を屠り、生命を生かす。


 さて、どのように料理したものか。すでにいち子は二階へ上がって、一人になった店で伸久はじっと考えていた。

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